「ねえ千花(ちか)。今日の放課後、星を見に行かない?」
チャイムが鳴って学校の休み時間に入った。
途端に静かだった教室はざわめき立つ。クラスメイト達の行動に呼応するように、目の前の席の親友〝東沙羅(あずまさら)〟が嬉々として振り返って私にとってはあまり魅力的ではない誘いをしてきた。
「星?」
高校生にもなって星を見るというのは少し子供っぽすぎるのではないだろうか。
それに加えて段々と肌寒くなってきたこの季節、夜にはさらに冷え込むだろう。
そんな寒空の下で星を見るなんて天文部じゃない限り高校生は普通しないだろう。
それにホラー好きの沙羅のことだ、何か絶対に裏がある。
「今日雲一つない晴天なんだって! きっとすっごい綺麗に見えると思うんだー」
舞い降りた神様に祈りを捧げるかのように両手の指を組み、上を見上げて大きな黒目を星空のようにキラキラと輝かせている。
沙羅の可愛さに、クラスの男子の息を飲む音が聞こえてくる気がする。
「そうなんだ。で、星ってどこに見にいくの?」
ストレートに断ることが出来ればいいのだが、沙羅はそう簡単に断らせてくれない。
やんわりと自然に別の話に切り替えて、今の話をなかった事にしなければ無理矢理にでも私を連れて行くだろう。
行きたくない。という私の本心を沙羅に悟られないよう、不信感を押し殺しながら澄ました顔で聞いた。
「公園よ、公園」
ニヤリと口角を上げ、小悪魔的な表情で沙羅は言った。
公園。
それだけではわからない。
この街には公園なんて山ほどある。
ってそうじゃない。公園なんてどうでもいい。
私は話を切り替える隙を探せばいい。
それまでは私は本心が沙羅にバレないように話を合わせておけばいい。
「公園って、どこの公園よ」
「うーん……。千花の知らない公園」
沙羅が含みをもたせた言い方する。
沙羅が私をホラースポットに連れて行こうとするとき、沙羅は必ず含みを持たせた言い方をする。
おそらく今日も例の通りだろう。
もう何度になるだろうか。
この女は、私がホラーが嫌いだと知っていながらもまたホラースポットに連れていくつもりだ。
今日の今日こそは絶対に行かない。
今日の今日こそ乗せられてたまるか。
いくら見た目がロリで巨乳で可愛くて、そこらの男なら簡単に引っかけられるとしてもこの私は絶対に引っかけられない。
しかし、こう返されてしまっては、話題を変える事も出来ない。
無理矢理会話の路線を変更しても良かったけれど、私はあえて直球で断ってみることにした。
「残念だけど、今日はパスするわ。――勉強しないとダメだから」
何か程のいい理由で断ろうと思ったけど、失敗した。
今日の私には特に何も予定はなかった。昨日なら……、昨日ならば私は家族と外食に行っていたのに。
「まあまあ、勉強なんていつでも出来るじゃん。流星群に合わせて晴天なんて滅多にないんだからね! 絶対綺麗だよー」
肩を落とす私が沙羅には見えていないようで、彼女は再度祈りのポーズを取り、目を輝かせている。
私は沙羅の目の奥に潜む薄暗い闇を見落とさなかった。
「はぁ……」
何も予定がなかった今日の夜にホラースポットに行く予定が追加されてしまった。
本当にこれで何度目なのだろうか、私は沙羅と知り合ってからこれまで幾度となくホラースポットに連れて行かれている。
初めて沙羅と話したあの日、初めて沙羅にホラースポットに連れて行かれたあの浮かれていた頃の自分を呪ってやりたい。
高校一年生の時の沙羅は、教室で一人静かにしていた。
誰とも話さず、誰とも関わらない。彼女は影で幽霊と呼ばれていた。
童顔で黒い髪をツインテールにしている。大きなくりっとした目には光がなく、何を考えているのか、私には見当もつかなかった。
おそらくクラスメイトも、担任や教科別に別れた担当の先生もわからなかったのだろう。
誰も沙羅には近づこうとせず、誰も沙羅には話しかけなかった。
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あれは忘れもしない、六月二日の一時限目のことだった。
先生が「今日は二日か。出席番号二番、この問題解けるか」と板書する生徒を決めたことがあった。
その言葉に合わせて沙羅が立ち上がり、小さな声で返事をしたのだ。
その時の先生のやってはいけないことをしてしまったというような顔は今でも鮮明に思い出せる。
沙羅が初めて声を出したことにより、静かに授業を受けていた生徒たちがヒソヒソと会話を始めた。
ざわめく教室の中、指名された沙羅は物音を一切たてずに教壇に立ち黒板に解答を書く。
流石にチョークが黒板を叩く音は聞こえたけれど、その後はまた物音一つ立てずに席に戻った。
その日は後何度か名簿の番号で沙羅が当てられることがあった。(その日以降、私と仲良く教室で話し始める九月辺りまでは名簿ですら沙羅が当てられる事はなかった)
沙羅が国語の教科書を読み上げる時の声色は、なぜか全身に鳥肌が立つほど恐怖を感じた。それにも関わらず、私は聞き惚れていた。
沙羅が読み上げたその文章だけは今でも覚えている。
そんな沙羅には誰も寄りつかず、沙羅も誰とも関わらない。
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小学校の時も、中学校の時もクラスに一人は必ず浮いている人がいた。
その人たちのことを私は気にも留めなかった。
いじめられている事も、悪口を言われているのも知っていたけれど、私には関係がないと見て見ぬ振りをしていた。
高校生になり、東沙羅という人間が一人浮いていた。
「ああ、今年も私は知らない誰かを見て見ぬ振りをするんだな」と思っていた。
それなのに、私は沙羅に話しかけてしまった。
たまたま後ろの席が沙羅になった手前なのか、
沙羅が落とした消しゴムが私の足元に転がってきたからなのか、
拾い上げて渡した時にただの可愛い女の子に見えたからなのか、
どのタイミングで私が惹かれたのかはわからない。
もしかすると、沙羅が一番初めに名簿番号で当てられたあの日かもしれない。
きっかけは今の私にも何一つわからない。
私は話しかけてしまった。
「はい、落としたでしょ」
他の仲良くないクラスメイトなら、無言で渡すか拾いもしない。それなのに、私は笑顔で渡していた。
「ありがとう」
耳に残る教科書を読み上げる声とは全く違う、高くて子供のような声で返事が返ってきた。
「なんか、思ってたより普通なのね」
それ以降、私は沙羅に取り憑かれたように毎日話しかけていた。
ただの可愛い女の子。童顔で巨乳で、可愛い声の普通の女の子。
学校が始まってからの約二ヶ月間というもの間、何故誰一人として彼女と関わらなかったのか分からないくらいに、沙羅は明るい普通の女の子だった。
しばらくすると、沙羅から話しかけてくれるようになった。
自分に懐いてくれることが嬉しかった。
新しく出来た友達と、楽しい学校生活が始まると思っていた。
それなのに……。
「じゃあ、今日の放課後迎えに行くからね! 星を見に!」
今こうしてホラースポットに連れて行かれそうになっている。
この楽しそうな顔で言われると、行かないと決意した私の心が揺らいでしまう。
「だめよ。今日は私忙しいから」
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***
「星なんて全く興味がないわ。ホラースポットなんかにも行かないわ……。絶対に」
「ホラースポットじゃないって。公園で星を見るっていったでしょ。それと、もう引き返せないからね。はいこれ、約束のやつね」
「――あんたその言葉何度目よ」
約束なんてした覚えはない。
ため息を吐きながらも、沙羅から手渡された白くて重厚な雰囲気の紙袋をしっかりと受け取った。
受け取るとずっしりと重く、中には木箱が入っていた。
私はこの中身をよく知っている。また沙羅のうまい話に乗せられてしまった。
今、私は車の中にいる。
何度も沙羅の話に乗せられている私は、この車にももう何度も乗せられている。
セダンと言うのだろうか。車には詳しくないけれど、どこでもよく見かけるような黒くて四人乗りの車。
運転しているのは毎度のことながら沙羅のお母さんだった。
沙羅のお母さんは長い髪をそのままにコートを着ていて髪の先がコートに呑み込まれていた。
後部座席の左、パジャマにコートを一枚だけという今日の気温にミスマッチな格好をして座っている私は諦めきれないまま安全のためシートベルトを装着している。
右隣にはもちろん完全防備完全防寒の格好をした沙羅が座っていて、嬉しそうな顔で車の進む先を見ていた。
窓の外は暗闇に包まれていて、自分がどこにいるのか、どこに向かって走っているかもわからない。
私にわかることといえば、この車がどこかの高速道路を走っていることと、膝の上に乗っている重厚な木箱の中身が絶対に美味しい〝バームクーヘン〟だということだけだった。
またしても、お高いバームクーヘンに私は釣られてしまった。
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「じゃあ迎えに行くからまっててね」
いつもなら都市伝説やら怪談の一つや二つを平気で話してくる沙羅が、〝星空を見に行こう〟と誘ってきて以降、休み時間に何かしらのホラー話をすることなく全ての授業が終わった。
『迎えに行く』とだけ言った沙羅は、何時に迎えに来るかも伝えずに一人でさっさと帰ってしまった。
いつも最寄りの駅までは沙羅と一緒に帰る帰り道。一人で帰るのは少し不安で、すれ違う学生に怯えながら早足で駅まで歩いた。
帰宅ラッシュに差し掛かる一時間ほど前、早上がりの会社員と学校帰りの学生に囲まれて電車に揺られる。
駅に止めていた自転車にまたがり、私は急いで家に帰った。
沙羅のホラーを何度も聞いたせいで、普通の人間相手にも何かしらの怪異的な何かの可能性を考えてしまうようになった。
ホラーが苦手な人間が、毎日怖い話を聞かされるとこうなってしまうとでもいうのだろうか。
私の住む家は、閑静な住宅街にある二階建ての一軒家で、ご近所付き合いもほとんどなく、この時間に誰かとすれ違うこともあまりない。
家に着くと、小さな駐輪スペースに自転車を止め、玄関の扉を開けて家に入った。
母親の「おかえり」という声が聞こえ、「ただいま」と返事をしてから手洗いうがいを済ませる。
お弁当箱を流しに出して自分の部屋に行き今日出された宿題に取り組んだ。
ペンを片手に机に向かい勉強をしているその時までは『絶対に行かない』と強く、固く決意していた。
時刻は二十時を回り、宿題も終えて家族と一緒の夕飯も食べ終わり、私はゆったりとお風呂に入った。
暖かくたっぷりと湯船に張られたお湯、気温が下がってきたこの季節には極楽だった。
気持ちがよすぎて眠気が押し寄せてくる。
もう十分に体が温まった。眠ってしまう前にお風呂から上がり、風邪を引かないよう長い髪をしっかりと髪を乾かした。
二階にある自室に戻ると壁掛け時計の短針は九を指していた。
後は明日の予習をするだけ。
毎日の習慣である、眠りの体制に入る二十二時になるまでにはまだ時間がある。と思いベッドに腰掛けると、狙いすましていたかのようにインターホンのチャイムがなった。
しばらくして階下から母が私を呼ぶ声が聞こえてくる。
「千花。沙羅ちゃんが来たわよ」
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――来た。
下にいるはずの沙羅の気配を背後に感じた。
沙羅はいつも狙いすましたかのように、私がその日にやるべきほぼ全ての事を終えた時に迎えにくる。
寒気をこらえながら、上着を持たずに玄関に降りた。
『上着を持ってないから』という部屋に取りに戻る理由を携えて。
しかし沙羅は片手にさっき手渡された紙袋の中身『高級なバームクーヘン』と、薄茶色のスエード生地の『高そうなコート』を持って私を迎えにきたのだ。
私は部屋着姿のままあれよあれよという間に車に乗せられホラースポットに向かっている。
沙羅が用意した私にぴったりのコートを着て。
「千花のお母さんって優しいよねえー。いつもこんな時間に連れ出しても嫌な顔一つしないんだもん」
それは、沙羅が公園に星を見に行くと言っているからだ。
うちの両親は友達との交流と清純な行動を好んでいるのだ。
腕を組み首を縦に振っている沙羅の長いツインテールの根元には、普段は絶対に付けない明るい花の髪飾りが付いている。
明らかに猫を被っている。うちの両親は沙羅が清純な女子高生だと思っているのだ。
後は、毎度手土産に持ってくる高級感漂うお菓子。
私が帰宅する頃には全てが平らげられている。まさに買収だ。
家を出るときに聞こえた嬉しそうな声の『いってらっしゃい』が耳に残っている。
「あんたが公園に行くとしか言わないからでしょ。まさかうちの親だってこんな時間からホラースポットに行くとは思ってないわ」
「何言ってるの、公園に行くんだよ。――星を見に」
沙羅の笑顔にお尻からから首筋にかけて冷たいものが走る。可愛らしい童顔が私には怖くて仕方がなかった。
暗い道をただひたすらに進む車。高速道路に乗るところを私は確認していた。
不気味なほどに静かな狭い車内は、エンジン音とノンストップで道路を滑るタイヤの音が支配している。
ラジオや音楽は一切流さず、他に聞こえてくる音といえば、時折会話する私と沙羅の話し声だけだった。
沙羅は〝公園だ〟と言い張っている。
しかし沙羅がこんな夜更けに行きたがる公園が、ただの公園のはずがない。
普通の友人ならば、単純に星を見に行くと思えるだろう。
しかし、今回の主催者はあの沙羅だ。
ならばホラースポットに向かっていない方がおかしい。
もしもホラースポットに向かっていなかったら、レンタルショップでホラーDVDを七本ほど借りて夜通し見てもいい。
それくらいには自信がある。
「はぁ……」
どれだけ自信を持てようがこの先私を待ち構えているのはホラーなのだ。
なんなら、いま自分でホラーへの新たな道を立ててしまった。
DVD七本夜通しで見るのも、ホラースポットに行くのも嫌だ。
私の憂鬱な気持ちも知らずに、のんきに車に揺られながら私の腕の中で佇んでいるのは一つ四五〇〇円のバームクーヘンだった。
一層一層が丁寧に焼き上げられていて層を一枚ずつ剥がして食べられるらしい。
原材料の全てが国産で、五層ごとに味が違うと言う。
剥がして食べるもよし、そのままかじりつくもよし。食べ方が何十通りもある珍しいバームクーヘン。
甘い物好きの私にとって、食べたくても食べられない、いち高校生には手が届くはずもない高価なものだ。
それをあろうことかこの女は私を釣るためだけに用意したのだ。これだから金持ちは困る。(実際はお金持ちなのかは知らないけど)
だいたいお菓子が木箱に入っていることが理解できない。
そして、なぜか木箱に私の名前が刻印されている。――これでは木箱が捨てられない。
「で、公園ってどこの公園なの。そろそろ教えてくれたっていいんじゃないの?」
今更どこの公園に向かっているのかを知ったところで何にもならない。
お菓子を受け取り車に乗り込んでしまったからにはもう諦めるしかなく、ただ静かに公園に向かっている車内の空気に耐えきれずに私はため息混じりに車の行き先を訪ねた。
「うーん、あと三十分くらい?」
沙羅は考えるように少し上を向き、人差し指を口元に当てなんの答えにもならない返事を返してきた。
「沙羅、それは時間であって公園の名前ではないわ」
「まあまあ、もうちょっとだから」
三十分はもうちょっとではないし、公園の名前も教えてくれそうにない。こうなると、もう公園じゃないかもしれない。
「はぁ……」
助手席と運転席の間、暗闇の中にはっきりと浮かぶ緑色の光が現在の時刻をデジタル形式で表している。
浮かぶ緑の数字はもう直ぐ二十二時になると表示している。どうりで眠たいわけだ。諦めて少し眠ろう。
「まだ時間あるから、一つ聞かせてあげようか」
沙羅は車の進行方向を向いたまま、少し声のトーンを落す。
「いいわ、ちょっと眠いから着くまで寝かせて」
表現としては『すぅっ』よりも『ぬぅっと』という表現が合っていると思う。言葉では表現しきれない怖さをまとわせて沙羅がこちらに顔を向けた。
夜の高速道路だけでも今の私からすると恐怖なのに、それ以上のものが道中で必要なのだろうか。
「あのね。これはね……」
断ったはずなのだが。
沙羅は寝ようと目をつむった私に気づいていないのだろうか……。
いやおそらく気づいていても気にもとめずに沙羅は話を始めたのだろう。
普段の幼い声色とは違う、少しトーンの落ちた低い声。心臓に響く低音が、語りが私を惹きつける。
やめて欲しい。
本当に聞きたくない。
怖いのは苦手だ。それなのに、沙羅の声に耳を傾けてしまう。
本当にこの子の怪談は苦手だ。
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――まるで自分がその物語の主人公であるような錯覚をするから……。
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「――ある沼で起こった話」
耳を塞ぐことすら、いま眠ろうとしていたことすらも忘れてしまう。
「その底無し沼と呼ばれた沼には昔から色んなものが投げ込まれていた。
使わなくなった食器や家電製品、誰にも見られたくないもの。果ては育てられなくなった生まれたばかりの赤ちゃんまで。
あくまでも全てが単なる噂にすぎないけれど、その噂の信憑性は高かった。
底なし沼があったのは人気が全くない山の奥。
舗装された山道の途中にある沼。
その沼へと続く道は一本もなく、沼へと導くのは茂みに目をこらして見るとわかる微かな獣道だけ。
朝も昼も沼のある場所は木々に覆われて薄暗く、夜は完全に闇が支配する。
不用意に近づいて沼に落ちると危ないので沼の周りはロープで囲まれ、そのロープに黄色と黒の縞模様の板に赤色の文字で『キケン』と書かれた注意書きが大量にぶら下がっていた。
その注意書きの看板もいつ設置されたのか、かなり色あせている。
誰にも見られることなく沼に沈めれば誰でも、なんだって隠すことができる。
人を殺すなら、絶好のポイントだった。
だから〝田丸仁(たまるじん)〟は恋人だった女〝平岡由美(ひらおかゆみ)〟をその沼に隠した。
恋人だった由美との関係は日に日に悪化していて、体も心も耐えきれなくなっていた。
そんな中でのあの出来事。もう我慢の限界がきてしまったのだ。
由美は田丸のことが好きで好きで堪らなかった。
その日にあったことはその日のうちに聞かないと気が済まない。
携帯電話の中身は毎日チェックする。挙げ句の果てには田丸に来たメールの全てを代わりに全部返していた。
由美の歪んだ愛を初めこそは快く受け入れていた田丸も交際が七ヶ月も経つと心も体も耐えきれなくなってしまった。
ある時、限界が来た田丸が由美に別れ話を切り出すと、由美は泣いて謝った。
「チェックも、返信も全部やめるから。別れないで欲しい。私はあなたのことが好きなの。あなた無しでは生きて行けないの」
由美は両目から涙をボロボロと流し、頬を赤く染め倒れ込んで泣いた。
田丸にすがりつき
『ごめんなさい』
『好きだから』
『仁じゃないとダメなの』と何度も言った。
その言葉を聞いた田丸は、自分が求められていることが嬉しくて別れられなかった。
その瞬間から、その言葉の数々が由美の口癖になった。
もちろん、田丸も耐えきれなくなるまでは由美のことが好きだった。それ故に、もしかしたら円満に解決できるかもしれないという期待をしてしまったのだ。
しばらく経つと徐々に元の由美に戻っていった。
田丸が仕事から家に帰るとまた、その日のことを事細かにチェックされ、いつかやめてくれるんじゃないかと耐える。
しかし、田丸は一度限界に達している為、すぐに限界が来た。
別れ話を切り出すと、由美は泣き崩れて言った。
「あなた無しでは行きていけないの。仁じゃないとダメなの」
別れ話を切り出しては、もうしないと泣きつかれ。それを許してはしばらく経つとまた元の由美に戻る。
そんな負の繰り返しすらも耐えきえれなくなった田丸から、いつしか由美への愛情は消え去ってしまった。
切れるか切れないかの絶妙なバランスで張り詰めていた糸が弾け飛び、田丸は由美が居ない隙を付いて引越しをした。
当日の無茶な引越しも、事情を聞いた大家さんは理解してくれた。
入居してからお世話になり続け、迷惑もかなりかけた。おばあちゃんのような存在の大家さんは田丸がいなくなると寂しくなると悲しんでくれた。
また落ち着いたらお礼をすると大家さんにだけ引越し先を教えると、新たな生活に必要な荷物だけを持ち家具などはすべて残して新居に移った。
大家公認の夜逃げだった。
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引越しをしてから約一ヶ月。
前に住んでいたアパートに比べると、いま住んでいるアパートは一階で、陽当たりもあまりよくない上に上階と隣の部屋の音がかなり聞こえてくる。
その上水漏れなどにも悩まされる。唯一良かったのは角部屋で左隣の音しか聞こえてこないことだった。
そんな廃れたアパートでも田丸は平穏に暮らしていた。由美はもういない、もう会うこともない。
たったそれだけのことで、肩の荷が下りて気持ちが上を向いた。
心機一転職場も変えて、仕事仲間と行った合コンで出会った女性〝本田菜穂(ほんだなほ)〟との新たな交際も始まっていた。
菜穂は、小柄で肉付きの良かった由美とは違い、身長は一五八センチと高めでスレンダー。ベリーショートの髪は明るい茶色で由美とは正反対だった。
家に帰り、ポストの中を覗くと手紙が一通届いていた。
重要書類などのダイレクトメッセージではなく、絵に描いたような手紙。差出人の名前はなく、切手も貼っていなかった。
切手がないということは誰かが直接ポストに入れたということで、一瞬の気味悪さが身体中を駆け巡った。
けれど、なんとなく彼女の菜穂がサプライズでポストに入れていったのだと思いついた。
家に入り手紙を開けると予想通り差出人は菜穂からで、中には可愛い文字でこう書かれていた。
『仁くん、いつもありがとう。まだまだこれからだけどふたりで頑張っていこうね。菜穂より』
胸の奥から何かが込み上げてくる。
こういう恋愛がしたかった。
テレビとソファーと机が無造作に置かれ、まだ綺麗に整頓しきれていない、最低限の生活ができる部屋の中から綺麗な紙を探し出して返事を書いた。
文字を綴るたびに胸の奥がむず痒くなる。
内容は恥ずかしいポエムのようなものになったけれど、そのまま折りたたんだ。
数日後、菜穂が家に遊びに来た。
田丸は返事の手紙をこっそりと菜穂のカバンに入れようとしたけれど隠れてコソコソとしていたところを見つかって、自分の目の前で手紙を読まれてしまう。
流石に自分の目の前で読まれるとは思っていなかったためかなり恥ずかしかった。
仕返しに田丸は菜穂にもらった手紙を大きい声で音読した。
それを聞いて菜穂も田丸の恥ずかしいポエムを笑いながら読んだ。
そんな馬鹿みたいにはしゃいでる時間が楽しくて仕方がなかった。
楽しくて、幸せで、田丸の家のポストで手紙を交換することになった。
まずは一ヶ月間、三日に一度は田丸の家のポストで手紙を交換する。
自分の家のポストだけだと菜穂が面倒なのではと言ったのだが、菜穂はポストに手紙だけ入れて帰るのも不思議な感じがして楽しいからと言って笑った。
その笑顔が可愛くてそれ以上の言葉は出なかった。
一ヶ月間でどれだけ交換できるかわからなかったけれど、最後には溜まった手紙を一緒に見返す。
付き合い始めたばかりの田丸にとっても、菜穂にとっても幸せな計画が始まった。
『初めまして、って。なんか改めて手紙書くのって恥ずかしいな……。でも、せっかくだから一ヶ月間、楽しもうね』
『うん。私もこういうの初めてだから、ちょっと恥ずかしいけど、頑張って書くからよろしくね』
一つだけ、お互い会う時には手紙の内容や感想は絶対に言わない。最後に一緒に読み返したとき、最高に笑える為の約束を交わした。
文通が始まってから二週間。
普段の会話とは違って新鮮で、普段の会話では知ることの出来ない彼女を知れて楽しかった。
7回目の辺りで菜穂の仕事が忙しくなり、なかなか二人で会えなくなった。
それでも文通はゆったりと続いていて、会えなくとも田丸は幸せだった。
――菜穂との九回目の文通。
『仁くん。いつも私のために手紙を書いてくれてありがとう。私は今までも、これからもずっと好きだよ……!
それと前に教えてくれたお菓子美味しかった。お菓子大好きだから教えてくれて嬉しかったよ! また二人でどこかに行けるといいね』
前回田丸が出した手紙は5日ほど前で、自分が書いた内容はうろ覚えになっていた。
しかし、このような内容の返事が来るということは、お菓子の話もしたのだろう。自分の記憶ほど信用できないものはない。
今だってすぐには昨日の晩御飯も思い出せない。
ここ数日で食べたお菓子を記憶の奥からひねり出す。
しばらく考え込んで出てきたのは、チョコレート菓子だった。
『シルクチョコ』という名前でまだ冷蔵庫にしまってある。
〝感動の美味しさ〟という謳い文句に惹かれて買ったのだが、確かに美味しくて感動した。きっとそのお菓子のことだろう。
それから八日間文通は続いた。
「明日は久しぶりに会お、十六時ごろ家に行くね。話したいこともあるし」
久しぶりに菜穂からメールが来た。本当に久しぶりだった。
約二週間ぶり。菜穂と会って話すのが楽しみだった。
田丸は菜穂のために美味しいと言ってくれたお菓子を買い込んだ。抹茶味にイチゴ味、キャラメル味。もちろんオーソドックスのものも。
約束の時間になるとチャイムが鳴った。
胸の鼓動を抑えつつ扉を開けると目の前には久しぶりに会う恋人の姿があった。
何度見ても綺麗で、可愛くて、久しぶりに会う恋人のことが好きになった。
「上がって。相変わらず散らかってるけどさ。菜穂が美味しいって言ってくれたやつも用意したんだ」
口角が上がるのを必死に堪えながらリビングに手を向けた。
玄関からでも、あらかじめ机に広げておいたシルクチョコが見える。
綺麗に並べられたチョコレートの他にポテトチップスなどのスナック菓子も大きな皿に盛り付けて、コップも用意しておいた。
その光景を見た菜穂の顔は引きつっていた。
「なにあれ。大量に置いてあるように見えるけど」
「シルクチョコだよ。手紙で言ってただろ」
「私甘いもの苦手って言ったでしょ。嫌がらせ?」
「あ、そうだったっけ。――ごめん。喜ばせようと思って。浮かれて頭から抜けてた、ほんとごめん。次から気をつける」
「次って何? いちいちいちいち私の喋り方が嫌だから直せとか、
髪型はボブじゃないと嫌だとか、
服はもっと良いものにしろとか、
全部自分の言う通りにしてくれないと嫌だとか言って。
この際言わせてもらうけど、ちょっと自己中すぎない? 今日は言いたいことがあったから仕方なく来たけどさ。
まあちょうどいいから言うけど、もう別れてくれない? 実は私、もう新しい彼氏いるんだよね。
今の仕事もやめて彼と同棲するつもり。だいたい手紙の返事が来なくなったところで気づくべきじゃない?
それなのに毎日毎日『いつが休み?』とか『お疲れ様』とか連絡してきて、バカなの?
それじゃあね。もう連絡してこないでね。
あと、手紙の内容については最後まで話さないって約束だったよね。まあ私はチョコが好きだなんだって書いた覚えもないし、妄想も大概にした方がいいよ。
じゃ」
扉が閉まる。
菜穂の足音が遠ざかって行った。
大量に買ったお菓子ともう渡せない手紙とともに田丸は静かな部屋に取り残された。
さっきまで聞こえた菜穂の声が記憶からどんどん薄れていく。
田丸は何もかもをそのままに、倒れこむようにしてソファに座ると、気を失うように眠りについた。
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朝、普段とは違う体制で寝ていた為か、体を動かすたびにあちこちから軋む音が聞こえた。
微かな痛みをこらえながら服を着替える。昨日は一日中菜穂と一緒にいる予定だった為、今日は休みを取っていた。
憂鬱な二連休。
軽く寝違えた首をさすりながら、いつもの癖でポストに手紙がないか確認しに出てしまう。
もうこれ以上菜穂から手紙が来ることはないとわかっているのに、確認せずにはいられなかった。
ポストには朝刊が刺さっていた。
いつもとは違い、手紙が入っている気配を感じない。
と言っても、この気配とやらを感じても入っていない時の方が多い。
全くあてにはならない勘だが、次開けた時には入っている可能性があって、ショックを受けることはなかった。
朝刊を掴みそのまま引き抜いて「もしかしたら」と微かな希望を胸にポストに手を掛ける。
このまま開けてしまうとショックを受けることになる。確実に心の傷を広げることになる。それでも、開ける以外の選択肢は無かった。
痛む心臓を左手で押さえつけて、ポストを開ける。
――入っている気がしない。いや入っているわけがない。出来るだけショックを受けないよう自分に言い聞かせた。
ポストが開くと中には見覚えのある手紙が入っていた。
自分以外の時間が止まった気がした。
昨日の菜穂の行動の全てが手の込んだドッキリで、手紙を使ってネタばらしがしたかったんだと、そう思った。
今までずっと文通をしていたんだ、間違いない。
昨日すぐに帰ってしまったのも、仕事のせいだ。きっと大事な仕事が入ってしまったのだろう。
怒ったのも、自分が手紙の話題を出してしまったからだ。あの温和な菜穂があんなに激昂するはずがない。
全部自分を楽しませてくれる為のドッキリなんだ。
急いで部屋に戻り先ほどまで倒れ込んで眠っていたソファに腰かけた。
期待と喜びで心臓が大きく跳ね躍る。
手紙を開封する手が震えてなかなか開けられない。
普段は綺麗に開けられるはずの封筒を不恰好にも破きながら開封して手紙の中身を確認した。
『仁。やっと二人っきりになれたね。私、ずっと待ってたんだよ。明日、会おうね』
菜穂は田丸のことを『仁くん』と呼んでいた。『仁』と呼ぶ人間は、両親以外にはあいつしかいない。
身体中の毛が逆立ち寒気がした。
カーテンの隙間から微かに入り込んでくる、暗い部屋を照らしていた心地よく暖かい朝日が、途端に主役を降ろされて薄気味悪くなる。
物音一つしない薄暗い部屋が、田丸を取り囲んだ。
――もう縁は切れたと思っていた。
そういえば、由美はお菓子が好きだった。
手紙に書かれた内容の意味がわからない。理解ができない。気がつけば手紙をびりびりに破っていた。
今までの文通のどこからが由美とのものだったのだろう。
なにもしていないと不安が募る。家中の窓や扉の鍵をかけた。
起きていてもやることはない。無駄にいろんなことを考えるくらいなら一日中眠る方がましだった。
明日は大事な仕事で絶対に出勤しなければいけない。無理を言って今日を休みにしてもらったのだ。
明日、家の外に出るのがとても不安だ。
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微かな陽の光を浴びて目が覚めた。
結局あの後すぐに寝付くことができるはずもなく、買い置きのカップ麺を食べたり、昨日のために買い漁ったお菓子をひたすら食べたりして時間を潰した。
しかしながらそれでも眠れず、テレビを見たり残りの四つあったカップ麺を食べ尽くしたりとあれこれ試し、結局寝付けたのいつもと変わらない二十三時を回ったあたり。
布団に潜っては起き上がり、潜っては起き上がりを繰り返した。もちろん寝つきはかなり悪かった。
何度も目が覚めてトイレに行ったりと無理やり眠りについたりと色々大変だった。にも関わらず、いつもより疲れは取れ、眠気もすっかりと消え去っていた。
食べ過ぎたせいか胸焼けのような気持ち悪さが胃を取り巻いていたけれど、なぜだか昨日の不安は全くと言っていいほど消えて無くなってしまった。
もう使わなくなった手紙に『俺が好きなら、俺のために死ね』と書き殴ってポストに入れた。
おそらく由美はこの手紙を見るだろう。
自分と菜穂との縁が切れたことをわかっているであろう由美がこれを読んだ時、自分に芽生えた怒りが伝わるだろう。
自分と菜穂の仲を引き裂いた由美が田丸は憎くて仕方がなかった。
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大事な仕事を手際よく片付けて、新たな疲労を蓄えて仕事から帰るとすぐさまポストの中身を確認した。
――しかし、ポストに返事が入っていることはなかった。絶対に返事が入っていると思っていた田丸は肩透かしを食らう。
なぜか少し落胆しながらも部屋に入ろうと鍵を開けた時、電話が掛かってきた。
着信の主は上司の橋田さんだった。
「あ、田丸くん? ちょっと今からもう一回これる?
明日でもいいって話なんだけどさ、部長の顔どうみても今日中にやれって顔なんだよね、僕だけじゃ無理っていうかなんていうか何だけど、どう?
来ることできる?」
わざわざ電話をかけてくるということは『来れなくとも来い』と、そういうことだろう。
選択肢は『職場に急いで戻る』以外に存在しない。
「大丈夫です、今から向かいます」
慌てて返事をしながら車に乗り込み、職場に向かった。
――おそらく自分の失態だ。
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二度目の帰宅をすると疲れた体を癒すためすぐさま風呂に入り、テレビをつけた。
ここ数日、いや、ここ数ヶ月で初めて、張り詰めていた緊張の糸が解けて体の力が抜けた気がする。
普段はほとんど見ないバラエティ番組が面白かった。
先輩があんな電話をかけてくるものだから、絶対に今日の大事な仕事でミスをしたのだと思った。
会社に着くと、部屋の中は真っ暗で、手探りで電気のスイッチのあるところまで行った。
スイッチを入れる。何度か蛍光灯がチカチカと光り、手前から順番に一列ずつ電気がついた。
中にはもちろん誰もいなかった。鍵は開いていたし、人の気配もなんとなく感じる。
とりあえず誰か来るまで待とうと自分の机に座った途端、背後で何かの爆発音が聞こえた。
慌てて振り返ると、職場のみんながクラッカーを持って立っていた。
さっきの爆発音はクラッカーか……。と思った瞬間、目の前で残りのクラッカーが炸裂した。
まさか、昇級を知らせるドッキリだとは思わなかった。
初めて昇級する社員が必ず受ける洗礼だと橋田さんが言っていた。
自分も四年前にはといつもの長めの思い出話を聞きながら、用意されていた小さいケーキを食べた。
会社総出で盛大に祝ってもらった。ここで頑張っていこうと思えたし、今までの小さな悩みもすべて吹っ飛んだ。
ふと、机の上に無造作に置かれた手紙を読み返してみる。
『仁くん。いつも私のために手紙を書いてくれてありがとう。私は今までも、これからもずっと好きだよ……!
それと前に教えてくれたお菓子美味しかった。お菓子大好きだから教えてくれて嬉しかったよ!
また二人でどこかに行けるといいね』
てっきり、菜穂からの手紙だと思っていた。
しかし、もう随分も前から菜穂との文通は終わっていて、いつのまにか由美との文通が始まっていた。
そんな由美は今日、自分が出した手紙を受け取っている。
ポストに入れておいた手紙がなくなっているということはそういうことだ。
そして、返事がないということは、内容を見て怖くなって逃げたのだろう。
「はあ。由美のおかげでさんざんだ……」
がたっと何かが落ちるような物音が背後から聞こえた。
振り返ってみても、寝室として使用している和室には布団が敷かれているだけで、玄関は静まり返っていた。
忙しさを理由にまだ片付けきっていない荷物が崩れたのだろう。
よくあることだ。
しかし、田丸の心の中でかすかに恐怖が芽生えた。
この歳にもなって物音にビビる自分が情けなくなりテレビの音量を上げて自分を偽る。
『――また二人でどこかに行けるといいね』
この文言が、やけに脳裏にへばりつく。
由美が菜穂になりすまして書いたただの文章だったはずなのに、考えれば考えるほど、恐怖が膨らんでいく。
『――明日、会おうね』
そういえば昨日の手紙にこう書いてあった気がした。
ビリビリに破かれた手紙をパズルのように並べる。
穴だらけで全てを読み返すことは不可能だったが、そこにはしっかりと『明日、会おうね』という文字が書き込まれていた。
当然手紙に書かれた明日はもう来ていた。
今日が、由美が言う田丸と会う日なのだ。
慌てて玄関と窓がちゃんと施錠されているか確認をした。
由美がどこから来ても気づけるようにテレビを消して、すぐに通報できるように携帯電話を握りしめて耳を澄ました。
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――二時間余りが経過した。
時刻は二十二時を回っている。
由美が来る気配はなかった。
時折聞こえる物音は、隣の部屋の住人だろう。
部屋の作りはうちと真逆の構造だと思う。だとするとちょうど壁を隔てて寝室とトイレの向こう側が隣の寝室やトイレに隣接している。
だから、その方向から聞こえるかすかな物音は、隣の住人のものだ。隣の住人のもので、間違いない。
――そういえば。
さっき帰ってきた時に隣の住人が車に乗って出かけるのを目撃していた。
それからは帰ってきた音を一度も聞いていない。
隣の玄関の扉を開閉する音は、絶対に聞こえる。
その開閉音を一度も聞いていないとすると、この音はどこから聞こえるのだろうか……。
汗で手がにじむ。
つーっとこめかみから汗の筋ができた。
今の自分から見えなくなっている場所、部屋の全ての死角が怖くてたまらなくなった。
そこに、何かが、誰かが、由美がいる気がする。
――待て。
もしも、仮に由美が家の中に居るとして、居るのは〝由美〟だ。
一七六センチの自分よりも二十センチは背が低いし力もない。
例え何か武器を持っていたとしても、自分にかなうわけがない。
そう思うと怖さは遠のいていき、代わりに怒りがふつふつと沸いてきた。
大きく深呼吸をして、床掃除をするワイパーを右手に携え寝室の押入れを勢いよく開けた。
しかし、中に人影はなかった。
「どこにかくれてんだよ」
大声を張り上げながら周りを見渡すが、由美は見つからない。
隠れているとすれば、帰ってきてからまだ一度も入っていない場所だろう。
帰宅後は、風呂に入り、リビングにずっといた。
いま寝室の中を確認したから残りは一箇所だけ。
田丸はトイレの前に立った。
今日家に帰ってきてから一度も入っていない場所は、ここしかない。
ドアノブに掛ける左手が震える。
もしこの中にいるとすれば、帰宅してから今までずっと由美と同じ部屋の中で過ごしていたことになる。
しかも由美は自分が帰ってきてから三時間弱、トイレの中でじっと様子を伺っていたのだ。
物音を立てることなく、じっと。ドアが開けられるのを待っていたのだ。
――聞こえる物音も微かで、生きている人間が出す音じゃない気がする。
トイレの中の由美は、生きているのだろうか。
さっきまでとは別の恐怖が沸き立つ。
そっと掴んだドアノブは中にいる人間がそうであるかのように冷たく田丸が開けるのをただひたすらに待っているように思えた。
緊張で乾いた喉で無理やりに息を飲み、物音一つしないトイレのドアをゆっくりと開ける。
心臓の鼓動が大きくなり周囲の音を遮る。
生きた人間がいるかもしれない恐怖でトイレから目をそらすことができなかった。
ドアノブを掴んでいる手を引くと、立て付けのいいドアは早く開けろと言わんばかりにするすると開いていく。
少し開いたドアの隙間から、徐々に狭いトイレが露わになる。
――誰かいる。
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トイレの中に人がいるという予想が、確信に変わり、先手必勝とばかりにドアを勢いよく開けワイパーを振りかざした。
完全にドアの開いたトイレはひどい臭いとともに全貌を田丸に突きつける。
中には、不気味な笑みを浮かべる由美と、もう一人。天井から吊り下げられ両腕をだらんと力なく下ろした一人の女があった。
一目でわかる。
その女は、死んでいた。
悪臭が漂うトイレの中、由美は笑って生きていて、天井からは一人の女がぶら下がって死んでいる。
理解ができない。
てっきり、今日の出した手紙の内容からして、由美が死んでいるとばかり思っていた。
なのにその由美は生きていて、女が……。
「菜穂!」
トイレにいる由美を引っ張り倒してぶらぶらと左右に揺れている女性に田丸は駆け寄った。
乱れた髪に歪んだ顔、それでもこの女が菜穂だと理解できた。
「菜穂! 菜穂!」
田丸からはそれ以上の言葉が出てこない。
「仁。そんな別れた女なんて放っておいて、私のことをみてよ」
トイレの外で倒れ込んでいた由美が、よろよろと立ち上がりながら悲しそうに言う。
「その女、仁には不釣り合いなのよ」
「黙れ! 大体なんでここにいるんだよ!」
「何でって、私仁の彼女だもん。何も言わずに仁がいなくなったあと、必死に探したんだよ? 大家さんに聞いてもなかなか教えてくれないしさ。ほんと大変だったんだから」
「ふざけんな」
まだ握っていたワイパーを振りかざして威圧する。
しかし、田丸の上げたかなり大きな声にも由美が怯むことは無かった。
それどころか、左手に持った携帯電話の発信ボタンに指をかけて画面を指差して言った。
「ダメだよ、仁。今このボタンを押したら、捕まるのは仁だよ。
『110』って表示されてるのわかる? 仁は頭がいいからわかるよね。
こんな場所で、私を襲って、トイレには死体があって。疑われるのは仁だよ。
だって、私が死体をぶら下げるには、身長も力も足りないんだもん。仁なら、できるよね」
確かに、由美の言う通りだった。
なぜこんなところで菜穂が死んでいるのかはわからない。
けれど、由美が死んだ菜穂を持ち上げることも、例え持ち上げられたとしても、便座に乗ったところで身長の低い由美にはあの高い天井にある電気からぶら下がるロープに担いだ菜穂の首を掛けることはできない。
「自殺の可能性が! お前がそそのかして追い込んだって言えば……」
田丸の口に、由美の人差し指が触れる。
「昨日、フラれたのは誰? 今、この女に恨みを持っていて、首吊りに見せかけられるのは仁だけだよ。警察はどっちの話を信じるかな」
由美の言う通りだった。現在の状況を把握して、田丸は膝から崩れ落ちた。もう何もかもが終わってしまった。
床にぶつかった膝が大きな音を立てた。
「なんで、なんで殺すんだよ。なんで俺の生活の、人生の邪魔ばっかするんだよ!」
目の前に立つ、小さな女にしがみつく以上の力は出なかった。熱い涙が頬を伝うのがわかる。
「別に、私は殺してないわ。自分で首を吊ったのよ」
「――そんなわけないだろ」
「ほんとよ、むしろ助けようとすらしたわ。私は今日、仁を取り返すつもりなだけだったもの。
私、調べたの。あの女のこと。初めから仁とは遊びだったんだよ。四又なんかしてさ、この世で一番素敵な男性は仁しかいないのにね。
だから手紙の邪魔もしたし、あの女が男遊びしている所の写真を撮って、すべての男に渡したの。もちろん仁の名前でね。
そしたら何? あの女、勝手に仁の家に上がり込んだのよ? だから後を追って入って行ったら、殴られたわ。
――見てこの痣。ひどいと思わない?」
由美は服の裾をめくる。
左の脇腹あたりに大きな青い痣ができていた。
「それでね、この女『私の男が一人もいなくなった。全部仁のせいだ』って言うの、その時の顔見せてあげたかったわ。
もう終わったって、すっごいひどい顔だったの。
浮気ばっかりして、悪いのは自分なのにね。
あ、私は仁以外はありえないから安心してね?
――『もう死ぬしかない、私の人生は終わった』なんて言い出すから、カバンの中からそのロープを取り出して言ってやったの。
『そこのトイレで自殺でもすれば、帰ってきた仁を驚かせることも、困らせることも、なんなら人生を終わらせることだって出来るんじゃない?』って。
そしたらあの女、私からロープを奪って、輪っか作ってトイレに吊るしたのよ。
便座の上で爪先立ちをして、輪っかに首を通して
『確かに、このまま死ねばあいつの人生ぶち壊せるのかも。あんた、あいつの新しい女か何か? 昨日別れてすぐ女作るようなクズだから、やめたほうがいいわよ』
なんて長々と喋ってなかなか首吊らないの。
でも、目の前で自殺なんてされたらいい気分じゃないじゃない?
流石に人として止めようって思って足を両手で掴んだら、あの女の足が、便座から離れちゃって。
首が締まって苦しいのか足をバタバタさせてるから、私も必死に足を掴んで持ち上げたわ。それなのにあの女私のこと蹴るのよ。
まあでも、苦しいし焦ってるし仕方ないよね。
私の力も虚しく、気がついたらぐったりしてたわ。
さっきまでいたのに死んでるの。
このまま放っておいたら仁が奪われちゃうと思って、どうにか下ろそうとしたんだけど、私には無理だった。
だからと言ってこのままトイレから離れたら、仁をビックリさせて、人生を無茶苦茶にするって言うこいつの思惑通りになっちゃう。
だから、私そこで待ってたの。嫌だったけど、それと一緒に」
めちゃくちゃだ。
ここで菜穂が死んでいるのは、すべて由美のせいだ。
今日菜穂が来たのも、由美が俺の名前を使って写真をばら撒いたから。
自殺をしようとしたのも由美が提案したから。
菜穂が首を吊ってしまったのも、由美が足を掴んで体勢を崩させ、足を掴んで便座に足を置かせなかったからだ。
由美が殺したも同然だった。
俺の人生も、終わった。
つい三時間ほど前には、昇級のお祝いを会社のみんなにしてもらっていた。
それなのに、いま自分の目の前には別れたはずの女が二人。
そのうちの一人は首を吊って死んでいる。
明日から頑張ろう、そう思っていたはずの気持ちはもう田丸の中のどこにも存在しなかった。
言葉が出ない。
すべての感情が体の中から抜けてしまう。
田丸は由美の服を掴む力もなくなり、呆然と座り込んでいるしかなかった。
「もう、仁。そんなに気を落とさないでよ」
田丸の頭を由美は小さな手でくしゃくしゃと撫でた。
「待ってたのはもうひとつ理由があるんだから」
田丸の膝に跨るようにして上に乗り、頭を抱きしめる。
由美の柔らかい胸が顔にあたり温もりが伝わる。
先ほどまでの冷たい言葉とは裏腹に、まるで優しい人間のように暖かかった。
「ねえ仁。私ね、ずっと待ってたんだよ。
急にいなくなった仁を探して見つけだしてからもずっと、私のところに帰ってきてくれるのを……。
それなのに、あんな女に引っかけられて。仁は本当に、私がいないとダメなんだから」
由美の唇が田丸の唇に重なる。
田丸の五感がどんどんと由美に支配されていくような、体が自分のものではないような錯覚に陥る。
いま自分の身に何が起きているのか、目の前に誰がいるのか、わからなくなっていく。
脳が考えるのを放棄していた。
仄暗くぼやけた視界の奥から声が止むことなく聞こえ続ける。
「私ね、この状況を乗り切る方法、知ってるよ?」
都合のいい言葉だけは脳も理解するらしい。
体が反応する。
嘘なのか本当なのかはわからない。
けれど、もう由美の言葉を信じる以外どうすることもできなかった。
「大家さんが言ってた沼のこと、覚えてる?」
乗り切れる可能性が出ると、脳はフル回転を始めた。
記憶の全てを掘り返し、一つの記憶を呼び起させる。
「――底なし沼」
田丸の口からこぼれた言葉。
その言葉は確かに大家から聞いた話の中に出てきた言葉だった。
前のアパートの近く。
山道を車で登ったところにある森の奥には底なし沼があって、危ないから誰も近づかないし近づいてはいけないと言う話だった。
「うん、その底なし沼に隠しちゃえばさ。きっとバレないと思わない? 私、一回行ったことあるから、場所もわかるよ。行こ? 手伝うから」
田丸は少し考えてから立ち上がり、リビングにおいてあるペン立てからカッターナイフを選んで手に取った。
「仁……? 何するの?」
カチカチと音を立ててカッターナイフの刃を出しながらトイレの方に戻る。
田丸は由美を一瞥してからトイレの中に入った。
――悪臭を放つ液体が死体から滴り落ちている。
ゆらゆらと揺れる死体を横に避けながら便座に乗り、電気から吊り下げられている縄を切り始めた。
黙々と切りすすめる。
何度も刃が折れ、その勢いで手を切った。
流れる血が菜穂の顔を伝い、首元の縄を赤く染める。
――重たい死体が落ちて、床と便器に叩きつけられる。
鈍い音が部屋の中に響き死体がぐんにゃりと倒れ込んだ。
田丸は肩で息をしながら便器から飛び降り、カッターナイフを投げ捨てる。
カッターナイフが壁に当たる音に由美が体をビクッとさせた。
「ど、どこいくの?」
狂気に満ちた田丸を目の当たりにし、先ほどまでの威勢がかけらもなくなった由美がトイレの前に座り込んでいる。
田丸は由美の言葉に返事もせずに寝室に向かった。
無造作に置かれた万年床の掛け布団と敷布団との間にあった毛布を掴み、勢いよく引っ張り出した。
上に乗っていた掛け布団が少し乗ったまま毛布を引きずってトイレの前に戻る。
途中で掛け布団は力尽き、一枚だけになった毛布を由美に投げつける。
「広げて」
「――うん」
田丸の冷たい声に、由美の体が危機感を覚えとっさに言う通りの行動をとった。
毛布を広げる由美を傍目に田丸は落ちた死体を担ぎ上げようと掴み上げる。
しかし、想像よりも一切の力が入っていない死体は重たく、担ぎ上げるのは諦めトイレから引きずり出した。
綺麗に広げられた毛布の横まで引きずると、今度はおもちゃのように転がして毛布の上に乗せる。
「車持ってくるから」
田丸は自分の血や悪臭を放つ菜穂の体液だらけの服を着替えて外に出て行った。
由美は呆然と見ていることしかできなかった。
自分の知らない田丸の姿を見て感じた恐怖と同じくらい、愛情も膨れ上がった。
しばらくすると田丸が戻ってきた。
毛布の上に横たわった死体とその横に座り込んでいる由美を交互に見る。
田丸はゆっくりと由美に近づくと、思い切り頬を叩いた。
「わかれよ! 俺のことが好きなんだろ。じゃあこいつを包んでおくくらいの事しろよ!」
由美が慌てて毛布に死体を包もうとすると、田丸は押し倒した。
「もういい、俺がやるから車の準備してこい」
田丸のいままでとは全く違う口調と、初めてされた命令。
由美は体の奥底で命令される快楽を感じた。
田丸が毛布にくるみ、自分が車の準備をする。
待ち望んでいた共同作業。これから新しい二人の関係が始まると思えた。
車の準備をして部屋に戻ると田丸は毛布で巻かれ、さらにロープでぐるぐる巻きに縛られた死体を持ち上げようとしていた。
「私も手伝う。こっちが足かな。足側なら持てると思う」
途中、由美が外の様子を確認してから、部屋の外の車まで二人で死体を運んだ。
車のバックドアから死体を積み込み、部屋の電気も鍵もそのままに、田丸は運転席に乗り込んだ。
「早く乗れ」
由美は乗れと言われるのを待ってから助手席に乗り込む。
田丸の声に何度でも心と体が喜んだ。
「で?」
助手席に乗って目をそわそわとさせ体を揺らしている由美を田丸が睨みつける。
「えっと……」
「分かれよ。場所は。沼の場所」
「あ。とりあえず、前の家に行って? そこからの方が説明しやすいから」
相変わらず返事をせずに田丸は前のアパートに向かって車を走らせた。
「あのね、仁がいない時に大家さんから聞いたんだけど、昔からあの底なし沼には何人も殺された死体が沈められているって噂があるんだって。
だから、絶対バレないと思うの。私がその噂を聞いて行ってみたときも、道が本当に無いし、暗いしじめじめするし」
車内で由美は一人で喋る。
たわいのない会話も、道の説明も、田丸の耳に届いているのか心配になるほどに表情を変えなかった。
田丸の表情は、とても落ち着いていた。
「もうすぐしたらお地蔵さんが左手に見えると思うから、その少し奥に行ったところで車止めて」
由美の言う通り、暗い夜の山道を進んでいくとすぐに汚い地蔵がヘッドライトに照らされた。
「車停めるとき、右に向けて停めて。ヘッドライトつけたら多分森の中歩きやすいと思うから……。
大丈夫、バレないよ。誰も通らないから。それに通ったらライトが一瞬隠れるしわかるでしょ」
由美の言う通り田丸は車を車線に対して直角に止めヘッドライトをつけたまま車を降りた。
バックドアを開け、死体をくるんだ毛布を掴み引っ張り出す。
毛布越しに頭蓋骨が地面に当たり、鈍い音がした。
死体は死後硬直が進んでいて、形を変える事が出来なくなっていた。
暗い夜の山の中、二人で反対車線の森の中に重たい死体を運び込む。
由美の記憶を頼りに、道無き道を車のヘッドライトを頼りに進んだ。
先に進むにつれてヘッドライトも届かなくなっていく。
服や毛布が道を塞ぐ草木に引っかかり、思うように進めない。
何度も硬くなった死体を下ろして休憩を取りながら、着実に沼に向かった。
四〇分ほどかけて森の奥に進むと少し開けた場所に出た。
目の前には、微かな光に当てられた『キケン』と書かれた大量の看板がついた沼があった。
ここにたどり着くまで、一台たりとも車が通ることはなく、もちろん通行人など通ることもなかった。
車のヘッドライトがなければきっとどこからが沼なのかわからない。
ほぼ届いていない光だったけれど、なければ自分が落ちていたかもしれない。
沼を囲んだロープを乗り越えて沼の横に死体を置く。
二人で運んでいるとはいえ、投げ入れることは難しい。
毛布にくるんでいると浮いてしまうかもしれないと思い、毛布から取り出した。
「手伝え」
少しでも沈んで消える可能性を上げるため、カッターナイフを使って由美と二人で衣服も全て剥ぎ取った。
そして。
――沼に、死体を落とした。
落としてからしばらくすると体の半分が沈み込んで行った。
おそらく完全に沈むのも時間の問題だろう。沼の端でもかなり深いらしい。
「じゃあ。はいこれ」
田丸は死体を毛布でくるむ為に使ったロープを由美に手渡して、剥いだ服の袖や裾を縛ってあたりに落ちている石を詰め始めた。
「えっと。これで石を縛ればいいのかな」
田丸の行動に合わせて由美が確認を取った。
「はあ? 何言ってんだ。俺のこと好きなら、今すぐそこら辺で首吊って死ね」
石を詰め終わった衣服を沼に投げ込みながら言う。
石の重さで服はすぐに沈んで行く。田丸の声は冷たく、そして、本気だった。
命令される快楽を覚えた由美は反論することも、返事をすることなく、近くの木に登りロープを括り付けた。
「ねえ、本当に私が死んだら仁は嬉しいの?」
「嬉しいよ。由美が死んでくれたら、また由美を好きになれる気がする」
田丸の表情は一切変わることはない。ただ飄々と言葉を紡ぎ出すだけだった。
「分かった。じゃあさ、担ぎ上げてくれない? 首に縄かけるの手伝ってほしい」
「それじゃあ俺が殺してるのと変わらない。いいからお前は首に縄をかけて飛び降りればいい」
「そっか。残念だなあ」
由美は、田丸の言う通りに首に縄をかけて、木の上から飛び降りた。
しかし、括り付けた木の枝が由美が落ちる衝撃に耐えられず、折れてしまった。由美は盛大に尻餅をつく。
「何やってんの? もう一回。飛び降りたら折れるみたいだから、今度は石でも積み上げてゆっくり首吊って」
「ごめん……」
心配する様子もなく、次の自殺を提案した。
由美は静かに石を積み上げて不安定な足場の中ロープを枝に括り付けた。
輪っかに首を通して、田丸の姿を見る。田丸はじっと由美を見ていた。
「ねえ、仁。私、死なないとダメ?」
「それが俺は一番嬉しい」
「私は仁と一緒に生きたいよ……」
「俺は、由美が死んだら、また好きになれると思うから。だから死んでくれ」
「仁。私あやま」
由美の足元に積み上げられた石の土台が崩れて足が地面につかなくなった。
息ができない、ロープで首が圧迫されて意識が遠のく。由美は足を大きくバタつかせてもがいた。
助けてほしい。
今すぐ抱きかかえて、首を絞めるロープから私を解き放ってほしい。
いくら由美がそう思っても、もう声は出せない。
首にはロープを外そうとした爪痕で血が滲んでいた。
田丸はその姿をしばらく見た後、沼を確認する為に、後ろを向いた。
もう、由美は放っておいても死ぬ。田丸にとって重要な問題は菜穂の死体だった。
由美はしばらくもがき続けた後、ぐったりと重力に身を委ねた。
先ほどまで動いていた反動で、死体となった由美の体は左右に揺れていた。
――もう、絶対にしないから。仁の言うことだけを聞いてるから。
由美の最後の思いは、仁には届かなかった。
菜穂の死体もいつの間にか消えている。
ヘッドライトは一度も途切れなかった。
由美もここで、自殺をした。
明日から昇格した一社員として何事もなく生活できる。
家に帰ればまずはトイレ掃除をしよう。
それから明日は帰りに毛布を買って帰ろう。
晴れ晴れとした気持ちが、田丸の足を沼から車の元へと踏み出させた。
そこで、左足の違和感に気づく。
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――何かに、掴まれている。
気づいた時には前方に体は倒れ、枯れ木の落ちた地面に顔を打ちつけていた。
ゆっくりと強い力で沼へと引きずり込まれていく。
――何に、誰に足を掴まれている?
田丸の足を掴んでいる謎の手をどれだけ蹴って引き剥がそうとも、手にまとわりついている泥が潤滑剤になり、滑ってうまく引き剥がせない。
暗闇の中かろうじて見えるのは泥まみれの手だけで、姿は全く見えない。
由美はそこで自殺していて、菜穂は泥の中に沈んで消えた。
二人とも確実に死んでいて、田丸以外に人間はいないはずだった。
次第に田丸の体は沼の中に沈み始める。もがけばもがくほど沼の底へ沈んでいく。
田丸が今いる位置には菜穂の死体があったはずだ。
しかし、菜穂の死体は無い。
あるのは冷たい水と生暖かな泥だけだった。
「仁くん、私と一緒に、死んでくれるよね」
何かに足を掴まれた田丸は沼の奥底に沈んでいった。田丸の頭が沈む直前、耳元で聞こえた声は、確かに〝菜穂〟の声だった。」
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『パンッ』
沙羅が両手を叩いた音で、現実に呼び戻される。
生暖かい空気を足元に感じて自分も沼に沈み込んでいる気分になっていた。
頬を伝う汗をぬぐい、生唾を飲み込んだ。沙羅に支配されていた意識と視界がやっと自分の思い通りになる。
気がつけば、車内の窓にはいくつもの水滴がつき、流れ落ちていた。一体沙羅が話し始めてからどれだけの時間が経ったのだろう。
「飲む? 喉乾いたでしょ」
沙羅が小さい水筒を肩掛けカバンから取り出して、カップになっている蓋に中身を注いだ。
苦手な怖い話を聞いたからか、確かに喉が渇いていた。
暗い車内で手渡された飲み物は目視では何か分からず、匂いで確かめる。
「これしかないの?」
「ごめん、これしか持ってこなかったの。バームクーヘンに合うかと思って」
友達の好意ならば仕方がない。
その行為を蔑ろにはできないし、喉の渇きも潤したい。私の膝の上に乗っているバームクーヘンに合うのは間違いない。
私はしぶしぶ冷たいコーヒーで喉を潤した。
加糖か、最悪微糖くらいの甘さのコーヒーを期待していたのだが残念ながらブラックコーヒーで、咳き込みそうになる。
コーヒー特有の苦味と酸味が喉にまとわりつき、水が欲しくなる。
「お母さん、ちょっと暑すぎるかも。エアコン切ってくれる?」
「うん」
沙羅とは正反対のテンションで沙羅のお母さんが車のエアコンを切った。
沙羅が上着を脱いだのに合わせて自分も借りたコートを脱いだ。
沙羅のお母さんはいつもこの調子だ。
挨拶をすると返事はしてくれるが、それ以上の会話はない。
今のように長時間同じ空間に居合わせることがよくあるのだが、沙羅との会話すらほとんどなく『うん』と返事するところ以外を私は思い出せない。
窓の内側の水滴には、車外の光が差し込み、赤に青に黄色にと輝いていた。
どうやら沙羅のホラーを聞いている間に高速から降りたらしい。
沙羅から許可を得て、窓の水滴を沙羅から借りた妙な柄のハンカチで拭き取った。
今はぽつぽつと民家のある山道を走っていた。
民家と言っても現在人が住んでいるのかどうかはわからない。
舗装していないのか、手入れが行き届いていないのか、荒れた道路に車が大きく揺さぶられる。
「ねえ、さっきの話。怪談よね?」
沙羅の怪談ではあまり聞かない、人間的な怖さが強い話。
沙羅が普段する怪談のほとんどが、文字通り怪異がメインの話で、今回のような類の話をすることは珍しい。
今までの怪談の中に、あっても三、四回。
特に、最後の最後、取って付けたようにホラー要素があるような怪談は初めてな気がする。
いつもは〝その場所でどのような怪奇現象が起きたか〟そう言うものが話のメインになっている。
――まさか、突然リアルな人間の怖さにも手を出したと言うのだろうか。
ホラーも嫌だが、人間の怖さだって嫌だ。
人間だろうが心霊だろうが、怖い話なんて聞きたくもない。
この女は薄暗い道を歩く時、前から歩いてくる人や、後ろについて歩いている人が怖くなったりしないのだろうか。
『今、前から歩いてくる人の顔や足は本当についているのだろうか』
『背後から聞こえてくる足音。振り返った時、そこに人はいるのだろうか』
何度も沙羅から怖い話を聞かされ、私の思考回路は沙羅に呪われた。
それをあろうことかこの女はリアルな怖い話をすることで、思考回路の呪いを強制的に嫌な方向にアップグレードした。
『今、前から歩いてくる人は、私を襲ってくるのではないだろうか』
『背後から聞こえてくる足音。振り返った時、私は殺されてしまうんじゃないだろうか』
「ねえ、沙羅。続きはないの? もっとホラーになるんでしょ」
「……」
沙羅の薄気味悪い笑顔が窓の外から時折差し込むオレンジ色の街灯の光で照らし出されるばかりで返事が返ってこない。
「ねえ、聞いてんの?」
何度か沙羅に話しかけたが、車の進行方向を見てにこにこするばかりで返事は返ってこなかった。
諦めて私も前を向いた。
――絶対にわざとだ。
沙羅に無視をされたことにより、不安が大きく膨れ上がっていた。
荒れた道を抜け、しばらく綺麗に舗装された道を進んでいた車がゆっくりと右に曲がり、二〇〇メートルほど進んだあたりで砂利道に入った。
タイヤで小石を踏む音が座席を通じて伝わってくる。徐々にスピードの落ちていく車はついに停車した。
「お母さん、ありがと」
シートベルトを外した沙羅が、運転席の方に身を乗り出して言った。
それでも沙羅のお母さんから大きな返事は返ってこず、毎度のことながら私にはほぼ聞こえないくらいの小さい声で『うん』と返事をした。
あまりにも人間味を感じない沙羅のお母さんは、生きているのだろうかと不安になる。
バックミラー越しに沙羅のお母さんの顔を伺うと、視線を正面に向けたまま微動だにしていない。
――私は、考えるのをやめた。
「じゃあ行こっか。外寒いから冷えないようにちゃんと着ておいてね」
もう沙羅の一言一言に裏を感じて仕方がない。
少し汗ばんだパジャマの上から沙羅に借りたロングコートを羽織った。
小中学生の時に着ていた服を今だに着ているお洒落に無頓着な沙羅からすれば、このコートは異常にオシャレで高価だ。
見た目でもわかるが、素材がカシミヤともくれば高級も高級だろう。高価なブランドには詳しくないけれど、きっとこのブランドの服は高い。
しかも、サイズは私にぴったりときた。
前ボタンが普段とは違い右についていて少し驚いたが、おそらくこのコートは男物なのだ。
おしゃれ無頓着の沙羅には男物と女物の見分けがつかないのだろう。この辺りはまだまだと言える。
しかし、私をバームクーヘンで釣るだけでなく、わざわざ私の寒さ対策のために、良いコートを用意する。
金持ちの考えることも、沙羅の考えることもわからない。
大体沙羅が金持ちなのかどうなのかも実のところは知らない。
――とはいえ、いくら考えても真相はわからないし、どうせ沙羅に聞いても答えてくれるとは思えない。
答えてくれるようなことならば、私はもう知っている。
誰に見せるわけでもないのに、私は髪を手ぐして整えて車の外に出た。
ドアを開けた瞬間吹き込んできた冷たい風が、コートの隙間から入ってくる。
コートと汗ばんで肌に張り付くパジャマの間を通り抜ける風が汗を冷やして体温をぐっと奪う。
どれだけ良い物を着ていようが、下は汗で張り付くパジャマだ。明日は風邪を引くかもしれない。
寒さで震える自分の体を自分の腕で抱きしめつつ、手に息をはきかける。
白く色づいた息が暖かい。
周りを見渡すとそこは森のような場所で足元は予想通り砂利が敷き詰められていた。
目線の少し先には二本の街灯が門のように立っていて、ここから先が公園だと教えてくれた。
目には見えない不穏なオーラが公園の入り口を取り巻いているようにしか思えない。
――きっと住宅街とは違う山の中で、しかも寒いせいだろう。
怖さを抑え込むために、無理矢理に理由を考えて自分を言い聞かせた。
「あっ! 千花、まだ上むいちゃダメだよ! お楽しみだから!」
神妙に辺りを見渡している私に、私に続いて降りてきた沙羅が車のドアも閉めず、少し焦り気味に私の着ているコートの裾を掴んだ。
そんな顔でダメだと言われると上を向きたくなる。
――しかし、ここまで来たのだ。星が見えると信じて、最高のポジションで星空を見たい。
上を向いた瞬間に星空が見えなくとも、その瞬間までは楽しみでいたい。
――星空が見える確率など、皆無に等しいだろうけど。
寒さと怖さで震える足を抑え込み、私は一切空が見えないように下を向いた。
「お母さん、じゃあ一時間後に迎えに来てね」
沙羅が車のドアを閉めると、車はどこかへ行ってしまった。
車外にいると、沙羅のお母さんの返事は全く聞こえなかった。本当に迎えにきてくれるのだろうか。
「寒いでしょ。はい、あったかいコーヒー」
別の小さい水筒を肩掛けカバンから取り出した沙羅が、コーヒーを淹れてくれた。
星空の光だけが照らす暗闇のなか、コーヒーの湯気がコップからゆらゆらとゆらめいている。
空が見えないようにゆっくりとあったかいブラックコーヒーを飲み干した。
コーヒーがコップを持っていた私の手のひらと、体の芯を温めていく。
「少し歩いたとこだから、さっ、行こうか」
沙羅が私の右手を掴むと、そのまま引っ張って歩き始めた。
この光景を今、星明かりの中誰かが見たとしたら、きっと微笑ましいカップルに見えるのだろう。
しかし、残念ながら私達は同性で、残念ながらホラースポットに連れて行かれているだけなのである。
たとえこの手が私をホラースポットに導く手であっても、暖かい沙羅の手だけが心の拠り所だった。
――人間って、本当に素晴らしい。
公園。
と言うだけあり、二本の街灯の門を抜けると、足元は綺麗にコンクリートで固められていた。
上を見られない私は、足元をしっかりと確認し転けないように沙羅に引っ張られる。
何度か段差を登ったり、傾斜の低い坂を歩いたりしていると、沙羅が急に立ち止まった。
急に止まるものだからぶつかってしまう。足も踏んでしまった。
「あいてて。ごめんごめん、着いたよ。目をつぶって、上を向いて」
目を開けたとき、目の前に本当に星空が広がっているのだろうか。
流石に建物の中に連れてこられていることはない。下を向いていたからと言ってもそれくらいはわかる。
――でも、だからと言って、ここが外だからなんだと言うのだろうか。
目を開けた時に私の目の前に星空が広がっている保証はどこにもない。
上を向くのが近づくに連れて心の奥底に押し込んでいた恐怖心が浮かび上がってきた。
考えないようにしても、頭がどんどんいろんなことを考える。
沙羅の片手は今私と繋がっている。
――じゃあ、もう片方の手は?
もう片方の手で、何か呪われた道具や、心霊写真なんかを目の前に持ってきているかもしれない。
いくら沙羅と身長差があるとはいえ、自撮り棒か何かを駆使すれば、私の目の前に持ってくることくらい簡単にできる。
この女は私を怖がらせることにかけては手を抜かないのだ。
このまま手を振り払って逃げてやろうかと思ったが、残念ながらここがどこだかもわからないし、私を置き去りにして闇の中に走り去った車はどこに向かったのかもわからない。
――用意周到というわけだ。
本当にこの女は抜かりのないやつだ。
ここまできたらもう逃げられない。何もかもを諦めて目をつむってゆっくりと顔を空に向けた。
「目。開けていいよ」
沙羅が私の右手をぎゅっと握りしめた。
逃さない……ということか。
望むところだ。
私だってもう覚悟はした。今更逃げることも、隠れることもしない。幽霊でも怪奇現象でもなんでもかかってこい。
そんなものは存在しないと否定してやる。
私は潔く、ゆっくりと、ゆっくりと、目を開いた。
少しずつ目の奥に光が差し込んでくる。ぼやけた視界は暗く、明るい。
――目の前には、綺麗な星空(が広がっていた。
「綺麗……」
雲ひとつない快晴の夜空。
黒というよりも藍色に近い色が空を塗りあげている。
その藍色の空に無造作に散りばめられた白や黄色や橙色の小さな粒の一つひとつがその場できらきらと光輝いている。
すっ……。と夜空を通る光の筋が何度も見えた。
こんなに鮮明に星を見たのも、流れ星を見たのも初めてかもしれない。
あまりの壮大さに、先ほどまで胸の周りを取り巻いていた恐怖も流れ星に願い事をすることも忘れてしまう。
「今日はねー、しし座流星群が綺麗に見える日なんだって。運良く晴れてたから、せっかくだし見に行こうかなーって思って」
「そうなんだ」
沙羅にも女の子らしい部分が残っていた。
車の中で見た不気味な顔は沙羅から消え去り、今はもう、ただの可愛い女の子にしか見えない。
初めて見る壮大な星空のせいか、手を繋いでいる事に少しどきどきする。
「沙羅、なんかごめん」
ついさっきまで疑い続けていた沙羅に、謝らずにはいられなかった。
「ん? あ、千花! ほらまた光った! あっち!」
「沙羅! こっちも! 流れ星が消えるまでに願い事を三回唱えるって、こんなに流れ星が見れてるのに全然無理なのね」
「ええっ、千花ったらそんな事信じてるの? 願い事なんて叶うわけないじゃん!」
「な、なによ」
言い返そうと沙羅の方を見ると、冷たい空気に頬を赤くした沙羅が嫌味ったらしく笑っていた。
これで中身も普通の女の子ならば、女の私だって惚れていたかもしれない。
今まで沙羅に仕掛けられた恐怖体験があってよかったと胸をなでおろす。
「やっぱ水が近くにあると寒いねえ。お母さんが迎えにくるまでまだ五〇分くらいあるけど、星を堪能してようか。
レジャーシート持ってきたし、座る?さっきのバームクーヘン食べながらでも良いよ」
「あ、バームクーヘン車の中に置いてきちゃった。――ん? まって、水って?」
嫌な予感が頭から足先に流れていく。
「目の前にあるでしょ、池が。元々は小さな沼だったらしいけどね、公園にする時に綺麗にされて池になったんだって」
このタイミングの沼は最悪だ。
さっきの怪談を聞いた私の頭には、話の中に出てきた『殺人が起こった沼』としか考えられなかった。
何か言ってやりたいのに言葉が出ない。
「まあ、池の話は別にいいの。今日は〝星を〟見にきたんだからね」
『星を』のところをやけに強調して沙羅は言った。
――絶対にわざとだ。
寒さで体がぶるっと震える。コートを着ているとはいえ、足元は寒い。
「ね、ねえ沙羅?」
さっきまでいた車内との寒暖差の影響なのか。水辺の近くにいるからなのか。恐怖のせいなのか。足元がおぼつかなくなってきた。
「なあに?」
考えれば考えるだけ我慢できなくなってくる。
「トイレ行きたくなってきた」
最悪だった。
こんな辺境の地の公園にトイレがあるのだろうか。
例えトイレがあったとして、私は今からそのトイレに一人で行かなければならない。
いま沙羅についてきて欲しいなんて言うと、私が怖がっていると思われかねない。
それだけは何としても阻止しなければならない。
「あ、寒いもんね。トイレは後ろにあるよ。ほら、あそこの外灯のところ。レンガっぽい建物見えるでしょ、あれがトイレ」
暗闇の中に佇むそのトイレはオレンジ色の外灯に照らされて、仄かに存在を明らかにしていた。
「ん? どうしたの」
――沙羅は行かないの?
とは言えず、視線でなんとかして一緒に来てもらおうとしたが無理だった。
「ちょっと行ってくる……」
「うん、私は〝ここで〟星を見てるからね」
その言い方はやめてほしい。
なぜ『ここで』を強調して言う。〝帰ってきたらいなくなっている〟とか、考えてしまった。
「待っててね!」
こればっかりは強めに言い聞かせて、早足でトイレに向かった。
遠くから見ると綺麗に見えたトイレは、近づいてみるとそうでもなく、嫌な雰囲気が漂っている。
入り口の前には草の壁が作られていてトイレの中が見えない、よくある公園のトイレだった。
トイレが近づくにつれて我慢できなくなってくるのはどうしてだろう。
そろそろ限界だ。
小走りでトイレに駆け込んだ。
中の作りもよくあるトイレで、建物の左側が女子トイレになっていた。
入り口から入ってすぐ左に手洗い場が設けられていて、その横に並ぶように四つの個室があった。
「あ、ごめんなさい」
残念ながら入ろうとした一番手前の個室の中には先客が立っていて、慌ててその隣、二番目の個室に駆け込んだ。
切れかけのトイレットペーパーを使いきり、トイレを流す。
「危なかった……」
安堵で声が漏れた。
無理矢理連れてこられたため、ポケットティッシュを持ち合わせていない。トイレットペーパーがあって助かった。
それにしても、まさかこんな時間のこんなトイレに先客がいるとは……。
すぐ隣の個室が空いていてよかった。もう一歩遅かったら、漏らしていたかもしれない。
高校生にもなって公衆トイレで漏らすなんて絶対に嫌だ。
どこで漏らすのも嫌だけど……。
――先客……?
つい先ほどまで我慢することに必死だった私の頭から完全に抜け落ちていた恐怖が、帰ってこなくても良いのに帰ってきてしまった。
今までに感じたことのない恐怖が私を襲う。
このトイレを出るには一番目の個室の前を通らなければ絶対に出られない。
この個室は、その個室に隣接している。
寒いはずなのに手に汗がにじむ。
心臓が、破裂するんじゃないかと思うほど速く大きく脈打つ。
――もしかしたら、私の見間違いかもしれない。
なぜなら、私が入ってきた時、隣の個室のドアは開いていたのだ。
私が入ってから、誰かが出て行った気配も、ドアが閉まる気配もなかった。と言うことは私の気のせいに違いない。
先客がいる時には、必ずと言っていいほど個室のドアは閉まっているのだ。
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ドアが開いているのは〝出ていくとき〟か〝入ってすぐのとき〟か〝誰も入っていないとき〟の三つしかない。
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まずは一つ目の〝出ていくとき〟の場合。この場合なら必ず出ていく足音がする。
可能性としては五〇パーセントくらいは手を洗う音も聞こえるはずだ。
特にこの静かな山の中の公園。聞こえないはずがない。しかし、足音は一つも聞こえなかった。
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次に二つ目の〝入ってすぐのとき〟の場合。
入ってすぐならば、絶対にドアを閉める音が聞こえてくる。
衣擦れの音や用を足す音もこの静かなトイレの中では聞こえてくるはずだ。
しかし、これも全く聞こえなかった。
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と言うことは、必然的に三つ目の〝誰も入っていないとき〟になる。
でなければ、こんなに静かなはずがない。ただの私の見間違いだったのだ。
一番目の個室の中に、ヤンチャな青年達が女性のイラストを落書きをしていて、その落書きを私は本物の人間と勘違いしたのだ。
そうでなければおかしい。
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大きく深呼吸をして、覚悟を決める。
個室にいるだけでも怖かったが、そこはもう仕方がない。
頭の中でイメージトレーニングを繰り返す。
『個室を出て、手も洗わずに一直線にトイレを出る。トイレの入り口にある草の壁を右に曲がり、一直線で沙羅のところに走って戻る』
言い訳はどうしようか。
虫がいたとでも言おう。
寒いこの季節にこの言い訳はちょっと苦しいけれど、そんなことより早くここから出たい。
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勢いよく個室から飛び出した。
絶対に隣の個室の中を見ないように、視線を左側の壁に向けて走った。
手洗い場をスルーして外に出ると草の壁が立ちはだかる。
ぶつからないよう、スピードを落としながら右に曲がる。
あと少しで、沙羅のところにたどり着く。
しかし、曲がった先には一人の女が立っていた。
「わああっ!」
大きな声で叫んでしまう。その女性にぶつからないように体を逸らしたせいで体勢を崩し、転けてしまう。
トイレの中の白い灯りと街灯のオレンジに照らされているその女をよく見ると、沙羅だった。
恐怖に怯えながらトイレを出たら、その先に灯りに薄っすら照らされた小さい女の子が下を向いて立っている。
そんなもの、びっくりしないはずがない。
「あはは、ごめんごめん。びっくりした? 怖かった?」
――こいつ、わざとか。
わざとじゃない限りあんな所で突っ立っているはずがない。
あれだけここで待っていると言っていた沙羅のことをすっかり忘れていた。
悔しくて、倒れ込んだまま頭をかきむしった。
「びっくりしただけよ。あんたあそこで待ってるって言ったじゃない」
差し伸べられた手を掴み立ち上がる。
盛大に転けたためお高いであろうコートに砂や枯れた枝や葉っぱが着いてしまっていた。両手でぱんぱんと払い落とす。
「ごめんごめん。私もトイレー。コーヒー飲みすぎちゃって」
そう言うと沙羅はトイレに入っていった。
本当に、あいつはいちいち脅かさずにはいられないのだろうか。
それでなくてもトイレの中で怖い思いをしたのに……。
「――あっ!」
思い出して追いかけたが、ちょうど沙羅が一番手前の個室に、驚くそぶりも、何かを見たそぶりもせず入っていった。
あれ?
私の思い過ごしだったのか?
何事もなくあの個室に入っていく沙羅を見て、呆気に取られてしまった。
沙羅は自分からホラースポットに入り込んでいく習性がある。
そう考えると、もしもこのトイレに何かがいると知っているとすれば、一番手前の個室に入って行くのは理解できる。
しかし、あの沙羅が何か怪奇現象を目の当たりにして静かなわけがない。
例え落書きであっても何かしらの反応があるはずだ。
もしかすると、内心恐怖に怯えていた私は、急いでいたこともあり染みか何かを人と見間違えてしまっただけなのかもしれない。
こんなことはよくあることだ。
曲がり角で看板や電柱が人に見えたり、暗いところに何もいないのに気配を感じたり、ちょっとした物音も人の声に聞こえたりしてしまう。
特に、沙羅に怖い話を聞かされた後はその症状が顕著に表れる。
――それのせいか。
そうとわかれば一人で外にいるよりも、沙羅の近くにいる方が安心できる。
そういえば、私が入った個室はトイレットペーパーが切れかけていた。沙羅が入った個室はどうだろう。
もしもトイレットペーパーが切れていたら、どこか他の個室から取ってやらないと沙羅が困ってしまう。
「沙羅、トイレットペーパー大丈夫? 私が入ったところ丁度なくなったからさ」
心配を装って沙羅に近づいた。
「大丈夫、全然あったよ」
トイレの流れる音がする。
「千花、そんなこと言いながら私がおしっこする音聞きにきたんでしょ」
「バカ。変態か私は。私はただ心配して……」
ニヤニヤと笑いながらドアを開けて出てきた沙羅の後ろ。
トイレの中には沙羅と、もう一人。
――一人の女性が立っていた。
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――いや、立っていると言うのは間違いだった。
手足をだらんと垂らしたその〝小柄で肉付きのいい女性〟の足は床につかず浮いていて、首から出たロープが天井にまで伸びていた。
ロープの先は天井でどこにも結ばれることなく、消えている。
恐怖で声も出ない。
私はただ必死に沙羅の手を引っ張ってトイレから飛び出し、星を見ていたであろう場所あたりに戻った。
「なになにどうしたの? なんかいた?」
嬉しそうに沙羅が聞いてくる。
やっぱりこいつは知っていた。
知っていてわざとあの個室に入ったんだ。
知っていて私を、トイレに行かせたんだ。
今考えると、車内の温度もおかしい。
いくら寒いとは言え、喉が乾くほどの温度設定にするわけがない。
渡される飲み物が全てブラックコーヒーだったのもわざとだ。
何度かテレビやネットでコーヒーは利尿作用があり、デトックス効果があるとかなんとかを見た記憶がある。
今日の目的地は星が見える公園でも、過去に沼だった池でもなく、あのトイレだったんだ。
「いたの? ねえ? みた?」
「ゴキブリがいたのよ。3匹も壁に張り付いてるからびっくりしたわ」
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***
「ねえ、本当にゴキブリなの? こんな季節に? 本当は別のもの見たんじゃないの?」
帰りの車内、沙羅は目を輝かせながら私に何度も聞いてきた。
「あのね、山の中なのよ? ゴキブリくらい出るわよ」
そのゴキブリくらいを見て逃げたことになってしまうのもなんだか癪に触るが、この際仕方がなかった。
だいたい私に幽霊が見えるわけがないし、そもそも幽霊なんてものは存在しない。
だからと言って、あの場で本物の人間が首を吊っていたわけでもない。もしもそんな事があれば、大事件だ。
沙羅だって求めているのは心霊現象であって本物の死体ではないはずだ。
ならばさっき私が見たものは〝壁に描かれていた女性の落書き〟以外にないだろう。
沙羅は落書きがあることを知っていたからこそ、何も気にしないであの個室に入ったのだ。
〝いた?〟と聞いてくると言うことは、落書きではなく、何かの生き物が〝いたか〟と言うことだ。
私は落書きしか見ていない。生き物も、霊もいなかった。
だいたい、沙羅に聞いた怪談では、トイレで死んでいたのはスレンダーな菜穂だったはずだ。
しかし、私が見たのは小柄で肉付きのいい女性だった。
どちらかといえば由美の方がイメージに近いだろう。
確かに由美は最後、首を吊って死んでいた。しかし、トイレではなく沼からすこし離れた場所で首を吊って死んだ。
そんな由美がなぜトイレに化けて出るのだろう。
田丸の家のトイレで首を吊って死んだ菜穂だったならまだ理解できる。
しかし、あのトイレで見た幽霊は小柄で、間違いなく由美だった。
そこで、一つの可能性が私の頭の中に浮かんだ。
〝もしかすると、あのトイレがあった場所が、由美が首を吊った場所なのではないだろうか〟
あの公衆トイレは、池から少し離れた場所にあった。
由美が首を吊ったのも、沼から少し離れたところだ。
由美が首を吊ったその場所に、丁度トイレが建ったと考えると辻褄が合う。
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――いや、そんなわけがない。
幽霊なんて存在しない。あそこにあったものは落書きだけなのだ。
ただの落書きに驚いたと思われると笑われてしまう。
聞かれるたびに「ゴキブリがね」と女子らしい言い訳をして、家に着くまで乗り切った。
そう言えば、迎えの車はあの後すぐに来た。
「星見るのも疲れちゃったね」
といってスマホを使って簡単に呼んだのだ。
そんなに簡単に迎えを呼べると知っていたのなら、私はあんな不気味なトイレには行かず、近くのコンビニまで我慢したのに。
帰りは行きと道が違うのか、行きに比べて少し時間がかかった気がする。
とは言っても、行きは沙羅の話を聞いていた為、家から公園までにかかった詳しい時間はわからない。
帰りは帰りで行きとは違い、怪談がない分長く感じただけかもしれない。
もしかすると、早く沙羅の追及から解放されたいと思っていたからかもしれない。
いなかったものはいなかったのだ。
「そのコートもあげるね。そもそも千花のサイズだし、私には似合わないから。また何かあったら教えてね?」
何かってなんだ。
また意味深なことを言うのはやめてほしい。
「ほつれとか、穴空いてるとかさ。初期不良だったら新しいのに変えてもらわないといけないからさ?」
そんなこんなで、私がバームクーヘンとコートを手に入れて家に帰った時には零時を回っていた。
当たり前だが、家の中の電気は消え、両親はもう寝静まっていた。
リビングには、沙羅にもらったお菓子が食べ尽くされて置いてあった。
誰にも食べられないように、バームクーヘンを自分の部屋の机の上に置き、コートを脱いで使っていないハンガーにかけた。
「はあ……」
トイレに行くのが憂鬱だ。
しかし、このまま寝てしまうと絶対に夜中に目が覚めてしまう。
仕方なく階下のトイレに行く。
恐る恐るトイレのドアを開けると、中には先ほどの女性の落書きがあった。
トイレの壁にはもちろん、窓にまで落書きがされていて、その落書きは左右に揺れている。
私はそっとドアを閉め、布団に潜り込み眠りについた。
それから約二週間ほどの間、私が夜二十二時以降家のトイレに入ろうとすると、首を吊った女性の落書きがされているようになっていた。
本当に、膀胱炎になるかと思った……。
そういえば、一応と思って調べたコートは綺麗でほつれも無く、穴もなかった。
唯一あったのは内ポケットに施された刺繍。
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ローマ字で私の名前ではなく『jin』と書いてあった。
怖くなってコートを沙羅に押し返したのも、そういえばあの夜から二週間後くらいだった気がする。
作者溝端翔
『ロリ巨乳の同級生が、ホラーにしか興味がない件について』シリーズ
https://www.melonbooks.co.jp/circle/index.php?circle_id=49629
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