その日私は、大学の友人の結婚式に招待していただき、隣の県まで足を伸ばしていました。
新郎友人が集められた丸テーブルでは、懐かしい面々が顔を揃えていました。結婚式に異性の友人を呼ぶことはあまりないのかもしれませんが、在学当時人形劇のサークルに所属していた私たちは、男女問わず仲が良かったのです。
卒業してから、十年以上が経っていました。家庭を持った人も多く、最後にみんなが顔を揃えたのはもう何年前だったでしょうか。近況報告から思い出話と、話は尽きることがありませんでした。
高砂の席にみんなで集まり、呆れるほど写真も撮りました。新郎新婦への祝福やからかい、羨望など、私たちは騒がしいくらい賑やかで、学生時代に戻ったかのようでした。
ですが、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうものです。
華燭の典がお開きになると、私は現実に引き戻されました。友人のほとんどが二次会に参加するためバスに乗り込んでいく中、県外から来ており、なおかつ家で幼い子供が待つ身の私は、後ろ髪を引かれながらも帰るしかありませんでした。
名残惜しさに何度も手を振りながら、式場から少し離れた大通りでタクシーを拾おうとした時でした。
「ナギちゃん」
振り向くと、たった今別れたばかりの友人がそこに立っていました。
「ヒロくん。どうしたの?」
「帰るんやろ、駅まで送るよ。だから、少し歩かん? 今日、あんまり話せんかったし」
彼はサラリとそう言うと、私の隣に立ちました。
学生時代、彼と私は浅からぬ仲でした。早い話が、お付き合いをしていたのです。
一瞬、家で待つ夫と子供の顔が思い浮かびました。ですが、苦笑とともにそれを打ち消します。
私がそうであるように、彼にもまた家庭があるのです。妙な邪推は失礼というものでしょう。
私は了承すると、並んで歩き始めました。
nextpage
「二次会はいいの?」
「場所知ってるから、後から行くよ」
「この辺も、すっかり都会になっちゃったね」
隣県の田舎出身の私からすれば、高いビルが立ち並ぶこの街は、学生当時から大都会でした。ですが、あの頃はなかったはずの建物や賑やかしい看板が増えた今は、方向感覚もわからなくなってしまうほどです。
辺りはもうすっかり暗くなっていましたが、地上の明かりにかき消されるように、空を見上げても月も星も見当たりませんでした。
「ナギちゃんは、ずっと地元だっけ?」
「そうだよ。卒業して地元で働いて、そのまま結婚しちゃった」
「たまにはこっちに遊びにおいでよ」
「そうだねぇ。でも、子供がもう少し大きくなったらかなぁ」
私は、やんちゃ盛りで少しもじっとできない息子の顔を思い浮かべながら、生返事をしました。
「子供、手が掛かるん?」
「こんなとこ連れてきたら、はしゃいじゃってきっと大騒ぎよ」
「元気でいいやん」
「まぁね。…それにしても、ヒロくんとこんな話ができるようになるとはなぁ」
私がそう言うと、彼も苦笑しました。
「俺たち、ずっとギクシャクしてたもんな」
私たちが別れたのはお互いが嫌いになったからではなく、言いたいことを上手く口に出せない二人の関係が、どうしてもこじれてしまったからです。顔を合わせれば泣いたり、喧嘩をしたり。二人とも、「彼氏彼女」という関係に疲弊してしまっていたのでした。
ですが、それを解消したところで物事がスムーズに運ぶわけはなく、結局卒業するまで、どこか気まずい関係の二人だったのです。
それでも私がサークルを辞めなかったのは、彼と顔を合わせるのは苦痛な反面、嬉しくもあったからでした。
それも昔の思い出と、私たちが笑って穏やかに会話できるようになったのは、今ではお互い別の伴侶を迎えて、幸せな生活を送っているからでしょうか。
「卒業して、もう十二年? 最後に会ったのいつだっけ?」
「ほら、俺の…」
「やだ、ヒロくんの結婚式には、呼んでくれなかったじゃない」
「…呼ばれんやろ。だってナギちゃん、泣いたら困るやん?」
「なによそれ。まぁ私の時も、ヒロくんが暴れたらいけないから、招待しなかったんだけどね」
私たちは、顔を見合わせて笑いました。
ふと、前から来た人を避けようと、私は少しだけ彼の方に身を寄せました。偶然に触れた彼の右手が、そのまま私の左手に絡まってきます
それは、私の記憶の中にあるそのままの手でした。少し冷たく硬い手のひら。野球していたからできたという、中指と薬指の付け根の大きなタコ。長い指。
頭の片隅で「振り払わないと」と警告が鳴っていましたが、なんだか胸がいっぱいになってしまって、手を繋いだままゆっくりと歩きました。どうせ駅までなんだからと理性を納得させ、この甘美な瞬間に身を委ねていたかったのです。
「…このまま、一緒にいけたらな」
ポツリと彼が呟きました。
気づけば、もう大きな駅ビルの正面口にたどり着いていました。
「ありがとう、ここまででいいよ」
「ちょっとお茶でも飲んでかない?」
「私も一緒にいたいな」
頭の中で色々な言葉がグルグルと周り、パチンパチンと泡のようにはじけていきました。
言うべき一言が見つからず、彼の方に向き直ろうとした時です。
「おねえさん、ちょっと寄っておいきよ」
そんな嗄れた声のする方に顔を向けると、そこには一人のおばあさんが、小さな机の前にちょこんと座っていました。おいでおいで、と私に手招きをします。
私は、まるで糸に引かれるようにフラフラとおばあさんの方に近づいていきました。彼とつないでいた左手は、あっけないほどスルリとほどけてしまいました。
「私ですか?」
「そうだよ。そこにお座り」
私は促されるまま、おばあさんと机を挟んで向かいあいました。
おばあさんは優しく私を見つめ、やや間を空けてからしみじみと口を開きました。
nextpage
「あんたは、彼のことがとても好きなんだねぇ」
「……」
「彼の話を、私にも聞かせておくれ。大丈夫、他の誰にも言いやしないから」
後ろで待たせているはずの彼はなにも言ってきません。ですが背中にはずっと、彼の視線を感じていました。それはとてもあたたかいものでしたが、なぜか振り向くことができませんでした。
この見ず知らずのおばあさんの言葉を、不思議なことに私は一つの疑問も抱かず受け入れました。そしておばあさんの言う通りに、彼の話を語り始めたのです。それはまるで、子供に絵本を読んであげる時のような、穏やかな気持ちでした。
夫と子供にそそぐ愛情とは別に、ずっと彼が私にとって特別だったこと。
初めて会った時は、単なるお調子者としか思わなかったこと。時間をかけて少しずつ好きになっていったこと。彼から好きだと言われた時の喜び。一緒にあちこち出かけた時の楽しさ。
彼の前では格好をつけて、落ち着いた大人の女性として振る舞いたかったこと。交友関係の広い彼に面倒くさいと思われたくなくて、ヤキモチを押し殺していたこと。私が言いたいことを言わずにいるのが彼には気に食わず、だんだん二人の仲はぎこちなくなっていったこと。
別れても、彼のことが忘れられなかったこと。お互い同じ気持ちで、なし崩しに何度か身体を重ねたこと。それなのに再び付き合うことは怖くて、二度目の告白を断ったこと。
卒業して会えなくなってからも、彼のことが忘れられなかったこと。
自分の結婚式の朝と、彼の結婚を知った夜に、一人でこっそり涙を流したこと。
今日久しぶりに顔を見た時、本当は泣きそうになったこと。
話しているうちに、涙が溢れて止まらなくなりました。
おばあさんは優しい顔のまま、私に問いかけました。
「彼と、最後に会ったのはいつだったんだい?」
まるで喉に蓋をしたように、私は言葉が出てきません。それでもおばあさんに答えなくてはと、強く感じました。
そしてようやく、かすれた声で言いました。
nextpage
「━━かれの、おそうしきです」
「…そうだね。彼はもう、亡くなっているんだね」
nextpage
頷く私の頭の中で、いくつかの風景が忙しなく移り変わっていきました。
彼が交通事故で亡くなったと連絡がきた夜。
棺の中でまるで眠っているような、私の記憶の中よりも少しふっくらとした彼の顔。
青ざめた彼の奥さんの、赤い目からこぼれ落ちた涙。
今日の結婚式のテーブルで、一つだけ空いた席に置かれていた彼の写真。
「あいつも来てくれたらよかったのに」と、小さく鼻をすすった新郎。
涙がとめどなく溢れる私を見かねてか、おばあさんの後ろに控えるように座っていた青年がハンカチを貸してくれました。
「あんたと同じように、彼もあんたのことが大切だったんだね。今日会えて、喜んでるよ」
おばあさんは、私の後ろにチラリと視線を移しながら続けました。
「だけど、ここまでにしなきゃね。生きてる者同士と同じで、欲しいからといって求め続けると、後戻りができなくなるよ。お互いにね」
「後戻り…」
「そう。うちに帰れば、待ってる人がいるだろう。彼だって、このあと行くところがあるんじゃないかい?」
私よりも先に、後ろの彼が頷く気配がしました。
振り返ると、そこにはもう彼の姿はありませんでした。ただ行き交う人々が、それぞれの家路に着くため忙しく足を動かしていました。
「もう、彼には会えないんでしょうか?」
呟くようにそう尋ねると、おばあさんはいたずらっぽく言いました。
「じきに会えるよ。ただそれまでは、夢で逢瀬を重ねるくらいで我慢しなきゃね」
・・・・・
nextpage
あの不思議な夜から数日が経ち、いつも通りの慌ただしい生活を送る私のもとに、友人から連絡がありました。
なんでも、あの日撮った写真のあちこちに、死んだはずの彼の顔が映っていたというのです。
送ってもらった数枚の写真には、まるでそうするのが当たり前のような顔をして、みんなの輪の中に入る彼の笑顔がありました。披露宴のみならず、二次会の写真にまで写り込んでいます。
そういえば二次会にも参加するって言ってたなぁと、なんだかおかしくて、私は笑いながら涙を拭いました。
作者カイト