「ねえ! 千花(ちか)! これ見て!」
冬休みまであと一週間と二日。和気藹々と各々が好き勝手時間を潰す高校の休み時間。
トイレを済ませた私がハンカチで手を拭きながら席に戻ると、前の席の親友〝東沙羅(あずまさら)〟が目を輝かせながら私にスマホの画面を突きつけてきた。
スマホの画面と私の顔との距離はおよそ3センチもなく、どれだけ目を凝らしても画面に映されたものが見えるはずがない。
「ツイッターで見つけたんだけどさ! これすごくない?」
「ちょっと落ち着きなさい。これじゃあ見えるものも見えないわよ」
ただただ眩しい光を遠ざける為、沙羅の細い腕を掴みスマホを遠ざける。
スマホに映し出されていた画像は、何かよくわからない奇妙な生き物のような物体だった。
しかも、その物体は生きているようには見えない。
おそらく生き物であっただろう毛の生えているような見た目をしたその物体は、長い年月が経っているのが一目でわかる。何かのミイラだろうか。
――控えめに言って気持ち悪い。
見てはいけないものを見た気がして胸がざわつく。
なぜかはわからないが言い知れない罪悪感のようなものに苛まれた。慌てて沙羅の手を押しやってスマホを遠ざける。
沙羅がロリで巨乳の可愛い容姿とは裏腹に、大のホラー好きという偏屈な趣味を持っているのは知っている。
しかし、今の写真に写っていたものは何だかよくわからない。
とにかくホラーというよりも、不気味な生き物の死体のようなもので、死骸収集も趣味に追加したのかと、呆れ果ててかける言葉も出てこない。
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「猿の手って知ってる?」
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沙羅のそのたった一言で、私は画像に写っていたものの正体を把握してしまった。
〝動物の手〟といえば、聞く人によっては犬や猫の手を連想し肉球など可愛らしいイメージが思い浮かぶと思う。
私も、話し相手が沙羅でなければ女子らしく可愛いキャラクターもののお猿さんの手を連想することが出来る。
しかし、怪談好きでホラー好きの沙羅の口から出る猿の手はそんな可愛いものではないのだ。
そもそも私に可愛いものの話をしたことが一度でもあっただろうか。いや、おそらく私以外にもない。断言できる理由は色々あるが、その最たるものは沙羅の私服事情だ。
沙羅の私服をみれば誰しもが私と同じ結論に至ると思う。沙羅は、可愛い動物やキャラクターではなく、長い黒髪で白いワンピースを着た女が直立している写真がプリントされた服などを好んで着ているのだ。
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そんな彼女が口走った『猿の手』と言う言葉。
――私はその正体を理解した。
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イギリスの小説家、W・W・ジェイコブズが一九〇二年に書いた怪奇小説『猿の手』。
猿の手に願いをかけると、歪んだ形で願いを叶えてくれる。という曰く付きの代物だ。別に、私の思考が普段からホラー寄りなわけでは決してない。沙羅の話し方が、私の思考をホラーに偏らせているのだろう。
彼女の話に私は魅せられてしまった。
「知ってるよ。あの……」
「まあ聞きなさいって」
沙羅は私の返事をさえぎった。
休み時間の教室の中、言い知れない緊張感が私と沙羅を取り囲む。
現在は五限と六限の間の休み時間。今日の休み時間も残す所あと半分しかない為、クラスメイト達は張り切ってお喋りやスマホゲームに興じている。
そんな楽しげな休み時間。周りの話し声が聞こえるはずなのに、今の私には沙羅の声と自分の心臓の音しか聞こえない。
沙羅のくりっとした大きな黒目に映り込んだ私の表情が恐怖心を煽ってくる。
しかし、今回ばかりは私も怖くない。何故なら私は『猿の手』という話を知っているからだ。
知っている話をされて怖いはずがない。
大丈夫。
深呼吸をしようと深く息を吸い込むと同時に彼女のゆっくりとした低いトーンの声で怪談話がはじまった。
――まるで私の覚悟を打ち砕くように。
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「『猿の手』と言ってもね、ぬいぐるみみたいにふわふわしてないし、アニメみたいに可愛くもない。
この〝猿の手〟っていうのは、ミイラなの……。
おそらくは本物の猿の手のミイラ。肘から手首までは毛に覆われていて、干からびた指は細い。
一見すると木の枝のようにも見える。何百年前のものなのかわからないけれど、それは確かに〝猿の手〟と呼ばれていた。
その猿の手は『一生の内に三つだけ』なんでも願いを叶えてくれる不思議な代物だった。
でも、そんな得体の知れない猿の手が何の代償もなく願いを叶えてくれるわけがない。
『願うだけでただただ好きな願いを叶えてくれる』なんて都合のいいものなんかじゃなかったの。
妻子を持つ太田登(おおたのぼる)は、借金に悩んでいた。
軽い気持ちで借りた〝二十万〟が、返済時には〝二百万〟払えと言われてしまった。今となっては〝三百万〟という額に膨れ上がっている。
悪徳な高利貸しから二十万を借りるほどの彼には、三百万という大金は到底払えるものではなかった。
毎日のようにかかってくる催促の電話、週に二度は必ず訪れる集金の男たち。妻の実咲(みさき)も、一人息子の咲登(さくと)も日に日にやつれていった。
そんな時、彼は猿の手を手にすることになる。
よく晴れた日曜日。集金から逃れるため、家からかなり離れたところで開催しているフリーマーケットに行ったときのことだった。
『良いものが、安い価格で売っている』
今の太田にとって、安いという言葉は心地のいい響きで、吸い寄せられるように妻を連れてフリーマーケットに向かった。
そのフリーマーケットの情報は、誰かに聞いたのか、テレビでやっていたのか思い出せなかった。思い出せたのは耳から得た情報だということのみ。
しかし、太田にとってそんなことはどうでもいいことだった。
〝経済的で、安いものが買える〟
その事実だけが、今の彼にとっては重要なことだった。
ひとつひとつの店を丁寧に見てまわる。
ブルーシートの上に広げられた食器や、簡易的な物干しに掛けられた衣類が売られた店に、大きなプラスチック製の衣装ケースをいくつも並べて、中に詰め込んだ衣服を売る店。
どこの国かわからない絵やアクセサリーを売る店に、昔のおもちゃからつい最近のおもちゃなど並べて売る店。
そのほとんどが安価で、高くても二〇〇〇円。大体が五〇〇円を下回るようなものばかりだった。
もちろん中には値段が張るものも置いてあり、万は超えないにしてもそれに近しい値段の骨董品も多く売られていた。
――見るだけならタダだ。
眺めるだけでも、何かご利益がある気がする。到底買うことのできない古き良き骨董品を太田は手に取らずじいっと眺めていた。
「あんた、こういうの好きなのか?」
えらく真剣な眼差しで骨董品を見ていた太田に興味を持ったのか、店主が話しかけてきた。
どこか聞き覚えのあるような声をしている店主は、夏場だというのにハットを被りマスクをつけていて妙に胡散臭い。
「いえ。なんだか素敵だなあと思って」
良いように言いくるめられて何かを買わされないようにと太田は身構える。
「古いものって良いですよね。この一つひとつが過ごした時間が、たったこれだけの大きさに詰め込まれているんです。見ているだけで自分の知らない過去を教えてくれるような、そんな感覚が私は好きなんですよ」
しかし、太田にはその感情はわからなかった。
一つ四〇〇〇円もする壊れて動かない置き時計や、天秤のようにも見えるが載せる場所が一つしかない謎の道具。何に使うかもわからないのに六〇〇〇円もする道具。
他にも色々あったがそのどれもが彼には全く必要のないものだった。
太田からしてみれば、壊れたものにお金を使うくらいなら、家族との外食に使った方が楽しい時間を家族と過ごせてより有意義なものではないかと思えた。
「ところで。失礼なのですが、どこかで会ったことありますか? 聞き覚えのあるような声だったので」
その場を離れる挨拶がわりに太田は無礼を承知で店主に尋ねてみることにした。
やはりどうにも聞き覚えがある声だったし、もしかすると昔の知り合いかもしれない。そうだとすれば借金の工面を頼む事も出来るかもしれないと思ったのだ。もし違えば、話しの流れでここから離れることもできる。
「あはは、よく言われるんですよ。今日もあなたの前に二人ほど聞かれました。私の声に似てる人ってそんなにいるんですかね」
骨董品の店主はハットを深くかぶり直しながら、笑って答えた。目線が隠れて怪しい雰囲気が増した。
「すいません」
「いえいえ、お気になさらず。あ、そうだ。これどうですか?」
太田が警戒していた店主の立て板に水のようなセールストークが始まってしまう。
「骨董品なんですけど、気味が悪いと誰も買っていってくれなくて。私自身、二年ぐらい前に手に入れたんですが、だんだん気味が悪くなってきちゃって。
猿の手って言うらしくて、この手に願い事をすれば三つだけ願いが叶うらしいんですよ。
売り物ですから私は試したことはないので、真相は定かではないですけどね。いっその事、私の手から離れるように願ってみようかな……とか思っているんですよ」
店主が背後から引っ張りだしてきた木箱の蓋を開けた。
その木箱は何年……いや、何十年前の物なのだろうと思うほどに風化していて、中に入っていた猿の手とよばれたものは毛の生えた細い木のようなものだった。
「いや、えっと……」
「どうです? もし貰っていただけるのなら、この時計もつけますよ」
店主は『貰っていただけるのなら』と言った。
話の流れ的に、太田はてっきり売りつけられると思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
この猿の手とやらをそうとう手放したいのか、先ほど太田が見ていた時計もつけると言うのだ。
生活や借金返済の足しになる現金ではないものの、その時計についている値札には四〇〇〇円と書いてある。おそらくそれくらいの価値があるものなのだろう。
さらに願いが叶う可能性のある猿の手が手に入るなら貰う以外の選択肢はない。
猿の手とやらの見た目は確かに気味が悪いが、部屋に飾れば意外と馴染むかもしれない。時計なんかは確実にインテリアとして使えるだろう。
猿の手は使えなければ捨ててしまえばいい。
「もらいます」
「ありがとうございます! やっと手放せました! 本物とか偽物とか関係なく捨てるに捨てれなかったんですよ。わかります? 人形を捨てられないみたいな、あの感じですよ」
何を買うでもなく、ただ物をもらうだけだというのに感謝までされた太田は、なにか人助けをしたようないい気分になった。
「じゃあ、これも入れときますね」
猿の手が入った木箱を紙袋に入れた後、四千円の時計もちゃんと入れてくれた。
「せっかくだからこれも入れときます。二年間の苦しみから解放していただいたお礼です」
店主は何に使うか、そもそもその形で完成品なのか、パーツが足りていないのかもわからない三〇〇〇円の値札のついた何かも入れてくれた。
合計で七〇〇〇円分の骨董品と願いを叶えてくれると言われる猿の手が手に入った。そんな幻想を信じているわけではないが、借金取りから逃げている太田はわずかな可能性に魅せられてしまった。
「いろいろおつけしてもらってありがとうございます」
「いえいえ、お互い様ですよ」
太田は木箱と骨董品が入れられたナイロン袋を受け取り、その場を後にした。
しばらく色々な店を見て回っていると、別行動をしていた妻と出会った。
手にぶら下げている大きめのナイロン袋に「あなた見るだけって言ったじゃない!」と怒られたが、貰ったものだと説明すると渋々納得した様子だった。袋の中から貰った時計を取り出して見せると、見た目が気に入ったのか実咲は少し機嫌が良くなった。
それから太田は妻と二人で残りの店を見て回り、ある程度時間を潰してから家に帰った。
家の周りに借金取りがいないのを確認してから車を止め、家に入る。息の詰まる家に帰ると、さっそく貰った時計と何かよくわからない物を飾った。
部屋の緊迫した空気が少し緩んだ気がした。
――やはり貰って正解だった。
太田はまだ誰にも見せていない猿の手を、虫に食われた跡のある茶色く汚れた木箱から取り出した。
見た目に反して硬い毛が手に刺さる。いかにも簡単に折れそうな指なども思ったより硬く、作り物のような感じがした。
あの店主は願いが三つだけ叶うと言っていた。
本物かどうかはわからないとも言っていたが、彼にはどちらでも良かった。
何度でも言うが、この〝猿の手〟が本物なら運がいい。偽物なら偽物で、飾ってみて気味が悪ければ捨てればいい。
なにせタダで貰った物だ。
ちょうど今、妻の実咲はお風呂に入っていて、息子の咲登は自室にいる。
この猿の手を気味悪がられることも、猿の手にすがっている自分の姿も今なら誰にも見られることはない。本物か偽物か、確かめるチャンスだ。
そして彼は猿の手に願った。
――借金を返済できる金額『三百万』が欲しい……と。
***
翌日、仕事をしていた太田の元へ一本の電話がかかってきた。
「――息子さんが交通事故に遭い、亡くなりました」
急いで上司に事情を話し、仕事を切り上げて警察署に向かった。
太田が警察署に着きロビーに入ると、先に来ていた実咲が俯いた状態で座っていた。
「実咲……!」
もう説明を受けた後なのか、酷くやつれた顔で通路の奥を指差した。美咲に泣いていた様子はなく、目に涙は出ていなかった。
受付に詳しい場所を聞き、妻の指差した通路を進んでいくと警察官が立っていた。その警察官に小さな部屋に連れて行かれる。
「息子さんは交通事故に遭い、亡くなられました。
交差点を渡る際、信号無視をした軽トラックにはねられたようです。軽トラックはその場から逃走。
およそ七〇〇メートル先の赤信号を無視し、通過する車を避けようとハンドルを切った結果、歩道に乗り上げて電柱に衝突。車は大破し、運転していた四七歳の男、木嶋豊(きじまゆたか)は死亡。
これが今のところ分かっている情報です」
結果、太田は一人息子と引き換えに、三百万という保険金を手にすることができた。
息子が死に、息子を殺した犯人も死んだ。一体この悲しみを誰にぶつければいいのだろうか。
詳しい説明を受け、帰宅した時には夜になっていた。二人はリビングのソファに腰掛け、途方にくれる。
咲登と最後に会話した内容はなんだっただろう。
今朝は太田が先に家を出た。
昨日のフリーマーケットは一緒に行っていない。
一体いつから会話を交わしていないのか思い出すこともできない。
――頭に浮かぶのは、息子の不機嫌な顔ばかりだった。
気がつくと日付は変わっていて、空も明るくなっていた。
妻もソファで眠っていたようで太田が起きた気配を感じ取ったのか目を覚ました。時間を確認すると十時を回っていた。
――遅刻だ。このままでは会社に遅れてしまう。クビになったら借金どころの話ではない。
太田はいつものスーツに着替えながら、今から弁当を入れようとする実咲を止める。
「お弁当は今日はもういいよ。お昼ご飯は我慢する。そんなことより、咲登を起こさないと!」
その一言で、二人は現実に引き戻された。
太田の手からスーツのジャケットが落ち、実咲は崩れ落ちる。昨日は直面しなかった現実。目を背けていた現実が二人を襲った。
その日、二人は初めて息子の死に対して悲しみの涙を流した。
安月給で借金を抱え、それでも太田が幸せだったのは妻と息子がいたからだった。
たとえ会話がなかろうとも、息子がいる。ただそれだけで明日も頑張ろうと思えた。
息子が帰ってきてくれれば。
借金なんて返せなくとも、どれだけ仕事が大変だろうとも、頑張れる。
この願いは、叶わないのだろうか。
「――この手に願い事をすれば三つだけ願いが叶うらしいんですよ」
怪しい店主の声が、耳に蘇る。寝室のクローゼットに隠しておいた木箱から猿の手を取り出した。
今思えば、一昨日願ったのは『三百万が欲しい』だった。
息子を失ったとはいえ現実に太田は三百万もの大金を手に入れたのだ。
――あの怪しい店主が言っていた噂は本物かもしれない。
お金が欲しいという願いは形は異形なれど叶った。
叶ってしまった。
きっと、願い方が悪かったんだろう。
三百万が落ちているとすれば、警察に届けなければいけない。
宝くじなんてものは買ってもいない。
確実にきっちり三百万が手に入るのは、保険金以外に思いつかない。
願い方を変えればもしかすると、いや、絶対にこの猿の手なら、叶えてくれる。
三百万を願った時の代償は息子の死だった。
人を生き返らせるとなると、さらに大きな代償を払うことになるかもしれない。それでも太田は願うしかなかった。
そして太田は泣き疲れて眠る妻の横で、もう一度、猿の手に願った。
――妻も自分も殺さず、息子を生き返らせて欲しい……と。
その夜、警察から『息子が生き返った』という連絡が来るのを携帯電話を片手にリビングに置いてある固定電話の前で待っていると、玄関の扉がノックされる音が聞こえた。
時刻はもう二十三時を回っていたが、警察が来たのかもしれない。彼は扉の覗き穴から外を確認した。
レンズの先には肌が焼けているのか、皮膚がただれた男なのか女なのかも判別できない人間が立っていた。
あの状態で動いているモノを人間と表現していいのだろうか。太田は恐怖で扉から急いで離れた。
慌てて後ろに下がったものだから、段差に足を引っ掛けて尻餅をついた。
ふと、ノックの音以外にも音がするのに気がつく。
その音は扉の向こう側から聞こえていた。しかしよく聞き取れない。
気がつくと太田は、音に引き寄せられるように扉に耳を当てていた。
「……と…………ん……」
その音はよく聞くと声のようなものだった。
しかし、微かな音で、ノックの音にそのほとんどがかき消されてしまい聞き取りづらい。
扉に当てた耳とは反対の耳を手で塞ぎ目をつむって声を聞く。
太田はどうしてか聞き取らないといけないと思った。
「お……とう……さん………おか……さ……ん」
耳を凝らして声を聞き取った彼は、寝室に走り涙を流しながら猿の手に願った。
「私は妻と息子と、もう一度一緒に居たかっただけなんだ。違うんだ、そうじゃないんだ。全て自分が悪かったから。もう許してくれ、息子を帰してやってくれ。私と美咲と咲登と、三人で幸せになりたかっただけなんだ」
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***
次の日、太田の家には多くの警察と救急隊員が駆けつけていて、『キープアウト』と英語で書かれた立ち入り禁止のテープが張り巡らされていた。
何事だと周りの住民が次々と見に来ては、概要を把握できずに帰っていく。
太田の家の隣人が聞いた、警察の説明はこうだった。
「昨夜。太田さんは寝室のベッドの脇で、妻は息子の部屋でベットに横たわるようにして死亡しているのが発見されました。
家の扉や窓はしっかりと施錠されていて、外部の者が侵入した形跡は無く、息子が死んだショックで錯乱した妻が夫を包丁で刺し殺し、自分も首を切って自殺したものと思われます」
これが〝猿の手〟に手を出した者の末路だった。
「それと不審な点がありまして、玄関の扉の外側に血がべったりと付着していました。
血の位置は、えっと、私は身長が一七六センチあるんですが、私くらいの身長の人間がノックをするために手を上げる。
これぐらいの位置についていました。
現場の検証で大方の結果は出ていて扉に付着した血は一昨日交通事故で死亡したこの家の息子のものだと断定されています。
あなたはこの家の隣に住んでいる方ですよね。昨夜、叫び声を聞いたとか、ノックの音を聞いたとか、普段とは何か変わったことはありませんでしたか?」
「ごめんなさい。昨夜はぐっすりだったもので、何も気づきませんでした。ノックなども、太田さんの家ではしょっちゅうあったことなので……。お役に立てなくて申し訳ありません」
「いえいえ、ご協力ありがとうございます」
「あの。私、そろそろ飼っているペットにご飯をあげないといけないので、帰っていいですか?」
「あ、どうぞ。ちなみに何を飼ってるんですか?」
「――何を? ですか」
「いえ、別に疑っているというわけではないのですが、寝室のベッドの脇やクローゼットの中に少し不審な動物の毛のようなものが落ちてまして……。一応、捜査にご協力していただければと」
「そうなんですか……クローゼットの中でなにか飼っていたりしたんですかね? うちは猿を飼ってます。」
「猿ですか! 珍しいですね」
「はは。よく言われます。猿は本当に可愛くて。遊んでいるところを見ているだけで自然と心が癒されますよ。芸も仕込めば覚えてやってくれますし。
まあ自分の意にそぐわない場合もありまして、そこが玉に瑕なんですけどね。今日も知り合いに預けていた一匹が帰ってきたばかりなんですよ」
「はあ、お好きなんですね。ご協力ありがとうございました。また何か進展があればお知らせいたしますので、その時はぜひご協力よろしくお願いします」
「いえいえ、お疲れ様です」
「そういえば、前にも一度お話ししたことあります?」
「あはは。ないですよ。でも、それもよく言われます」
隣人は怪しい笑顔でそう言った……」
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――油断した。
怪談やホラーが苦手な私でも、知っている話なら大丈夫だと高を括ったのが間違いだった。
いつも沙羅は私の知らない話をする。
どこで、誰から聞いたかわからない、怖くて暗い話。
聞きたくないと思っているのに、沙羅の声に耳が虜になる。頭では嫌だと思っている私だが、気がつけばいつも話を最後の最後まで聞いてしまっている。
本当に私はホラーが嫌いなのだろうか。
本当は沙羅の怪談を求めているのかも知れない。
――いや、絶対にそれはない。私はホラーが嫌いだ。
これは間違いがなく、揺るぎもしない。
幽霊なんて信じないし、怪談なんて信じない。都市伝説も、占いも、風水も、霊感も。私には縁がなく、そもそも存在しない。
私は私が信じるものしか信じない。
聞いている時に息が止まっていたのか、深いため息が出る。
最後まで聞いてしまうのはきっと沙羅の話し方が上手いからだ。
友達が話し始めたら最後まで聞くのが普通だ。
一瞬頭に『沙羅に呪われているのかも』という思いが浮かんだが、すぐさまかき消した。
それにしても、死骸収集の趣味がなくて良かった。ホラー趣味だけで私には手一杯だ。
「で、私の知ってる猿の手とは違うけど。その猿の手がどうしたの?」
「だから、これ見てって! これ!」
またスマホの画面を見せてくる。先ほどとは違い今度はちゃんと見える位置で。
黒や茶色の毛が生えているように見える細い長い物体。
何度見ても、それはまるで何かのミイラのようだった。どれだけ拒絶しても、頭が勝手に結論を出す。
「――猿の手」
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「ぶっぶー! はずれー」
私も沙羅に対抗して、それっぽい雰囲気を纏って小さい声で言った自信のある回答が無邪気にも否定される。怖さが恥ずかしさで上書きされた。
「猿の手なんか流石に二ヶ月やそこらで見つかんないよ」
こいつ、二ヶ月間猿の手を探していやがる。しかもまだ諦めていない様子だ。
「あんた、ここ最近危険なことしすぎよ。猿の手なんか本物だったらどうすんのよ」
「あれー? 千花信じてるの? 心霊なんてないんじゃなかったの?」
悪い顔で笑う沙羅の頭をグーで小突いた。
「信じてないけど知らない人と関わったり危ないからやめなさい。SNSなんて特にそうよ。最近は性犯罪に使われたりとかしてるんだから、猿の手をSNSで探すのは諦めなさい!」
「むー。まあそこまでいうなら今後はツイッターはやめとく」
「インスタもダメ! SNSで探すの禁止!」
「はーい」
多分、明日には探しているだろう。沙羅は自分の可愛さを自分で全く理解していない。
というよりも、ホラーのことになると自分がどんなに怪しい目で見られようが気づかない。こいつはいつ襲われてもおかしくない。
「でさ」
「なに!」
自分の身の危険を考えないことに対しての怒りが言葉に乗ってしまって沙羅が驚いたような顔をした。
毎度毎度、驚かされているのは私の方だと言うのに。本当に腹立たしい。しかし、沙羅が危険に首を突っ込んでいくのはいつものことなのだ。
とりあえず、説教は後にして沙羅の話を聞くことにする。
「この写真に写ってるの。なんだと思う?」
「猿の手じゃないんでしょ?」
猿の手じゃなければ、一体なんの手なのだろう。
毛だと思われるモノの色は黒と茶色――どちらかといえば黒が多い。
画像だから実際のサイズはわからないが、多分人間の腕くらいの太さで、長さはおそらく私の腕の肘から手首。
いや、沙羅の腕の肘から手首程度の大きさだろう。
肘から手首までの長さはその人の足の大きさとほぼ同じだというのを聞いたことがある……。
――ということは二十二センチ位だろうか。
確か沙羅の足のサイズはそれくらいだった。背の高い私からすると、小さくて可愛い沙羅が羨ましくてならない。
もし仮に、この画像に写っている物体の大きさが沙羅の足のサイズと同じくらいの手だとすると、かなり細長い手の平ということになる。
――まてよ、そもそも手のひらが細長いのも、毛が生えているのもおかしい。
猿の〝手〟と言うから、私はてっきり手首までのものだと勝手に思っていた。
しかし、沙羅の怪談の冒頭で説明していた猿の手、は肘まであるようなものだった。
もしも、この画像に写っているものが、何かの手なのだとしたら。
もしも、沙羅の肘から手首までの長さよりも短く、かつ〝手のひら〟を含めた大きさのものなのだとしたら。
私に出せる結論は一つしかない。
毛の存在は説明できないが、得体の知れないもの、おそらく心霊的なモノには毛が生える性質があるのだろう。全身に毛が生えるという怪談をいつか聞いたことがある。
だから答えは――人間のこどもの腕。
「正解はー……」
私が結論を出したのを知ってか知らずか、今まで黙っていた沙羅が話を再開した。
こういう空気を読み取るところも沙羅が怖いと思う所以だ。
しかも、沙羅は私に結論を出させないどころか、自分の机の横にひっさげていた黒くて中身の見えないナイロン袋に手をかけた。
なぜか。
どうしか。
おそらくこいつは画像のブツを今ここに持ってきている。
「まって! ちょっとまって」
しかし彼女は私の制止を気にもとめない。
今すぐ誰か沙羅を止めて欲しい。私には、本気で沙羅を止めることは出来ない。
私は心霊やホラーが嫌いだが、目の前の謎が解明されないままになってしまうのも嫌いなのだ。
やはり私は沙羅に呪われている。
私は沙羅の話を聞くしかなく、沙羅の持ってきたモノを見るしかないのだ。
「これでした!」
そう言いながら沙羅は、黒いナイロン袋を勢いよく私の机の上に置いた。
袋の中身が机に当たって鈍い音がする。
タンスや壁に肘がぶつかった時のような嫌な音だった。
わざわざ中身の見えない黒い袋に入れたのだろう。
袋の口はしっかりと結ばれておりどの角度から覗いても中身を確認することが出来ない。
「何入ってんのよ。これ」
私はバカなのか。
見たくもない中身の正体を、気がつけば聞いている。
入っているのはきっと子供の手のミイラだろう。そんな残酷で残虐なものを見たいはずがない。なのに、袋が開封されるのを待っている自分がいる。
きっとこの一週間は満足に眠ることが出来なくなるだろう。また真夜中に勉学に励んでしまう。
「それがねー。これなのよ」
沙羅が黒いナイロン袋の結び目を解いて手を突っ込んだ。
――そこで、チャイムが鳴った。
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休み時間の終了を知らせるチャイムが鳴り、周りのクラスメイトたちは遊びや話を切り上げて席につき始める。
沙羅はチャイムに驚いた様子で袋の中のものを掴まずに手を抜き出した。
「チャイム鳴っちゃった。続きはまた後でね」
悪魔のような笑顔が、わざとだと言うことを物語っている。沙羅はおそらくここまで計算済みだった。
袋の口をもう一度結び直し机の横にかけて、沙羅は黒板の方を向いた。
胸の奥がもやもやする。見たい気持ちと見たくない気持ちが渦巻いている。
後少し、もう一歩のところでチャイムに邪魔をされてしまった。
しかし、おかげでミイラか何かから私は逃げるタイミングを手に入れた。
この授業が終われば、ホームルームがあり、後は帰るだけ。六限とホームルームの間の時間は少ししかない。机の横にかかった何かを取り出して見せるには時間が短すぎるだろう。
おそらく沙羅は放課後の教室、誰もいなくなった二人だけの教室で見せるつもりなのだ。
だから、私はクラスメイトに紛れて帰ればいい。
そうすれば、私は沙羅が突き付けようとしているホラーから逃げることができる。
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***
――結局私は逃げることができなかった。
いや、逃げなかったと言うのが正しい。
今日最後の授業中、私は袋の中の正体が気になって仕方がなかった。
目の前に掛けられている黒いナイロン袋が、その正体の一切の情報を遮っていて煩わしい。
気になると気になりすぎてしまう性分のおかげで授業は全く手につかず、ノートを取るだけで精一杯だった。
ホームルームが終わり、クラスメイトが揃って教室から出ていく。
帰宅するものや部活に行くもの、何処かに遊びにいくもの。出入り口が賑やかになって人混みができる。本当に逃げたいと思っていたのなら、私はその中に身を投じて帰っただろう。
しかし、私は沙羅に捕まるのを待ってしまった。
沙羅の魔の手は、私の心をすでに掴んでいた。
目の前の沙羅は、ゆっくりと帰る支度をしていて一向に話しをする気配がなかった。
私は帰ることも話しかけることも出来ずに、ただひたすらに席について待っているしかなかった。
「どしたの。そんな顔して。そんなに早く中身が知りたいの? 千花は本当にホラーが好きだね」
私と沙羅以外の誰もいなくなった教室の中で、一体私はどんな顔をして待っていたのだろう。
ようやく帰り支度を終えた沙羅は、振り返って私の机の上に両手でほおづえをつき、にんまりと笑う。
おそらく世の男子高校生がこの沙羅の姿を目の当たりにすればコロリと落ちるだろう。女子の私でもドキドキする。しかし騙されてはいけない。
この笑顔をする時は、何か恐ろしいことを企んでいる時なのだ。
「嫌いだって言ってるでしょ。でも気になるものは気になるから、ハッキリさせたいだけよ! もったいぶらないで早く出しなさい」
どうしていつもこうなるのだろうか。気がつけば私から催促している。テレビでよくある、いいところでCMに入る時よりも続きが気になって仕方がない。
まあまあと言いながら沙羅が立ち上がり、教室の周りに誰もいないことを確認して教室の出入り口を閉めた。
途端、閉鎖された教室が薄暗い空気に包まれた気がした。
締め切られた窓から微かに聞こえてくる部活の音が、恐怖を煽る。
「他の人が見ちゃうと先生に没収されちゃうかもしれないからさ」
先生の身にもなってやってほしい。どう考えても気持ち悪いミイラのような物体を没収なんてしたくないはずだ。
「ではでは、お待ちかね」
再度、沙羅が私の机の上に黒いナイロン袋を置いた。相変わらず袋の中身が机に接触する時に嫌な音がする。
袋の結び目を解いて袋の中に手を入れて、白いナイロン袋を掴んで取り出した。
「…………」
突然に沈黙が訪れた。
沙羅は動きを止めてこちらをじっと見ていて、私も沙羅が袋の中から取り出すのをじっと待っている。
しばらくして沙羅が再び動き始めた。緊張が高まり心臓が早くなる。
今まで微かに聞こえていた外の音はもう聞こえない。
白いナイロン袋を開ける音だけが、私の耳に入り込んでくる。
――早く、中身を出してほしい。
しかし、白いナイロン袋の中からまた白いナイロン袋が出てきた。
中身の透けていなさ加減を見ると、まだまだ何かに覆われてそうだ。
と言うか本当にあの画像のものが入っていると言う証拠はないのだった。
沙羅は一度も袋の中身を明言していない。
「私、帰ってもいい?」
わざと少し突っぱねるような口調で言った。
本当はのところは帰る気なんて更々ない。しかし、だからと言って茶番に付き合っていられるほど私の知りたい欲の気は長くないし、早くホラーから開放もされたい。
「せっかく面白いと思ったのになー。恐怖のマトリョーシカ。まだまだあるんだけど。もう帰る?」
「出すなら出しなさい! 何が恐怖のマトリョーシカよ。何枚重ねてるわけ?」
沙羅が片付けるそぶりをした。
見たい気持ちと見たくない気持ちが入り混じっている私にとって、これほど心臓に悪いものがあるだろうか。
出すなら出す。出さないなら出さない。
ハッキリして欲しい。
――いや、出さないのはやめて欲しい。気になったままにされると眠れないどころか勉強も出来なくなってしまう。
沙羅は袋から袋を取り出す。またその袋の中から袋を取り出す。
四回繰り返してようやく最後の袋が取り出された。
中身が透けて黒い何かが見える白いナイロン袋に、背中から全身に広がるように鳥肌が立つ。
「せっかくのマトリョーシカがー……」
ぶつぶつと呟きながらつまらなそうに袋の中身を取り出す沙羅。
あの画像に映っていた、私が子供の手だと結論づけた物と同じく毛に覆われた細長い物体が私の机の上に置かれた。
一体これはなんだろう。
私の中で知りたい欲が先導して、謎の物体へと手が伸びる。
あと数センチ。もう少しで指先が謎の物体に触れる。
「あ、千花。それ触るときは手袋したほうがいいっておじさんが言ってたよ。出来れば2重。あれ、3重だったかな。重ねてつけないと呪われるんだって」
すんでのところで手を引っ込める。
顔から血の気が引いていくのがわかる。
――危ない。もう少しで呪われるところだった。
心霊なんて信じていないけれど、警戒するに越したことはない。
しかし、沙羅のおかげで冷静になれた。
わざわざ自分で触る必要もない。沙羅が取り出したわけだから、沙羅が持って見せてくれればいい……。
そこで、凄まじい違和感が私を襲った。何かおかしい。
「沙羅。あんた、いま私が触ろうとしたときなんて言った?」
「えっと、呪われる?」
「違う、ちょっと前」
「おじさんが言ってた?」
「それはそれで後で問い詰めるから待ってなさい! で、私が言ってんのはその前よ。あんた言わなかった? 手袋したほうがいいって」
「言ったよ? だから、千花が素手で触りそうになったから注意したんだけど」
「それはありがとう。助かったわ。じゃあなくて! あんた手袋してないじゃない!」
沙羅は手袋をしていなかった。
あろうことか、素手で。
小さく柔らかい子供みたいな手で。
呪われた何か――いわゆる呪物を掴んでいたのだ。
「バカなのあんた! 呪われるわよ! 早く手を洗ってきなさい! 石鹸で! っていうかこれどけなさい! なんでこんな危ないもの私の机に直で置いてるのよ! 机が呪われたらどうするの!」
私が半分パニックになりながら言うと、沙羅は渋々呪物を掴みナイロン袋の上に置いた。
「また素手で! 洗ってきなさい! 石鹸で!」
「えー。大丈夫だって。そんな簡単に呪われないってば」
「いいから洗ってきなさい!」
ぶつぶつ言いながら沙羅は教室から少し離れた手洗い場に手を洗いに出て行った。
ありえない。
信じていないけれど、こんな危険な呪物を沙羅は素手で掴んだのだ。
しかも私の机の上に直で置いた。
ありえない。
しばらくすると沙羅が帰ってきた。
「本当に洗ってきたんでしょうね?」
「洗ってきたよ。ほら、ハンカチ濡れてるでしょ?」
そう言ってハンカチを差し出してくる。確かにハンカチは濡れている。それもかなり。
恐らくこいつはハンカチを濡らしただけで手を洗っていない。
それに洗ったところで呪いが消えるかどうかもわからないし、もしかしたらハンカチに呪いが移っていて受け取ったら私も呪われるかもしれない。
「ほ、ほんとね」
返事をするだけで私はハンカチを受け取らなかった。
たとえこの世に心霊現象が存在しないとしても、警戒しているに越したことはない。
「で、おじさんって誰?」
呪いについてはもう何を言おうが引き返すことができない。私は諦めて、さっきの話で引っかかったもう一つのことを切り出した。
「ツイッターで知り合ったおじさんだよ。ツイッターで『呪物探してます』ってツイートしてたら話しかけてくれたの。ホラー好きで、こういう呪われたものとか集めてるんだって。また今度違うやつ見せてもらう約束しちゃった」
あろうことか、沙羅は相手の顔が見えないSNSで知り合った男から呪物を受け取り、後日また会う約束をしていた。
この女には危機感や貞操観念というものがないのだろうか。相手が相手ならば襲われた可能性だってあるのだ。
「いつどこでどんな奴から受け取ったの」
沙羅の両親が止められないなら、もう私が止めるしかない。
「えーっとねえ。はじめは駅前で受け取る予定だったんだけど……。あ、おじさんは四十三歳って言ってた。名前は、そういえば私は教えたけどおじさんは教えてくれなかったらわかんないな。ツイッターのアカウント名はわかるよ『死霊使い(ネクロ)@ホラー好き』」
四十代でネクロは痛い。
「で、埼玉の駅前でもらおうと思って待ってたら話しかけられて、ここじゃ危ないからってことで近くのホテルに行って」
「ちょっと待った! ホテル?」
とんでもない単語が飛び出してきた。
女子高生がおじさんとホテルに行くというのはもう犯罪なのではないだろうか。襲われた後の可能性が出てきた。
「まあまあ、ここからだから聞いて」
「バカ言わないで。こちとら親友が知らないおじさんとホテルに行っていたことを聞かされたのよ? 話なんて聞いている場合じゃないわ、ちょっとあんた私の話を聞きなさい」
必死に説教を始めようとする私を無視して、沙羅は無理やり話を続けた。
「だから聞きなって。幽霊が出るっていう噂のホテルが近くにあってね、そこの『302号室』に行ったの」
こうなったら誰も止められない。
私がもしも沙羅の口を無理やり塞いでも、沙羅は話を無理やりにでも続けるだろう。それは実践済みだ。
――私に黙っておじさんとホテルで密会したことに対する憤りを無理やりに抑え込んで、話を聞くしかなかった。
「ホテルに行ってみると外観も受付の内装も綺麗で、そこら辺にあるホテルだった。
綺麗な受付のお姉さんが『本当にいいんですか? 他の部屋も空いておりますのでそちらの方が』って言ってくれたおかげで、その部屋が本当に曰く付きだってことを証明できた私たちは大喜びでその302号室に行ったの。
でも、部屋の入り口も部屋の中も変なところは何も無かった。
部屋でこれを受け取ってから、幽霊が出ないか二十分くらいおじさんとベッドに座って待ってたんだけど……出なかった。
物が落ちたりとか、水が勝手に出たりとか、そんな小さい心霊現象も起きなかったの。
しびれを切らしたおじさんが『出そうにないし解散しようか』って言った直後、豹変して私を襲ってきたの。
力一杯私の肩を掴んでベッドに押し倒したの。おじさんの顔はさっきまでの優しそうな顔と違った。目が血走っていて息が荒い。
そこで私は気づいた、このおじさんはここの地縛霊に体を支配されたんだって。
おじさんの説明ではこうだったの。
『昔、その302号室に一組のカップルが泊まっていて、些細なことがきっかけで口論になった。
旅行中だった二人は、いつもの喧嘩に比べて大きな喧嘩になってしまう。
日頃の恨みとか、気に食わないところとかを言い合うような無駄な大喧嘩。
わざわざ旅行中に泊まったホテルで喧嘩をしているのがバカらしくなった男は喧嘩を終わらせようと無視をしはじめる。
でも、その行動が裏目に出てしまった。
何を言っても返事が返ってこない女は苛立ちを抑えきれなくなり、机の上に置いてあったガラス製の灰皿で無視をしてよそを向いている男の頭を、背後から殴った。当たりどころが悪く、男は死んでしまう。
その時、男は女を掴みベッドに倒れこむようにして息絶えた。
その男の霊が部屋には取り憑いていて、男女がその部屋に泊まりに来るとあの時の記憶を思い出した幽霊が出る』
――おじさんが言うにはそういう話だったけど私はその怪談の核心に気づいたの。
場を落ち着かせようと思っていたのに殺されてしまった男は女に恨みを持っていて、いまだに女を殺したいと思っているんだろう。
だからきっと、訪れたカップルの男に取り付いて、女を襲うんだって。
まあそんなことを考えてる間も、目の前のおじさんは力づくで私の両腕を押さえ込んでいるから身動きができなかった。
おじさんの力は明らかに人間の力じゃなかったわ。もがいてたら幽霊は私の腕を離して口をおさえてきたの。息ができなくて、だんだん苦しくなって、本当に死ぬかと思った。
流石の私も命を失うのは嫌だし、取り憑かれたおじさんには悪いけど、殺される前に思いっきり股間を蹴り飛ばしてやったの。
そしたらベッドから落ちて床に敷かれた絨毯の上でのたうち回ってたわ。
そう!
これは新発見なのよ!
人間の男も幽霊の男も股間が弱点だったの。これさえ分かればいつでも男の幽霊には対処できるわ。
で、私はとりあえず映るかもしれないと思って、のたうち回ってるおじさんの動画を撮ってから荷物をまとめて逃げ帰ったの。結局動画には痛々しく転げ回ってるおじさんしか写ってなかったけどね……。
あ、それで、次会う約束っていうのは蹴っちゃったお詫びもあるし、ツイッターで『ぜひ今度ご飯かトンネルでも』って送ったら『ぜひトンネルに』って返ってきたの。
私そこで改めてあのおじさんは本物のホラー好きだって確信したわ。私の体を狙っている人はすぐご飯に行きたがるんだもの。
それに、後から聞いたんだけどおじさん取り憑かれやすい体質なんだって。
『今回はごめんね。またトンネルでも取り憑かれるかもしれないし、その時は急いで逃げて』
って、取り憑かれる自分の身の危険のことよりも私のことを考えてくれるんだよ。いい人間違いなしだよ。私にとっては心霊体験できるわけだから願ったり叶ったりだし。
二人目の良い相棒が見つかったわ」
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『パンッ』
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沙羅が手を叩いた。
これは怪談話が終わったことを意味する。
今やっと今回の怪談が終わったんだ。休み時間からついさっきまで、ずっと続いていたらしい。
猿の手の話も、呪物を見せないで焦らすのも、呪物を触って驚かすのも、おじさんとの密会も、全てが怪談でその全てが今回の怪談だったのだ。
「…………」
それにしても、今の話の内容がぶっ飛びすぎていて、何から言えばいいのかわからない。
いや、多分『わからない』というのは間違いで『考えられない』が正しいと思う。私は気がつくと教室に設置された時計の秒針を意味もなく目で追っていた。
「ってなわけで、おじさんからもらったこれなんだけど……。実際のところ、正体わかんないんだよね。おじさんも大昔に買ったって言ってたし、多分何かの動物のミイラだとは思うんだけど……。あ、呪われてることは確かだって言ってた。買った時に長くて白いひげを生やした人が説明してくれたんだって」
次第に頭の中が整理されていった。正直、今しがた沙羅がした話の全てを理解することは出来なかった。が、一つだけ確信を持って言えることがあった。
「沙羅。そのおじさんと会うの禁止よ。もう二度と会わないこと」
「ええ、なんで! 千花に続く二人目の相棒なのに!」
「ばか! そのおじさんがホラー好きなんて嘘よ! いいように言って沙羅を襲おうとしてるだけよ!」
「そんなことないよ! おじさんは取り憑かれただけでいい人だよ!」
「ばか! 悪い人に決まってるでしょ!」
「いい人だよ!」
沙羅はいい人だと言い張り、私は危ないと言い張る。
五分ほど言い合いを続けたが平行線を保ったままで話が終わりそうになかった。
――だから仕方なく私は最終手段に出た。
「この呪物だってニセモノなのよ!」
手袋をつけないと呪われると言われた何かのミイラを掴み上げて沙羅に見せつける。
毛の感触とミイラの硬さが手に伝わって、そこから鳥肌が広がっていくのがわかった。
それでも私は離すことなく力一杯握りしめる。束になって固まった毛が手に刺さって痛い。
「千花のバカ! 呪われるって言ったのに!」
沙羅が取り上げるように私が掴んでいる呪物を掴んで引っ張ってくる。
私も負けじと取り上げられないように引っ張った。
私と沙羅の間には、身長の差がおよそ二十センチもある。小柄で非力の沙羅が私に勝てるはずがない。
「渡しなさい!」
力一杯引っ張ると同時に、風船をこすり合わせたような嫌な音がした。
「沙羅……今、何か言った?」
「そんなことで私は惑わされないぞ――おりゃっ!」
謎の音を聞いて、力が抜けてしまった私は呪物を沙羅に取られてしまった。
「もう、呪われてるって言ってるのに千花ったら」
音は、確実に私の目の前から聞こえた。
もし、沙羅が何も言っていないとしたら、音を出した正体は一つしかない。
私は疑念を持った目で恐る恐るその呪物を見た。
私の手から奪われた呪物は沙羅が片手で握っていて、その呪物を私に突きつけながら『呪われてるから手を洗ってこい』と言っている。
呪物は先ほどと何も変わらない状態だった。どれだけ見つめようが、鳴かないし動かない。自然と呪物に手が伸びる。
あと10センチ。もう少しで指が触れる。
――あと……2センチ。
その時掴まれた呪物の〝顔〟がこちらに向いた。
先ほどまで無かった黒くて大きな〝目〟で私を見ている。
私の指を噛もうとでもするように〝口〟を開けた。
その時、開いた口の奥の方から先ほどと同じような風船をこすり合わせた……いや、踏みつけらた小動物があげるような、痛々しい鳴き声が絞り出された。
「沙羅っ!」
咄嗟に私は沙羅の持っている呪物を手で払った。
呪物は勢いよく隣の席の机の脚にぶつかり転げる。
「もう、千花! 大切に扱ってよ! それに早く手を洗ってきなさい」
興奮したせいで、全身から汗が出て息が上がる。気色の悪い物体は、血のような赤いものを少しだけ流していた。
今はもう目も口も、顔と思われる部位も見当たらない。袋から取り出した時と同じ毛に覆われた何かの塊に戻っていた。
しかし、あの鳴き声は確かに本物で、私を見た黒い目も確かに本物だった。
「うわっ、千花、保健室保健室! 血出てるよ! 私の爪に当たった?」
見ると沙羅の手を払った右手の小指の付け根あたりから血がぽたぽたと流れ落ちていた。
――ということはこの呪物についている血は、私の血か。
怪我というものは気がつくと急に痛みだす。
脈を打つたびにズキズキと痛い。
「保健室行くから、あんたそれ捨てなさい。手も洗うから。だから、絶対にそれ捨てなさい」
血が滴る傷跡を左手でおさえながら沙羅に言う。こんな正体のわからない気味の悪いものはもう見たくない。
真剣さが伝わったのか、沙羅は元あったようにしっかりと重ねてナイロン袋に入れ口を縛った。
「千花、見てないで保健室行きなって。ちゃんと捨てるから!」
私はその後保健室に行き、止血してもらった。
案の定、傷跡は切り傷なんかではなく、小さな動物に噛まれたような歯型がついていた。
保健室の先生は不思議そうにしながらも、消毒をして綺麗に包帯を巻いてくれた。
包帯のおかげで、沙羅に傷跡を見られることはなかった。
もし私があの呪物に噛まれたという可能性が沙羅の中に生まれれば、絶対に捨てないだろう。
少し可愛そうだが沙羅の爪で切ったことにしておくしかなかった。沙羅も詳しく追求してこなかったので、私はほっと胸をなでおろした。
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***
幸いにも私はその後あの呪物を詳しく調べていない。
上から掴んだだけで全てを触ったわけではなく、全体像をなんとなく見ただけでくまなく見たわけでもない。
だから、あの呪物は呪物ではなく、ただの動物のミイラだったと言い切ることが出来る。
私は不運なことに、たまたま歯の部分に手が当たってしまい怪我をしただけだ。
本物の呪物だという証拠などどこにもない。
――心霊現象なんて存在しないのだ。
だから私が怪我をしてから一週間の間、私の髪がすごい速度で伸びたのも『なんだか毛が伸びるの早いなあ』と思ってからずっとワカメを食べ続けたせいだ。
誰も私が呪われたと証明できない。
たとえ私と同じ時期に沙羅がワカメを食べていないにも関わらず、髪がすごい勢いで伸びていたとしても……。
作者溝端翔
『ロリ巨乳の同級生が、ホラーにしか興味がない件について』シリーズ
1月19日。
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描いていただいた美麗イラスト(表紙)を印刷したフリーペーパーも配りますので興味のある方は是非足を運んでください。