長編27
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空き家

(又だ…)

見慣れた部屋の中。

その部屋の隅で蹲る(うずくまる)女。

(こっちを見るな…)

佐久間は恐怖で歪んだ顔を女に向けて、ひたすら祈る。

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(これは夢…いつもの夢なんだ…

だから、早く目覚めてくれ!!)

佐久間は薄っすらと両目に浮かべた涙の自覚もなく、意識も視線も女に釘付けであった。

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(もうすぐ…)

佐久間の予想を裏切る事なく、最初、女は蹲った身体からぴんっと指先だけを伸ばし、ピクピクと指の関節を鳴らす様に…何かを探る様に動かすと、反る様に指を曲げ、まるで準備運動の様にポキポキと音を鳴らし、床に爪を立てて四つん這いになる。

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(や…やめてくれ…)

佐久間は大きく見開いた眼を一段と大きく、眼球が飛び出そうな程大きく見開く。

女の身体は細かく蠕動し、その蠕動が辺りの空気をピリピリと震わせる。

それと同時に佐久間の鼻腔の奥に腐臭が突き刺さる。

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胃の中身を床にぶちまけたくなる臭いと戦いながらも少しでも女から遠去かろうと身体に力を入れる。

だが、床に転がった佐久間の身体は微動だにせず、女の臭いから逃れられずにいる。

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やがて、女は蜘蛛が歩く様に、腕と足を身体の横で大きく曲げて床につけると、指先も十指、それぞれが別の生き物の様に蠢かせ、ゆっくりと佐久間に近付いて来る。

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女が動く度に、白い小さなモノがポタポタと零れ落ちる。

落ちたモノは女と同じ様に細かく身体を蠕動させ、女の這った跡ににまとわり付く様に転がる。

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女はショートカットの脳天を床に擦り付けながら、大きく曲げた両手足を使い佐久間に近付いて来ると、重い頭を細い首に力を入れて必死に持ち上げる仕草をする。

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暗闇の中、ピクピクと痙攣をする様に僅かに持ち上がった頭から斜めに女の顔が覗く。

視線が何処を向いて居るのかは定かではないが…

と、言うより…

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その両目には無数の蛆が集っているので恐らくは佐久間を見えては居ないのだろう。

両鼻の穴からも蛆をポタポタと溢し、その穴の奥は細かく皮膚が盛り上がり蠢いている。

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大きく開いた口からは舌が長く垂れ下がっているが、その舌はグジグジに腐り、数え切れない程の蛆を纏い、喉の奥からも無数の蛆が見え隠れしている。

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女の声なのか、それとも蛆が女の肉を咀嚼する音なのか…

小さく震える様に

「ゔ…ゔ…ゔ…」と、聞こえる。

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佐久間は両目を瞑り、女の姿を視界から消そうと試すが自らの意思に反して、両目を瞑る事が出来ない。

耳を塞ぐにも、両手もピクリとも動かす事が出来ない。

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女はゼンマイ仕掛けの玩具の様にぎこちなく佐久間の近くに来ると、女に向けて放り出された佐久間の右足首に爪を立てて掴み、そのまま少しずつ、佐久間の身体を這う様に、ふくらはぎ、太もも、尻、腹…と、徐々に頭に向かって昇って来る。

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女の爪が食い込んだ皮膚からは、ドロドロと血膿が流れ出す。

女の爪から流れたものか、佐久間自身の身体から流れ出たものかも分からない。

ただ、血膿の流れる元…破けた皮膚は盛り上がり、赤黒く変色し、ピリピリとした鈍い痛みを感じる。

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ふと、女の顔に佐久間は視線をやる。

女はまるで意思を感じさせない無表情を崩さず、相変わらず動く度に白い蛆をポタポタと垂らし…

何処を見ているのか分からない視線を真正面にいる佐久間に向けた。

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佐久間は、この女を知っていた。

あの日…

佐久間はこの女と出逢い…

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*****

「最近はこの辺りも空き家が増えたわね」

久しぶりに妻の歌織と買い物帰りに歩いた細い路地には、錆びた雨樋を傾けた、夏草の蔓延る庭の中に建つ、人の気配のない空き家が目立つ。

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歌織は、帆布のエコバッグを右肩から左肩に掛け替えると、佐久間に向かって言う。

「今のご時世では、地方の空き家問題より、都会の空き家問題の方が大変だって、ワイドショーで観たわ。

子供が居ても親や舅、姑と同居するのも少なくなってるものだから、その親達が亡くなった後、誰も住む人が居ない放置された空き家が増えてるんだって。

こんな下町の路地は、それでなくても救急車や消防車が入って来れる程道幅が広くない上に、奥まった空き家が火災や倒壊なんて事になったら、周りの家も巻き込まれちゃうからって。

貴方のお母さんが亡くなったからあの家に越して来たけど…

売るとしたら、業者に上物を取っ払ってもらって更地にしてからじゃなきゃ土地も売れないんだから…。

しかも広くもない土地だし、こんな狭い路地の土地じゃ売れてもたかが知れてるし…

東京の庭付き一戸建てなんて、貴方の口車に乗った私もバカだったわ」

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歌織の言う事も尤もだ。

騙すつもりもなかった。

地方出身の歌織は東京で庭付き一戸建てを持つ事を夢見ていた。

市部ではなく、都内の一戸建て。

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子供が居ない佐久間達夫婦は、賃貸マンションに住みながら、歌織の欲しがっていた注文住宅を建てる為に、二馬力で働いていた。

だが、歌織の希望する土地、家…を購入するには、後何十年働かなくてはいけないのか…

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そんな折、佐久間の勤めていた中小企業が業績不振の末、呆気なく倒産した。

40半ばの経理経験もない事務職の男なんて、ハローワークに行った所で再就職先も早々には見付からない。

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歌織の負担を少しでも減らす為、就職の決まらない佐久間は深夜のコンビニでアルバイトもした。

だが、2人でせっせと貯めていた家を買う為の貯金も、少しずつ減って行く。

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その頃、佐久間の実家の母が事故で急逝した。

父は佐久間が学生の頃に亡くなっていたし、母の遺産を分ける兄弟は佐久間には居ない。

実家なら家賃節約になると歌織を説得して、下町にある佐久間の生家…実家に帰って来た。

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歌織の住みたがっていた地域ではない事も、リフォームすらしていない古びた家も、間取りも家具も…歌織には大きな不満…。そんな事は知っていた。

だから全て歌織の気の済む様に、好きな様にしてくれて構わないと話し、説得した。

母や父の荷物や佐久間の幼い頃の想い出の品も古い家具も歌織は大分捨てたりはしていたが、それでも家の古さはどうしようもなく、それが歌織の苛立ちになっている事にも気付いてはいた。

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佐久間は佐久間で、正社員で働く事は出来ず、今は派遣社員として勤めに出ている。

以前に比べるとググッと減った年収にも、歌織はストレスを感じていたのだろう…。

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ある日、仕事から帰ると、台所のテーブルの上に、記入済みの離婚届の用紙と、いつも歌織の左手の薬指に嵌っていたプラチナの指輪がポンと置き去りになっていた。

2人で貯めた預金も、判子と通帳と共に消えていた。

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歌織と2人幸せになる為に一緒になった筈なのに、歌織から笑顔を失くし、夢を奪ったのは…佐久間。

佐久間は弁護士を立てる事なく、歌織の幸せの為に緑色の用紙に記入をすると、区役所に持って行き、提出をした。

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その後に離婚届を出したと歌織に連絡をすると、それきり歌織との連絡が途絶えた。

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「北欧風の部屋で、煉瓦の暖炉がある居間が良い。」

歌織はそう言ったが、この家には暖炉などは勿論なく、古い壁紙の上に煉瓦風の壁紙を貼ったりもしていたが、それも中途半端に貼っただけで諦めてしまった様で、佐久間は自分の生家の筈が今は懐かしさも感じられなく、かと言って歌織との思い出も未だこの家に来てからは少なく、なんだか落ち着かない毎日をただ過ごしていた。

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そんな住まいの斜め奥の空き家に、最近、人影を見かける。

元々は幼馴染の一家が住んでいたのだが、ご両親は他界し、幼馴染は海外赴任をしている為、今は誰も住んではいない。

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佐久間よりも年長の彼は、佐久間同様一人っ子で兄弟もなく、都内の別の場所に家を持っているので誰も住む人の居なくなった実家に足を運ぶ事もなく、もう20年は会っていないだろう。

その家に、時たま人が出入りしているのを見かけるのだ。

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空き家にホームレスが住み着いていたなんて話もよく聞く。

万が一、そんなホームレスが住み着いていて、火災なんて起こされた日には貰い火で我が家にまで延焼してしまう危険がある。

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佐久間はある晴れた休みの日に、斜め奥の家に様子を見に行く事にした。

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玄関は扉のベニヤが剥げて、だらしなく垂れ下がっている。

そのドアノブを回すが鍵がかかっていて開かない。

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仕方なく、枯れた雑草で埋まる庭に回り、縁側の雨戸を横にずらしてみる。

と、腐った桟は上下に揺れる様にギシギシと軋みながらも雨戸はぎこちなく横に滑った。

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そのまま窓に手をかけ、ガラスを横に滑らすと少し引っ掛かりはしたが、部屋の中に入るくらいは開いた。

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人の住まない家は傷むのが早いと言うが、光の射す家の中は、幼い頃に見た覚えのある家具が並び、いつもおじさんやおばさんが座っていた座椅子もそのまま座卓を囲み向かい合わせに置かれていて、傷みどころか、つい今し方まで誰かが居たと言っても違和感もない様な佇まいだ。

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古い桐の箪笥の上にはガラスのケースが置かれ、その中には煙草の紙容器と爪楊枝で作った傘や、折紙にリリヤンのフリンジを垂らした鞠、色の褪せたドレスを纏ったフランス人形、ガラス細工の小さな犬や猫、白鳥等が並んでいる。

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土足で入ってはいけない様な気がして、窓の手前に履いていた靴を脱いで並べて置くと、佐久間は靴下で家の中に入った。

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小さな声で

「お邪魔します…」と、声をかけたが返してくれる人はいず、留守宅に勝手に上がり込む事に、ほんの少しの罪悪感を持ちつつ家の中に踏み入った。

ギシッと、足を踏み込んだら畳が深く沈む。

もう、床が腐っているのだろう。

足元に気を遣りつつ、光の射さない家の奥へ佐久間は進んで行った。

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未だ佐久間の両親も健在で、この家の人達も存命だった頃、母親と一緒におばさんにお茶をご馳走になった台所も、今は床も艶を失くし、歩く度に軋む音を立て、足が沈む。

あの頃の母親とおばさんの笑い声が聞こえて来そうな懐かしさを感じつつ、誰もいない家の中を探索した。

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玄関横の2階に続く階段を、暗闇に向かって上って行く。

手にしたスマホを懐中電灯替わりに2階に上り切ると、幼馴染の部屋の扉が開いているのが目に入る。

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微かな明かりが隙間から暗い廊下に射し込み、佐久間はその部屋の中に足を踏み入れた。

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本棚に並ぶ、子供の頃に流行った懐かしい漫画本を照らし、勉強机の上の辞書や参考書と幼馴染一家の家族写真を見ながら、明かりを上にズラすと、各地の観光地のペナントや提灯が鴨居に引っ掛ける様に飾ってある。

そして窓際に置かれたベッドを照らした時、佐久間はギョッとして立ち竦んだ。

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誰も居ない筈のベッドは、人の形に盛り上がっている。

(やはり、ホームレスが入り込んでいたんだ…。)

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喧嘩などもした事もなく、力や体力にも自信はないが、このまま放置しておく訳には行かないと、佐久間は意を決してそっとベッドに近寄ると、布団を思い切りめくり上げた。

そして、スマホでその不審者を照らした。

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するとそこには…

丸まって猫が眠る様な姿勢で、若い女性が眠っていた。

ホームレスの…

どこか、薄汚れた男をイメージしていた佐久間は、そこに横たわるのが若い女性と言う事で、拍子抜けした。

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ドキドキしながらスマホで女性の顔を照らす。

起きて騒がれたら警察沙汰になってしまうかもしれない…。

けれど、このまま放ってはおけない。

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「起きてください」

佐久間は女性の肩に手をかけ、静かに揺らしながら声をかけた。

だが、女性はまるで反応を示さない。

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身体も硬い…。

そう。

佐久間が揺らすと身体が固まったまま揺れる…。

女の身体の周りには、幾つかの錠剤と空になった錠剤のシートが何枚も転がっている。

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女の横になった口元から吐瀉物が頬を、顎を伝わりシーツに模様を作っている。

女は…

死んでいた…

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佐久間は驚いたものの、何故か警察を呼ぼうとはせず、女の顔をただ…眺めていた。

髪はショートカットで、年の頃は10代後半から20代前半と言ったところか。

未だ若い女だ。

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目を開ける事はないが、小さな顔の中にバランス良く、目、鼻、小さめの口が配置された、とても可愛らしい顔をした女だった。

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この女に何があったのか。

何故、死を選ぶ事になったのか。

説明をする人はいず、佐久間もそんな事はどうでも良い事だった。

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ポケットに数日前から突っ込んであった小さ目のタオルハンカチを佐久間は出すと、女の顔にこびり付いた吐瀉物を綺麗に拭き取った。

女はお礼を言うこともなく、佐久間が身体を自分の方へ向けると、そのまま抵抗もせずに佐久間へその身体ごと顔を向ける。

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ほんの少し微笑んだ様な女の表情に、佐久間は片手を頬に当て、そっと撫でてみる。

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細い鼻梁の小さな小鼻の天辺が、ほんの少しだけ上を向き、キュートな小動物を彷彿とさせる。

態と尖らせた様な薄いクチビルは、少しだけ歯を覗かせたまま色を失くしては居るが、柔らかそうに見える。

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瞑った瞼には、カールした様に長い睫毛が目の縁を覆う様に生えている。

死んだ女の筈が…

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佐久間は、心臓の鼓動が激しく波打つ様な愛おしさで包まれた。

女の短く切り揃えた髪を撫でると、佐久間の指の間をサラサラと滑り落ちる。

白い肌はしっとりと、すべすべと佐久間の指に吸い付いて来る。

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気が付くと、すっかり冬の日は傾き、部屋に射し込む明かりはオレンジ色になっていた。

女と…

離れ難かったが、佐久間は女のクチビルをそっと指で撫でると、奥の家から出て、自宅に戻った。

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佐久間が誰かを殺した訳じゃない。

偶々、空き家に誰か棲み付いているのでは?と、見に行っただけで、そこに、知らない女がいただけだ。

偶々、死んでいただけだ。

誰もあそこに女が死んでいるなど知らない。

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佐久間が黙ってさえいれば、誰にも気付かれずに済む。

佐久間は、この事を誰にも知らせず、自分だけの秘密にした。

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夜、コンビニで買って来た弁当を食べ、第三のビールを1本空け、風呂に入った。

明日の仕事を思いながら、歌織と寝ていたダブルのベッドに横になり、天井を見上げた。

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派遣社員と言っても、ただ、頼まれた物をパソコンを使って打ち込むだけの仕事。

誰でも出来る仕事。

第一に、佐久間自身、パソコンのスキルが高い訳ではない。

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職場で話す人もいず、お昼休みも休憩も、与えられたデスクで1人、1日を送るだけの毎日。

それでも、生きる為には働かなくてはならず、仕事を選ぶなんて…そんな選択肢もなかったのだから、不満も何も、文句すら言えない。

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愚痴を零す相手も、寄り添ってくれる人もいず、誰かと話をしたのは、いつが最後なのだろう?

そのくらい、誰とも話もしていない。

孤独…。

佐久間は、孤独だった。

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胸にス〜…っと風が吹いた様な虚しさを感じた佐久間は、奥の家にいる女に会いたくて堪らなくなった。

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真夜中…。

もう数時間で夜が明け、出勤の時間になると言うのに、女のひんやりした肌と、眠る様な穏やかな顔を思い出すと、会いたくて堪らない想いで、居ても立っても居られなくなった。

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佐久間は、夕飯の弁当と一緒に買った朝食用のパンと缶コーヒーを出勤時に使っている鞄に押し込むと、歯を磨き、ワイシャツにネクタイを締め、未だ暗い外に出て玄関の鍵をかけた。

そして、奥の家の庭から雨戸をずらして靴のまま中に入り、2階へと上って行った。

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持参した懐中電灯で女を照らしたが、夕方、佐久間がこの家を出た時と寸分変わらぬ姿勢で寝転がっている。

暫く、女の顔を黙って見詰めていた佐久間だったが、コートと背広を脱ぐとネクタイを緩め、女の寝ているベッドの隣りに滑り込む様に入った。

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冷えた部屋に、まるでドライアイスの様に冷たい女。

佐久間は、女に体温を戻させるかの様に、強く抱き締め、両手で女の身体を摩った。

だが、一度、命の炎が消えた身体に再び熱が戻る事はなく、摩れば摩っただけ、女の皮膚に変なシワが出来、その部分だけ色が変わってしまった。

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佐久間は女を摩るのは諦め、女の首の下に自分の腕を差し入れ、腕枕をしているような姿勢で、自分の胸に女の頬を当てたまま、少しうつらうつらとうたた寝をした。

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=ビリリリリ=

目覚ましにセットしてあったスマホのアラームが鳴り、佐久間は女に腕枕をしたまま目を覚ます。

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女は2度と目を覚ます事はないのに、そっと…

女を起こさない様に女の頭を腕から枕へ移動させ、静かにベッドから抜け出る。

女の横に座り、女の顔を見ながら鞄からパンと缶コーヒーを取り出すと食べた。

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そして…

「行ってくるよ」

そう、女に呟くと、女のクチビルを人差し指で押すように触れ、何度も何度も女を振り返り、部屋を、家を出て会社に向かった。

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いつもと同じ1日を過ごし、帰りに駅前のスーパーで値引きシールの貼られた弁当や海苔巻きを買い、佐久間は自宅に戻らず、一目散に奥の家に向かった。

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いつもの庭に面した窓から入り、朝、座卓の上に置いていた懐中電灯を手を取ると2階の女の元へ弾む様な足取りで上って行った。

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「ただいま」

ベッドに横になる女に声をかけるが、「おかえり」なんて返してくれる筈もない。

だが自然と笑みが溢れる。

誰かの待つ家に帰る事。

自分以外の誰かが、そこにいてくれる事。

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佐久間は今日一日の出来事を女に話した。

他の派遣会社から来ている女が、商品の発注を一桁多く打ち間違え、納入前だった事で大きな騒動にはならなかったものの、佐久間の上司達はその対応でおおわらわだった事や、給湯室のポットが故障してしまった事など…

佐久間が関係していない事であったが、誰かと話をしたかった。

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女は頷くでもなく、同じ表情を崩す事なく佐久間の話を聞いている。

仕事から帰ると先ずは女の元へ行き、食事を済ませると一旦自宅へ戻り、風呂に入って着替えを済ますと、翌日着るシャツや鞄を持って女の待つ奥の家に向かい、朝は女の元から会社に出掛ける。

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そんな日を数日過ごした佐久間だったが、仕事帰り、ファーストフードのハンバーガーを買い、奥の家に帰った時、白いシーツの上に黒く群がるハエを見た。

佐久間が掛布団をめくり上げると、一斉にブブブブと…羽音を響かせて飛び立つ。

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佐久間は両手でハエを追い払う。

恐る恐る、女の顔を見るが…未だハエに喰われてはいない様だ。

と、安心する間も無くハエは隙を伺うように、気を抜くとすぐに女に集る。

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このままだと、女が腐り、ハエに喰われてしまうのは時間の問題だ…。

佐久間は先程買ったハンバーガーも手付かずのまま、近くのコンビニへ走った。

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ロックアイスを両手で持てるだけ買うと、女の元へ急いだ。

ベッドに横になる女の身体を囲む様にロックアイスを袋のまま並べる。

女の冷えた身体は一段と冷たくなるが仕方ない。

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その日は、ベッドで女と並んで寝る事は出来なかったから、佐久間はベッドの下に他の部屋から運んだ布団を敷いて寝た。

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冬だから…

とは言え、女の身体も徐々に腐り始める。

最初はほんの微かな甘い香りが、それも日々我慢の出来ない臭いに変わる。

そして、佐久間を悩ませたのは虫だ。

どこから入り込むのか、スプレーで殺しても殺しても、際限なくハエが女に群がって来る。

どこから来るのか、ゴキブリやねずみまでが部屋に入り込んで来た。

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女との2人だけの静かな暮らしは、終止符を打つ事となった。

もう、今夜が最後…

佐久間は、女を佐久間の方に顔を向けて寝かせると、その顔を愛おしそうに両手で包み、優しく撫でる。

皮膚が所々、グチャッと柔らかくなっている場所があるが、そんな所は虫が喰ってる場所の様だ…

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初めて出会った時とは表情も肌の色も別人の様に変わってはいるが、その小振りな目鼻立ちや小動物を彷彿とさせるキュートさはまるで変わっていない。

生きている時にこの子と出会っていたなら、恐らく佐久間は彼女の虜になっていただろう。

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果たして、女はそんな佐久間の想いに応えてくれたかは疑問だが。

朝になったら二度とこの家に足を踏み入れる事は止めよう。

佐久間の指紋も痕跡も全て消し、何もなかったようにしなくてはいけない。

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女は佐久間が殺した訳ではなく自死だったのだろうが、後々面倒な事に巻き込まれる可能性があるなら、それを回避しなくては。

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佐久間は、その夜。

何度も女を抱きしめ、初めて女のクチビルと自分のクチビルを合わせた。

女の短い髪を優しく撫で、片時も離れる事なく女と触れ合い、夜を過ごした。

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佐久間はいつの間にか眠りの淵に落ちていた。

深夜、不快な音と重苦しい空気で目が覚めた。

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ブブブブブ…

ブブブ…

ブブブブブブブ…

女に集るハエの羽音か…

暗闇の中、佐久間は身体を起こし、女の身体の周りを両手で払う仕草をする。

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ブブブブブ…

佐久間が追い払うくらいでは追い付かない程、ハエが増えているのだろう。

音が止む事はない。

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「チッ…」

佐久間は小さく舌打ちすると、ハエが女に集らない様に、ベッドから抜け出ると、女の身体を頭から布団で包み込んだ。

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ブブブブブ…

少しこもった音に変わりはしたが、羽音は止まない。

暫く佐久間は、女を包み込む様に両手で掛け布団をベッドに押し付けていた。

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やがて掛け布団で包んだ女の身体が細かく震える様に揺れる。

(女の身体に湧いた蛆が一斉に出て来たのか!?

そんな馬鹿な!!)

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佐久間はふと怖気付き、押さえて居た布団から手を離した。

すると、掛け布団が激しく上下し始め…

ブッ…

ブブブブ…

ブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブ…

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ハエの羽音と共にバサリとベッドから床へ勢いよく吹っ飛ぶ様に落ちた。

佐久間は最初、飛んで来た布団に気を取られ、その後ハエが集ってるであろう女に眉をひそめながら視線をやる。

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女は…ベッドの上でいつの間にか海老の様に丸く蹲っていた。しかし、身動きしない筈の身体はゆっくりと蹲った姿勢のまま、ぴんっと指先だけを伸ばし、ピクピクと指の関節を鳴らす様に…何かを探る様に動かすと、指を外側に反る様に向けて曲げ、まるで準備運動の様にポキポキと音を鳴らし、爪を立ると四つん這いになり、ゆっくりとベッドから床へ降りた。

佐久間は声にならない悲鳴を上げる。

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ショートカットの頭を床に擦り付ける様にしながら、まるで蜘蛛の様に腕も足も身体の横に大きく開くと、肘と膝を曲げ、指先の爪だけを床に付け、カチカチと爪音を立てながら佐久間へ向かって来る。

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逃げたいのに足が思うように動かず、立ち上がる事も出来ないまま、寝転がるように尻だけを床に着け、そして両手を身体より後ろに向け、女を正面に捉えたまま、両足で床を蹴る様に後ろに下がる。

目は女に釘付けになっている。

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女は、床に着けた頭を必死で持ち上げようと細い首に力を入れるが、小さな頭も簡単には持ち上がらないらしく、そのまま顔だけを横にして、佐久間の方に向ける。

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ブブブブ…

女の少し開いた口の奥からは、女の声ともハエの羽音とも付かない音が絶え間なく漏れている。

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斜めに辛うじて上げた頭から顔が見えると、閉じていた眼が…

佐久間を見詰めるかの様に、ゆっくり開いて行く。

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佐久間は、怖いのに…

目を開けた女を見たい欲求に駆られ、そのまま動けずにいた。

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ポタリ…

女の眼から白いものが零れ落ちる。

落ちた白いものは、床の上で音もなく蠕動を繰り返し、佐久間へ向かって来る。

「ひ…ひぃ……っ……」

佐久間は女の眼から落ちた蛆を避けようと、上半身を捻り、そのまま立ち上がろうとした。

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だが、佐久間のその足は…

女の指先が深く爪を立てていた。

佐久間は足首の痛みと恐怖で引き攣りながらも、必死で女の爪を足から剥がそうとするも、肉の奥深く爪がガッチリと食い込み、いくら両手で指を外そうとしても外れない。

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「やめ……」

叫ぼうとした刹那…背中を丸める様にした姿勢で、俯いた女は、佐久間の口の端に手に掛けると、そのまま力強く頭を突っ込んで来た。

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いくらなんでも入る訳がないのに、口を横に引っ張りながらも脳天を佐久間の口に押し当て、ぐいぐいと押し込めて来る。

佐久間の身体は壁に追い込まれ、背中も後頭部も壁にギューギュー押し付けられている。

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女は確かに死んでいたのに…

それなのに動いている事に…

佐久間にこんな痛い事をする事も…

何故なのか?

まるで訳が分からない。

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華奢な女のどこにこんな力が?と思う程、男の佐久間でさえ女の行動を止める事も避ける事も出来ないでいた。

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口の中に頭を突っ込んで来ようとする女。

ただ、真っ直ぐに力を入れて、ただそこ一点に全力を込める様に頭を突っ込んで来る。

やがて佐久間の口の両端が切れて血が流れ出す。

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(このままじゃ、口裂け男になっちまうじゃないか!!)

佐久間は必死で女の頭を片手で押し除ける様にしながら、もう片方の手は、女の肩を掴み、思い切り押し除けている。

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だが、女の力は佐久間よりも強く、顔を背ける事も出来ず、為すがままの状態だった。

服を切り裂く様に女の爪が深く突き刺さった二の腕はダラダラと血を流し、必死で抵抗するも華奢な筈の女の力に敵わない。

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(女に殺される…)

佐久間は半ば諦め、女を押し避ける腕の力を緩めた。

(どうせ俺が死んだ所で、悲しむ人間なんていやしないんだ。いずれ年老いて動けなくなってから孤独死するのも、今ここで死ぬのも、同じ事じゃないか…)

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佐久間は頭を口に押し込んで来る女の好きにさせた。

顎が外れそうな痛みと、既に大きく口を開き過ぎているからか、呼吸も苦しくなり、思考もぼんやりとして来る。

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(短い時間だったが、俺は…

この女に…

死んでいたこの女に…

癒しをもらっていたのは確かだ。

死人であるにも関わらず、俺はほのかにこの女に恋をしていた。

誰にもこの女の存在を知られたくなかった。

自分だけの秘密にしておきたかった。)

佐久間は顔を暗闇の天井に向けた。

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ガクッ…

顎が完全に外れた。

激しい痛みと共に、顎と頬を繋いでいた骨が外れ、下に向かって口が大きく開けられた。

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女は大きく開いた口に頭を押し込め、二の腕を掴んでいた手を、佐久間の首に当て、爪を立てる。

床に突き立てていた爪は割れて、鋭利な刃物の様に佐久間の喉に容赦なく突き刺さる。

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「うぅ…」

痛みと呼吸困難で意識も朦朧としていた佐久間は、一瞬、正気に戻り、呼吸を確保しようと…

喉に突き刺さる指を外そうともがくが、男の佐久間であっても、女を押し除ける事は出来なかった。

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ただ、手足をバタバタとするだけで、やがて…

佐久間の意識は深淵の奥へ向かう。

耳には

ブブブブブ…

女から発せられる音を残して…

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*****

(又だ…)

見慣れた部屋の中。

その部屋の隅で蹲る(うずくまる)女。

(こっちを見るな…)

佐久間は恐怖で歪んだ顔を女に向けて、ひたすら祈る。

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(これは夢…いつもの夢なんだ…

だから、早く目覚めてくれ!!)

佐久間は薄っすらと両目に浮かべた涙の自覚もなく、意識も視線も女に釘付けであった。

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誰にも看取られず

誰にも気付かれる事なく

佐久間と女は都会の空き家で

物言わぬ姿になった。

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毎夜…

佐久間は女に繰り返し襲われ

殺される

毎夜

毎夜…

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*****

その日、シズカは、来週のデートに渡そうと、彼のトシキの誕生日プレゼントを買いに出掛けた。

奥手のシズカにとって、トシキは初めて出来た彼だった。

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中学生の頃から憧れていたトシキとは、別々の高校に進んだ事から会う機会もなくなり、偶然にも同じ大学のテニスサークルで再開し、高校からの親友のレイカの後押しもあり、告白をしたら二つ返事でOKをもらえた。

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シズカは舞い上がっていた。

1時間間隔での◯INEの送信。

毎日、朝、昼、晩の電話も欠かさずトシキにし、何でも、どんな事もトシキに話した。

初めての彼が初恋の人なのだから、嬉しさの余り有頂天になるのも頷ける。

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その日は…

渋谷でトシキの誕生日プレゼントのスニーカーを選んでいた。

トシキのお気に入りのブランドのスニーカー。

シズカは自分も色違いで購入し、トシキの分だけを綺麗にラッピングしてもらった。

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自分の分まで買うなんて予定外の出費だったから、手持ちも少なくそのまま帰ろうかとも思ったが、喉が渇いたので、近くのオープンカフェに入り、冷たいラテを頼んだ。

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道行くカップルを眺め、自分と彼は他人にはどの様に映って見えるのかな?なんて、大好きなトシキの事で頭が一杯になり、思わず微笑む。

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その時、人混みの中、見慣れた姿を見付け、嬉しさの余り心臓が爆発しそうになる。

偶然と言うのも、ひとつの運命なのではないか?

シズカはその人物へ手を振ろうと…

自分の存在を知らせようと…

腕を上げようとした所で金縛りに遭った。

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誰かと一緒にいる。

トシキは笑いながら、隣りを歩く者へ優しい瞳を向けている。

ショートカットでボーイッシュなシズカと違い、胸の辺りまで伸びた、少しだけウェーブのかかった明るく柔らかそうな髪。

色白の肌を優しいピンク色に頬を染めて、トシキを少し上目遣いで見上げる垂れ目。

サーモンピンクのブラウスに薄いミントグリーンのカーディガンを羽織り、トシキと指を絡めて歩いている。

誰がどう見ても、カップルにしか見えない。

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「レイカ…なんで?」

シズカは呟く様に漏らすと、腕をそっとテーブルの上に下ろした。

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トシキとレイカは視線に気付きもせずに、シズカの前を通り過ぎて行く。

シズカは言葉も発せず、目の前を過ぎて行く二人を見送っていた。

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グラスの中のラテは、溶けた氷が上層に透明な膜を作り目の前に置かれているが、シズカは飲む事も泣く事も出来ずにそのグラスをただ見詰めていた。

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やがて、重い腰を上げると、いつの間か明かりが灯り、夜の暗さも感じさせない道を、力なく歩き、電車に乗ると自宅へ帰った。

レイカにもトシキにも会いたくなんてなかった。

二人に会えば、自分が正気でいられる自信がシズカにはなかった。

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(トシキに告白をしろと言ってたくせに…)

(応援してるって言ってたくせに…)

シズカは何度も何度も、レイカを責める言葉を呟き…

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(昔から変わらないなって、表裏のない私が好きだって言ってたじゃない…)

(誕生日には、夜景の綺麗に見えるホテルの部屋を予約して…

初めての夜を過ごす約束…してたじゃない…)

トシキの裏切りに恨みの言葉を溢す。

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毎日の恒例になった夜の電話も、その日はトシキにかける事も出来なかった。

次の日も学校は休んだ。

いつもなら休みの時はレイカに連絡をするのだが何も告げなかったら、昼過ぎにレイカから◯INEが入る。

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【ヤッホ❤️

どうした❓

風邪❓】

シズカは返信も出来ず、スマホを握りしめたまま、黙って画面を見ていた。

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【どうしたの❓】

【おーい❓】

【既読が付いてるけど、具合悪いの❓】

【大丈夫❓】

通知音が立て続けに聞こえ、その度にレイカのメッセージが増えて行く。

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シズカはスマホを握り潰したい欲求を抑え、クッションの間に仕舞った。

母親が夕飯だと階段下でシズカを呼ぶが

「要らない!!」

そう叫ぶと、枕の上に思い切り顔を突っ伏した。

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夜になると、又スマホから今度は着信音が微かに響いて来た。

クッションの間からスマホを出し、誰からか見ると、トシキから。

昨日の夜から電話は勿論、◯INEもしていない。

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いつもはシズカからの電話ばかりで、トシキからなんて、もしかしたら…初めてかもしれない。

だけどシズカはちっとも嬉しくなかった。

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ー声を聞けば何も抑えられなくなるー

分かっているから…

責める言葉しか出て来ない…

だから、音が消えるまでずっと…

画面から目も離せず、見詰めていた。

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レイカが何度◯INEをして来ても、電話をして来ても、返信もせず、電話にも出ない。

トシキからもそうだった。

それも1週間を過ぎると、レイカ、トシキ、2人からの連絡はパタっと止んだ。

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トシキの誕生日も、結局、行かなかった。

ホテルもレストランも、きっとレイカと2人で行ったのだろう。

そして、シズカが2人の関係に感づいたと、やっと彼等は気付いたのかもしれない。

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眠れない夜が続いた。

食事も殆ど口に出来なくなった。

学校にも行けなくなった。

誰か、人に会うのが堪らなく苦痛になった。

通り過ぎる人全てが、シズカを笑っている様な気がして、家から出られなくなった。

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げっそり窶れた娘を心配した両親に引き摺られ、心療内科を受診した。

心の風邪だと言われた。

大量の薬を出されたが、そんな薬すら喉を通らない。

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(何も知らない私を…

2人は笑っていたんだ…)

(もう…誰も信じられない…)

(彼氏なんて、金輪際作らない。

ううん。男なんて信じない。

嫌い!!)

シズカは自暴自棄になっていた。

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だが、母親はそんなシズカを心配し、最近はパートも早目に切り上げて帰って来る様になった。

外へも出られないシズカに、しつこく

「一緒に散歩にでも行かない?」と聞いて来る。

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シズカにとって、それすら余計なお世話だったが…

受験の時も母親の献身的な応援のお陰で、無事に志望校に合格出来たのは事実。

そんな母親に邪険な態度も取れずに居たので、母親がパートから帰る少し前に1人で散歩に行く様になった。

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リビングのテーブルに

『お散歩に行って来ます』と書き残し、なるべく人の居ない道を選んで歩いた。

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だが、食事も満足に摂っていないシズカにとって、少しの散歩すら体力不足でフラフラになってしまう。

そんなある日、家から少し行った細い路地に踏み入った時に、路地の奥まった場所に人の住んで居なさそうな空き家を見付けた。

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玄関の扉はベニヤが剥がれて垂れ下がり、僅かな庭とも呼べない敷地内は枯れた夏草が伸び放題になっている。

隣の家との境の塀の間に入り込み、雨戸を横にずらしてみたら、軋む音を立てながらもシズカが入り込めるくらいは開いた。

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窓も鍵は掛かっていなかったから、一人分程窓を開けると、部屋の中へ入って行った。

明かりの射さない部屋は暗く、ポケットからスマホを出してそれを明かり代わりに室内を照らす。

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長年人が踏み入って居ないからだろう。

なんとも言えない埃っぽい臭いとカビ臭さが鼻を突く。

畳の下の土台も腐っているらしく、歩く度にギュッギュッと音を立て、足が沈む。

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そのままスマホをかざし、玄関横の二階へと続く階段を上った。

暗い廊下には、一部屋からの僅かな明かりが漏れてシズカを導いている様に見えた。

雨戸が10cm程開いているからか、その部屋だけは少しだけ明るかった。

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ぐるりと部屋を見渡すと、壁の上部に沢山の観光地のペナントが飾られ、鴨居には此れまた沢山の観光地名の入った提灯が飾られている。

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勉強机の上には、この家の家族なのだろう。

親子3人の入学式らしき写真。

机に設置された本棚には色んな辞書が並べられ、その横の本棚には、聞いたことのある昔の漫画の本が几帳面に並んでいる。

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(埃や臭いは気になるけど、外で過ごすよりも誰もいないこの家で休んだ方がマシ…。)

シズカはベットに腰掛けると、母親へ◯INEでメッセージを送る。

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【今、友達と一緒だから、ご飯食べて帰る】

と、嘘を吐いた。

こうすればご飯を食べろと言われる事もないし、誰かと一緒にいると言えば、母親も安心するだろう。

そして、そのままベッドに横になると眠った。

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暗闇で目が覚めたシズカは、静かに…誰にも気付かれない様に家を出る。

いつしかそれがシズカの日課になって居た。

その日もシズカは母親がパートから帰る前に家を出た。

いつもの空き家へ向かう為に。

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玄関を出て暫く行くと、以前、シズカとトシキの通った中学校へ曲がる交差点に出て、信号待ちをしていた。

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その時、後ろからいきなり肩を掴まれたシズカは、ビックリして振り返ると…

そこにはトシキが立っていた。

何故か怒った顔をして、シズカを睨むように見詰めている。

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声を出せずにトシキの顔を見上げていると、その背中からおずおずと顔を出すレイカ。

垂れ目のパッチリした瞳は薄らと涙ぐんでいる。

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「確かに…

シズカにちゃんとお別れも言わずにレイカと付き合った事は謝るよ。

だからって…

レイカに裏切られたとか、トシキを盗られたとか…皆に言う事じゃないよな?

その所為で、レイカはサークルの皆から嫌味を言われて、結局、辞めざるを得なくなったんだよ。

それにさ…

最初から遊びだったんだろ?

本気で俺を好きな訳でもなかったくせに、大学にも来なくなったり変な噂を流したり…その所為で、俺達がどれだけ居心地の悪い思いをしてるのか考えた事はあるのかよ…どこまで俺とレイカを追い込めば気が済むんだよ!!」

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トシキが何を言っているのか、シズカには全く理解出来なかった。

すると、トシキの背後からおずおずとレイカ出て来ると…

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「シズカ。ごめん。」と、声を上げて泣き出した。

そんなレイカの肩に手を回し、トシキは優しく、宥める様に声をかけている。

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「私…

誰にも何も言ってない…

それに…

トシキに言ってなかったけど…

中学の頃からずっと…

ずっと…ずっと…

トシキが好きだった…

だから、告白して…

OKもらった時、私…

凄く嬉しかった…

なのに…

なのに…

なんで?

どうして?

レイカ…

あんなに応援してくれてたくせに…

トシキにOKもらった後も、あんなに喜んでくれたのに…」

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シズカは、レイカに詰め寄った。

それを阻むかの様に間に割って入ったトシキから、冷たく、刺す様な眼差しを投げ付けられ、絶望的な言葉を吐かれた。

「レイカもずっと俺の事、好きでいてくれたんだよ。

なのに、友達の好きな人だからってお前に遠慮して言えなかったんだって。

それに、俺もお前よりレイカの方が好きだった。

告白して来たのがレイカだったら良かったのにって、そう思いながらお前と一緒に居たんだ。

それは悪いと思ってる…。

結果的にお前を傷付けてしまった事は悪いと思ってる…。

だけど…

好きな気持ちはどうしようもないんだよ。

俺はレイカが…

レイカだけが好きなんだ!」

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トシキは興奮気味にそう言うと、レイカの肩を優しく抱き、シズカに背を向けて行ってしまった。

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信号は何度目かの青に変わっていたが、シズカは渡る事も引き返す事も…

まして、トシキとレイカを追う事も出来ずに立ち竦んでいた。

そして、踵を返すと小走りで家に向かい、玄関の鍵を開けると自室へ飛び込んで行った。

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ベッド横の小さなテーブルの上に置かれていた調剤薬局の名前の印刷された封筒を掴むと、それを持っていた鞄に押し込め、急いで玄関から飛び出した。

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母親に会いたくない…。

父親にはもっと会いたくない…。

1人になりたかった。

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いつもの狭い路地を行き、いつもの空き家に来た。

冬の薄い太陽を見上げ、そっと中に入って行った。

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1人に…

1人にさせて…

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誰にも…

会いたくなんてない…

薄暗い部屋の埃臭いベッドにシズカは腰掛けた。

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そして、家から持って来た心療内科で処方された薬を鞄から出す。

ペットボトルのミネラルウォーターのキャップを外すと、錠剤を一つずつシートから取り出して行く。

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その時、シズカの耳元でハエの羽音が響いた。

冬なのに、こんな季節でもハエがいる事に嫌な気持ちがしたが、片手で追い払うと、取り出した錠剤をミネラルウォーターを使い、飲み干して行く。

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意識が朦朧とするシズカの耳には、ずっと、ずっと…

ハエの羽音が響いていた。

ブブブブブブブブ…

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これはnoteで有料にしてもお金取れるレベルの傑作

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