俺がまだ都内のアパレル会社で働いていた頃の話。
随分長い間綱渡りをしていた。
俺の業務内容はいつパンクしてもおかしく無いような飽和状況だった。
月の商品構成に始まり、企画、サンプル依頼、プレゼン、量産品の確認、工場のライン管理。
3ブランドの同時進行。
何処かで一つでも問題が起こればそれでお終い。
後はドミノの様に崩壊するのは時間の問題だった。
課長からは再三に渡って周りに仕事を振るよう言われたが俺はしなかった。
周りが無能だった訳ではない。
俺が無能だったのだ。
俺は学生時代、とんでもない劣等生だった。
辞めずに卒業出来たのも奇跡に等しい。
卒業式も式に出席せずにギリギリまで卒業制作に追われていたくらいだ。
そんな俺がここでは結果を出し、評価されている。
自分には縁がないと思っていた商品企画に携わり、今ではメインブランドも含め3ブランドも担当している。
寝る暇もない程の激務は俺のプライドであり、全てだった。
「絞り出すように考えた企画も、吐きそうな程の重圧を感じるプレゼンも、商品が売れた時の震える程の歓びや感動も、全部俺の物だ。誰かに渡すなんて絶対にしない。」
本気でそう思っていた。
会社の連中と遊んだ後も、飲み会の後も会社に戻って仕事をした。
余裕を見せたかった。
辛そうなんて思われたくなかった。
だが、ひとつのミスで俺の王国は崩壊した。
きっかけは小さな、それでいて取り返しのつかないミスだった。
生地の発注の見落とし。
悪い事にそれは定番商品の生地であり、本当であれば常時在庫しているはずの物だった。
いつもあるもの、という思い込みから工場も気が付くのが遅れた。
納期の2週間前だった。
生地が出来上がるのはどんなに急いでも1ヶ月はかかる。
大幅な納期遅れだ。
俺は少しでも納期を早めようと躍起になった。
こんなミス考えられない。
あらゆる伝手をあたって生地を集め、工場のラインを組み換え、するべきその他の商品のチェックを後回しにした。
当然の事ながらその代償は、後の商品の納期遅れや不良品として俺に降り掛かった。
八方塞がりになった俺はメインブランド以外の担当を外され、俺のプライドは別の人間の手に渡った。
「少し負担を減らしたから、これからは余裕を持って仕事しろ。」
と課長は言った。
確かにずっと走りっ放しだった。
泳ぐのを止めたら呼吸が出来ない魚みたいに俺は仕事をしてきた。
自分を見つめ直すいい機会かもしれない。
そう思って仕事にあたった。
だが、無理だった。
糸が切れたかのように、俺の身体も心も以前のようには動かなかった。
俺のアイデンティティはクソみたいなプライドと共に手のひらから溢れ落ちていった。
企画が思いつかない。
以前では考えられないようなミスを繰り返す。
集中力が続かない。
見かねた中村課長が俺を晩飯に誘った。
「どうした?最近。お前らしくない。
そろそろ立ち直って貰わないと困るんだけど。」
「はい、すみません。解ってはいるんですけど。」
「やる気が起きない?」
「はい…」
「どうする?少し休むか?」
休んだらどうにかなるだろうか?
当時は今ほど鬱病が世間一般に浸透していなかった。
俺も自分を鬱病だとは考えてなかったし、カウンセリングを受ける発想もなかった。
なにより休んだ後で俺の居場所があるとも思えなかった。
それ程までに俺は燃え尽きていた。
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「辞めます……」
自然と口から溢れた。
慌てた課長が俺を宥め、説得を繰り返すが俺の気持ちは変わらなかった。
「解った。後で部長に俺から言っとく。
明日部長からも話があると思うけど、取り敢えず今日はもう上がれ。」
説得を諦めた課長に言われ、俺は帰路についた。
課長とも長い付き合いだ。
彼が課長になる前からお世話になってきた。
俺にとっては兄貴のような人だった。
そんな課長を裏切るような形になってしまい、俺は情けない気持ちで一杯だった。
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次の日出社した俺に部長は
「今日の夜付き合え。」
と言って自分の席に戻った。
昨日課長に伝えた事を、今度は部長にも言わなければいけない。
申し訳ない気持ちになった。
その夜、俺と部長は会社から離れた場所にある居酒屋に向かった。
「中村から聞いたよ。辞めるって?」
乾杯もせずに部長はビールに口を付ける。
俺は昨日課長に言ったように、やる気が起きない事、迷惑をかけて申し訳ないと伝えた。
「まあ最近のお前の様子がおかしい事は気付いてたよ。ここまでとは思わなかったけどな。
悪かった。もっと相談に乗ってやればよかった。」
俺は首を振る。
「お前、昇進の話も蹴ったんだろ?
あいつ頭抱えてたぞ、手強いって。
強情で手に負えないから後は任せますって。
さて、どうやって説得しようかな。」
確かにこんな状態で課長になるわけにもいけないと思い断った。
それにしても説得するつもりなのか?
俯く俺をよそに、部長は普段飲むことのないウイスキーを頼むと唐突に昔話を始めた。
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俺は世田谷生まれの世田谷育ちだ。
家も割と裕福な方だと思う。
小遣いにも苦労した記憶はない。
一人っ子だった俺は甘やかされて育ってきた。
と思う。
甘やかされたと言うよりは過保護な母親と無関心な父親。
よくあるやつだ。
そして、よくあるように俺はグレた。
中学生になると学校も行かずに友達と遊び周り、家に帰るのは小遣いをせびりに行く時だけだった。
当時の典型的な不良少年ってやつだ。
将来の事なんか考えてなかったし、高校も行けるとこに行ければいいと思ってた。
そんな俺を見かねた親父が暴挙に出た。
今まで無関心だったのに突然突拍子もない条件を突き付けてくる親父に俺は驚いた。
親父はどういう手続きを踏んだのかは今でも解らないが、俺をアメリカにある海兵隊方式の学校へ入学させると言ってきた。
「ここを卒業してまともな人間になる迄帰って来るな。
いやなら今すぐ家を出て二度と帰って来るな。」
要は留学か勘当か選べって事だ。
無茶言うなって思った。
俺はロクに学校も行ってない。
当然英語も出来ない。
そんな俺がいきなりアメリカの学校へ?
絶対無理だって思った。
だけど親父の顔は真剣そのものだったし、俺もこのままじゃいけないなって思ってた頃だったから入学を決めた。
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入学してからそれはもう大変だった。
大変だったどころじゃない。
今まで好き勝手に遊んでたガキが突然寮生活の四人部屋だ。
朝は点呼で起こされベッドメイキング。
行進、ランニング、体操をしてから朝食。
朝食の時間も決まっていて、全ての行動が分刻みだった。
授業も当然英語だった。
俺には特別に語学のメニューが加えられた。
徹底的にやらされた。
寮に帰ってからもまた分刻みのスケジュール。
シャワーの時間まで決まっていた。
来るんじゃなかったって毎日後悔したし、何度も泣いた。
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友達なんて当然出来なかった。
今では日本人の入学も増えているみたいだが、俺の頃は日本人どころか他のアジア人もいなかった。
差別もあった。
汚い言葉で罵られるなんて日常茶飯事だったし、時には暴力もあった。
見かねた教官が俺の部屋を一人部屋に替えてくれた。
別に特別扱いされたわけじゃない。
寮内での無用なトラブルを避ける為だっただけだ。
そのうち暴言や暴力ではなく、無視されるようになった。
俺の居場所は何処にも無かった。
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更に最悪なことに、その部屋には幽霊が出た。
今でこそこんなだが、当時ガキだった俺は本当に怖かった。
夜中に窓から顔色の悪い男が音もなく現れて、俺のベッドの横を通り過ぎるとドアから出ていく。
毎日だ。
俺は本当に気が狂うかと思った。
逃げ出す事ばかり考えてたし、死のうとさえ思った。
卒業まで耐えられるとはこれっぽっちも思えなかった。
だけど俺は耐えた。
英語が出来なかったから留年したが、結局4年掛けて卒業した。
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信じられないかもしれないが、きっかけは幽霊だった。
毎日現れる幽霊に怯えた俺はある事を思い付く。
幽霊はベッドの横を通りすぎる。
なら床で寝れば通れなくなって出なくなるのでは?
今思うと馬鹿みたいな考えだが、それくらい俺の精神は追い詰められていた。
早速その夜に実践してみた。
いつものように窓から男が現れる。
そしていつものようにベッドの横を、
だがそこには俺が寝ている。
さあどうする?
と思っていると幽霊は、
俺の顔をチラッと見ると、ヒョイっと俺を飛び越えてドアから出て行った。
こいつには俺が見えてるんだ。
普通なら怖がるのかもしれない。
だけど俺は泣きそうになった。
こいつは俺を無視しないんだ。
たったそれだけの事が本当に嬉しかった。
俺はそれから毎日試した。
バッグや靴を置いたが素通りされた。
ある時は縦に寝てみた。
これだとヒョイっとはいかない。
どうするのかワクワクしながら見ていると、
そいつは心底迷惑そうな顔をして、ベッドを通って出て行った。
信じられるか?
その顔を見て俺は笑ってしまった。
俺の精神はそうやって幽霊と向き合うことで少しずつ回復していった。
こんなことで負けてられない。
絶対に逃げないし、死を選んだりもしない。
そう思った。
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俺は変わった。
友達なんか出来なくても構わなかった。
無視も気にしなかったし、暴言には暴言を返した。
不思議なもので、一人でもいいと思っていると周りの態度が少しずつ変わっていった。
開き直って自信が付いてきたのだろう。
やがて無視される事も無くなっていったし、友人とは言えないまでも話掛けてくる奴も増えた。
そうやって俺はこの4年間の寮生活を終えた。
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前半の重い寮生活から、突然飛び出した幽霊の話に俺はポカンとしてしまう。
「えーと。何の話ですか?これ。
説得?それともなんかの教訓ですか?」
いつの間にか空になったウイスキーのお替りを頼むと部長は
「だから、きっかけは何でもいいって話。
教訓はねえよ。そもそも俺に教訓を求めるな。」
と言い、タバコに火を点けた。
確か禁煙中だったはずだ。
勢いよく煙を吐き出して続ける。
「お前のやる気を出してやる事は俺には出来ないよ。っていうか誰にも出来ない。
出すのはお前だから。お前が出すって決めないと出ないんだよ。
だけどきっかけを作ってやる事は出来るって話。」
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?
まだ話が見えない。
「幽霊が?」
「俺が。」
どういう事だろう。
「お前覚えてるか?前に俺の直属の課に来いって言った事あったよな?」
ありましたね。
「で、お前考えておきますって言ったよな?」
言いました。
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「で、だ。お前異動しろ。今の課から俺の下に来い。
1年でいい。
1年俺の課でやって、それでも辞めるって言うんならもう止めない。好きにしろ。
兎に角、このまま辞めるってのは認めない。
次の就職先決まってるのか?まだだろ?
知り合いの会社に再就職が決まったと思えばいいだろ?
だからゴチャゴチャ言わずに俺の直轄の課に来い。
お前のとこのやり方って特殊だから。
こっちが普通。
今後の為にも経験しておいた方がいいって。
どっちにしたってこの業界続けんだろ?」
「今決めなきゃ駄目ですか?」
「前に聞いてから随分経ってる。充分考えただろ。今決めろ、ここで。」
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気持ちが揺れる。
人間関係が悪くて辞めたいわけじゃない。
全部自分の問題だ。
異動か。
そんな選択肢、考えてもいなかった。
もう一度、新人のように。
新しい課でイチから。
もしかしたらやれるかもしれない。
1年なら、それならなんとかなるかもしれない。
「解りました。宜しくお願いします。」
頭を下げる。
籠絡、そして開城。
さらば俺の王国。
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「よし!決定!
さて、じゃあ飲むか!」
もう3杯目ですけどね。
「早速だけど引継ぎは一週間で。
取り敢えず全部中村に振っちゃえ。どうせ同じ社内にいるんだから何かあったら聞きにくるだろ。」
解りました。
ってあれ?
あれだけ葛藤した俺のアイデンティティとプライドは「取り敢えず」という形で中村課長に引き渡された。
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「給料も据え置きでいいよな?
昇進蹴ったんだし。そもそも勝手も違うだろうから。」
いや、昇進蹴ったのは辞めるつもりだったからで。
もしかして俺、騙されてないか?
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「いやあ、忙しくなるなあ。
中村のとこもお前抜けたら困るからな。
民生を日本に戻すか。」
民生くんの帰国が決定。
そして俺のアイデンティティとプライドは中村課長から民生くんにたらい回される事も決定。
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「お前が来るならハジメはまだ香港だな。」
ハジメさん延長入りました。
ん?俺のせいか?
恨まれないよな?
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「それじゃあ、乾杯するか。
どうだった?俺の説得。
辞めないって事は伝わったって事だな?」
「伝わりましたよ。
幽霊みたいに部長を飛び越えろって事ですよね?」
「違うよ!全っ然違う!伝わってねえなそれ。」
「冗談ですよ。それじゃ乾杯。」
そう言って俺は笑った。
なんだ、ちゃんと笑えるじゃないか。
俺達はグラスを合わせた。
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そして次の日、俺は中村課長に昨日の事を話し、頭を下げた。
中村課長はブスっとした顔で言った。
「昨日部長から電話で聞いた。
なんにしても残るって決めたのは良かったよ。
でもさ、考えてみろよ。
うちの課からはお前が居なくなって、部長のとこは会社の事をよく解ってるやつが給料据え置きで入るんだぞ?
俺が説得したんだって偉そうに言い回ってさ。
なんかあの人ばっかり得してないか?」
ほんとだ。
まあ俺にそれ程の価値があるとも思えないが、結果引き抜かれたみたいなものだ。
しかも給料据え置きで。
確かに得したのは部長かもしれない。
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得したと言うなら民生くんもだ。
いつまで居るのか解らなかった出向だったが、思わぬ形で帰国が決まった。
当初の予定だった1年はとっくに過ぎてる。
日本に帰って来たら俺が担当してた業務が振られるのだろう。
って事はあいつ課長になんのか?
なんだか俺は結局、あの二人に振り回される役回りらしい。
取り敢えずあと1年頑張るか。
作者Kか H