『夜這い』
「なんの冗談?」
妊娠の報告にそう返すと、妻は「どういう意味よ」と口を尖らせた。
どういうも何もこの半年、していない。
忙しさから布団が恋人だった俺への嫌味なのか。
しかし妻は
「最近はしょっちゅうあなたから誘ってくるじゃない」
と言う。
嘘には聞こえないし、浮気をするような女でもない。
しかし、それでも俺はやってない。
結局険悪なまま妻は先に寝てしまった。
時間差で寝室へ向かうと、豆電球が妻ともう一人の姿を浮かび上がらせていた。
薄暗い中でもはっきり、俺だとわかる。
「赤ちゃんがいるんだから、優しくね」
甘い囁きに、俺は妻に口づけた。
どういうことだ?
妻と俺がやっている。じゃあ、ここに突っ立っている俺は誰だ?
混乱のまま、意識は遠のいていった。
目覚めると布団の中だった。妻は静かな寝息を立てていた。
その腹部にそっと手をやる。
ここから何か出てくるのか。
それまで、俺は俺でいられるのか。
平らかな腹は何も答えてくれなかった。
(399文字)
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『子供の絵』
最近、五歳の息子のことで気になることがある。
彼はお絵描きが好きなのだが、この頃奇妙なものを描くようになった。
一つの大きな丸の中に、小さな丸が横に並んで二つ。大きな丸の両側からは、下向きの線が一本ずつ伸びている。
それは、息子の描く「パパの顔」のすぐ隣に、いつもひっそりと浮かんでいた。眉や髭を細かく書き込んだ「パパ」に比べ、その絵はあまりに稚拙だったが、私にはどうもそれが人の顔に、それも女性の顔に見えるのだった。
「コレは何?」と訊いても息子は首を振るばかりだが、一言「パパの隣にいつもいるよ」と無邪気に答える。
夫に寄り添う怪しい女に、不本意ながら心当たりはあった。
黒川葵。夫の同僚で、既婚者であることを知りながら近づいてきた恥知らず。何度牽制しても諦めなかったしつこい女だ。
いやしかし、そんなはずはない。背中を冷たい汗が伝う。
あの女に、今更何ができるわけもない。
だって、私が殺したのだから。
(395文字)
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『色変わり』
十数年振りに実家に戻った。
春の匂いの濃いある日、近所を散歩していると
「あれ?」
ふと目についた花の色に、私は首を傾げた。
近所の家の庭で、木蓮が濃い紅色に咲き誇っている。
しかし、あの家にあったのは白木蓮だった気がする。
記憶を辿るが間違いない。昔あの木蓮をひと枝もらったことがあった。甘い香りと共に、乳白色の大きな花によく似た奥さんの顔が蘇る
私は首を傾げながら家に戻り、母に尋ねた。
「あの木蓮、赤色だったっけ?」
母は顔を曇らせた。
「あそこ、もう空き家なの。五年くらい前に離婚して。奥さんは精神的にすっかり参っちゃったみたいで、あの木蓮で首を吊って亡くなったの」
「…」
「木の下にはご主人の写真と一緒に、小動物の死体がいっぱい埋まってたらしいわ」
数日後、木蓮は赤い花弁を絨毯のように散らしていた。
彩りがなくなりひっそりと佇む木は、どこか俯きがちに立つ女性の姿を思わせて、私はそっと手を合わせた。
(392文字)
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『とりつく』
「目がおかしい」
診察室に入るなり彼はそう言った。
ここは私が雇われ医師として働く眼科クリニックである。
「おかしいとは?」
「俺の顔が別の奴の顔に見える」
彼は投げやりに言った。
私がつい首を傾げたせいだろう、苛立ったように「だから」と続ける。
「俺の顔だけが、別の奴の顔にすり替わって見えるんだよ」
それは目ではなく頭がおかしいのでは?
とはとても言えない。
「別の顔とは?」
「…親父の顔だよ」
「それは、似てきたということではないのですか?」
「だから、そんなんじゃねぇんだよ!」
彼は激昂し、空いている椅子を強く蹴った。内心縮み上がったが、私は努めて冷静を装う。
「まぁ、落ち着いて」
「うるせー、ヤブ医者!」
彼は捨て台詞を吐いて踵を返した。
その背中には、一人の老人がおぶさっていた。
彼によく似た老人は、指の跡がくっきりと残る首筋を私に見せつけながら、彼を指差しニヤリと笑った。
そして、ますます強く彼にしがみつくのだった。
(400文字)
作者カイト