「入院ですか?」
健康診断を受けてその場で帰るつもりだったアサコは面食らった。
時々、貧血で立ちくらみがすることはあったが、それ以外はいたって健康体だと思っていたからである。貧血も最近始めたダイエットの所為だと思っていた。元々、腎機能が悪く、通院をしていたのだが、どうやら今回の血液検査の結果が思わぬほど悪くなっているようなのだ。
「まあ、今すぐにとは言いません。職場ともご相談なさって、入院できそうな日をお知らせください。」
医師からそう言われ、体にあまり支障がないので正直戸惑った。おそらく、いろいろ検査や、長期的に調べないとわからないこともあり、今後の治療の方向を見定めようということであろう。
「店長になんて言おう。」
ただでさえ、アサコはその空気の読めなさと機転の利かなさで良く思われていないと感じていた。
長期休業を申し出ようものならどんな嫌味を言われるのだろう。それを考えると憂鬱になった。
そもそも入院というだけでも憂鬱になった。あの他人と同じ空間を有するのもたまらなかったし、病院というものは真夜中でも騒がしく、とても眠れる状態ではない。よほどの重病でないと個室など与えられないので、かえって不健康になるような気がしてならない。
パートの稼ぎも少なく、夫に依存して生活している身で、それでも少しは家計の足しになっているパートを長期間休んで、家事の面でも夫に負担を強いることも、ほんとうに申し訳なく思う。そして、健康の不安を抱えながら、これからどんな治療が始まり、どれだけ家計を圧迫するのかを考えると絶望的な気分になる。
店長に相談すると案の定、言われるのではないかと予想した言葉が返ってきた。
「アサコさん、ダイエット、無理しすぎて病気になったんじゃないの?ちゃんとご飯食べてる?」
あくまで体調を管理できないのは自己責任というのが彼の考えだ。生まれつきの体質だとか、そういった前提はいっさい考えない。前々から持病があるなどと言えば、雇ってもらえないだろうし、血圧が高い程度が果たして持病になるのだろうか、と申請することを躊躇するというのは誰にだってあるだろう。
しぶしぶ1週間の休みをもらい、アサコは入院することにした。最初は2週間と言われたのだが、仕事があるからと1週間にしてもらったのだ。陰鬱な気分で、アサコは待合の椅子に荷物と共に、入院の手続きを待っていた。アサコが座っている、対面する正面の椅子に、どこから見てもかなり認知症が進んでいると思われる、病院着を着たおじいさんが、口をばっくりと開けてこちらを見ていた。アサコはその虚ろな目線を避けるために、何気なく席を左に移した。目が合ったら何か言われるかもしれない。だが、それはアサコの思い過ごしであって、アサコが席を移動しても、そのおじいさんの視線はブレることなく空を見つめていた。
呆けたら私もあんなふうになっちゃうのかな。嫌だなあ。アサコは老いることへの焦りを感じた。子供も社会人となり、アサコもいい年になっていた。子供にだけは迷惑かけたくないなあ。漠然とそんなことを思いながら、おじいさんをなんとなく見つめていた。
すると、アサコは何か違和感を感じた。おじいさんの口の中で何かがモゴモゴしているのだ。入れ歯を直しているか、塩梅が悪いのであれば、もう少し口を動かしていても良いはず。だが、おじいさんの口は自発的には一切動いてはいないのだ。それを認識してしまうと、とたんにアサコは気味が悪くなった。そして、そのモゴモゴした口の中から、なにやら昆虫の足と羽らしきものがチラリと覗いたのだ。
「キャッ」
思わずアサコは叫んで、口を押さえた。
見た目は足と羽が、蝉の体の一部に見えたのだ。
「何?どうしたの。」
となりに居たアサコの夫が怪訝な顔をした。
「お、おじいさんの口から、む、虫が・・・!」
夫は呆れ顔になった。
「はあ?そんなおじいさん、どこにもおらんやん。」
アサコが夫の顔から、目の前に視線を戻すと、そこには誰も座っていなかった。
「え?」
確かに、そこに口を開けっ放しのおじいさんが座っていたのに。
「大丈夫か?お前。」
夫は心配顔になりアサコを覗き込んだ。
「ううん、なんでもない。たぶん見間違い。」
そうだ。そんな馬鹿なことがあるはずがない。人の口から虫が這い出してくるなど。
夫はまた、アサコの天然ボケだと思い苦笑した。
案の定、入院生活はとても快適とは縁遠い環境だった。繰り返される毎日の検査、夜になれば認知症患者と思われる老人の叫び声や、バタバタと行き交う看護士の足音や気配でとても眠れる状況ではなかった。だから、アサコはつい、昼間にウトウトしてしまう。病院の夜は長い。9時には消灯となるので、長い夜を眠れずに寝返りをうちながら朝を待たなければならない。
「早く帰りたい。」
アサコは毎日のように思った。
そして病院というところは、空調が快適すぎて、乾燥し、やたら喉が渇くのだ。昼間のうちに差し入れの水分を飲んでしまったら、一番下の階の外来にある自動販売機まで買いに行かなければならなかった。入院もあと1日となった日の夜、消灯してから猛烈に喉が渇いたアサコは、やむを得ず下の外来までジュースを買いに行った。本当はお茶の方がいいのだろうけど、病院というところは甘味にも飢えてしまうのだ。甘いジュースを飲みたかった。明日退院なんだから、いいよね?これくらい。そういうアサコの自分に甘い所が、アサコの病状をここまでにしてしまったのは言うまでもない。
正直、入院初日の出来事が頭から離れなかった。見間違いだと思おうとしても、あの口の中から出てきたものは、やはり昆虫にしか見えなかったのだ。だからなるべく、夜の外来の待合には近づかないようにしていたのだ。エレベーターを降りて、薄暗い待合を過ぎなければ、購買前の自動販売機にはたどり着けない。アサコは恐る恐る購買を目指した。
「はっ」
アサコは一瞬、息を飲む。
居るのだ。暗闇の待合の椅子に。
一人のおじいさんが腰掛けている。
アサコは足元から這い上がってくる恐怖に、立ち竦んでしまった。
そして、そのおじいさんは、静かに席を立った。
アサコはビクっと体が動いたが、おじいさんはそのまま、購買を通り過ぎて、暗い廊下へと歩いて行った。
暗くて顔はよくわからないが、幽霊ではないようだ。拙い歩きでぺたぺたとスリッパを鳴らして、弱々しく手すりに縋りながら歩いて行く。大丈夫なんだろうか?徘徊かなにか?
アサコは喉の渇きを忘れ、引き寄せられるように、そのおじいさんの後を追った。
長い長い廊下に思えた。
ここの通路ってこんなに長かったっけ?
その先には階段が続いていた。
アサコは疑問に思いながらも、何故自分がおじいさんの後をつけているのかもわからないけど、ついていかなければならないような義務感にかられたのだ。
そして、おじいさんは立ち止まり、こちらに振り向いた。
「あっ。」
アサコは全身が総毛立った。
非常灯に照らし出されたその顔は、あの入院初日に正面に座っていたおじいさんだったのだ。
おじいさんの口がモゴモゴと何かに動かされている。初日の言いようの無い恐怖がアサコを襲い、アサコは恐怖のため一歩も動けなくなってしまった。これが金縛りというものなのだろうか?
モゴモゴと激しく口は変形し、ついにその中から、一匹の昆虫が飛び去った。
アサコは気絶しそうになった。
非常灯に赤く照らされたその姿は蝉そのものだ。
な、なんで???
「ふう、ようやくわしも逝けるようじゃ。」
おじいさんが、吐き出すように呟いた。
認知症ではなかったのか。
「ボケてはおらんよ、わしは。」
アサコの考えを読み取ったように老人は口を開いた。
「死ぬ前になったらな、あれが口を封じに来るんじゃ。」
老人は自分を全てを悟ったように話し始めた。
「死神を見た日の晩に、あれが舞い込んできてわしの口の中に入り込んできた。あれは人の思考を乗っ取ってしまう。あのことを誰彼しゃべらぬようにな。」
あのこととは、なんだろう。正気のおじいさんに戻った彼の言葉の「あのこと」が気になって仕方なかった。
「あのことって?」
アサコは、ようやく声を絞り出すことができた。
「まあ、あとわずかな命じゃからな。あれに少しの時間だけくれてやったくらいでどうになるということはない。」
あのことには、全く触れなかった。
「あんたも、気をつけることじゃ。じゃあの。」
そう言い残すと、おじいさんの体はどんどん闇に溶けて行った。
「そこは行き止まりですよ?」
後ろから女の声に呼びかけられ、びっくりして飛び上がった。
夜勤の看護士の女性だった。
「あの、こっちの方向におじいさんが。」
そうアサコが言うときょとんとした。
「そちらは古い病棟で近々取り壊して新しい病棟ができるんですよ?今は施錠され、誰も居ないはずですよ?」
と怪訝な顔をするので、アサコは暗い廊下の先に目を凝らした。確かに階段のすぐ下の分厚い鉄の扉には、鍵がかかっており、人の気配はない。じゃあ、今のおじいさんは?
「見間違いでした。」
アサコは事を荒立てないように、そう言い病室に帰るしかなかった。
きっと誰からも信じてもらえないだろう。こんな荒唐無稽な話なんて。私はどうかしてしまったのか。
弱気が見せた、錯覚だったのだろうか?
病室に帰る途中、ある病室から「お父さん、お父さん」と泣く年配の女性の声が響いていた。アサコは、覗いてはならないと自分自身に警告した。たぶん、その顔は先程見た顔のはず。ほどなくして、その病室に親族と思われる人が続々と訪れすすり泣く声が、一晩中していた。
アサコは言い聞かせた。何も見なかった。あれは錯覚。弱気が見せたもの。そう言い聞かせながらも、寝苦しい暖房が効きすぎた部屋にもかかわらず、布団をすっぽりと頭まで被って震えていたのだ。明日には、こんな所から解放される。明日までの我慢だ。アサコは何も見なかった。何も聞かなかった。そういうことにしたのだ。
あくる日、狭いが懐かしの我が家に帰ることができた。これからは、食事管理と適度な運動と服薬で血圧をコントロールしつつも、機能を温存しなければならない。さっそく軽いウォーキングをしに、近所の公園へ出かけた。
照りつける太陽が容赦なかった。もちろん日傘は必須、無理は禁物だ。30分程度のウォーキングを終え、アサコは公園の木陰で一休みしていた。すると、公園で男の子が網を振り回して遊んでいた。小学2年生くらいだろうか。
あたりには虫の気配はない。何を採るつもりだろう。バッタかなにかかな?見たところ、綺麗に草が刈り取られていて、バッタの気配はないし、男の子の網は明らかに空を切っている。蝉にはまだ早い。
蝉、その言葉を思い浮かべたとたんに、あの暗闇が迫ってくるような気がして、恐ろしかった。
男の子が網を振って、何かを捕まえたのか、ぴたりと動きが止まって、網の中を見ている。そして、アサコに気付くと、近づいてきて網を目の前に差し出してきた。獲物を見ろってことかな・・・。困惑していると、さらにその男の子は網の中に手を突っ込んで、その虫を掴むと、こちらに差し出してきたのだ。
「あら、ボク、虫を捕まえたのね。おばちゃんに見せてくれるの?」
アサコはニコニコと笑顔を作り近づいた。
信じられない話だが、確かにそれは蝉だった。まだ4月だというのに。
もっと近くで見ろと、男の子が突き出すものだから、アサコはその蝉を凝視したのだ。
「キャア!」
アサコは思わず叫んだ。その蝉の背中に、あのおじいさんの顔がはっきりと見てとれたのだ。
背中のおじいさんが笑った。アサコの口をめがけて飛んで来たのだ。
慌ててアサコは、口を手のひらで覆うと、その蝉はこつんとアサコの手の甲に当たって、太陽のさんさんと降り注ぐ空へと飛び立った。おじいさんの言葉を思い出し、とっさに口を覆ったのだ。
小さく舌打ちが聞えた。驚いて見ると、それは幼いその男の子から発せられたものであり、その顔は悪意に満ちて醜く歪んでいた。アサコは恐ろしくなり、その場から走って逃げた。逃げながら振り返ると、そこにはもう男の子の姿はなかった。アサコは口に当てた手を震わせながらも決してその手を口から外すことができないまま、自宅へと逃げ帰った。
アサコは職場に復帰した。さんざん同僚に心配されたが、別に具合が悪くなって入院したわけではないので、心配しないでと伝えた。
「でも、アサコさん、何でずっとマスクしてるの?体調悪いんだったらもっと休みもらえばいいのに。」
このマスクには、意味がある。
私は、まだ生きる。だからこれは必要なんだ。あんな物に、乗っ取られてたまるもんですか。
私はまだ死ぬわけには行かないんだから。
作者よもつひらさか