誰とも会わない。
都内の大学に進学が決まり、先々週マンションに引っ越してきた。部屋はあまり広くないが、一人で住むには十分だし、何より大学が目と鼻の先である。寝坊助の俺には大変ありがたい物件であった。まあ、欲を言えばもうちょっとでかいマンションに住みたかったが、土地の関係上あまりでかいマンションは建てられないのだと不動産屋が教えてくれた。
三階建ての小さなマンションである。その三階に俺の部屋はある。
大学に近いマンションなのだから俺含むすべての部屋が大学生――のはずだ。しかし、断言はできない。なぜならここに越してきてから二週間、誰とも会っていないのである。同じく都内で今年大学三年生の従兄に訊くと、東京では隣の人の顔を知らないのは当たり前だし、俺もほとんど誰とも会わないよ、と言っていた。
そういうものなのだろうか。
人はいる――と思う。隣の部屋から男の話し声が時々聞こえてきたりする。しかし、このマンションに越してきて以来人の姿を見たことはない。今までずっと地方にいたから東京の空気感がわからない。これが普通なのかもしれない。
いや。
人と人の接触や交わり合いが東京は希薄だ、という言葉では片づけられないもやもやが俺の心の中にあった。
その疑問を持ち始めたきっかけは越してきて二日後あたりのことである。
コンビニから帰ってきた俺は、俺の部屋の横――304号室の前にiPhoneがぽつんと落ちているのを見つけた。まず304号室のインターフォンを鳴らしてみたが、誰も出ない。304号室の少し手前のところに階段があるためここに落とすということは304号室より先にある部屋の住人が落としたのかもしれないと思った俺は306、307、308と訪ねてみた。しかし、誰も出ない。ちなみに俺の部屋は305号室である。
仕方がないので翌日その携帯を管理人に預けた。
しかし、おかしな話である。その出来事が起きたのは夜九時ぐらいなのだ。夜九時に全員が全員、外出しているだろうか。あり得ないとは言い切れないが、その時もなんとなく気がかりであった。
その一週間後、階段を上がってくる音がしたのでどんな奴が住んでるのか見てやろうと思った俺は外にある自動販売機にジュースを買いに行くフリをして、部屋を出た。俺の部屋に差し掛かる足音を確認してから出たので、普通ならその人物と対峙するはずである。
しかし、誰もいなかった。その代わり、ぎぃと扉が閉まる音が聞こえてきた。その方向を見ると、一番端の部屋――308号室の扉がばたんと閉まるのが見えた。
その時点で俺は少し怖くなった。俺の部屋からその部屋まで遠いわけではないが、近いわけでもない。全速力で走っても、おそらく後ろ姿ぐらいは見えるはずである。
そんなこんなで、俺はまだだれ一人ともここの住民に会っていない。俺は壁に寄りかかって、ぼうっと天井を見上げていた。時間は夜の九時に差し掛かろうとしていた。
言いようのない不安感が渦巻いている。夜の静けさが俺の心のざわざわをさらに大きくしていく。
楽しそうな笑い声が壁の中から聞こえた。隣の住民だ。
人はいる――そう言い聞かせるが、確証が持てない。いや不動産屋に紹介されたのはこの部屋だけだ。つまり、それ以外の部屋はすべて埋まっているということだ。
俺以外もちゃんと住んでいる。住んでいるに決まっている。
しかし、不安でたまらなかった。もし俺以外に誰もいなかったら? そうなると誰もいないマンションの一室に俺だけがいるということになる。そんな姿を想像すると、暗くて深い穴の奥底にいるような気分になる。
じゃあ、この声はどうやって説明する?
――幻聴。
幻聴なのだろうか。この声は隣に人がいるという俺の自己暗示が生み出した幻聴なのかもしれない。
俺は意を決して立ち上がった。
確かめればいい。
隣に人がいるなら、今インターフォンを鳴らせば出てくるはずだ。実際人が出てきたらどう言い訳するか――考えようとしても考えがまとまらなかった。まずは確かめたいという気持ちが先行して冷静になれない。
心臓がバクバクいっている。
部屋から出ると夜の風の冷たさが、体を撫でた。なんてことないただの風である。しかし、今の俺にはよからぬ出来事の予兆に思えた。
よからぬ出来事ってなんだ。
何もない。すべては俺の勝手な妄想で、普通に人が出てきて、どう言い訳したらいいのか分からず俺が困って、隣の人が不審がって、微妙な空気で終わる――それだけだ。
隣の部屋の前に立つ。
なんの音もしない。風の吹く音のみが辺りに漂っている。
恐る恐るインターフォンを押した。無機質な機械音が鳴り響く。
動悸が早くなっていくのが分かる。
頼む――俺は切実にそう願った。ただ人が出てくるだけで不安は消える。
しかし。
誰も出てこない。それどころか、物音が一切しない。そこにあるのは静寂のみである。
嘘だ。
俺はもう一度インターフォンを鳴らした。
気がおかしくなりそうだ。確実に声は聞こえていた。つまり人はいるはずなのだ。
でも。だとしたらなんで。
出てこない。
「なんスか」
けだるそうな声が聞こえた。
顔を上げると、扉の隙間から男が怪訝そうな顔で俺を見ている。その瞬間、言葉では言い表せないような感動が俺の体を襲った。
「もしかしてうるさかったですか。話し声」
「あ、あ、いや…」
呂律がうまく回らない。
そうこうしてるうちに俺の口は勝手に事情をべらべらと喋っていた。
「…あはは、すみません。俺、音楽大音量で聞きながらレポート書いてて…しかもその間テンション高くなって独り言言っちゃうんですよね。だから最初はインターフォンが聞こえなかったんスよ」
「こちらこそ…こんな夜遅くにお騒がせして」
「まあ確かに誰とも会わないのが不安ってのは分かりますよ。でもここら辺のマンションなんてみんなそうですよ。俺もほとんど会わないですし」
「そ、そうですよね…それは分かってたんですけどなんかどうしようもなく不安で…」
「心配しなくてもこのマンション308号室以外は人住んでるはずですよ」
「あ、そうなんですか」
答えながらあれっと思った。308号室? 一番端の部屋である。
「308号室って…あの一番端の部屋ですよね? あそこって誰も住んでないんですか?」
「たしかクリーニングの業者の都合で学生が入居する時期に合わなくて、誰も入ってないと思いますよ」
記憶を掘り返してみれば308号室の部屋のポスト入れ、そしてエントランスにあるポストにはガムテ―プが貼ってあったような気がする。
つまり――。
しかしそれ以上深く考えるのはもうやめた。とりあえず人がいるということは分かったのだ。余計な詮索はしないようにしよう。
「ありがとうございまし…」
礼を言おうとしたが、そこにもう男の姿はなかった。扉は完全に閉められており、まるで何事もなかったかのようにそこに佇んでいる。
扉を閉める音は一切聞こえなかった。俺はもう面倒臭くなって、自分の部屋に戻った。
隣の部屋から男の声がする。俺は何も考えずただぼうっと天井を見つめることにした。
作者なりそこない