私が20代半ばの頃。看護師がまだ看護婦と呼ばれていた頃の話。
その病院は日勤と夜勤の二交代制だった。夜勤の仕事は日勤者から申し送りを受けたあと、夜の検温と必要な処置、夕食の介助、21時に消灯した後は0時、3時と巡回があり6時から朝の検温をする。ごく普通の病院だった。
5階建ての建物で、1階が外来、2階から上が病棟でナースステーションは3階に一つ。そこから担当する病室へいく。巡回して記録が終わったら次の巡回まで仮眠がとれる。
前に勤務していた病院では仮眠をとっていたが、ここに勤め始めて私は仮眠をしなくなった。
同僚たちが寝ても、私は机で本を読んだり、情報収集をしたり、眠い眼をこすりながらがんばる。
緊急時にすぐ動けないと困るから。
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ある日勤でのこと。昼食の介助をしていると、最近勤め始めた看護婦のAさんが、
「この部屋に来ると、なんか誰かに見られているような気がして落ち着かないんだよね」
と周囲を見回しながら言った。
その部屋は女性の大部屋で、殆どが高齢で認知症の方たちだった。
なので部屋に誰かが入ってくると、遠慮なくじぃっと見つめてくるなんて当たり前。
だからAさんの言葉を気にかける職員はいない。
「そのうち慣れるよ」
そう言いながら食事の介助を続ける。
「患者に見られてるんじゃなくて、この辺なんだよね」
とAさんは宙を指した。
それでその話は終わった。
別な日の夜勤でこの間の日勤のときの話題になった。時刻は21時過ぎ、消灯後のことだ。
「Aさんの話、どう思う?」
「確かにあそこの患者さんたち、宙を指さしたり話しかけたりしてるよね」
「この間なんか患者の Bさん、やっぱり誰もいないところに向かって、あんた! なに見てんのよ!って怒ってた」
「みんな、ボケてるからねぇ。でもよくあることだよね」
でもさ、と一人が話を続ける。
「Aさんて霊感あるって言ってたよね」
「そんなこと言ったってあの部屋でステッた(ステルベン=亡くなるという意味)って話聞かないじゃん」
「だってあそこ、去年までナースステーションだったじゃない」
そう。その大部屋は去年までナースステーションだった。理由はわからないが、去年突然、2階にあったナースステーションを3階の大部屋とチェンジしたのだ。
こんな話をしていると、そばで聞いていた古くからいるヘルパーさんがぼそりと言った。
「あそこは霊道が通っているんだよ」
ヘルパーさんの話によると、あの大部屋は部屋の中心をそれたところから奥まで霊道になってるらしい。
そこがまだナースステーションだった時、その奥は休憩所であり夜間、仮眠をとっていた場所だった。
沈黙が流れる。
ヘルパーさんはそれ以上の話をすることなく自分の仕事に戻って行った。
Aさんが言っていたこと…。
患者さんたちの視線…。
あれは霊道を行く死者たちを感じとっていたということなのか。
そのあと、0時と3時の巡回は、ふだんは各自別れて受け持ちを一人で回るのだが、みな一人になるのが恐ろしく、二手に分かれて巡回した。
3時の巡回のあと、私以外の三人は仮眠をとった。
私は一人起きているのは怖かったが、それでも仮眠はとらなかった。
眠気を感じることもなかった。
私が仮眠を取らない本当の理由…。
それはこの病院に勤め始めてから、夜勤で仮眠をとっていた時、2度ばかり金縛りにあったからだ。思えば2度ともナースステーションが2階にあった時におこっている。
ではナースステーションが3階の今なら大丈夫なのだろうか?
だけど、仮眠を取る気にはなれなかった。大丈夫かどうか、試してみようとは思わない。
朝6時になり、ナースステーションの扉が開き、各自受け持ちの部屋を廻る。
朝の検温が終わって記録を書き、時間になったら朝食の介助に行く。
女性の大部屋で、今日も誰かしらが視線を宙に這わせて指をさした。
作者國丸
この話は私のブログに載せている話。若い頃に体験した実話です。
病院なので、こういった話はあまり珍しいことではないです。話を膨らませて創作しようかと思いましたが、今回はブログに載せてあるままにしました。