夜中に羽音で目が覚めた。
不愉快な音で起こされイライラしながら明かりを点ける。辺りを警戒していたけど、羽音がするだけで虫を見つけることが出来ず、その場凌ぎにイヤホンを耳栓代わりにして仕方なく眠りについた。
数日経った頃。仕事中に耳元でまた羽音がして、手でそれを振り払った。しばらくするとまた羽音がして耳元を手で払う。そんな事を何度か繰り返しているとその様子を心配して同僚が大丈夫?と声を掛けてくれた。
「さっきから虫がね…しつこくて」
「虫…?見当たらないけど…」
同僚は何度も耳元に手をやる私が気になって眺めていたが、周囲に虫なんて飛んでいなかったらしい。
「もしかして心霊現象…?」と彼女は怖がったが、そんな事を一切信じていない私は虫が小さくて見えなかったんだろうとその発言を一蹴した。
けれど、羽音が消えることはなく、やがて一つだった羽音は二つになり、三つ、四つと次第に増えていった。羽音は増えたが虫の姿を見ることはなかった。
そんな状態が続いて私はストレスで体重が減っていった。倦怠感に襲われ集中力も体力もどんどん落ちていった。羽音は一体どれだけ増えたのかわからない位に無数に聞こえていた。
「やっぱり心霊現象かもしれない…」
私はふらふらと神社に向かって歩いていた。信仰心がないくせに太刀打ちできないこの現状を神に祈る事で解決しようとしていた。お賽銭を入れてカラカラと鈴を鳴らす。こんな事したの何年振りだろう。
手を合わせお祈りを済ますとふらふらと喫煙所を探し始めた。不愉快な羽音は苛立ちを増幅させ、比例するようにタバコの本数も増えていた。一服して落ち着きたい。だけど、体力がない私の身体は自宅から神社へ向かうだけでへとへとだった。限界に近かった私は目の前にあった公園のベンチで休むことにした。俯いていると羽音が聞こえる。顔上げるが虫は見当たらない。だけど、不快感な音が顔の近くをずっと飛び回っている。気力のない私は耳を塞いでうずくまる事しかできなかった。
「やめて…もうやだ…」
そうして絶望に打ちひしがれていると私の膝の上に誰かが手を置いた。驚いて顔を上げると男の子が心配そうに私を見上げていた。
「大丈夫ですか?」
うずくまる私を気にかけて声をかけてくれたのだろうか。優しい子だな。
「羽音はもう聞こえてないかな?」
男の子とは違う柔らかくて少し低い声がした。目をやると隣に男が座ってタバコをふかしていた。
「あっ…、きこえない…です」
確かに不愉快な音は聞こえなくなった。
男はタバコを見ながら、
「偶々持ってて良かった。これね、小さな妖には良く効くんだ」
「あやかし…?」
私が疑問を投げかけると答えてくれたのは男の子の方だった。
「妖怪です。あなたに蚊の妖怪が憑いてたんです」
「かの…ようかい…?」
妖怪と言われてやっぱりこれは心霊現象だったんだと、ぼーっとする頭でそう思う。
普通なら受け入れる筈のないことだが、へとへと状態の私はそれをすんなりと受け入れた。
◯
現実にいる蚊は血を吸う。だけど、私に憑いていた蚊はそうではないらしい。
「何て言えばいいのかな。生気?みたいなものを餌にしてるんだ。結構な数が君に纏わり憑いていてね。丸々太ってたから相当吸われたみたいだね」
そう言って私に説明してくれた彼は椥辻生雲(なぎつじいくも)、男の子は百槻㟴(どうづきかい)。二人は普通では見えないものが見えるらしい。
たまたまこの公園を通りかかって蚊に纏わり憑かれた私を㟴くんが見つけてくれたそうだ。
「こんな事を生業にしてる訳じゃないんだけどね。此奴が放っておけないって煩くて…」
椥辻さんは㟴くんの頭をわしゃわしゃと撫でまわして立ち上がった。
「煙草は吸うかな?」
「はい…」
「じゃぁ、これは君にあげるよ」
差し出された彼の手には古風な焦茶色の小さい木箱があった。
「さっき僕が吸ってた煙草が入ってる。また羽音が聞こえたら使いなさいな」
それを受け取ると彼は私に背を向けて
「それじゃぁ、さようなら」
と軽く手を上げた。椥辻さんが歩き出すと「お元気で!」と㟴くんが笑顔で言うと先を行く椥辻さんの方へ駆け寄り、こちらに向き直って元気良く手を振ってくれた。
私は小さく手を振り返して彼らを見送った。
椥辻さんから貰った木箱に目を落とす。タバコの箱と同じくらいの大きさのその箱は使い古されていて、表面はつるつると滑らかな手触りだった。蓋を開けると数本のタバコが入っていて、箱からは風に乗ってほんのりとお線香の匂いした。
「………蚊取り線香」
私はぽーっとする頭でそんな事を思った。
作者一日一日一ヨ羊羽子
指の間、耳、目蓋。刺されると困る箇所は色々あります。
掻きすぎると痒みから痛みに変わるのも厄介です。
もうじきそんな奴ら飛び交う季節になりますね。
早めに蚊取り線香買ってこよう。