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中編5
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◆背中の蛹◆

「ごめん!忘れちゃった」

数週間前、友達にCDを貸した。前日に彼女の方から「明日持ってくるね」と言ってきたのに当日CDを受け取りに行くと、そんな風に謝られた。

普段しっかりとした彼女は大学の講義に遅刻はおろか、欠席したことも一度もなく、課題は必ず提出するし、約束だって絶対に守る。だから彼女が忘れ物をした時は驚いた。だけど、私はたいして気にすることはなかった。物忘れくらい誰にだってあることだから。

しかし、次の日。また次の日。更にそのまた次の日。

「ごめん忘れちゃった!」

忘れているのはCDだけじゃなかった。また何日かして彼女へ会いに行くと誰かと揉めている様子だった。どうやら昨日、待ち合わせした場所に彼女が現れなかったらしい。それから、課題を提出し忘れたり、講義を欠席したり。かと思えば前日休講の知らせが入っていたにも関わらず「あれ?今日講義ないの?」ときいてくる始末。

一番驚いたのは前日の講義内容を綺麗さっぱり忘れていたことだ。

「ノートは書いてあるんだけど、講義を受けた覚えがないんだよね」

私ははっきりと彼女が熱心に先生の話をノートに書いているところを見ていた。

ここまで物忘れが酷いと何かの病気なのではないかと思い病院に行くことをすすめたが、翌日「病院?何で?私元気だよ」と昨日の私の忠告もすっかり忘れていた。

「…はぁ」

彼女の物忘れが始まってから数日が過ぎた頃。バイト先の骨董屋、米納津屋(よのづや)で掃除をしながら大きく溜息をついた。

「溜息なんざ幸せが逃げるぞ」

店の奥で休んでいた店主が戻ってくると、そんな古臭い迷信を言う。「溜息はむしろ身体に良いらしいですよ」と反論したかったけど、友達のこともあってそんな気力はなかった。

「なんじゃ、悩み事か?言うてみい。話したら楽になる事もあるぞ」

世話好きの優しい店主は私を心配してくれている。しかし、悩みと言うかこの心配事を話していいものかどうか…。どうするか決めかねていると店の扉が開いた。

見るとそこには物忘れが酷くなった友達が貸していたCDを持ってやってきた。

「えっ、どうしたの?」

彼女がわざわざバイト先を訪ねて来たこともそうだけど、CDを持ってきたことにも驚いた。

「これ、CDありがとう。返すの遅くなっちゃってごめんね」

彼女は私にCDを渡すと「じゃぁ、また明日大学でね」と私に手を振り、店主に「お邪魔しました」とお辞儀をすると店から出て行った。と、入れ違いに誰かが入店して来た。

「おぉ、生雲か」と店主が迎え入れる。

彼は椥辻生雲(なぎつじいくも)さん。以前、妖怪に取り憑かれた私を助けてくれた恩人だ。椥辻さんは鞄から木彫りの兎を取り出すと店主にそれを渡した。

「これ、頼んでた物ね。次からはもっと楽な物にしてくれってさ」

余程高価な物なのか、店主は「おぉ!」と声を上げて喜んでいる。挨拶するタイミングを逃した私はどうしようかともじもじしていると椥辻さんの方から「相変わらず?」と声をかけてくれた。ぴしっと姿勢を正し「はい、そ、その節は、たら、た、大変お、お世…」しどろもどろ噛み倒していると、それを遮って「今の子、知り合いかい?」ときかれた。

「えっ?は、はい。そうですけど…」

何事かと彼の言葉を待った。

「あの子、最近物忘れ酷かったんじゃないかな」

私は驚いた。友達のことを言い当てたこともそうだけど、椥辻さんがそう指摘したってことは…。

「もしかして取り憑かれてるんですか!?」

そう言って詰め寄ると、彼は私の肩に手を置いて「ちゃんと説明するよ。だから、少し落ち着いて」と静かに私を諭した。

言われて我に帰る。

「すいません…」

椥辻さんは優しく微笑み私の頭にぽんっと手を置くと「宜しい」と一言。それから彼女に憑いてるモノについて話してくれた。

「端的に云うと彼女の背中に蛹が憑いてる」

この世には蝶の妖が多く存在し、彼女が憑かれたのはその中でも珍しい記憶を餌にする蝶とのこと。人間に憑いた幼虫は記憶を餌に成長していくとやがて蛹になり、しばらくすると蝶になって羽ばたいていく。

記憶を餌に…。だから突然物忘れが激しくなったんだ。

「それって、放っておいたらどんどん記憶が失くなっていくんじゃ…」

このままにしてたら彼女の記憶は…。

記憶を餌にするんだったらこれからもっと色々なことを忘れてしまう。楽しかった想い出や悲しい想い出、好きなものや嫌いなもの、私の事や自分のことだって。

「心配ない。記憶を喰うのは幼虫の時だけ…。既に蛹になってたから、物忘れも多少良くなってると思うけど」

だからCDを返しに来てくれたんだ。

「彼女とても真面目な子なんです。遅刻したこともないし、勉強熱心だし…。だから突然そんなことになって凄く心配だったんです」

何か重い病気だと思っていたけど、それは妖怪の仕業だった。心配ない、と言う椥辻さんの言葉で私は肩の荷が降りて椅子にへたり込んだ。

「成る程ね。だったら失くした記憶もその日した約束だったり勉強の内容程度だったんじゃないかな?真面目な性格が幸いしたね」

「…じゃぁ、ずぼらな性格だったらもっと色んなこと忘れてたんですか?」

「それでも自分の事や友人の事を忘れる位に酷い喰われ方はしないよ。まぁ、憑かれたのが蟻じゃなくて良かったよ」

「…あり?」

「いや、何でも無い。こっちの話」

それから次第に彼女の物忘れはなくなっていった。私には見えないけど、もう蛹は羽化して蝶になったのだろうか。もしかしたら突然物忘れが酷くなった人は背中に蛹が憑いてたりするのかもしれない。

あの時、私は気になって椥辻さんに質問していた。その蝶の羽がどんな模様なのか。

「決まった模様は無いよ。憑いた人間の記憶によって変わるんだ。明るく楽しい記憶なら綺麗で、暗く悲しい記憶なら淀んでいて…。君が見えるなら、どんな模様なのか確認してほしかったな」

模様。私も気になる。幽霊や妖怪は見たくないけど、その蝶は見てみたい。蝶の羽を。

あの子の記憶の模様を。

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