「あ、菊の花のお浸し。これ、うちの畑で摂れた『十五夜』でしょ。」
聡子は、タッパーを覗き込むなり、胸元で小さく手を叩いた。
点滴の管が微かに揺れる。
やせ細った手の甲は、注射針の痕で紫色に腫れあがっている。
「こら。少しはしゃぎすぎ。」
嗜める私の横で、聡子は、悪戯っぽい目をして舌を出した。
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食用菊の早生種である『十五夜』は、中秋の名月前後が食べごろだ。
湯がいた『十五夜』に三杯酢を掛けただけの田舎料理を小皿にとりわけ、そっと手渡す。
「この香りと苦み。深みがかった黄色。そうそう、まさしく、十五夜だわ。ありがとう。」
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一口食べては満足そうな聡子を見て、私は、窓辺のカーテンを開け、ロックを外し、窓を全開にした。
「ご覧。今日は、中秋の名月。それも満月だ。」
「思い出すわ。あなたと初めてお話をした日。試験勉強で遅くなった市立図書館からの帰り道。突然、憧れの先輩から、『月がきれいですね』なんて話しかけられて。」
「あの日の月は、本当にきれいだった。つい、いつも見かける可愛い下級生に声をかけただけだったんだ。こちとら、理系クラスだったし。アイラブユーをそのまま訳すのは野暮だから、『月が綺麗ですね』と言い換えた夏目漱石の逸話なんて知らなかったからね。」
「後から私の勘違いと分かって。はずかしいったらありゃしない。しばらく図書館へ行けなくなってしまったわ。」
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月を眺める聡子の頬がきらりと涙で濡れている。
私は、聡子を抱き寄せ、そっと唇にキスをした。
「聡子。あの日からずっと君を愛しているよ。
今までよく頑張って、僕たちが作った図書館を守り抜いてくれたね。
ありがとう。
もう、疲れただろう。ゆっくり休もうじゃないか。
さぁ、行こう。僕たちの帰る場所へ。」
月の光が数千の帯となり聡子を包む。一つとなった影は、徐々に小さく細かな飛沫となって闇に消えていった。
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ホスピス病棟に併設された小さな私設図書館。
いつの頃からか、中秋の名月前後、発案者であり創立者でもある先代の院長と、その夫人の幽霊が出るという。
恋を実らせたいならば、満月の夜、
男性側が、
「今宵は、月が綺麗ですね。」
女性側は、
「ありがとう。」
もしくは、
「アイラブユー」と応答し合わなければならない。
上手く応答で来た時、その恋は、必ず成就するとの噂がある。
真偽のほどはわかぬままだが。
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「まぁ、都市伝説のようなものですよ。有名な漱石の逸話も、嘘か真か解らないっていうじゃないですか。」
二代目院長のディスクの傍らには、タッパーに入った菊の花のお浸しが置かれていた。
不思議そうに眺める新聞記者に、
「これはね、十五夜っていう食用菊なんだがね。どうも、気が付くとこの時期、食べようとする前に、菊のかさが減っているような気がするんだよね。誰か食べているのかな。」
「ほらほら、そういうことを言うから。おかしな噂が立つんですよ。だめですよ。患者さんが怖がるじゃないですか。」
看護師長が口元に人差し指をたて嗜める。
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「地方紙も部数確保に大変ですな。今頃、季節外れの怪談話の取材とはね。」
「違いますよ。今日は、ホスピスに併設されている私設図書館の取材ですよ。移転するんでしょう?旧市立図書館の跡地に。ったく、院長ったら。」
看護師長と院長の微笑ましいやり取りに、新聞記者も笑みがこぼれる。
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「菊の花召し上がられるんですね。私は田舎育ちなんですが、どうも苦手でして。」
「食の好みは、親譲りですな。ま、私は十五夜よりも、阿房宮の方が好みですがね。
そうそう、明日なんだが、菊畑をやっているお宅にお邪魔することになっているんだよ。
まぁ、図書館移設と土地がらみの野暮用ですがね。」
二代目院長は、ぐるりと生醤油をまわしかけ、湯がいた菊花をほおばった。
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「え?二代目院長急死。なんでまた。一昨日の昼、取材に行ったばかりですよ。」
「それがねぇ。ここから、60キロも離れたN町の食用菊畑で仰向けになって死んでいたんだよ。口の中に、菊の花びらがいっぱい詰まっていてね。なんでも、そのことが原因で窒息死したらしいんだ。」
「え?そこって。一昨日、話していたお宅じゃないですかね。」
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胸のポケットのスマホが、緊急のメッセージを伝えている。
「はぁ、跡地から井戸が出て来た。人骨もか?わかったすぐ行く。」
特ダネが飛び込んできた。
(これで、当分、わが社も食いつなげるかな。)
新聞記者は、ほくそ笑みながら社を後にした。
2020年10月09日 22時12分
作者あんみつ姫
10月のお題です。
勉強になりました。
前作も 併せて ご笑覧いただければ、幸いに存じます。
https://kowabana.jp/stories/33968