「はるばる東京から来たんでしょ。頑張ってね。縁起物のリンゴよ。」
出がけに旅館の女将が、白い袋に包まれたリンゴを手渡した。
「あ、ども。」
それは、手のひらには納まり切れないほどの大きさで、思いのほか重く感じられた。
少しでも身軽でいたかった俺は、ダウンジャケットの右ポケットにグイと押し込むように突っ込むと最寄りの駅へと足を速めた。
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今からさかのぼること20年数年前、日本全土に多大な被害を及ぼした超大型台風19号は、この小さな地方都市を容赦なく襲撃した。
このリンゴは、50メートル以上の暴風に耐え、逆境をはねのけ、見事市場へと躍り出た「落ちないリンゴ」の子孫なのだという。
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受験生の俺に、気を遣ってくれたのだろう。
3月下旬の二次募集。
既に二浪している俺に選択の余地はなかった。
敢えて、その話題に触れようとはしなかった女将の優しさと、苦境をバネに起死回生を図ったリンゴ農家の知恵と底力が、俺の背中を押してくれているような気がして有り難かった。
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遠くにそびえる山の頂は、未だ真っ白い雪に覆われている。
抜けるような青空にもかかわらず、気温はマイナス氷点下。
マスクをしていても、頬や鼻の頭が寒さでヒリヒリと痛む。
ヒー〇〇ックにフリースを重ね着し、更にその上からダウンジャケットを着込んでも、足元から上ってくる冷えと寒さは凌げそうにない。
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―くそ、ブーツ履いてくるんだったな。
Ⅰ時間に数本しかない電車を降り、歩くこと15分。
次第に汗ばみ、軽い疲労感を覚える頃、広大な雪原の中に、瀟洒な西洋風の建物が姿を現した。
残された一縷の望みを託し、俺は、大学構内に入る。
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準備が不十分だったのか、それとも想定外のトラブルがあったのか、予定から10分程遅れて受付が開始された。
雪国には、この程度の遅れは、ありがちな出来事なのかもしれない。
お陰で、冷え切った身体に暖を取り戻すことが出来た。
試験会場は、休日のように、しんと静まり返り、受験生は俺を含めて30~40人程度しかいなかった。
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―こんなこと初めてだな。確か募集定員は、20名だった。
確実に、この半数は、「落ちる」運命にあるってわけだ。
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試験は、小論文と面接のみ。
予定では、午前中で終了することになっている。
試験の前に、学長という人物の挨拶兼ショートメッセージが、放送を通して流れた。
学長は、たしか外国人だったと思う。
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年齢的なものなのかはわからないが、流暢な日本語を話す割には、歯から漏れるスカスカという音と、入れ歯が合っていないのか、時折マイクを通して入ってくるカクカクという音が耳に障り、特に緊張しているわけでもないのに話の内容が頭に入っていかない。
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―まぁ、田舎の大学ってこんなもんだろうね。
スタンフォード大学の卒業式で語られた スティーブ・ジョブズのスピーチと比較してはいけないよな。
俺は、苦笑いし下を向いた。
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(こら!ちゃんと前を向いて。余計なことは考えない。スティーブ・ジョブズの『愚かになれ、ハングリーになれ』を期待していたのかい?そりゃ、無理ってものさ。)
―はぁ?
突然、頭上から小学生ぐらいの男の子の声がした。
辺りを見回すが、それらしき姿はどこにもない。
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今のは何だよ。
空耳か?
狼狽える俺の耳に、一限目を告げるチャイムが聞こえて来た。
居住まいを正し、背筋を伸ばす。
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一時限は小論文だ。
上下二段マス目で埋まったA3用紙が、ゆっくりと目の前に置かれた。
始めの合図とともに、小論文の問題用紙を開く。
「以下アドラー著『幸せになる勇気』からの抜粋です。
鉄人と青年 この二人の対話から「本当のしあわせ」とは何かについて800字以内であなたの考えを述べなさい。(制限時間60分」」
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―くそ。アドラー心理学かよ。えぇと、予備校で習ったよな。たしか、この手の出題への傾向と対策はと。
セオリー通りでいくと、三段論法で、序論、本論、結論と。
三本の柱を立てる。だったな。
「柱」な。
俺は、今年爆発的に流行った漫画のキャラたちを思い出した。
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(バカ!)
ーはぁ、なんだって。
(バカっていったんだ。)
また、あの子供の声だ。
(少○ ジ○ンプ 読む暇があったら、アドラー心理学の代表的なベストセラー二冊ぐらい読めただろうに。)
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頭上から響く男の子の声が続く
(ねぇ、最近、読んだ本教えてよ。)
ー本は読んでないね。
ネットの怪談話を読んだよ。
(怪談話?たとえば?)
ー「リゾートバイト」とか「雨と月」とか。
(ね?ふざけてる。辞めてくれないそんな冗談。)
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そういえば、高校で国語の教師をしている親父が、常日頃言っていた。
「今、話題の本は、文系理系に限らず大学を受験する際、必ず読んでおいたほうがいい。出題される確率は、きわめて高い。本の内容を全て理解する必要はない。既に読んである程度の概要を知っているかいないかが大事なのだ。その差は、意外と大きいものだからね。」
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親や大人の言うことは聞くものだ。とつくづく思う。
―あぁ、今更遅いわ。
四苦八苦しながら、何とか答案用紙、ええっとこの場合は、原稿用紙かな。
とにかく、マス目は最後まで埋めることができた。
終了まで残り20分以上の余裕がある。
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(ダメダメ。これじゃあ。お兄ちゃん、また落ちるよ。)
再び頭上から、子どもの声 そう男の子の声がした。
(酷い出来。これじゃぁ、『かわいそうなぞうは、かわいそうでした。』としか書けない小学生の読書感想文だよ。)
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ーお前、なんで、俺の子どもの頃の恥ずかしい話を知ってんだよ。
『かわいそうなぞうは、かわいそうでした。』
そこから、一行も書けなかった俺の黒歴史。
あの日の授業は、針の筵に座らされているようだった。
以来、作文の授業、いや国語の授業が大嫌いになった。
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(そりゃ、知ってるさ。『かわいそうなぞうは、かわいそうでした。』しか書いてない。
高校の国語の先生の息子が?って。当時、話題になったもんね。読書感想文なんて、書けない子には、本当に書けないんだもの。親の職業なんて関係ないさ。現に、作家の息子の文章なんて、読めたもんじゃなかったぜ。)
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声の主を探しあたりを見渡すが、子どもの姿などどこにも見当たらない。
―誰だよ、お前。ガキの癖に口出すな。
思わず声を挙げそうになり、口を押える。
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俺の異様な雰囲気を察したのか、試験官のひとりが声をかける。
「どうかしましたか。」
「あ、いえ、なんともないです。ちょっと、咳が出そうになったモノですから。」
「そうですか。もうすぐ、20分が経過します。書き終えた人は、退出していただいて構いません。こちらで回収しにまいりますから、挙手をしてください。」
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受験生は、ほぼ全員、必死になって書き続けている。
誰も、退出する気配はない。
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―そ、そうなのか。そんなにダメか。あの時のように。
(昔のことはいいよ。とにかく、書き直して。こんなんじゃダメ。)
―今更書き直しなんて出来るかよ。
(いいから、全部消しゴムで消して。急いで早く。)
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俺はなぜかその声に逆らえず、無い知恵を絞りだして書いた小論文モドキを全て消しゴムで消してしまった。
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「よし、じゃぁ、始めるよ。太宰治は言った。」
―え?だざいって、あのださいおさむ?―
「そう、中学校の教科書に載ってた。あの太宰治だよ。」
―『走れメロン』だっけ。ケケケ。
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(ふざけないで。手を動かす。あのね、幸せについて論ずるのはひとまず置いておく。
いいね。まずは、勇気の方に視点を向けてみよう。)
―うるせぇよ。お前何様のつもり?上から目線でモノ言ってんじゃねぇ。
(合格したいんでしょ。だったら、言うこと聞いて。)
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―わ、わかったよ。クソ。太宰は言った。書き出しは、これでいいんだな。
(うん、いいよ、次、続けて。『弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。』
と。これは、太宰の著書『人間失格』の中の一節である。」
ーそ、そうなんのか。ださいは、そんなことを書いているのか。
(幸福が人を傷つけるとはどういうことなのだろう。更に、こう続ける。『傷つけられないうちに、早く、このまま、わかれたいとあせり、例のお道化の煙幕をはりめぐらすのでした。』)
―なんだか、いちいちめんどくせぇな。煙幕って、煙の幕って書くのか。
(太宰は、そう考えてしまうほど純粋で、そうだね。繊細なんだな。
はい、次行くよ。)
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(幸せは、長くは続かない。いつかは失うもの。はかないもの。得ようとしても得られない永遠に手の届かぬものとしてとらえていたのだろう。
失うことの怖さから逃れるために、道化を装うとは、幸せなふりを取りつくろうことだったに違いない。幼いころから、何不自由なく裕福に過ごして来た太宰にとって、幸せとは、物質的に満たされることでも、多くの人間から愛されることでもないことに気づく。それまでの実体験から、それらはいつも自分の元にあってほしいものではなかった。幸せとは「ある」ものではなく、「なる」ものだのだ。太宰は、失うことを恐れた。自分は何をしてもどう生きても、幸せになる自信と勇気を持てないと思い込んでいたのである。)
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―ちょ、ちょっと 待ってくれ。
腕が痛ぇよ。もう少しゆっくり頼む。
(時間がないんだってば。どれ、儚(はかな)いとか、繕(つくろ)うとか漢字で書けないの。)
―書けねーよ。常用漢字じゃねえし。太宰だって、ひらがなだらけじゃねーか。
(え?お兄ちゃん、『人間失格』読んだことあるの。)
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―あるよ。親父にさ。一度は読んでおけ。って言われて、中坊の頃、パラパラ拾い読みしたんだよ。
(すごいじゃん。じゃぁ、話は早い、一気に行くよ。問題文の抜粋と垂らし合わせて見ながら書いてね。)
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(では、アドラーのいうところの幸せと、太宰が求めた幸せとの違いはどこにあるのだろう。アドラーは、幸せとは、刹那的なもの、一時的なものではない。たとえ、一時期失われたかのように思えたとしても、失望のどん底に陥る時があったとしても、そこから這い上がり、新たな関係を作り上げることが出来る、まさしく「勇気」そのものなのである。
その勇気を生み出す原動力は、人間同士の「愛」から生まれるというのである。)
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―ちょっと、わかんねぇ。
もっと、わかりやすく教えてくれよ。
(この場合、愛と言っても、神の愛や動物的な愛を意味しない。人間の愛である。人間の愛とは、もっと意志的なものなのだ。つまり、「自分は、この人を愛する。」と自分の意志で決意することに等しい。
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愛する対象とは、自分以外の誰かである。その自分以外の誰かとともに、作り上げていくのが、幸せである。
本当の幸せとは、初めから存在しているものではない、人間同士の愛を築き上げていくその過程にあるのではないかと私は思う。
ー俺が思うってこと?うんうん。
(続けるよ。)
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太宰は、初めて自分自身のために『人間失格』を書いた。それまでは、他人からの評価を気にしてばかりいた。結果、それらは、自分の描きたいものとは異なるものばかりだったことに気づく。
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だったら、他人の評価や他人の目を気にしている自分を正直に書くことで、自分が本当に描きたかったこと、書きたかったことに近づけるんじゃないかと思うようになったのだと。
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太宰にとっての幸せとは、本当に描きたいものを描くことだった。たとえ、自分の思い描く幸せとは程遠いものになってしまうかもしれないが、それでも、幸せというものに 少しでも近づくことはできると考えるようになったのではないだろうか。
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彼は、孤独のただ中で考えたのだろう。
人は、人の人生を生きることはできないが、人とともになら生きることが出来る。
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家族や仲間や友人たちと生きることは、関わる人間の数だけの課題を抱えることでもある。
だが、一人では到底成しえない課題だったとしても、自分以外の他者とともに取り組むなら、立ちふさがる壁も乗り越えられるのではないだろうか。
自分以外の人間、つまり他者とともに生きるためには、自分の弱さや醜さと向き合う勇気が必要となる。
それは、たいそう辛く苦しい作業でもある。
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人間だから失敗もする。過ちもする。
裏切られ、傷つき、絶望することも時にはあるだろう。
やがて、それらは、自分自身をも知らず知らずのうちに他者に与えてしまっているかもしれないと気づくことが大切である。
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他者から与えられる、または、自分自身が与えてしまう弱さや醜さ、悪しき感情から発せられる行い。人は、皆そういうものだと、「お互い様なのだ。」と、それらを受け入れた時、本当の意味で自分自身を愛することが出来るようになるのではないだろうか。
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「愛する。」とは、ある意味意志的な作業でもある。
神の愛や動物的な愛とは異なり、人間同士の愛は、自然発生的には生まれたりはしない。
自分を愛することも、自分以外の他者を愛することも、そこには強い意志と勇気が必要となる。それは、自分の人生を生きることでもあり、自分以外の他者を愛し、信じ、受容することであり、すなわち、本当の幸せにつながる第一歩になるのだと私は思う。)
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字が汚いね。
そんな漢字も書けないの。
姿勢が悪いよ。
罵倒されコケにされ続けたが、結局、俺は、言われるがまま最後まで書き終えた。
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「はい!ここまで。」
試験官が終了を告げ、俺は、たった今完成したばかりの小論文を読み直す。
―す、すげぇ。これ、俺が書いたの???
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(ねぇ、お兄ちゃん。本当のお兄ちゃんの実力は、こんなもんじゃないんだよ。このくらいはいつでも書けるはず。どう?少しは自分見直した?)
―すげぇ、すげぇよ。ありがとな。
(お礼なんていらないよ。僕は、お兄ちゃんの潜在能力を引き出しただけさ。本来、お兄ちゃんは、もっともっと輝ける人なんだよ。)
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―・・・・・・お前、誰よ。本当は、誰なんだよ。
(もうひとりのお兄ちゃんだよ。ケケケケケ)
―はぁ、何言ってんだお前。
(わかった?そういうことだから。短い間だったけど楽しかったよ、ありがとね。
それからさ。自分をそんなに卑下しちゃいけないよ。この大学だって、お兄ちゃんの出身校だって、他人が勝手に評価してランクづけしているだけさ。
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決めるのは自分。結果を出すのも自分。他人が評価した人生を生きることはないよ。自分の生きたい道を歩いて行けばいい。太宰だって、そうさ。彼は、『人間失格』を書いたことで、やっと自分に合格点をあげられたんだ。自分の過去にサヨナラできたんだよ。)
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―お前の言っている意味が解らん。
(今は、わからなくてもいいさ。今知らず後知るってこともある。んだば、もうひとりの自分『グッドバイ』))
―もう行くのかよ。せめて、顔ぐらい見せてからいけよ。
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「あのー、回収してもよろしいでしょうか。」
試験官の声がした。
「あぁ、すみません。ぼうっとしちゃってました。どうぞ。」
「随分、熱心に書いていらっしゃいましたね。800字超えてますが。」
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ゴロン
リンゴが床に落ち、ゴロゴロと転がり始めた。
鼻先を甘酸っぱい香りが漂い、俺は、天井を見上げ唇を噛みしめた。
作者あんみつ姫