私が高校で先輩から聞いた話をお話します。
その先輩も直接は当事者を知らないというので、おそらく数年前の出来事なのだと思います。
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この学校の生徒だった、「愛」と「久美」という二人の女生徒にまつわる話です。
二人は同級生で、幼馴染みでした。互いの家も近く、幼いころから一緒に遊んでいたそうです。
愛は元気で活発な子供で、久美は、内気で大人しい子でした。
久美は他に友達がいなかったので、愛にべったりだったそうです。学校でも、休みの日でも、愛の後ろをついて回っていました。
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中学に上がると、愛は部活をはじめたり、新しい友人ができたりと、人付き合いの場が増えていきました。
対して、久美のほうは相変わらず他に友人もできず、愛に依存する関係が続いていました。
面倒見の良い愛は、久美が妹であるかのように接し、世話を焼いていました。
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中学を卒業し、二人は同じ高校に進学しました。
高校でも、久美は相変わらず交友関係を広げようとはせず、愛にべったりでした。
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中学までは、幼馴染みのよしみもあって彼女の面倒を見ていた愛ですが、高校にまで上がると、さすがに存在が重くなってきました。
それでも、久美に他に友だちがいないことをよく知っている愛は、部活や他の友人との付き合いをしながらも、彼女と過ごす時間を必ず作っていました。
久美は、愛と二人きりの時間には、まるで飼い主に懐く子犬のように、嬉しそうにしていたそうです。
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久美が愛を慕っていたことを示す、こんなエピソードがあります。
久美は、授業中によく愛へ手紙を回してきました。
ノートの切れ端などに手紙を書いて、クラスメイトに手渡ししてもらって回すのです。
たいていは、「課題やった?」とか、「今日部活あるの?」とか、たわいもないことが書いてありました。
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愛は、子供じみたその遊びにも、律儀に付き合って返事を返していましたが、ある日、ふとあることに気がつきました。
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手紙には、誰宛か分かるように名前が書いてあるのですが、その漢字が間違っているのです。
「愛」というの字の下のほうにある、「冬」から点々を取った形の部分――部首名では「ふゆがしら」というそうですが、それが、右払いが中に通っておらず、「久」の形になっているのです。
「久」は久美の名前の一字で、偶然ではないような気がしました。
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以前からそうだったのか?――と愛は考えましたが、過去にやりとりした手紙も残っておらず、確かめることはできませんでした。
授業が終わって、愛は久美の席へ行き、手紙の宛名のことを聞いてみました。
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「そうよ。今気付くの? ずっと前からよ。"愛"の中に私の名前、"久美"の"久"が入ってるの。"愛"の中に私が入ってるって、素敵だと思わない?」
そういって久美は、楽しそうに微笑みました。
子供のように邪気のないその笑顔に、愛はかえって、背筋がゾクッとしたそうです。
幼いころからの友人を、初めて「怖い」と思った瞬間でした。
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その出来事をきっかけにして、愛は少しずつ、久美と距離を置くようになりました。
それまでは、部活のない日や休日などは、久美と過ごす時間を無理してでも作っていたのですが、だんだんとその時間が短くなり、他の友人を優先するようになっていきました。
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久美からの誘いを「ごめん、友達と約束があるから」と断ると、彼女は捨てられた子犬のように哀しそうな顔をしました。
自分から断ったとはいえ、その顔を見るとさすがに愛も胸が痛みました。
しかし、それが繰り返し続くと、だんだんと罪悪感よりも、うとましさを感じるようになっていったのです。
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あるとき、いつものように愛が久美の誘いを断ると、普段ならすぐに引き下がる彼女が、愛を責めるような表情をして、
「……最近、ぜんぜん私に付き合ってくれない……前みたいに、もっとかまってほしい」
と、訴えました。
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愛の中で、プチッと何かが切れました。
「私には他にもたくさん友達がいるの! 久美とばっかり付き合えない! もうつきまとわないで!」
と、愛は叫んでしまいました。
久美は、ひどく傷ついた顔をして、何も言わずその場を去りました。
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「つきまとわないで」という言葉がよほどショックだったのか、その日から久美は、愛を避けるようになりました。
心の拠り所であった愛を失い、彼女は自分の殻に閉じこもってしまいました。
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学校で、久美は誰とも話さなくなりました。
暗い顔をしてうつむいている彼女に、好きこのんで近づこうとする生徒もおらず、久美は完全に孤立しました。
愛はかわいそうに思いましたが、また以前のようにつきまとわれることを恐れ、放っておくことしかできませんでした。
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数ヶ月が過ぎたころ、久美が学校を休みました。
風邪か何かだろうと愛は思っていたのですが、数日経っても彼女は登校しませんでした。
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一週間が過ぎ、先生が朝礼でこう言いました。
「久美さんは、体調を崩して入院しています。少し長くなるそうです」
それだけで、病名などの詳しい説明はありませんでした。
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クラスでは憶測の噂が飛び交いましたが、二、三日たつと、久美のことが話題にのぼることはなくなりました。
愛は、久美の病状が気になってはいましたが、自分からその話を振ることはありませんでした。
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久美が学校を休んで一ヶ月ほど経ったころ、愛は母親から久美の病状を聞かされました。
愛の母は、久美の母から聞いたのだそうです。ご近所なので、愛と久美の親同士も親交があったのです。
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久美は急性白血病で、集中治療室に入院しているのでした。
急速に病状が進んでおり、懸命な治療が続けられていますが、回復の見込みはほとんどなく、持って二、三ヶ月の命なのだそうです。
容体はとても悪く、薬の副作用もあり、苦しい状態が続いていると、母は言いました。
何も知らなかった愛は、ショックを受けました。そこまで深刻な病状だとは思っていなかったのです。
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久美の母は、こう話していたそうです。
「娘は苦しんでいて、いつまで生きていられるのかもわからない。今は、『……私がこんなに苦しんでいるのに、なぜ愛は見舞いにも来ないの……』と繰り返し言っている。命があるうちに、愛に見舞いに来てほしい」
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母から話を聞いて、愛は正直、怖くなりました。
自分に会いたいというのは、嘘ではないでしょう。
でもそれは、旧友にひと目会いたいからなのか、それとも、自分を裏切ったかつての親友を恨んでのことなのか――。
愛には、久美がどんな気持ちでいるのか、わかりませんでした。
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病気でやつれた彼女に、苦しそうな声で裏切りを責められることを想像すると、愛は身体がすくんでしまい、到底会うことなどできませんでした。
母親は、たびたび久美の母から頼まれているようで、事あるごとに愛へ見舞いにいくよう促しました。
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それでも、愛はどうしても病院へ行くことができませんでした。
しかしある日、久美の母が家にやってきて、
「あと十日ほどが山場だ。今はうわごとのように愛の名を呼んでいる。最後にひと目会ってあげてほしい」
と、直に頼まれました。
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久美の母の切実な様子に、愛はようやく覚悟を決め、久美を見舞う決心をしました。
「突き放したりして、悪いことをした」と謝ろう、そう思っていました。
しかし、愛が決意したころには時すでに遅しで、久美は面会謝絶になっていました。
愛はひどく後悔しましたが、もうどうにもなりません。
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久美の病状はますます悪化し、面会謝絶から一ヶ月後に、彼女は亡くなりました。
最後はほとんど意識のない状態でしたが、ときおり薄目を開いては、愛の名を呼んでいたそうです。
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葬儀は、つつがなく行われました。
遺族の希望で葬儀は親族のみでとりおこなわれましたが、愛と愛の家族は特別に告別式に参列し、遺影に手を合わせたのでした。
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愛の家庭も学校も、しばらくは重苦しい空気が漂っていましたが、しばらくするとみな気持ちの整理がついて、日常が戻ってきました。
愛は、ときどき久美のことを思い出して胸が痛むことはありましたが、彼女が入院していたころのように、強い罪悪感に囚われることはなくなりました。
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久美が亡くなってから、半年ほどが過ぎました。
学校の休み時間、愛は級友と雑談をしていました。
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ふとしたきっかけで久美の話題になり、愛は、久美が授業中に送ってきた手紙の話をしました。
久美が手紙の宛名に、「愛」のふゆがしらを「久」にした字を書いて送っていたことを話すと、級友は「へえ」と興味深そうにして、「それだけ愛のことが好きだったんだね」と言いました。
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その言葉に胸がチクリと痛み、愛は、目を伏せて久美のことを思い出していました。
そうして、ふと顔を上げると、級友が幽霊でも見たかのような形相をしていたので、愛はビクッとしました。
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「なっ……何? どうしたのよ?」
級友は怯えた表情のまま、指先で、愛の胸元を指し示しました。
「……愛、名前……」
愛は目線を下げて、級友が指差す胸元に目をやりました。
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最近は、個人情報の保護や生徒を不審者から守るという観点から、制服に氏名を入れる学校が少なくなりました。
しかしこの高校では、伝統的に制服の胸に氏名の刺繍が入っていました。
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愛の制服の刺繍は、「愛」の文字のふゆがしらが、「久」の字になっていたのです。
「えっ……!? やだっ……!? どうして……!?」
愛はひどく動揺しました。
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その制服を着ていることに耐えがたい不気味さを感じましたが、まさか脱ぐわけにもいきません。
愛は我慢して次の授業まで受けましたが、耐えきれずに保健室へ行き、体調が悪いことにして早退の許可をもらいました。
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家に帰って急いで制服を脱ぎ、刺繍を裏から見てみました。
その刺繍は、糸をほどいてふゆがしらを「久」にしているのではなく、ちゃんと縫われていることがわかりました。
それも、「愛」の字だけではなく、姓名の全ての文字が手縫いされていたのです。
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いったい、いつからのことなのか……愛は考えました。
久美が入院するより前なのは間違いないので、少なくとも八ヶ月以上前――彼女と仲違いする前であれば、一年近く前だろうと思いました。
そのあいだ愛は何も気付かず、久美が刺繍を縫った制服を着続けていたのでした。
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もしやと思い、おそるおそる他の制服も調べてみましたが、刺繍が縫い直されていたのは、その日着ていた一着だけでした。とはいえ、一着だけだったから良かったという気になるはずもありません。
愛は制服に袖を通すことが自体が恐ろしくなり、再び着られるようになるまで、三日間学校を休みました。
その後その制服がどうなったかというと、愛はおぞましくて見るのも触るの嫌だったのですが、捨てると久美に呪われるような気がして、仕方なく押し入れの奥に仕舞ってあるのだそうです。
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この高校では、私が入学する前の年に、制服への氏名の刺繍が廃止されました。
表向きは「個人情報保護のため」と保護者や生徒へ説明がされたようですが、本当は、この話が学校側へ伝わったのだろうと、生徒の間では噂されています。
作者常夜灯