中編6
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夢殺《昼間見る悪夢1》

「先生、わたしね思うんですの」

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きちんとセットされたセミロングの前髪を落ち着きなく引っ張っりながら、酒井信子は言った。

小さな会社の経理事務員のような細面で神経質そうな顔をしており、今年で40なのだが、どう見ても10は老けて見える。

ただどことなく上品な所作や言葉遣いをしている。

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「どんなことを、ですか?」

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目の前に座ってる白衣姿の男は机の上で手を組み、上目遣いに信子を見た。

無造作に伸ばした真っ白い髪に、銀縁の眼鏡を掛けている。

彼の右側は全面がガラス張りになっており、若い男女の学生たちが楽しげに談笑しながら往き来しているのが見える。

その向こうにはきちんと手入れされた庭園があり、既に秋の趣を呈していた。

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「全てが夢ではないのかしら、と」

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信子はキッパリと言った。

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「夢?」

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「そうです。

今朝、警察の方々に車に乗せられ、先生のところに連れてこられたこと、それから今、先生とお話ししていること、全てが夢ではないのか、と」

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「ほほう、ということは私は現実の人間ではなく、あなたの夢の中の登場人物だと言うのですか?」

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男は銀縁の眼鏡を外し、子供のくだらない話を聞く親のように眉間を指で揉むと、大きく息を吐いた。

背後の本棚には心理学関連の物々しい学術書がすき間無く並んでおり、広い机の上にはタイトルが英語の雑誌が無造作に積み上げられている。

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「そうです。だから、もう少ししたら、ここは突然真っ暗になって、先生もわたしも消えて、わたしはいつものように、いつものベッドで目覚めるのではいか、と」

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そう言うと、信子は真剣な目で男を見た。

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「酒井さん、あなた、本気でそんなことを言っているんですか?」

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「はい、だって、そんな夢あるじゃないですか。

現実とほとんど変わらないのが……。

その中では当たり前に「痛み」を感じるし、「寒さ」や「暑さ」も感じる。

この間なんか、主人と娘とステーキハウスに行った夢を見たんですよ。

その時も目の前の鉄板では霜降りの肉が焼け、香ばしい香りがしたと思うと、油が飛び散り、わたしの手の甲に当たり凄く熱くて、やけどして。

驚いたわたしの顔を見た主人と娘が大笑いして……

その時も……」

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「酒井さん!」

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男のピシャリとした声が信子の話を遮る。

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彼女はビクッとして話を止めた。

そしてまた、せわしなく髪を引っ張りだす。

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「残念だけど、あなたの前に座っている私もあなたも夢ではなく現実なんです。そして、あなたがご主人と15歳の一人娘を包丁で殺したのも厳然たる事実です!」

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「夢なんです。夢に決まってます!

だって、わたし、前にもそんな夢を見たことがあるんです!」

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「そんな夢というのは?」

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「主人や子供を殺す夢です。 

その時も今回と同じように、包丁で刺したときの手応えを感じましたし、顔に付いた血の生温かい感触も錆び臭い匂いもありました。

それでわたし、なんて恐ろしいことしたんだろう、と狼狽えて慌てて近くにあった新聞紙で傷口を押さえたりして、それはそれは全く現実そのものでした」

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「それはそうかもしれないが、今回は間違いなく、あなたが現実の世界でやったことなんです」

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男は少し声を大きくして断定するように言った。

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「じゃあ、先生、今のこの状況を夢ではないと証明できます?」

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そう言って信子は目一杯大きく瞳を見開く。

その目は白目がはっきり血走っていた。

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その時だ。

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彼女や男の姿は、まるでテレビの画面が乱れるように部分部分が見え隠れしだすと、最後には周囲と同化するかのように薄くなっていき、やがて辺りは暗闇が支配した。

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……

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………

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…………

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どれくらい暗闇は続いただろう。

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突然、ポツンと遠いところにボンヤリとした白い光が現れた。

そしてそれは徐々に漆黒の闇を侵食していく。

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酒井信子はうなされながら目を開けた。

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あみだくじのような白い天井が、いきなり視界に入ってきた。

彼女は額の汗を拭いながら、ほっとため息をつき、起き上がる。

レースカーテンからは朝の陽光が部屋に射し込んでいた。

正面のクリーム色の壁には、ムンクの「叫び」。

その下の洒落た丸テーブルには、仲良さげな家族のスナップ写真が額縁に入れられて飾ってある。

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いつもの寝室の光景だ。

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─まだ、動悸がしているわ……

また恐ろしい夢…… 

ここのところ、こんな夢ばかり…… 

わたし、どうかしてるのかしら……

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そう思いながら彼女はふと横を見る。

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─夫がいない!

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慌てて時計を見た。 

9時!

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―いけない!朝ごはん作らないと!

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信子は急いでガウンを羽織り、スリッパをはいて寝室を出た。

奥の居間に行くまでに一人娘の部屋のドアをノックする。

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「起きなさい!遅刻するわよ!」

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居間のドアを開けたら、いつもの朝のニュースキャスターの元気な声が聞こえ、食卓テーブルの前には、既にワイシャツとネクタイ姿の夫と制服姿の娘が座っていた。

サッシ窓のレースカーテンから目映い朝の陽光が二人に当たっている。

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「あらあら、ごめんなさい!

わたしが最後だったみたいね!

すぐご飯準備するから、ちょっと待ってちょうだいね。

本当わたしったら最近寝坊ばっかりして、変な夢は見るし……」

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と一人ブツブツ言いながらバタバタと皿を準備し、冷蔵庫を開けて食材を出す。

そしてフライパンをガスレンジの上に置いた。

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「目玉焼きとパンでいいでしょう?

それくらいしかできないわよ!」

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信子は食卓の二人に聞く。

だが、返事はない。

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「まったく、何か返事くらいしなさいよ…」

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信子の夫は口をポカンと開けてイスにもたれ掛かりダラリと両手を垂らして焦点の合わない目で天井を見上げている。

娘はテーブルの上に横向きに頭を乗せて目を閉じ、

両手は顔の横に置いている。

二人とも顔には既に生気がなく、小バエたちが数匹、肩や顔に止まっては離れている。

壁際の大型テレビでは、若く元気な男性が今日の天気を明るい調子で紹介していた。

テレビの前の絨毯の上には乾いた血の付いた包丁が落ちている。

その周辺には何枚もの新聞紙がくしゃくしゃになって散らばっていた。

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やがて食卓テーブルの上には朝食が並べられた。

いつもの目玉焼き、クロワッサン、そして、コーヒー。

信子も一緒にイスに座る。

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「さあ、早く食べないと、間に合わないわよ」

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目の前の二人は先ほどの姿勢のまま全く動かない。

彼女はしばらく二人を交互に見て一つ大きくため息をつくと、おもむろに口を開いた。

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「そう…そうよね…あなたたちはいつもそうやって、わたしを無視するのよね……。

分かりました!もう、会社にも学校にも行かなければいいわ。

何時までもそうしていればいい。

わたしは知りませんからね!」

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信子は突然立ち上がると、テーブルの上にある熱いコーヒーを目の前の夫にぶちまけ、カップを床に叩きつけた。

大きな音とともに、それは見事に割れ、破片があちらこちらに飛び散った。

白いワイシャツは茶色に染まり湯気を上げている。

彼女はテーブルの上に顔をうつぶせると、大声で泣き出した。

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だが相変わらず夫はただひたすら天井を見上げ、

娘はテーブルに顔を埋めていた。

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shake

RRRR!

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shake

RRRR!

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玄関の電話が鳴り続けている。

やがて、それは留守電に切り替わった。

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「もしもし、あの、酒井さんですか?

こちら、S社です。

ご主人が今日もまだ出社されないんですけど、3日めです。 

折り返してご連絡お待ちしてます」

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続いてまた電話はしばらく鳴り続け、留守電に切り替わった。

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「もしもし、1年3組担任の緒方です。

娘さん、今日も学校に来てませんが、ご病気かなにかでしょうか?

お電話下さい」

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惚けた老人のように物言わぬ二人を呆然と眺めながら、信子は思っていた。

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─そうよ、きっと二人もわたしも、いつものように幻のように消えてしまい、またいつものように、わたしは目を覚ますはずよ、、、

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またいつものように……。

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Fin

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Represented by Nekojiro

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@あひるちゃん 様
ありがとうございます。
あひるちゃんの作品も私小説的な独特の世界観がありますよ😸
自分の作品というのは人からどう感じられているか、
なかなか分からないものですよね😸

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@ハナ 様
たくさん怖がっていただき、ありがとうございます

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猫次郎さん、、、
今回の作品、かなりゾクゾクしました

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