都心から少し離れた歴史のあるこの町に敦史と美玲の夫婦は引っ越すことを決めた。2人は結婚3年目、妻の妊娠を機に広いマンションへの転居を決めたのだ。そのマンションは駅から10分以内ですぐ側には緑豊かな大きな城址公園がある物件だったそうで。
そして2人が選んだ5階の部屋は目の前が城址公園のおかげで景色を遮るものがなく、天気の良い日は遠くに富士山を望むこともできた。都心からは少し離れていたものの淳史の勤務地へは電車で乗り換えなく通うことができ、なによりも妻の美鈴が明るい部屋を大変に気に入り即決に近い感じで転居を決意した。これから新しい命を迎える若い夫婦は誰から見ても幸せな未来を予感させた。だが2人の関係に転機が訪れたのは引っ越しをして間もなくの事だった。
「こんにちは、お暑いのにお引っ越し大変ですね。」
淳史に路上で語りかける女の声がした。
「あ、こんにちは。すみません、道路をふさいでしまって。ドタバタでトラックを借りて引っ越してきたものですから。本当は業者を頼んで引っ越したかったんですけどね。」
きまり悪そうな笑顔を浮かべながら淳史は声のする方へ向き直った。女は歳の頃20代半ば、淳よりも少し年下と言う感じか。妻の美鈴は新居の部屋の整理をしていることもあり、いま淳史は1人きりだ。
「そうだったんですか。忙しそうになさっていたものでついお声掛けしてしまいました。お邪魔をしてしまい申し訳ありません。」
女は笑みを浮かべたあと、ぺこりと淳史に一礼して静かにその場を去っていった。肩まで伸びる黒い髪、ふたえの澄んだ瞳、淡い色のブラウスに浮き出たふくよかな上半身。体の線が分かるロングスカート。敦史は誰かに見られてやしないかと辺りを見回したあと、引っ越しの荷物を台車に載せてマンションのエレベーターへ向かった。新居のドアを開けると美玲の元気な声がすかさずひびく。
「ねぇ、あっちゃん、面白いよ!ほら、指差す方向!遠くを走ってる電車がプラレールみたい。ん?ん?あれあれ?なんかあった?」
美鈴の声に淳史は目をそらしながら公園の石垣を眺めて相槌を打った。
「あぁ、ほんとだ。小さく見えるね。別になにもないよ。」
だが敦史はさきほど出くわした女のことが気にかかっていた。
新居に冷蔵庫や洗濯機の大きな家電が揃い新しい生活にも慣れ始めたころ。
「ただいま。ごめんね、遅くなっちゃって。引っ越しで休んでた分仕事が溜まってて。」
淳史は赤い顔をしながらソワソワとにリビングへ入ってきた。美鈴はムッとして素っ気なく相槌を打った(妻が妊娠したっていうのに配慮もせずこんな時間まで部下を残業させる上司ってどうなのよ)。淳史は申し訳ないですね、と言った素振りを見せながら浴室へ向かった。
シャワーで顔を洗い首元から胸元、下半身と丁寧に慣れたボディーソープで洗っていく。湯気の立ち昇る浴室の天井をぼう然としながら眺め、ため息をつく。学生時代ラグビーで鍛えた逞しい体を丸めながら淳史はうつむいた。浴室から出ると美玲が敦史にタオルを放りながら言った。
「あっちゃんがお風呂に入っている間、ずっとポタポタ水の音がするの。キッチンもトイレも洗濯機の周りもどこにもそれらしい跡がないのに。空耳かな。」
美玲はそこまで言うとぷいっと寝室へ向かった。淳史は耳を澄ませたが美玲の言う水の音は確認できなかった。だが引越しの日に出会ったあの女の気配を部屋のどこかに感じた。
引越しからふた月ほど経ったある日。まだ9月と言うのにその日は涼しい風が吹いていた。定時で仕事を終えた淳史は最寄り駅から少しだけ遠回りになる城址公園の中を歩いていた。虫の鳴き声が草木の陰から聞こえる。季節は夏から秋に変わろうとしていた。石垣に沿って続く道を歩く淳史のはるか先にぼんやりと光る人影が見えた。
(こんばんは、淳史さん。お仕事お疲れさまです。)
淡いパープルのニットにライドグレーのタイトスカートをはいた女がこちらに微笑んで一礼している。派手さは無いが男の目を引く容姿。引っ越しのとき短い会話を交わした彼女は“あき”と名乗った。まだそれほど遅い時間でもないのに周りには誰も居なかった。淳史は初々しい表情であきのすぐ側へ立った。あきはさも当然のように淳史と腕を組み歩き出した。
二人は公園の中を歩いた。公園の中を歩いているはずなのに辺りからは街灯が消え、道はどんどん下っているように感じた。そして雨などしばらく降っていないのにひんやりとした感触が体にまとわりつき辺りが湿っていることが分かった。かすかに水の流れる音も聞こえた。真っ暗な道を淳史は朦朧としながらあきに引かれて歩いた。道の先にぼんやりとした灯りが見えた。
(また来てくださると思っていました。気持ちが通じてうれしいです。)
あきは微笑みながら淳史を灯りの中へ導いた。
「行ってきます。」
靴べらを使って革靴に足を滑り込ませながらスーツ姿の淳史はハリのない声で言った。顔は青白く頬も少しこけたように見える。美玲は心配そうに淳史の顔を見た。
「あっちゃん、朝ごはんも半分しか食べてないし。なんだか最近変だよ。」
淳史は口角を少しだけ上げて、心配ない、と言うように微笑んでみせた。実際、淳史自身は自分の異変に気づいていないようだった。改めてドアのほうに向き直り自宅を後にする淳史。5階からエレベーターを降り、公園を通るルートへ向かう。いつものように公園の入り口であきが待っていた。
(おはようございます。こうして1日の始まりに敦史さんとお会いできてとても幸せです。)
あきはそう言うとやはり自然な様子で淳史と腕を組んで歩き始めた。時を同じくして部屋では美玲がまた水の滴る音に悩まされていた。このところ水の滴る音が以前より増えた気がする。まるで鍾乳洞の中にいるような感覚に陥る時すらある。美鈴は最近の淳史の様子に加え、自分自身の幻聴に不安を感じはじめていた。スマホを取り出した。
『あっちゃん、私ちょっと変なの。』
『今日は早く帰ってきて欲しいな。』
淳史にLINEを送った。
その日の夜、淳史は公園を通らず最短ルートで帰ることにした。このところあきに会うために頻繁に公園を通って帰っていた。妊娠中の妻を置いて悪いことをしていると知りながら、惹かれるがままにあきの元を訪れ、逢引を重ねていた。だが、今朝の美玲の様子はおかしく寄り道をしている場合ではないと思った。ぱらぱらと雨が降る中、淳史は家路を急いだ。雨の音に混じってあきの声が聞こえた気がした。
「ただいま」
淳史が玄関を開けると部屋の電気がついていなかった。それになんだかジメジメしている。湿度がすごいのだ。
「美玲、美玲、居ないの?」
足を踏み出すと顔にぽつりと冷たい水が垂れた。壁にある電気のスイッチを押しても灯りがつかない。淳史は慌ててリビングへ向かう。
「美玲、どうした?美玲、大丈夫?」
廊下の壁に手を付くとしっとりと濡れている。リビングの扉を開けると遠くに水の流れる音が聞こえ、天井のあちこちから水の垂れる音が聞こえた。雨漏りでもしているかのように。ベランダの窓は全開でカーテンが風に吹かれて室内にはためいていた。そんな異様な状況の中で美玲は真新しいダイニングチェアに座りテーブルに肘をついて頬杖をつきながらうつむいていた。美玲がうつろな表情でぼそぼそとつぶやく。
「淳史さん、お帰りなさい。今日は私の部屋に寄ってくださらないから。私の方からお伺いしたんですよ。」
美鈴の様子がおかしい。淳史は美鈴の肩に手を置いて呼びかけるように声をかけた。
「なぁ、寝ぼけているなら目を覚ましてくれよ。」
しかし美玲はうつろな表情のまま顔を起こして、敦史の目を見ながら更に言葉を続けた。
「私、一人で冷たい石垣の下に居るのは寂しくて。」
淳史は話しているのが美鈴ではないことを悟った。これはあきだ。そんなことあるはずがないのに、はっきりと確信した。
「奥様に変わって頂いたんです。だって私たちもう、他人じゃないんですから。」
淳史は全身から血の気が引いていくのが分かった。真っ青になりながらも意識ははっきりとしていた。体が動かず口を動かすこともできない。あきはゆっくりと部屋を見まわしてかすかに口元を緩めて言った。
「三日待ちます。淳史さんが私の元に来てくだされば、奥様はお返しします。」
言い終えると美玲はそのまま崩れるようにテーブルにつっぷして寝息を立て始めた。気づくと部屋の電気は付いていて濡れていたはずの床も乾いていた。ただ公園を望むベランダの窓は開いており、カーテンがはためいていた。
美鈴はその日の夜どんなに呼びかけても目を覚まさず、救急車で病院へ搬送された。医師によると母子ともに命に別状は無いものの意識が戻らないとのこと。美鈴は意識が戻るまで入院することになった。
翌日、淳史は地域の図書館を朝から訪れ過去の新聞のデータベースで城址公園に関する事件や事故を徹底的に検索した。あきはいったい何者なのか。半日かけて検索したが事件はおろか事故の一件も見つからなかった。昨日は一睡も出来ず、ひげは伸び頬はこけ目にはくまが出来ていたが時間は限られていた。会社へは体調不良を理由に半ば強引に休暇をもらった。
あせる淳史の目に城址公園の成り立ちを扱った郷土史の本が止まった。その本によると、あの城址公園の場所には江戸時代に藩の城が築かれていたと言う。そしてある気になる言い伝えがコラムに書かれていた。
『お城にはある恐ろしい伝説があります。城の建設を始めた当初、石垣の工事が難航し計画通りに工事は進まなかったようです。そこで城主は工事の成功を祈願するため、人柱を建てよと家臣に指示したと言うのです。人柱とはつまり生きた人間を生贄として石垣の下に埋めてしまうと言うことです。家臣達は城下町に夫に先立たれ身寄りのない女が一人住んでいると聞き、さらってきて人柱にしてしまったと言うのです。』
(これだ…)敦史は直感した。石垣の下の地中奥深く地下水の流れる冷たい場所で彼女は今も眠っているのだ。伝説には後日談があった。城が築かれてのち城下では所帯持ちの男が石垣のそばで何人も神隠しにあったと言うのだ。このままでは働き手がいなくなってしまうと案じた城主が親交のある寺の住職に相談したところ、これは人柱にされた女の祟りであるとの答えが返ってきた。そして住職は城のすぐそばにささやかな供養塔を建て女の魂を鎮めた、と締め括られていた。
(おかしいな…彼女は供養されて以降現れていないことになっている。どういうことだろう…)淳史が改めて文献の地図を眺めていると、とんでもないことに気がついた。
「供養塔が建てられた場所がうちのマンション!?」
思わず声を上げてしまった。淳史は文献を借りて急いで自宅へ向かった。そしてエントランスの掃除をしていた管理人に供養塔についてたずねると、こんな答えが返ってきた。
「僕も聞いた話なんだけどね、ここを建てる前には確かに小さな祠があったんだって。だけど戦後から土地の所有者が転々として由来もわからないし、工期が遅れていてそれどころじゃないって言うんで。どうも処分しちゃったみたいですよ。」
そういうことだったのか。淳史は言葉に詰まったまま会釈をしてその場を後にし、自宅のベッドに倒れ込んだ。そしてそのままぐっすりと眠り込んでしまった。夢の中では美玲が深い穴の底で1人正座をし、目をつぶって一心に小さな白い石に手を合わせていた。穴は深く手を伸ばすとボロボロと周りが崩れてしまう。淳史は呼びかけようとするが声が出ず代わりに涙が頬をつたう。涙を拭ってもう一度穴の底を覗くと美玲は居なくなっていて、代わりに着物を着たあきが笑みを浮かべて見上げていた。
窓から差し込む朝日で淳史は飛び起きた。全身汗びっしょりだった。(あの寺の住職に相談してもう一度供養してもらうしかない!)体力的にも精神的にもボロボロの状態で水道の水を口から流し込み身支度を整えて部屋を出た。そのお寺は城址公園の鬼門方向、マンションの裏口から出て10分ほど歩いた場所にあった。敦史は事前の連絡もなく押し掛けたことを詫びたが、初老の住職は既に淳史がやってくることを知っていたかのように落ち着いて言った。
「あのマンションが建てられた時、いつか眠っていた彼女が目を覚ますんじゃないか、そんな予感がしていた。私も供養塔の事は気になっていたんだが。あの土地は不動産屋の手を転々と渡り、私も手が出せない状態のままになっていたんだ。それにしてもお気の毒に。先代の住職から託された特別な石をもって彼女の魂を鎮めましょう。」
そう言って古い木箱から白い小さな勾玉を取り出した。淳史は少しほっとしながら、改めてこれまでの詳しい経緯、今置かれている状況を正直に伝えた。だが住職は話を聞き終えると難しい表情を浮かべ少しの間考え込んでしまった。
「うーん。彼女の魂を再び鎮める事はできるでしょう。ただしその場合。言いにくいんですが、奥様も目を覚ます事はないでしょう。」
住職の話によると美玲の魂はあきに握られており、このままあきの魂を鎮めると恐らくは戻って来られないと言うのだ。つまりあきが美玲の魂を手放さない限り美玲は戻ってくることが出来ないのだ。そして美玲の魂を握られてしまったのは敦史があきと姦通し、家庭に霊力が届いたことが原因のようだった。
「旦那さんが逢引を重ねて帰るたびに彼女の霊気は少しづつ家庭に持ち込まれた。そして身重で弱った奥様の魂を取り込んでしまったんでしょう。」
淳史は後悔した。だが立ち止まっている時間はない。住職にお礼を言って寺を後にし、その日の夜は美玲と過ごすため病室に泊まった。
3日目の朝、淳史は自宅へ戻り入念に体を洗いひげを剃り髪を整えてスーツ姿で寺へ向かった。門の前では住職が落ち着かない様子でほうきを持って立っていた。
「旦那さん、本当に良いんだね。もう2度と帰ってこられないかもしれんよ。」
淳史はまっすぐ住職を見て答えた。
「覚悟はできています。自分でまいた種ですから。」
日も落ちかけた時刻、敦史は一人で城址公園へ入った。街灯が並ぶ道を石垣に沿って歩く。いつものごとくまだそれほど遅い時間でもないのに道ゆく人は敦史一人。そして遠くにぼんやりと光る人影が現れた。艶やかな着物姿のあきが嬉しそうに微笑んでいる。
「敦史さん、おかえりなさい。」
あきはいつにも増してうやうやしく頭を下げた。そして何事もなかったように敦史に腕をからめようとするが、敦史は距離をおいて言った。
「まず妻を解放してもらいたい。」
あきは一瞬鋭い目をしたあと口元をゆるめて言葉を返す。
「あの部屋に居られる魂の数は一度に2つだけ。だから敦史さんが来てくだされば奥様は体へ帰って行くんですよ。」
敦史はうなずいた。住職に聞いた通りだ。覚悟を決めてあきの元へ進む。
「それを聞いて安心した。行こう。」
あきは目を光らせて敦史と腕を組み真っ暗な道を進む。いつしか水のしたたる音が聞こえ灯が見えて来た。あきが木製の古い引戸を開けると光の玉が中から飛び出し、敦史の目の前をすーっと横切って行った。敦史はそれが美玲だと分かり安心した。あきはそんな敦史の様子を横目で見ながら少し強い口調で言った。
「これで二人きりになれますね。」
そう言いながらあきは敦史の腕を強く引き中へ入ると後ろ手に引戸を閉めた。振り向くと黒目を赤く光らせたあきが通せんぼをするように両手を広げて立ちはだかっていた。
「あなたには時間がかかりました。何度交わってもなかなか私の霊気が体中に行き渡らない。欲が深いんでしょうね。だから何度も満足させてあげた。良い思いができましたか?これでもうあなたの体は思い通りに動かない。さあ、今度は私の番です。あなたの体ごと魂をいただきますね。」
言い終えるとあきの着物がもぞもぞと動き始めた。敦史は金縛りにあったように動くことができない。着物の動きは次第に激しくなりついにはビリビリに破れて白い肌があらわになった。敦史が裸になったあきを目で追っているとあきが言った。
「幸せな人ですね。まだ私の姿が見えていないなんて。」
そう言いながら近づいてくるあきの腰から下を見て敦史は気絶しそうになった。黒い節のある足が6本。ぞろぞろとうごめきながら敦史に向かって歩いてくる。あきの下半身は大きな蜘蛛の姿に変わっていた。
「さあ、まずは体液を吸っていきますね。気を失わないようにまずは気付薬の毒を心臓に注入しないと。最後まで一緒に楽しみましょう。」
あきは料理でもするかのように敦史の体に手を伸ばし、ネクタイを取ってワイシャツのボタンを外したところで顔をしかめ手を止めた。そしてドスの効いた声で言った。
「なんだよ、これ。」
敦史の胸元には住職から拝借した白い勾玉がぶら下がっていた。あきは目をいっそう光らせて引きちぎろうと手を伸ばした。その時、天井から住職の読経が聞こえてきた。それと同時に勾玉が黄金色に光り始め敦史の体を包み込んで行く。
「あぁぁ、眩しい。ずるいよぉ、敦史さん…自分だけ良ぃ思いをしてぇ…逃がさないから…逃がさないんだから…」
そう言うとあきは勢いよく敦史に飛びかかり6本の脚と2本の腕で掴みかかった。だが勾玉の力は強力であきの体は背後に弾き飛ばされた。あきは6本脚の爪を立てて壁を這い歩きながら遠巻きに様子を伺っている。そうこうしている内に天井から風が吹き込んだかと思うと、地上まで通じる円い穴がぽっかりと開いた。穴の上からは住職が顔を覗かせている。
「旦那さん!奥様の意識が戻った!」
そして勾玉から一筋の光が天に向かって伸び一本の紐に変わった。穴の上から住職の声が聞こえる。
「その紐に捕まって早く登るんだ!私の力で出来るのはここまでだ!」
敦史は勾玉のおかげで体が動くようになっていた。急いで紐に捕まり縦穴を登って行く。だが後ろからあきが目を光らせて迫ってくる。
「だめ、行っちゃだめ。敦史さん、戻ってきてよ。私の体をもう一度触れて。あんなに求めあったじゃない。ねえ、お願い。」
敦史はその甘い声に一瞬気の迷いが生じた。あきはその一瞬を見逃さず、すごい速さで這い上がってきた。
「あぁぁ!」
メキメキッと鈍い音がして敦史はうめき声を上げた。
「旦那さん!そのまま穴の上まで登り切って!」
穴の淵から住職の声がした。見下ろすとあきが敦史の足首を掴み、握りつぶす勢いだ。敦史は渾身の力を振り絞り穴の上まで這い上がった。その途端、住職が数珠を握りしめ何やら呪文のような言葉を呟いて穴は閉じていった。敦史を掴んでいたあきの手はみるみる干からびて骨になり崩れ落ちた。住職が汗を拭って言った。
「なんとか鎮めました。」
敦史は命拾いしたものの、右足首の骨を砕かれる大怪我を負った。
バシッ!美玲のビンタが敦史の頬を打つ。
「あっちゃん、なんとなくだけど私、気づいてるからね!あんたは耳なし芳一かっての!」
敦史は頬の痛みと足首の激痛に身をよじらせながら謝るしかなかった。これからしばらくはリハビリと反省の日々が続くのかと思うと敦史は心底絶望した。(ちくしょう、俺にもとうとう人生初のモテ期が来たって思ったのに…)そんな敦史の心を読んで美玲が足首をつつく。
「ぎゃぁぁ!」
「反省しろ、アホ!」
初犯かつ相手が幽霊だったこともあり美玲は敦史を許してくれた。しばらくは病室暮らしになるだろうが、きっとこの若い夫婦はこの先もうまくやっていけるだろう。住職は病室の外からうんうんと頷いて満足げに去っていった。
作者梅島たくじ