結婚してちょうど2年目。働き盛りとあって残業続きだった夫が、久しぶりに定時で帰ってくるなり、青褪めた顔で玄関に立っていた。
何か会社でトラブルがあったのか、それとも道中で変な目にあったのか。体調が悪いのか…
付き合っていた時でさえ見た事の無いその表情に、私は困惑した。
お帰り、お仕事お疲れ様、とは言ったものの…何をどう、聞けばいいのか分からない。
とりあえず、いつまでも夫をその場に立たせる訳にもいかないので、私は、
「ご飯、出来てるから」
と、声を掛けた。
しかし、夫は私の呼び掛けに対し「ああ…」と小声で言うだけで…リビングへと向かうと、冷蔵庫を開け、その場で缶ビールを一気に飲み干した。
普段、晩酌スタイルの夫からしたら横着そのもの。
だが、夫はすぐに2缶目に手を伸ばすと、躊躇なく喉に流した。
「ちょっと、どうしたのよ?」
声は聞こえているようで、チラチラこちらを気にする素振りはあるが、ぎこちなく、意識的に私の顔を見るのを避けている。
その態度にムッときて、私は無理やり夫の視界に写るよう近付いたが…夫はそれでも私を避け続けた。
ふと───如何わしい不安が頭によぎる。
夫婦生活における、最悪のシナリオの1つ。まさか…嘘だ。でもあの仕草…どうしよう。
一瞬で疑心暗鬼に駆られ…耐えられず、ネガティブな感情が噴き出した。
「ちょっと、無視はやめてよ!何があったの…」
ぼろぼろ涙をこぼす私に、夫もさすがに不味いと思ったのか…飲みかけのビールを置いた。
「ごめん…でも…」
「でも何?私達夫婦だよね?隠さないといけない事してるの!?」
「それは…あああああ、もお!!!」
私の頭を撫でていた夫の手が、突如自身の頭髪をぐしゃぐしゃとかき乱す。
最悪のシナリオ通りなのか、それとも残業のストレスで不安定なだけなのか…夫は暫く、私の前でウンウン唸り、何か落ち着けようとしていた。
そして、ようやく私の顔を見ると…硬い表情で、
「エミの事疑ってなんてないし…てか、俺も未だに何がなんだか混乱してて…でも言うと…エミに凄いショック与えるかも知れなくて…」
「…浮気なの?」
「違う!断じてそれは無い!信じてくれ…」
とりあえず座ろう、そう言って夫は、私をソファに座らせ、隣に腰掛けた。
ポケットからスマホを取り出し…震える指で操作した後…私に画面を見せた。
写っていたのは、私。
全く記憶に無い姿をした、私だった。
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「湯煙の痴情」
行書体で大きく書かれたその横で、「私」が、浴衣をはだけ、夫にすら見せたことの無い恥態を晒していた。
「友達の…ケンタが…ほら、結婚式に来た、あいつが…」
メールは、夫の地元の幼馴染みからで、勤務先のレンタルビデオ屋で偶然このDVDを見つけ、夫に送って来たそうだ。
性格上、幼馴染は悪ふざけや冗談が嫌いな人だという事もあり、夫は信じざるを得ず…もう仕事どころではなくなり、無理を承知で会社を早引けしてきたのだ。
写真の下には一言、「ビデオの中身、これ、かなりヤバいぞ」…とだけ書かれている。
ヤバいなんてものじゃない。
全く記憶に無いし、そもそも、アダルトビデオというものに出る理由も関心も無い。
なのにそこには、「私そのもの」が居たのだ。似てるとかのレベルじゃない、私が。
ドッペルゲンガーを見てしまうと災いが起こる。子供のから良く聞く恐ろしい話…それが今、自分の目の前で起きている。
違う、これは夢。悪い夢を見ているだけだ…そう何度も心の中で念じたが、心臓の鼓動によって引き戻される。
もう涙も出ないし、怒りも沸かない。ただただ、目の前の状況が信じらず、体が固まった。
「エミの事、信じてるから…こんなの、こんなのおかしい…誰が…」
夫の言葉が、独り言のように聞こえる。信じるって…当然の事。私がこんなビデオに出れる状態じゃない事を、私と同じ位知っている筈。
それに…結婚する前、隠れてAVを見ていた事がバレ、私が怒ったのを、忘れているとは言わせない。同じくらい怒り狂ってしまいたい。でも、それは今、絶対に出来なかった。
「エミ…あのさ…」
「ごめん、寝かせて」
気が付けば、今度は私の方が、夫から目を逸らし続けていた。
夫の手を振り払って、寝室に籠る。途端に吐き気が襲い、部屋のゴミ箱に嘔吐した。
フラフラする意識の中…口元を拭い、夫から取り上げたスマホに手をかける。
「妻です。制作会社とその住所、教えていただけますか?」
幼馴染は、妻本人からの電話に驚いていたが、すぐ情報を送ってくれた。
都内にあるアダルトビデオ専門の事務所…最短でも、ここから電車で2時間の場所だ。
「奥さんの事、信じてます。やっぱりこれ、おかしいんです」
おかしい。そう。こんな事が現実に起こっているなんて、おかしい以外の何物でもない。
このまま、何もしない訳にはいかない。
「お電話ありがとうございます…○○プロダクション制作部です────」
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翌日。ソファで眠る夫を置いて、私は朝早く東京に向かった。
夫に頼る選択肢は無い。あのまま、私が泣いて怒らなければ…夫は何もなかったように、きっと私の顔を避けながら、のらりくらり過ごしたのだ。
そう思うと、正直、私のふりをしてビデオに出ている女よりも、幼馴染よりも、夫の態度が腹立たしかった。
険しい顔をしていたのだろう。出勤するサラリーマンやOLが、時折怪訝な視線を向けるのを…寝たふりをして、やり過ごした。
電車に揺られる事約2時間。都内の主要駅から、更に徒歩で30分…繁華街の裏通りに面した場所に、○○プロダクションと書かれた看板をようやく見つける。
ドアを開けると、ちょうど近くにいた社員が私を見るなり、あっ、と言う顔をして、誰かの名前を呼びながら、オフィスの奥にある部屋へと走って行った。それは、昨日の夜、私の電話に出た女性スタッフだった。
女性スタッフは、「早く!あの人です!」と言って、奥のドアから人を2人連れ出し、再び入り口に走って来た。
その後ろを、「やかましい…」という顔をして、面倒臭そうに男性2人が歩いてきたが、私を見るなり、目を見開いてその場に立ち尽くした。
そりゃそうだろう…
何故なら、当時私は臨月間近。約8ヶ月の子供がいる、妊婦だったのだ。
「え、え…えええええ?」
「社長…これって…あの…えっ?池島さん?」
「その事について、お話を伺いたいのですが」
男性2人…この事務所の社長とプロデューサーは、私の姿に困惑しながらも、説明を始めた。
あのビデオは3ヶ月前に撮影した作品で、いわゆる「素人もの」と呼ばれるシリーズ。事務所が一般人から出演を募り、温泉での行為数本を、1つのDVDに収めた物だった。
そして「私」…芸名「池島アミ」は、出演した女性の中でも顔が良かった為、特別に表紙に選ばれたそうだ。
間違いなく、顔は私、そっくりそのままだったという。
「まさか、妊婦だったなんて…そんな…」
「だから、この人は私じゃありません」
「そうでした…申し訳ない」
たった3か月で、ここまでお腹が出る事なんて絶対に無いし、しかも関係の無い、赤の他人に成りすますなんて、言語道断だった。
だが事務所側は、出演する際に病気や妊娠の有無と言った色々な検査や手続きを経て、結果、池島アミがその検査で「何も問題が無かった」為、出演させたに過ぎないとした。
それに、有名人そっくりという企画物で、特定の芸能人に顔が酷似した女優を使う事もあるが…この作品はあくまで、「一般の素人女性」。
だから、出演者が有名人以外の誰かに似ていたとしても、別におかしいとは思わない…そう聞かされた。
「言い訳になりますが…こうして連絡来るまでわかりませんでした…」
「池島さんと連絡取れますか?今」
「今、ですか…」
「社長…どうします?」
「どうするも何も…結局は名誉棄損になっちゃうだろう…回収するしかないよ!」
隣で不満気に話す社長に、怒りが沸いた。回収するしかない。まるで私のせいで、売り上げが落ちるのを心配するような言葉…どことなく、夫と同じ匂いがした。
「ごめんなさい…ちょっと直ぐには…」
「どうしてですか?私自身の信用に関わるんです!産まれてくる子供や家族にだって!…まさかこのまま、売り続けるなんてしませんよね?」
「ま、まあまあ落ち着いて…それは、大丈夫です。こちらで回収しますから…ただ~、いきなり連絡するとかは…コンプライアンスとして…」
「いいから連絡して下さい!」
「…大変申し訳ないのですが、こちらも突然の事で困惑してまして…とりあえず、出来る限りの対応はします。ですから、今日の所はどうか…」
「…私は…どうすればいいんですか?」
「どうって…まあ、似ている人なんて、幾らでも世の中居ますから。気にしすぎると、お子さんに悪いですよ?」
…頭の中がぐらぐらと揺れた。
あらゆる負の感情が、ぐちゃぐちゃに渦巻く感覚…
同時に、汗が噴き出て視界が歪み、 ブツッ、と言う音と共に、景色がブラックアウトした。
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次に目が覚めた時、私は病院のベッドで寝かされていた。
ぼんやりとした意識のまま天井を見ていると、横の扉から看護師が入って来て、ぬっ、と顔を覗いた。
「幸田さん、起きた?あのね、貧血と…あと、水分取ってなかったでしょ?あ、私、担当の箕輪です」
からっとしたその声を聞いている内に、段々と目が覚めた。箕輪さん曰く、私は事務所の入り口で帰り際に倒れ、救急車で運ばれたそうだ。
幸い子供は無事だったが、ストレスで切迫早産になる可能性は十分にあった、と説明された。
「病室来た時ね、あなた顔面蒼白で、『なんで…なんで…』ってずっと呟いてたの。…何かツラい事あった?」
「あ…でも…」
「何でも聞くから、溜めたらだめよ?」
途端に、あの社長の言葉がフラッシュバックして、涙がボロボロ出た。言葉よりも先に嗚咽が出て、何か言いたくても言葉が出ない。
「大丈夫よ、ねっ」
それでも箕輪さんは、泣きじゃくる私の背中をさすりながら、傍にいてくれた。
夫にすらしてもらえなかった事を、彼女がしてくれている。安心感でようやく体の力がストンと抜け、自分でも想像していた以上に、ギリギリのメンタルだったと気づいた。
暫く経ち、やっと呼吸が落ち着いた後…私は昨日から今日までの出来事を、全て彼女に打ち明けた。
俄かには信じられない事。でも箕輪さんは、相槌を打ちながら、途切れ途切れの私の話を全て聞いてくれた。現状が解決した訳ではないが…一気に吐き出した後、さっきよりも、心境は少しマシになっていた。
「…それはしんどかったね、まさか瓜二つなんて………あれ?」
全て話し終えた後、箕輪さんが突然、腕を組んで考え込んだ。そして、私の表情と自身の膝を交互に見ながら、「あれ…もしかして…あれって…」と、何かを思い出すように呟き始める。
一体何が気になったのか…いや、倒れるまでの経緯が特殊だったから、色々気になっても仕方が無い。私はそのまま、考え込む箕輪さんの事を見ていた。すると、
「やっぱりそうだわ……幸田さん、ちょっと待ってて?」
箕輪さんはそう言いながら、足早に病室から出ていった。
そして誰かの名前を呼び…「こっちこっち」と言いながら、看護師を1人連れて戻って来た。
「えっ!!え…!嘘…」
看護師は私を見るなり、両手で口元を抑えながら、悲鳴を上げた。
「やっぱり…そうよね?」
「…はい、そうです、この顔です…」
そして看護婦は、箕輪さんと示し合わせた後…私に向かって言った。
「…あなたと同じ顔の女性が、ついこの間、この病院に来たんです」
今から1か月前。夜間の救急外来に、1人の女性が緊急搬送された。顔面がパンパンに腫れていて意識不明…そうとう殴られたかしないと起きない位、酷い炎症だったそうだ。
それでも賢明な処置の結果、数日後に意識が回復し、顔の腫れも引いた為、すぐに退院したというが…私を見た瞬間、双子かと疑う程、その女性は瓜二つだったという。
それは、一緒に処置をしていた箕輪さんも、ちゃんと覚えていた。
「それが…もしかして…」
「…可能性は極めて高いね」
患者の個人情報を他者に提供する事は許されず、今の話も、他人に話せるギリギリのライン。それに、その女性がアダルトビデオに出ている人だとは、まだ断定できない。
だが話を聞く限り…確実にその女性が池島アミである可能性は大きい。それが、私と箕輪さんの考えだった。
「どうしてそんな顔に…」
「…確認してみないと分からないわ」
「腫れの原因もまだ不明なんです。…ちょっと不可解で…」
数時間後、どうにか回復した私は、その日の内に病院を後にした。
正直、色々分かったようで、根本的には何も解決していない事にモヤモヤしたが…とにかく、あのビデオの女性が私では無い、という事だけは、何とか伝えられた。
時刻は午後7時。夫もさすがに心配しているだろう…
駅に到着し、半日ぶりにスマホを見ると…予想通り、夫からの留守番メッセージが幾つも溜まっていた。
午前、8時31分────
「エミ…どこ行ったんだよ、つうかゴメン…昨日は。早く帰って来いよ」
午前、9時48分────
「大丈夫か?今日は早く帰るから…待ってて」
午後、1時20分────
「なあ…お前ホント、どこにいるんだよ、連絡してよ」
午後、2時43分
「マジでいい加減にしろよ…!おい、どこだよ!」
午後、3時16分────
「てめえ、マジで許さねえからな…」
午後、4時00分────
「ただいま!今帰ったよ。夕飯無いけど、どこにいるんだ?」
午後、5時13分────
「お前の服もガキの服も、ぜーんぶゴミ袋に入れて捨てちゃった!…で、どこにいるんだよこのアマ!!!」
午後、6時26分────
「分かった!もう白状するよ!!…あれは、俺とお前の為にやったんだ。フェイクだよ、フェイク!!金と手間は掛かったけど…ていうか俺、ちょっと変な女に迫られてたんだわ」
ほら、お前もよーく知ってるだろうけど…俺、結構見境無いだろ?で、昔よく遊んでた女がさ、今になって連絡してきて…しつけぇったら(笑)
まあでも、俺も溜まってたし、お前はどんどん腹デカくなって、相手もしてくれねーしよ…だから、言ったんだよ、そいつに。
「俺の嫁の顔そっくりに整形して、AV出てよ」って…まあ、最初は喧嘩になったけど、お駄賃ちょっとあげたら、ほんとにやりやがった(笑)ゴメン!俺やっぱ、AV見るの辞めらんねー!ロマンっていうの?男の(笑)許して。
でも、お前もお前だよ。腹デカくても、その気になればヤれるんだからな?母体がどうとかマジ、心配しすぎでうぜーよ。俺が望む綺麗なエミちゃんを、永久に映像として残しておきたいって…悪い事じゃないよな?
ああ、ケンタの事は気にしないで?わざとあいつの店に置くように、ダチにお願いしたんだ。
あいつ、昔っからバカだからさ…向こうは俺の事幼馴染とか言ってっけど(笑)仲良くねーし!なるべく多くご祝儀欲しかったから、その要員ってやつ?
俺、凄くない?逆境をチャンスに変えるってゆうの?お前もそこに惚れたんだっけ?最初。
ほら…帰って来て、エミ。俺のだーい好きな、俺の事が大好きで大好きでたまらない(笑)
エミちゃーん!!
「す、すみません…!!あの、さっき病院で……あ、あの…箕輪さんいますか…!?」
「幸田さん?箕輪です。…私もね、連絡しようと思ってたの。今どこ?戻って来れる?」
「た、タクシーで何とか………助けて…!!」
「うん、うん、わかった。…肩の痣、そうよね?診断書書くから、そしたら警察呼ぼう!」
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久々の再会は、悲惨なものだった。
病室で、青紫や赤で染まった私の肩を見て…両親と姉は、「気づかなくてごめんね」と言って私を抱きしめ、泣き崩れた。
診察後に戻った自宅は、夫が力ずくで当たった痕跡がそこら中にあって、家具も、食器も、テレビも、子供用のベッドやベビーカーまでもが、ぐちゃぐちゃに壊されていた。
「…なんで…?」
「おかえり~遅いじゃん、夕飯まだ?」
それが、夫婦としての最後の会話。
夫は抵抗し、捜査官の手を振り切って逃げようとしたが…もう1人の、「理想の私」によって脚を折られ、共に連行された。
プロダクションからも連絡が来て、あのビデオは永久お蔵入り、回収次第処分した、と報告があった。そして社長は、あの後事故に遭って、引退した、とも。
その後、人生を立て直す為の、膨大な手続きのさなか…破水し、再び緊急搬送され、壮絶だったけど、無事、娘は産まれた。
「ママ!」
もう5歳になる。
「わたし、ママのお顔、だあいすき!いつか、ママみたいになりたいの!」
「……ユミちゃんは、十分可愛いお顔だよ。それに、優しい子だよ…」
心の内に比べたら、面の皮なんて所詮、ただの薄っぺらい機能でしかない。
どんなに綺麗に仕上げても、心が変わらなきゃ、ただの張りぼてだ。
「エミさん、僕、あれから…あのDVDの写真、一度だけ見返した事があるんです。そしたら、なんか、変わってるんですよ…おかしいですよね。パッケージ撮っただけの写真なのに…今、もう消去したので分からないですけど…」
────崩れてるんですよ、ぐちゃぐちゃに────
作者rano_2