ふと、外に何かの気配を感じて窓を見ると…そこにはカラスが1羽、顔をこちらに向けてベランダの柵に止まっていた。
「あっ」
…と声を上げる間も無く、カラスはすぐに飛び立った。一瞬の出来事。
大きさからして大人だろう。艶やかで紫がかった、黒い体と嘴。
ここまで間近に見る事なんて久しぶりだったから、改めてその大きさに驚いた。
…と、カラスに気を取られたからか、集中力が途切れてしまった私は、大きく背伸びをした。
コロナ禍で仕事が全てリモートワークになり、通勤や寝不足のストレスから幾分か解放されたものの…オンオフの切り替えがまだ上手くできずにいた。
今日も、慣れないテレビ会議にしどろもどろになりながら、食事も適当に、画面に貼り付きっぱなしだった。
だが…そんな最中、私の前に現れた1羽のカラス。ちょっと一休みしたら?とでも告げに来たのか?…特技の妄想を巡らしながら、テーブルに置いたタバコに手を伸ばした。
「一服するかぁ…」
一本口に加え、今しがたカラスを覗き見たカーテンをバサッと開ける。
と…次の瞬間。目の前の光景に体が固まった。
ベランダの外で、大量のカラスの群れが飛び交っていたのだ。
10羽?…20羽…?くらいだろうか?皆、弧を描きながら、代わる代わる遠退いたり近付いたりを繰り返したり、電線に止まっていたり…
そして、そのどれもが…ある1か所に向かっていた。
私の住むマンションの、ベランダのすぐ目の前は線路になっている。
上り下り合わせて4線ある、その一番奥の線路辺り…そこに密集していたのだ。
レールに隠れてよく見えないが…しきりに、我先にと言わんばかりに集まっている。
「あれ、何…!?」
タバコに火をつけるのも忘れて凝視していた。
と同時に…すぐ隣で何か話しかけられた気がして振り向くと、隣のベランダから、男性が私を見ていた。
「…え?」
「あ、ああごめんなさい!急に話しかけてしまって…」
「あ、いや…大丈夫です、えっと…カラス…ですよね?」
「そう、そうです。あれ…多分小動物ですよ」
男性は小声で、ぼそぼそと私に話しかけてくる。私は、男性の近くに体を移動した。
30代半ばだろうか?パーカーを羽織った、細身で黒髪の男性が、タバコの煙をくゆらしながら言った。
「あそこ…線路で見えにくいですけど、多分タヌキか何か、電車に轢かれたんですよ。で…その死肉を漁りに、これだけのカラスが寄って来てるんです」
「ああ!それで…」
よく見ると、群がりの中の数羽が、何かを咥えている。
ここ最近…いや、もう何年も前から、カラス対策でゴミ捨て場は屋内だったり、頑丈なネットで隠されているから、カラスも飢えているのだろう。
そんな中、不幸にも電車に轢かれた小動物…彼らにとっては、降って沸いたご馳走に違いない。
そんな妄想混じりの考察をしながら、私はカラス達を眺めた。甲高い鳴き声を方々で上げながら飛び交う黒い塊。
と…その時、ちょうど奥の線路に、右側から下り電車が走ってきた。轟音と共に近付いて来る車両ギリギリで、ご馳走に集っていたカラスが散り散りに飛び去る。
そして、その勢いで何羽かが、こちらに踵を向けてビュン!と飛んできた。
「ひえっ…!」
思わず声を上げて身を屈める。と同時に、身体の左側…男性とは反対方向に、ハラハラと何かが落ちるのが目線の端で見えた。
「大丈夫ですか?」
男性の心配そうな声が聞こえる。ハッと我に返って…年甲斐も無く怖がってしまった自分が恥ずかしくなった。
「あ、ごめんなさい!ははっ…ビビっちゃって…(笑)」
「無理も無いですよ。…そういえば、お隣同士なのに、僕達交流無かったですね」
「あ…そうだ」
この部屋に引っ越して早半年、左隣は空室だが、自分の近隣の部屋の人と交流を持ったのはこれが初めてかも知れない。しかも、すぐ右隣の住人…
「ご挨拶が遅れました。僕は───」
「花井」と名乗った男性は、この部屋に1年ほど前に越してきたのだという。
仕事はフリーランスで、基本は在宅勤務。外出するのはたまに買い出しをするのみ。
その為か、緊急事態宣言だとか、新しい生活様式だとかで世間が騒いでいるのが、今一つしっくりきていないそうだ。
「まあ…そうですよね、フリーランスってなると」
「ええ、生活スタイルは基本、緊急事態宣言の前と全然変わってないんです(笑)」
「私まだ慣れてなくて…そうかぁ良いなあフリーランス…」
私と花井さんは、それから暫く取り留めの無い会話を交わした。
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1週間も経つと、私と花井さんは意外にもかなり打ち解けていた。
花井さんは、声量の割には積極的で、会話も面白かったのだ。
色々な雑学を交えつつ、でもそれを決して鼻に掛けない自然な語り口。穏やかな笑顔。
それが妙に心地良く、低く落ち着いた声色も…何なら顔立ちも背丈も、少し魅力を感じた。正直、私のタイプだった。
だから、私は不謹慎ながらも、右側の壁にこっそり耳をそばだてて…花井さんが部屋の中で、一体何をしているのだろう、と下世話な要素も含めて聞き耳を立ててみたりもした。
そして、ベランダの戸を開ける音がすれば…偶然を装ってベランダに出て、何気ない会話を楽しんだ。
そんな折…意外にも花井さんの方から、
「良かったら次の休み、僕の部屋に遊びに来ませんか?」
…という誘いを受けたのだ。予定は3日後の土曜日。私は快諾した。
下心を読まれてはいまいかと、少し心配ではあったが…タイプの男性が自ら誘ってくれるなんて事は早々無い。
これはカラスがもたらした、私への恩恵だ!…と、顔が綻びっぱなしだった。
そして、とうとうそれが明日となった、金曜日の夕方の事。
洗濯物を取り込みながら、ふと隣を見た。
この日は朝から花井さんの気配が部屋から聞こえず、ベランダに現れる事も無かった。
「きっと外出しているのだろう」
…そう思ったものの、少し退屈な気分になった私は、洗濯物の取り込みを終えたついでに、タバコに火をつけた。
キャンプ用の折り畳み式の椅子に腰掛け、ぼんやりと外を眺めた後、短くなったタバコを床で消そうとしたその時…屈んだ体勢の私の目線に、ふと何かが映った。
「ん?これって…」
それは、あのカラスの大群がいた日…電車が来たタイミングで、こちらに向かって来たカラスが落として行った、「何か」だった。
「えーこれって、うそ…」
と、気持ち悪さはありつつも…一体あの日、カラスが何を食べていたのか気になった私は、屈んでその「何か」をまじまじと見た。
外気にさらされ、多少干からびてはいるが…体毛らしき物はまだ残っていた。タヌキ?猫…?
そんな可愛らしい生き物を想像しながら暫く観察するも、何故かしっくり来ない。
花井さんの話していた事も納得がいくのだが……頭の中で想像する物と、実際の物とが、どうしても合致しないのだ。
所々に金や茶色が混じる…20㎝はあろうかという、小動物にしては不自然な体毛の長さ。
かさついた赤茶色が滲んだ、皮膚らしきもの…
私の脳内には次第に、タヌキや猫とは別の何かが浮かんでいた。
それはみるみる輪郭を象り…嫌な予感が、じわじわと沸き上がってくる。
「……え……?」
私は、花井さんと交流を持つ前から、何となく隣の部屋の音を聞いていた。
男女の話し声…それは仲睦まじく、時折夜更けに、粗雑でやらしい大声が響いてくる事もあった。
チッ、ふざけんなよ…と思いながら、そのやり取りを聞いていたが…それは時間が経つ毎に不穏になっていった。口論が増えたのだ。
ざまぁ、なんて思えない。ヒス気味の女の怒鳴り声を夜通し聞かされて、正直、文句を言う気さえ滅入る。男の声は聞こえなかったが…きっと同じ気持ちだったはずだ。
罵声は、1か月程前にパタリと止むまで続いた。きっと同棲していて、女が怒鳴るだけ怒鳴って出て行ったのだろう…そう思っていた。
この、干からびた肉塊を見るまでは。
「───貴方がショートヘアが好きって言うからそうしたのに!!!───」
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「こんばんわ」
いつ帰ったのか…後方で花井さんの声がした。思わず身体がビクッと震える。
「…どうしました?具合でも悪いんですか?」
何故だろう。昨日まで、声を聞くだけでも嬉しかった筈が…出来ない。振り向けない。
「…大丈夫です。ちょっと…立ち眩み?かな…」
「大丈夫そうじゃないですよ(笑)ねぇ?」
「ほんとに…ほんとに大丈夫です。あ、私…仕事の残り有るので…戻らなきゃ」
「そうですか」
「ええ…は、花井さんも…お仕事お疲れ様です、じゃあ」
「何で仕事だって思ったんですか?」
「え…?」
「だから、なんで僕が、仕事に行ってるって思ったんですか?」
いつもと違う。どうしたんだろう…
「い、や…だって金曜だし、平日だから…今日は外で仕事かと…」
「違いますよ」
「ご、ごめんなさい…」
「なんで謝るの(笑)まあ、いいか。それより…お話しましょうよ」
「え…いや、無理です…」
「何で?あんなに楽しそうにしてたのに、ねえ…」
「だから、無理…」
「そこにあるのって、あれでしょう?カラスが持ってきたんでしょう?」
花井さんの視線を、刺さる様な気配を背中全面に感じる。何故か、私は目の前の肉塊から目を離せない。足が震えて、一歩も動く事が出来なくなっていた。
「可哀そうに…電車に轢かれて痛かっただろうな…死んだ後は、大勢のカラス共に肉を喰いちぎられて…カラスって本当に強欲ですよね…似てるんですよ、元カノと」
私の事など意に介さず、花井さんは話し続ける。
「あなたの為とか言いながら…結局は自己満足したいだけ。自分ってもんが無いのか…全部僕の好みに合わせたがる。それでいて、僕を非難する。
服も、メイクも、セックスの好みも…あいつの声、煩かっただろ?AVみたいな喘ぎが好きって言ってみたらさ…本当にやってやんの(笑)僕ね、本当はああいうの大嫌いなんだよね!(笑)」
心臓がドクドクと響く。脈が速い。あれは…私が聞いていたのは───
「勝手に合わせて勝手にキレて…参ったよ。でもさ、最初に誘ったのは僕だし。最後は優しく見守ってあげないとな、って…」
カァ…カァ…カァ…カァ…カァ…
「まだ、ご馳走が残ってるのかな?…ほら、見てみなよ。そこでしゃがんでないで」
カァ…カァ…カァ…カァ…カァ…
「君にも見守って貰えて…良かったよ、ねえ?」
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それからの事は、パニックであまり記憶にない。ただ…必死に家の中に「逃げて」、寝室に籠って、ひたすら時が過ぎるのを待った。
目をぎゅっと瞑って他の事を考えようとしたけど…あの肉塊が頭から離れなかった。
ピンポ───ン…ピンポ───ン…
と…恐らく2日ぐらい過ぎた頃に、チャイムの鳴る音が何度かしたけど、全部無視した。だって…もし花井さんだったら?
いや、花井さんが一体何をした?タチの悪い冗談で、怖がらせたかっただけかも知れないし?でも…だとしたら、何で?
何で、元カノの話を私に言うかな?
カラスの群がる線路を眺めながら。まるで…「誰か」に話しかけるように。
ピンポ───ン…ピンポ───ン…
「…出ませんね、留守でしょうか?」
「仕方ない、日を改めよう…しかしまあ、驚いたな」
「ですね。ただの行方不明者の捜索の筈が、まさか鉄道から連絡来るなんて、でも…私達2人だけで捜査に当たれって…いくら、バラバラ死体遺棄の件で手が回らないからって…」
「ごちゃごちゃ言うな!車両清掃前に血痕採取出来ただけでも、運が良かったんだよ…で、その持ち主はこの部屋の隣人…」
「『花井 咲』…1年前からここで1人暮らし。なんか、偽名っぽくないですか?」
「確かにな…まあ、身元はどうにか分かったが…問題は何があったか、だ」
「でも、先程部屋見ましたけど、荒らされた形跡も無いし…何かトラブルに巻き込まれたって可能性は無さそうですよね…今の所」
「バカ!早合点するな!…とりあえず、今日は一旦引き上げるぞ」
「…了解です」
カァ…!カァ…!カァ…!
「何だかこの辺だけ、やけにカラスが沢山いません?」
「ああ…そうだな、誰か餌付けしてるんだろ…」
作者rano_2