「彼岸の井戸」①(秋彼岸三部作)

長編30
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「彼岸の井戸」①(秋彼岸三部作)

駅から歩くこと15分。

長いだらだら坂を登り切り、小学校のフェンス越しに一本道を横切る。

左手に赤いとんがり屋根の小さな教会が見えて来た。

夫の実家へ行くには、もう二つほど急な坂を越えなければならない。

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ひとつめの坂を前に、流れる汗を拭き、私は、しばし道路脇の木陰に涼を求めることにした。道端のフェンスにもたれ、ぬるくなったミネラルウォーターを口に含む。

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彼岸の中日。

例年なら、秋風が吹き始めてもおかしくないのだが、この日は、台風の影響からか、朝からうだるような暑さに見舞われた。

そういえば、22年前のあの日も朝から太陽がじりじりと照り付ける残暑の厳しい一日だった。

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「昔、ここに井戸があってね。それはそれは、まろやかなお味のする美味しい水だったんですよ。夏は、冷たくて、冬は、温かいの。このあたりでは、一番質の良い井戸水だったと思うわ。」

義母は、笑みを浮かべた。

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「あぁ、あそこ。見えるかしら。シュウメイギクのあたり。」

指さす先には、ピンク色のシュウメイギクが今まさに満開の時期を迎えていた。

「ピンクのシュウメイギクは珍しいです。井戸があったからでしょうね。こころなしか花も生き生きとしているように見えますね。」

井戸のことを話す時の義母は、いつもあどけない少女のように可愛らしかった。

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白髪を襟足でお団子にし、単衣に白い割烹着を羽織っただけの質素ないで立ち。

若い時から、化粧は一切したことがないという肌は、80の齢を超えているとは思えないほど つややかで白磁のように輝いて見えた。

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「お義母さんは、井戸に深い思い入れがおありなのね。」

傍らに座る夫に同意を求め、横顔を見つめる。

夫の顔が一瞬曇った。

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「いろいろ事情があってね。30年以上前に埋めてしまったの。それはね……。」

眉間にしわを寄せて義母が語る。

埋めることになった経緯(いきさつ)は、なんとも残念な事情によるものだった。

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ある日、隣家のご主人が、敷地の境、井戸の真横に家を新築したいと言ってきた。

事前に挨拶に来た大工の棟梁の話では、家相や方位を考慮すると、お手洗いの場所が井戸のそばになってしまうというのである。

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義父と義母は、冗談じゃない それでは、地下水が汚れ、飲み水はおろか使い水にも出来ないではないか。大切な井戸をそちらの勝手な都合で汚されたくはないと何度も交渉したのだが、結局、周囲の人達とも相談し、泣く泣く井戸を埋めることに決めたのだという。

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まぁ、時代的にも上水道が完備され、水源を井戸に頼る時代ではなくなったのが一番の理由なのだろうが。

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「もちろん、ちゃんとしかるべき手続きと手順を踏んだわ。神社の宮司さんを呼んで、それなりのものをお包みし、お祓いをしていただいたのよ。作業も慎重に行われたの。最後は、家族全員で感謝をささげ、埋め戻しをしたんですよ。ねえ。」

義母の問いかけに、なぜか夫も義父も無表情のまま返事をしない。

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井戸を埋める事の重大さ、井戸を埋め戻す際の処理には、細心の注意が必要であることは、子どもの頃からよく知っている。

実際、私の実家の敷地内にも、過去井戸があった。

その痕跡は、今でも残っている。

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埋めたというのは、正確ではない。

地下数キロ先には、地下水が脈々と流れている。

その流れをせき止めることなど出来はしない。

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井戸は、生きている。

生きているとは、息をしていることと同じだ。

必ず、通気口を作り、地上へ向けて息抜きをさせること。

井戸の息を止めてはならない。

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井戸を埋め尽くすことなど出来ない。

そもそも不可能なのだから。

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幼い頃、井戸の周りで土を盛って遊んでいたら、近所のお爺さんに、こっぴどく叱られた記憶がある。

井戸の周りを汚すんじゃないと。

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とりわけ、夫の実家のある土地一帯は、海に出る男たちが多いこともあろうが、地元でも縁起や験(げん)を担ぐことで有名な地域だ。

古くから因習を重んじ、長年守られてきた決まりを疎かにするなど考えられない。

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井戸を埋める際、誤ったやり方で行えば、末代までその土地の神様の怒りを買うともいわれていた。過去、これら重要事項を怠ったために、災禍が及んだいくつかの事例を知っている。

井戸にまつわる話は、いつ、どこで、誰から聞いても身震いするほど怖かった。

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「ちゃんと手順を踏んでお祓いもしたのでしょう。だったら、心配ないですよ。」

「えぇ、大丈夫ですとも。何の心配もありませんよ。全てつつがなく終えましたからね。はい。大丈夫ですとも。」

義母は、何度もしつこく「大丈夫」を繰り返した。

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「井戸の話はもういいだろう。そろそろ夕食にしないか。」

義父が、いつまでもやめようとしない義母の話の腰を折った。

嬉々としている義母とは対象的な二人の態度に、私は、どこか釈然としないものを感じたが、常に炊事を受け持つ女の立場からすれば、井戸に対する思い入れの強さは、男たちのそれとは違うのだろうと思う。

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私は、手早く水戻しをしたワカメと長ネギで味噌汁を作り、買ってきたお惣菜と宅配寿司で早めの夕食を済ませた。

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夜の帳が降りようとしていた。

秋彼岸がすぎると、日の暮れるのが一気に早くなる。

夫が子どもをお風呂に入れている間、私は、庭に出て花壇の花々を眺めていた。

程なくして、ほんのりとした灯りがあたりを照らした。

灯りに照らされ、シュウメイギクとコスモスが風に揺れているのが見えた。

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ふと人の気配を感じあたりを見回すと、かすかな灯りは、隣家のトイレから漏れているようである。小窓にかかるカーテンの裾がめくれ、その隙間から女性らしい人影がこちらを覗いているのが見えた。

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(お隣さんだわ。)

井戸の側にトイレを作るなんて。

常識的に考えられない。

昼間、義母から聞いた話を思い出し、私は、その人影を見つめた。

私に見られていると気づいたのだろうか。

にわかにカーテンが閉じられ、灯りが落ちると同時に女性の人影も消えた。

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「おーい。あがったよ。」

「はーい。今行きまーす。」

きゃぁ、ハハハハハ

「こらぁ、何やってんだ。あひるのオモチャをケツに入れるな。」

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開け放たれた玄関の奥から、風呂からあがったばかりの夫と子どもの戯れる声がする。

私は、大急ぎで中に入り、台所に続く風呂場へと足を早めた。

途中、仏間を通り過ぎる時、大きな神棚と仏壇を背に、庭を凝視する義母の姿が垣間見えた。ただならぬ雰囲気に、一瞬ぞわっとしたが、小さな懸念は、無邪気に笑う夫と子どもの声にかき消されてしまった。

「こらぁ、二人とも、ふざけてないでさっさと着替えなさーい。」

きゃぁ、ハハハハハ

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リアス式海岸の岸壁の僅かな平地にへばり付くように民家が立ち並ぶ海沿いの小さな町。その小高い丘の中腹に夫の実家がある。

眼下に太平洋を見下ろす建坪50坪の総二階は、夏に訪れると、ちょっとした別荘気分が味わえた。年老いた両親が二人だけで暮らすには、過分なまでの大きさだった。

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私たちは、二階の3部屋を好きに使っていいと言われ、今宵は、海の見える眺めの良い部屋に落ち着くことにした。

風呂あがり、息子を寝かしつけた後、真新しい布団の上で、たわいのないおしゃべりをしながら、しばらく、ごろごろしていたが、夫は、連日の仕事の疲れからか、やがて心地よい寝息を立て始めた。

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日中の言動とは裏腹に、実家は、普段私達の住む安アパートと違い、気が安らぐのだろうなと微笑ましく思う。

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その日の夜は、彼岸の入りだというのに蒸し暑く寝苦しかった。

本を読んだり、寝返りを打ったりしていたが、なぜかその夜に限って、寝ようとすればするほど目が冴えた。

気がつくと枕元の目覚まし時計は、午前二時を少し回っている。

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外の空気が吸いたくなり、私は、ベランダに通じる窓を開けた。

浜からあがってくる湿り気を帯びた海風が、汗ばむ身体を通り抜ける。

私は、庭を一望できるベランダで、デッキチェアーに身を委ねしばし寛ぐことにした。

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カラカラカラ

玄関の網戸が滑る音がし、程なくして、カタンカタンと三和土を歩く小さな足音がした。

真下を見ると、人影がゆっくりと庭の花壇に向かうのが目に入った

「え?こんな時間に、お義母さん。それともお義父さん。」

私は思わず身を乗り出して、影の行く先を目で追った。

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影は隣家との境の垣根の前で止まった。

位置的には、例の井戸があった辺りに違いない。

「何をしているのだろう。」

影は丸く小さくなった。

しゃがみこんだのだろう。

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それから、ジャラジャラジャラジャラ

数珠を何度もこすり合わせる音がし、ほどなくして、

「・・してください。・・してください。どーかどーか、・・・してください。」

ブツブツと読経をあげる声が聞こえてきた。

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特徴のあるハスキーボイス。

この地方独特のイントネーション。

声の主が、義母であることは、すぐに分かった。

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「あ“・・・あ”・・・あ“・・・」

静かな念仏を唱える声と交錯するかのように、

ウォォォォォォォォン

ウォォォォォォォォン

ウォォォォォォォォン

地面の遥か下から、犬の遠吠えのような咆哮が三回ほど聞こえてきた。

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ブツブツブツブツ

念仏を唱える声が一段と高くなる。

ガッ ガッ ガッ ガッ 

壁に楔が打たれるような鋭い音と 

ズリ ズリ ズリ ズリ 

布を引っぱり上げるような 鈍く重い音が交互に響く

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ヴイヴイヴイ 

ハッハッハ

グルゥウウ グルゥウウ

息遣いと唸り声を発する何かが、鈍重な音をさせながら、地表にいる義母の念仏を頼りに、 ゆっくりと足場を確保しながら這い上がって来ている。

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何が起こっているの。

状況を把握するだけで、私の頭の中は、パニック状態に陥った。

夫に知らせなくちゃ。

ベランダから部屋に戻ろうとした瞬間、デッキチェアーと上がり框の隙間に片足を挟み、身動きが取れなくなった。

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「来いじゃ。来いじゃ。待ってらすけ。さぁ、さぁ、いまこごさ。ほれほれほれ。」

義母の歓喜の声が聞こえる。

見たくなくても、否応なしに声のする方に視線が向く。

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ジャラジャラジャラジャラジャラ 

身体を上下にゆすり、狂ったように数珠をこすり合わせる義母のシルエットが浮かび上がる。

一体何が起こっているというのか。

私は、見えない闇のなかを、必死で目を凝らし探り始めた。

「ん!」

ピタリと義母の動きが止まった。

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「どやしたっけ。声と音しか聞こえねぇ。姿が見えねぇ。なしてよ。なしてそごがら動かねえ。上って来ねえ。こっちさ来れねぇのが。はやぐ、はやぐ、来てけろじゃ。はやぐせねば。夜が明ける。なして来ねがっきゃ。」

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―お義母さん。そこで一体、何をしていらっしゃるんですか。

声は間違いなく義母のものだ。

だが、こんな言葉づかいは、過去一度も聞いたことがない。

どこの言葉?

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私が、声をかけようと身を乗り出した瞬間、

義母と思しき黒い影が、仁王立ちになり、ベランダの私の方へ向き直った。

ひぃ。

目と目があった瞬間、私は、激しい怖気に襲われ、金縛りにあったようにその場から動けなくなってしまった。

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キィィィィィィ

義母は、可憐に咲くシュウメイギクを左右になぎ倒し奇声をあげながら、私のいるベランダの真下まで長い数珠を引き摺り、猛烈なスピードで駆け寄って来た。

地中からは、低い籠もった唸り声と得体のしれない獣の気配が漂い続けている。

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ズリズリズリズリ

玄関前の常夜灯にぼんやりと浮かぶ義母の姿は、地獄絵図に描かれる、髪を振り乱し、胸元をはだけた容貌魁偉な老婆 葬頭河婆(そうづかば)そのものだった。

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「ああああああ、あんたか。あんたが邪魔してたのか。この耶蘇(やそ)やろう。大事な息子を取りやがって。娘が出て来れないのはあんたのせいだ。娘が帰って来れねぇのは、あんたがいるからだ。返せ、返せ。返せ。」

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「返せぇええええええええ。」

轟音のごとき罵声が辺りに響き渡った。

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バタバタバタバタバタ 

ガラッ パチーン

家中の灯りが点灯した。

玄関の引き戸が全開になる音がし、微かな明かりに照らされていた庭は、一気に明るくなった。寝間着姿の義父が、玄関先に飛び出してくるのが見えた。

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「来てけろ、頼むすけ。秋彼岸だべ。オラは、あと何年も生ぎられねぇ。春彼岸まで、待でねぇ。あと半年なんて無理だ。」

「おい、しっかりしろ、今何時だと思っているんだ。」

義父は、数珠を手に暴れる義母を羽交い締めにすると、玄関の中へと引き摺り込んだ。

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隣家のトイレの窓から、奥さんと思しき人がこちらを覗き見ていた。おそらく、夕方庭で見かけた人と同じ人だろう。しばらく、泣き叫ぶ義母を眺めていたが、ベランダにいる私に気づくと、憎々しげな笑みを浮かべ、ピシャとカーテンを閉じトイレの灯りを消した。

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井戸の辺りだけが深い闇に閉ざされたように見えた。

義母が念仏を唱えるのを止めたせいだろうか。

辺りは、静寂に包まれ、あの獣が這い上がってくるような摩訶不思議な恐ろしい声は消え、鈴虫の鳴く声が リーン リーンと寂しげに聴こえてくるだけであった。

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バタン!

ガチャ!

玄関を施錠する音とともに、

階下から、

「返せぇ、返せぇ、出てこいじゃ。頼むじゃぁ。耶蘇(やそ)やろうがいでも、構わねえすけ。来てけろ、頼む頼む頼む。」

泣き叫ぶ声がした。

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「あぁ、わがったわがった。だがな、今日は、駄目だ。諦めろ。そんなに取り乱したら、会いたい子どもも帰って来れなくなる。会いたい人は、ちゃんと井戸の中にいる。ちゃんと生きてる。安心するんだ。それと、嫁さんは関係ない。あのこととは一切関係のない人なんだ。もう二度と責めるな。」

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ぎゃあああああああ

「すまない。悪かった。全て俺が悪がった。今日の所は、もう止めだ。ここしばらく、こんなことはながったのにな。孫や嫁さんが来て、気を遣ったが。すまない。」

義父の優しく宥め諭す声が すすり泣きとともに聞こえてきた。

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気がつくと、夫が私の側に来ていた。

その場に倒れ込みそうになる私を支え、私は夫の胸に顔を埋め泣いた。

「何が起こったの。」

「井戸は、埋めたはずでしょう。」

「井戸とお義母さんとの間には、何があるの。」

矢継ぎ早に質問を繰り返す。

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「厭なものを見せてしまったね。見ての通り。母は、精神を病んでいる。」

夫は、静かにベランダの窓を閉め、結婚記念にと貰ったおそろいのマグカップにインスタントコーヒーを入れると、電気ポットの電源を入れた。

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義母は、彼岸の前後、年に二回突然豹変する。

特に秋彼岸は、春に比べ強く表れる。

普段の義母とは、発する言葉も漂う雰囲気も人格も別人になる。

井戸を埋める話が出たのは、義母の奇行が原因だった。

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夫が生まれる二年ほど前、二人目を死産してからだから、義母が呼んでいるのは、多分、夫が産まれる二年ほど前に夭折した二人の子どものことだろうとのことだった。

お隣さんの家が建ったことと井戸を埋めることになったのとは実は関係がない。

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お隣さんは、浄化槽を入れて、井戸には障らないように配慮したいと言ってきた。

いや、時代は、上水道に移行している。これを機会に井戸は、埋めることにしたいとの意向を伝えてあった。

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それを、井戸を埋めることにした理由を、ご近所中に、あんなふうに言い広めてしまったものだから。お隣さんだって、良い感情は持てないだろう。ということだった。

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そうなのか。

ならば、隣家の女性の一連の態度も納得がいく。

年に二回、秋と春の彼岸に起きる奇行。

「お気の毒だわ。でも、年に二回なら。安定剤か何かで対処できるような気もするけれど。」

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あ“あ” あ“あ” 

小一時間ほど、階下から義母の切ないうめき声と義父の宥める声が聞こえていたが、

夜が白み始める頃には、遠い海鳴りが心地よいいつもの静寂が戻った。

もう、今日は、このまま起きているわ。

マホガニーのテーブルにマグカップを置き、私は、夫の昔話に傾聴することにした。

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埋めたといっても、井戸は生きている。

一見、地上には過去の形跡はないかもしれないが、地下には脈々と水が流れている。

いつの頃から分からないが、自慢の井戸が埋められてから、義母は、かつて、井戸のあった辺りに、いろいろなものを捨てだした。

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「流れろ、流れろ、私の前から。もう、二度とここに辿り着くなよ。」

そう言いながら、自分にとって不必要となったものは全て、この場所に捨てていた。

わざわざ、車に轢かれた猫の死体を拾ってきたり、セミや昆虫、ネズミと言った小動物の類まで手当たりしだいに捨ててしまう。

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当時、小動物やペットは、生ゴミ扱いで、火葬して埋めるという認識はなかった。

義母の収集癖の片付けは、二人の姉たちと、出勤前の義父の担当となった。

早朝迷惑にならないように、庭に溜まった死体やゴミの山を生ゴミの収集場所に、こっそりと捨てに行く。

そんな生活を何年も続けたのだった。

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ただ、義母の言動を、よくよく観察していると、捨てるものは前述したような形あるものは少なく、むしろ、自分の叶わぬ思いや、隣家に対する怒り、社会に対する不平不満など あらゆる悪しき感情や悪しき行いへの後悔、自責の念といった、むしろ、形にならないものを捨てていたようだった。

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一番ショックだったのは、夫である父に対する憎しみの感情を知った時だったと夫は話していた。

「殺してやりたい。どうやったら、殺せるのだろう。憎い憎い。」

そんな言葉を吐き散らしていた頃、義父は、仕事中に大怪我をし、船から下りなければならなくなった。

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日々の生活にも難渋し、母は、訪問販売をし、夫も、新聞配達のアルバイトをしてなんとか学費を工面したのだというが、そんな家族の危機的状況に対しても、義母は、嬉々としていたそうだ。

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夫は、あまりのことに何度も自分の心が崩壊しそうになったらしい。

「早くから他家に出され、ろくに学校へも行かされてもらえず、嫁いでからも、ずっと苦労続きだったのはわかるが、上品で美しい自慢の母が、バカやっているのを見て、俺は、情けなくて悲しくて何度ここ(井戸のあった場所)に来て泣いたか知れない。」

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「まぁ、かく言う俺も、母さんと同じことをしていたというわけだ。」

夫は苦笑していた。

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「私が聞いた獣の声、あれは、何だったの?」

「獣?何かいたのか?」

「姿は見えなかったわ。井戸のあった辺りから、犬のような唸り声を上げて上ってくる声を聞いたわ。とっても怖かった。お義母さんが念仏を唱えている相手は、どうもそのモノに対してのような気がするの。」

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「……」

「耶蘇(やそ)のお前がいるから、上って来れない。お前のせいで、娘たちに会えないと言っていた。私が、クリスチャンだから?あなたもクリスチャンになったことが、なにか今回のことと関連があるの。」

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参ったな。

夫は、ふぅと大きく息を吐き、肩を落とした。

「俺には、その話はしなかったな。ただ、聡子姉さんは、一度聞いたと話していた。バカバカしいから一笑に伏したようなことを言っていたけれど。」

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話せば長くなるけど、ちょっといいかな。

実は、父が本家を出て分家になる時、坂の途中にあるカトリック教会に土地を売った。

元々、分家用にと用意していた土地だったんだが、浜の関係者にクリスチャンがいてね。

教会の横に幼稚園を併設したい。分家用に取っておいた土地を譲ってくれないかと交渉してきた。

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この坂の途中にある赤いトンガリ屋根の教会のある場所一体は、かなりの坪数になる。

たしかに、すぐ目の前が小学校で、幼稚園や教会を建てる立地としては最高にして最良の土地だ。かなり高く売れた。

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父さんは、その金で、この土地を買い、家を建てたというわけだ。

加えて、ここには、古くからこの地域一帯を潤してきた井戸があった。

つまり、井戸も含めた土地を購入したことになる。

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双方にとって良い取引だったのだと思う。

父さんは、売ったお金の残りで、最新の汲み上げポンプを付け、井戸の周りと蓋を頑丈なコンクリートで固めた。要するに、安全と衛生を保つことに心がけたというわけだ。

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当時は、水道設備も完備していたわけではなかったから、この辺り一帯は、昭和の中頃まで、井戸水を使っていた。中でも、この土地から湧き出る地下水は、良質だと評判だった。市街地から噂を聞きつけて、水を汲みに来る者も跡を絶たなかったほどだ。

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このあたりは、「龍神信仰」が盛んだ。

「龍神」は、元々「水」を司る神様だと言われている。

だが、この井戸の神様は、どうもそれとは違うらしいということだった。

厄介なのは、この地には、元来井戸には、いるはずのない神様 つまりいてはいけない神様だというのである。

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神様が勝手に棲み着いたのか、それとも、元の土地の所有者が何らかの形で持ち込んでしまったのか。それとも、なにかのっぴきならない事情があるのかは分からないが。

この手の神様にしては、珍しい「厄」や「穢汚れ(けがれ)」を与える神様らしかった。

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鎮め方も、祀り方も よくわからないものが井戸にいる。

神事に対する厄介を抱えることに躊躇いはあったが、敷地内に井戸があるのは何よりありがたい。それよりも、二度も子どもを流産させられるほど、自分の妻が酷いいじめにあっていることを知った義父は、出来るだけ早い時期に本家から離れた場所に分家したかったらしい。

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義母がいじめにあった理由は、再婚同士の結婚だったこともある。

義父も義母も、初めての結婚ではなかった。

お互い先の配偶者との間には、子どもはいなかったが、離別同士ということもあり、式は質素なもので入籍もかなり後からだったという。

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義母は地元の生まれだが、義母の姑に当たる人は、隣県の山奥のAという部落の出身だった。事情もわからぬ場所に嫁ぎ、それこそ、酷い嫁いびりにあったらしいのだが、いざ自分が姑の立場になると、受けた仕打ちを倍以上にして返す。そんな、「ねっちょ深い」(執念深い、しつこい。性根の悪い)人だったと話していた。

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ある日、分家になって久しい彼岸の中日、墓参りのついでに寄ったと姑が訪ねてきた。

本家にいなくていいのかというと、大事なものを渡したいからという。

渡されたものは、「伏見稲荷」のお守りだった。

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その時、義母のお腹には、新しい命が宿っていた。

「今度は、ちゃんと産めるといいねぇ。ちょこっと働いただけで、二度も流れるようでは、ただの銭くい虫だべよ。二度目なんだから、しっかりしてもらわないとね。井戸付きの土地で分家。挙げ句、こんな豪邸に住まわせてもらって。」

と、嫌味三昧言い放ち、

「どれ、評判の井戸水でも飲んでいくとするがな。」

ギコギコ勝手にポンプを押して、たらふく飲んで帰っていったのだという。

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義母は、姑の訪問ですっかり夕餉の支度が遅れてしまった。

大急ぎで洗い物を済ませ、美知子の世話に向かう際、姑からもらったお守りが入った割烹着を井戸に置き忘れてしまった。

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元々、嫌いな姑からの嫌味な届け物。安産祈願のお守りとはいえ、素直な気持ちで喜べなかった。

「姑なんか、死んでしまえばいい。」

そう思ったそうだ。

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その日の深夜、ガリガリガリ ガサガサ

と音が聞こえてきた。

耳を澄ますと、音は外から聞こえて来ている。

目覚まし時計は、午前二時を指していた。

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その時、井戸に割烹着を置き忘れてきたことを思い出した。

中には、姑から貰ったお守りが入っている。

お守りを無くしたと言ったら、どんな仕打ちが待っているとも限らない。

義母は、外から聞こえる音も気になり、寝間着のまま外に出て井戸の傍に行った。

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え?

義母は、目を疑った。

目の前にある井戸には、神社のお手水場のような屋根がかかり、屋根の下には、頑丈な梁が組まれ、その下には、大きくて立派な檜(ひのき)づくりの桶が吊るされていた。

コンクリートの厚い蓋、汲み上げポンプの姿はどこにもない。

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恐る恐る覗いた井戸の底には、群青色に光る地下水が満ち、まだ夜も明けきらないというのに、明るい陽の光が差し込んでいた。

グルルルルルル

背後に犬の唸り声が聞こえて、振り向くと、身の丈2メートルほどの大きな黒い犬が立っていた。その口元には、昼間姑から貰った伏見稲荷のお守りが咥えられ、割烹着は、畳まれたまま置いてあった。

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黒い犬は、見たことのない犬種だった。

毛は、ふさふさしていて黒光りし、堂々とした様は、気品すら感じさせ、義母は、しばし見とれてしまった。

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黒い大きな犬とは、どのくらい対峙していただろう。

表情は読み取れなかったものの、少なくとも、襲ってくるような気配は感じられず、とりあえず安堵したという。

やがて、大きな犬は、姑の持ってきたお守りを口元から地面に落とすと、前足で押さえ、鋭い牙を付き立て、お守りをズタズタに噛み切ってしまった。

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ケンケーン ケーン

ぎゃあああああ

狐の鳴き声と 老女の断末魔の声が響き、辺りは一気に朝の風景に戻った。

釣瓶がかかるお屋敷のような屋根も、檜(ひのき)の桶も、大きな黒い犬も、姑から貰ったお守りも全て消えてなくなっていた。

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目の前には、頑丈な蓋と周囲を厚いコンクリートに覆われた井戸があり、その脇には、真新しい汲み上げポンプが設置してある。義母は、朝食の支度をするために井戸の前にいる…そんないつもの朝の光景が広がっていた。

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一瞬何が起こったのか分からなかったが、時は、一日前の彼岸の中日に戻っていた。

慌てて台所に入ると、義父は、取るものも取らず、たいそう慌てた様子で、家から飛び出して行くのが見えた。

「その日の明け方近く、本家の母が急逝した。」とのことだった。

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死因は、急性心不全 救急車を呼んだが、時既に遅く、気づいたときには、死後硬直が始まりかけていた。姑は、虚空を掴み、なにかにひどく怯えるような格好で亡くなっていたそうだ。

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義母は、妊娠中だからという理由で、通夜、葬儀、法要、墓参りも含め、すべての参加を禁じられ、姑との永久の別れは、三回忌まで許されなかった。

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あれから、数回、伏見稲荷のお守りの所在について本家に尋ねてみたが、たしかに亡くなる3週間ほど前、漁協組合の慰安旅行で京都を訪れたが、お守りを購入したかどうかまではわからない。と冷たく突き放された。

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結局、あの出来事が何だったのか分からぬまま、数ヶ月がたち、義母は、無事健康な女の赤ちゃんを産んだ。

夫の長姉の聡子である。

聡子は、その名の通り、聡明で一を聞いて十を知る子だった。

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あれから半年後の春彼岸のことだった。

義母は、本家から、義父が、トロール船に乗ることを聞いた。

より多くの漁獲量を望めるトロール漁は、お金になるからという理由からだった。

だが、その分、多くの危険も伴う。

トロール漁は、遠洋漁業を強いられる。早くて数ヶ月、長ければ二年・三年と戻ってこられないと聞いた。

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「やっと二人だけの生活になれたのに、どうして?聡子は、ハイハイできるようになったばかりなのに。」

詰め寄る妻に対し、

「もう近場では魚は獲れない。今度の船会社は、数ヶ月に一度は陸(おか)にあげてくれる。子どもは、あと2人は欲しい。出来れば男が。」

「……」

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「いずれにせよ、金がいる。分家になったからね。本家には無心できない。」

最初から無心などしたことはない。むしろ、本家からわずかばかりの賃金を、むしり取られるような日々だったではないか。

口ごもるだけで、反論は許されない雰囲気だった。

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「分かったわ。それで、いつ戻るの?」

「半年後の秋彼岸過ぎだな。」

「…」

義父は、そういうと、義母を力任せにねじ伏せ、

「しばらく出来ないからね。今宵は、存分に楽しませてもらうよ。」

「いやよ。聡子が起きる。」

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義父は、耳を噛み、下着の中に手を入れ、首、頬、項を舐め回す。

義母が抵抗を諦めたとわかると、下着を剥ぎ取り、ズボンを強引に引き下ろし、欲望の赴くまま、何度も行為に及んだ。

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狂おしい一夜が明け、ぐったりする義母の耳に、外から、また、あの唸り声が響いてきた。

グルルルルルル

義母は、外には出る気力も体力もなかったが、夢か現か あの大きな黒い犬が目の前に急に現れたのだという。

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犬は、義母の横で、大の字になっている義父の真横に立ち、首元に顔を寄せると、鋭い牙を立てようとしていた。

「止めて。お願い。その人は、殺さないで。」

大声で叫んだところで目が覚めた。

殺したいほど、愛おしいの。

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朝一番に電話がなった。

本家からだった。

義父が乗るはずだったトロール船が、三陸沖で座礁したというのである。

思いの外、甚大な被害が出たとのことだった。

何ということだ。

義父は、途方に暮れていた。

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その後、義父は、本家の口利きで、船に乗る仕事が見つかるまでの間、地元の水産加工会社で働くことが決まった。

その後、義母は、二人目の子どもを授かった。気づいたときには、既に妊娠三ヶ月だった。

男の子を期待したが、この子も女の子だった。

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次女美知子は、長女とは異なり、育ちが悪く言葉も知恵が付くのも遅かった。

2歳になり、先天的な病を併発していることがわかると、義父は、何かと理由をつけて、家に居つかなくなった。美知子の医療費がかさむことを伝えると、更に、帰宅時間は遅くなり、どこぞの酒場で飲んでからでないと帰れない日々が続いた。

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男の子を産まないと

義母は、なんとか義父を家に戻したかった。

男の子さえ産めれば、そう願い、深夜遅く帰宅した夫に頼み込み、二度妊娠し、出産までこぎつけたものの、ふたりとも女の子で死産だった。

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夫婦の仲は、すっかり冷めきり、たまに気が向いた時だけ欲望を満たす夫に対し、義母は、睡眠薬をもらわないと眠れなくなった。

それでも、聡子と美知子 二人の女の子を育てなければならない。

賢い聡子に、年齢以上の役目を担わせ、美知子の世話に明け暮れる日々が続いた。

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先天性の病は正直いつ果てるともなく生きている限り続くのだろう。

こみ上げる涙を拭うこともせず、自分より美知子のほうがずっとずっと苦しいはずだ。

と涙を流し続けた。

こらえきれなくなるといつも井戸に来ていた。

井戸水で手を洗い、水を飲んだ。

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秋彼岸の入り。

夫に女がいるとの噂を聞いた。

坂の下にある繁華街で小さなバーをやっている女だと。

深夜、いつものように ぼんやりと井戸のそばで暇を過ごしていたが、美知子に引っかかれた傷から血が滲み、堰を切ったように涙がこぼれ、ついに堪忍袋の尾が切れた。

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死のう。

産む子は、女の子ばかり。

跡取りを産めない。

また、妊娠しても、流れてしまうだろう。

疲れた。

もういい。

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グルルルルルル

は!また、あの犬の気配がした。

本当に、久しぶりだった。

「お願い。私を死なせて。その大きな牙で私の首に噛みつき、私を殺して頂戴。」

大きな黒い犬は、泣き叫ぶ私のもとから離れ井戸の脇に座った。

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また、あの日のように 明るい日差しが差し込み、その日の真昼に戻っていた。

井戸は、釣瓶が吊り下がった状態で、コンクリートの蓋も取り除かれて、中を覗いてくれとばかりに開かれていた。

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義母は、井戸の縁に身を乗り出し、飛び込もうとした。

その時だった。

「駄目!死んでは駄目。今から二年後に、あなたは、男の子を産む。その翌年も男の子が産まれる。だから、今どんなに辛くても、忍耐して。絶対に、死んではいけない。」

井戸の底から、若い女性の声が聞こえてきた。

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「嘘、私は、もう子どもは産めない。あの人は、もう戻ってこない。だから、死なせて。」

「産める。絶対に産める。夫も帰ってくる。だから。諦めないで。お願い、そうでないと困るの。それから、お願いこれ以上井戸を汚さないで。」

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はっとして我に返った。

辺りは深夜だった。

夢を見ていたのかと思ったら、

「おい、こんなところで何している。風邪引くぞ。」

たった今、黒い犬が座っていた場所に、義父が立って心配そうに見つめていた。

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「中に入ろう。」

血が滲んだ左腕を手を掴んだ義父は、

「なんだ怪我しているじゃないか。早く手当しないと。」

「えぇ、いえ、なんでもないわ。美知子がね引っ掻いちゃってね。」

「そうか。ずっとほうっておいてすまなかったな。」

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義父は、その日から、再び船に乗るときまで、ずっと家から離れなかった。

入れあげていた女は、何人もの男と関係を持っていた。

詐欺まがいのことをして、今朝方、その中の関係を持っていた男たちのひとりに

鋭利な刃物で、刺されて亡くなったとのことだった。

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義母は、黒い犬が神の使いなのか、それとも、良からぬものなのか分からなかったが自分を守ってくれる、唯一、自分の気持ちを受け止め理解してくれる味方をと信じ込むようになっていた。

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姉たちも義父も自分たちに災禍が及ばない限りは、義母の妄想に付き合ってあげようということにしていた。

家族で、黒い犬を見たものは、義母意外1人もいなかった。

実際、これまでの事例は、全て、偶然が重なっただけと言えなくもないからだ。

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ある日、坂の下の教会の神父が、特別伝導集会のチラシを配りに家を訪れた。

たしか、ベルナールという外人の神父だった。その際、のどが渇いたと言って、井戸水を飲んでいかれたんだが、帰り際になって、

「まずいですね。この井戸には、良からぬものが巣食っていますね。」

誰もが美味しいという評判の井戸水にケチを付けたのは、後にも先にもこの神父だけだった。

「ひとまず今日は帰りますが、また、集会が終わったら来ます。」

と告げると帰っていった。

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まぁ、土地を売り買いした間柄だし、知人の中には、信者も数人いることから、別に気にもせずにいたが、ある日曜日の午後、突然やって来て、井戸の周りに水をまき、十字を切り、なにやらブツブツとあちらの言葉で呟いたかと思うと、大きな声で、祈祷しだした。

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すると、井戸の中から、犬の遠吠えと咆哮する声が響き渡り、その後、地下水が轟々と音を立て渦を巻くような地響きが聞こえてきたらしい。

中で獣が苦しみ暴れているような、悶絶しているような音。

神父は、その間も、ずっと両手を挙げて、井戸に向かって何やらつぶやいていたそうだ。

ひときわ大きな声で叫ぶと、あの重いコンクリートの蓋の真ん中にヒビが入り、ぱっくりと半分に割れて、地面に転がってきたそうだ。

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当然、汲み上げポンプも使えなくなり、あたりは、水浸しで、義父も義母も何が起こったのかさっぱり分からず、ぽかんとするしかなかった。

その後、神父は上からお叱りを受けたらしく、井戸の修復費用と菓子折りを持って、教会役員や数名の知人とともに謝罪にやって来た。

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「悪魔が巣食っていました。だから、封印じゃなく浄化を試みましたが、今一歩のところで失敗しました。」と片言の日本語で話した。

「もう、この家に憑いちゃってますから。ただ、かなり弱っていて、かつてのような力は、もうないでしょう。やがてこの井戸は、使えなくなる。そして、悪魔も、年に二回しかここに上ってこれなくなる。夜と朝が半々になる日だけ。」

つまり、春彼岸と秋彼岸の中日 春分の日と秋分の日ということらしい。

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義母は一連の出来事を話し、自分にとっては、神にも等しい存在だ、そっとしておいてほしいと訴えたらしいが、

「どんな神も私の信じる神。つまり神々の神には、勝てません。誰も。何者も。悪魔は、あなたを守ったわけじゃない。あなたを使って自分を守りたいだけですね。」

そう言って、微笑んだという。

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義母は、その日以来、すっかり耶蘇(カトリック教会)が大嫌いになったと話していた。

井戸の蓋は修復され、汲み上げポンプも新しいものが付いたのだが、その時を境に、漁港組合との縁が切れ、知人たちとの交流も途絶えた。

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それからというもの、義父には、たくさんの仕事の依頼が舞い込んだ。漁船からではなく、商船からのお誘いだった。漁船より安全で、収入も安定していた。いつの頃からか、不思議なことに全てが良い方向へと傾いていくのが分かった。

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その後、しばらくして、黒いスーツを着た身の丈2メ-トルもある大男が、恵比寿と大黒のお面のついた額を売りに来た。

自宅に飾るには、なんとも不釣り合いな代物だったが、義母は、即決して購入した。

「これから、この家には、幸せが舞い込むから。是非、これを飾ってほしい。」

黒いスーツの大男は、そう言って代金2万円を受け取り去っていった。

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やがて、義母は、予言通り、39歳で男の子を産んだ。その半年後、再び妊娠していることが分かり、堕胎を迫る義父に対し、「絶対産む。」といって譲らなかった。

年子で二人。それも高齢出産とあって、周囲は心配したが、案ずるより産むが易しとはよく言ったものだ。予想外の安産で産まれた子どもは、ふたり共丈夫で、すくすくと成長を遂げた。

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義母は、あの日、井戸に身を投げないでよかったと当時を振り返り話していた。

一度目は、若い女の人の声で、二度目は、恵比寿と大黒の額縁を売りに来た長身の老人の姿を借りて、男の子が二人授かるとの予言は、全てに自信のなかった義母を強い女に作り変えた。

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誰がなんと行っても、自分は守られたのだと話していた。

「受胎告知みたいね。」

いい話じゃないのという私に、夫は、違う!と語る。

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神父の言うとおりさ。

井戸の問題は、全然解決していない。

むしろ、以前より酷くなった。

合計4人の子宝に恵まれたんだ。

しかも、息子二人に娘二人。

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全員いい歳になった。病のある美知子はともかく、他は全員結婚し家庭もある。

なのに、未だに 死産したふたりの娘のことを忘れられず、いつまでも井戸にこだわり続けている。憎い相手を探して。

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次姉が亡くなってからは、井戸があった周辺に、花を植えたり、少しずつでも、過去のわだかまりを捨てて、お隣さんと話せるようになってきていた。

俺は、すっかりこの病が治ったと思い、君達をここに連れて来たんだけど。

まだ、「時期尚早」だったのだろうか。

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どうして、こうなってしまったのかしら。

やりきれないわ。

夫は、呟く。

次のターゲットは、君だ。

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黒い犬に化身したモノは、あれから少しずつ、いろんなものを食べ吸収し、復活と復讐の機会を狙っていたのだろう。

封印しようとした神父のことを、義母は、果たして本当にずっと憎悪し続けていたのだろうか。

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昨夜、上って来れなかったのは、まだ、力を得ていないからだ。

私が、クリスチャンだから、上ってこれなかったわけじゃない。神父には、たまたまそういう力があっただけだ。

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以来、私は夫の実家を大切にしない酷い嫁になった。

義父、義母、夫、夫の姉も立て続けに全員他界した。

唯一義弟だけが、生存しているが、縁は、とっくの昔に切れている。

あの日のあの夜のことは、鮮明に個の目に焼き付いて離れないでいる。

       ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

私は、休暇を利用し、この「井戸」と同じ性質を持つ井戸を探しに遠出を繰り返した。

彼岸とつながる井戸、昼夜を行き来出来るモノを探しに。

だが、そんな井戸は、日本中どこを探してもどこにもなかった。

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あれから、22年の歳月が流れた。

二つ目の坂を昇りきり、坂の途中にある総二階の夫の実家を訪れた。

家の外観は変わらなかったが、門扉には、赤錆があがり、当時、花壇を賑わせていたシュウメイギクの姿はなく、膝丈ほどに伸びた雑草が鬱蒼と生い茂っていた。

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隣家は取り壊され、更地になり、誰が植えたのか、私の背丈より遥かに高い向日葵が2本。大きな首をうなだれたまま立っていた。

私は、井戸が在った辺りに佇み目を閉じた。

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お義母さん、すっかりご無沙汰してしまいました。

やっとお訪ねすることができました。

今日は、秋彼岸の中日です。

お義母さんの自慢の井戸にやって来ました。

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あれから、ずっと、この井戸と同じ井戸はないか。

この井戸に棲んでいた大きな黒い犬と似た話はないか。

あちらこちら、訪ねて歩いたのですが、とうとう見つかりませんでした。

ネット検索もしてみたんですが、どれも違うみたいです。

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お義母さん、私、私…

今日、ここに、たくさん捨てに来ました。

夫に叱られるかもしれませんが。

ここにしか、捨てられません。

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どこにも誰にも持っていけないものを捨てに来ました。

お義母さんなら、きっときっと分かっていただけるかと思って。

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日は大きく傾き、浜風は 東風に変わっていた。

短い秋も、もうじき終わる。

私の思い、私の過去 私の愛する人 

さようなら

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優しく、穏やかな声が聴こえてきた。

ーおやおや、あなたの信じる神様でも この病は治せそうもないのかい?

はい。無理です。

ー忘れられそうかい?

忘れます。

愛しているから お別れしました。

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ーそうかい。それは、お辛かっただろうねぇ。

ー完全に忘れられるまでは、何度でもここにおいで。

ありがとうございます。

ーあなたは、がんばりやさんだから。

ー無理してカッコつけるのはおやめなさいね。

そう思われますか?

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ーえぇ、「愛しているからお別れしました 」だなんて。そんなセリフ誰から聞いたの。

やせ我慢に作り笑いです。

私の処世術です。

ー生意気ね。生きていたら、ほっぺたひっぱたいてやったわ。

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ー井戸は、なくならない。

ーどんな姿をとっても永遠に生き続ける。

ーこの地上の遥か下を流れる水は、どこまでもどこまでも続いている。

ーお相手にも、いつか きっと その思いが伝わる時が必ず来るはず

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お義母さん、私、私

ーもういい、もういい。何も言わなくていい。

……軽蔑しますか?私のこと。

ー何をだい?

ー全てわかっているよ。

ー私も女だからね。

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ーあぁ、そうだ。

ーあなたにいい忘れていたことがある。

ー私が彼岸の井戸に飛び込もうとした時、

ー「駄目。飛び込んじゃ駄目。」って止めてくれたのは、あなたでしょう。

ー初めて、息子から、あなたを紹介された時、ピンと来たわ。

ーあぁ、この子があの日止めてくれた子だってね。

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今知らず後知るですね。

ー肉体を持っているということは、しんどいことのようだけど。

ー今は、いい時代だわ。生きているうちに 好きなことを精一杯やりなさいね。

ー肉体をもたず、こうして彷徨うのは、つまらないものよ。

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私は泣いた。

子どものように 肩を震わせ、嗚咽し、声を上げて泣いた。

もうじき、日が落ちる。

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ーさぁ、早くおかえりなさい。あいつがやって来ないうちに。

あいつ ですか?

ーこの20年余、あいつは、随分力をつけた。既に何人かの命を食べている。

そうですか。お義母さんを助けてあげられなくて。すみません。

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ーわたしはいいんだよ。いいんだよわたしのことは。

グルルルルルル

泣きじゃくる私の背後で、重く低い唸り声がした。

ーあなたは、お人好しすぎるのよ。

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ざっざざと音がし、黒い大きな獣の影が頭上から落ちてきた。

肩に激痛が走る。

がりごりがりごりがりごりがりごり

鋭い牙が、肩を貫き、硬い顎が骨を噛み砕く。

激痛が襲い、血吹雪が舞う。

遠ざかる意識の中、義母の声が、秋雨のように冷たく響いた。

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「秋の彼岸は、淋しいねぇ。」

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