この日の俺は散々であった。
工場長の鶴の一声で予定にはないはずの残業が組み込まれ、にもかかわらず長期休暇前の大掃除は残業の後予定通りに行われた。
その大掃除中、俺が床を掃いていた周辺の機械のうち一つが突然に警告音を発し、原因不明の故障と判明されると、近くにいた俺はまるで取り調べのごとく質問攻めにあった。
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だから同僚はおろか、工場のほとんどの者が続々と帰り始める中、工場長はじめ各部署の偉い人たちと一緒に俺は居残り続けた。
そして帰り道、ただでさえ疲労困憊の体に鞭打って、バス停までの決して短くない道のりを走らなければならなかった。
工場を出た時にはとっくに真夜中を過ぎていた。そして夜間のバスは、本数が田舎の電車並みに少ないのだ。
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目的のバスを逃せば、次が来るまで1時間は待たなければならない。この時の俺には、凍えるような冬の夜を一人で耐えられる自信がなかった。
次々に通り過ぎていく自動車の横を走りながら、お偉いさんの誰一人として俺を車に乗せてくれなかったことに対して、薄情な人たちだと悪態をつきたくなった。
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しかし、結局機械は修復することなく、彼らのほとんどは明日も休日返上で修復作業にあたると聞けば、俺なんかに構ってられないのも当然のように思えた。
俺が原因の故障ではないことは理解してもらえたが、それでもなぜか、俺のせいで休日を潰されたような顔をする人も何人かいた。
その顔を思い出しながら走る俺は、なんだか寂しかった。おまけに雨まで降ってきて、体の表面を叩く雨粒のひとつひとつが、体の芯をだんだんと冷やしていくように感じた。
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ああ、俺は散々だ。
そんな弱音を心の中で何度も吐いたが、温かい湯船や冷やしておいたビールを想像して、弱った心と体を勇気づけた。
それになんといっても、明日からは年末年始の長期休暇が始まるのだ。そう考えるとわずかに残っていた力が自然と漲り、ぜいぜい言いつつなんとか足を止めずに走り続けると、バス停のぼんやりとした明かりが見えてきた。
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そのバス停には簡易ではあるが、雨風を凌げる屋根があり、天井の蛍光灯は夜になると自動で点灯してくれる。
工場から最寄りのバス停が信じられないほど離れていることにはこの際目をつぶって、今はその明かりに感謝したくなった。
まるで砂漠でオアシスを見つけた時の気持ちになって、ぼんやりとした明かりが煌々と光っているようにさえ見えた。
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スマホで時刻を確認する。写メで撮っていた時刻表の、目的のバスの到着時刻まであと5分を残していた。
ゴールインを目前に控えた俺は、これまでの苦難を噛み締めながら、明かりに集う虫のごとくバス停までの数百メートルをふらふらと歩いた。
しかし、間もなく到着というところで、俺は思わず足を止めた。
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屋根の下に、一人の人影を見たのである。
側面の曇ったプラスチック越しに、ベンチに腰掛けている人の姿が確認できた。その影は前後にゆらゆらと揺れていて、大柄なシルエットから男性という以外には何もわからなかったが、影だけですでに怪しげな予感がしていた。
俺はかつてないほどに疲れていて、バスが到着するまでのほんの数分間だけでも、できれば座っていたかった。
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それに雨脚はひどくなる一方で、いくら怪しげな先着客がいるとしても、せっかくある屋根の傍でずぶ濡れになる必要もないように思った。
わずかな恐怖心も、疲労感と雨から逃れたいという願望には敵わず、俺は思い切って屋根の下に足を踏み入れた。
そして俺は、声が出そうになるのを、必死にこらえなければならなかった。
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そこに座っていたのは、車掌姿の男であった。彼が着ている制服は、いつもお世話になっているバスの運転手のものと同じだった。
しかし、帽子からはみ出る白髪や皺だらけのその顔は、初めて見るような気がした。
俺が驚いたのは、彼は俺が入ってくるその瞬間からこちらを凝視していて、その目は異様に大きく見開かれていたからであった。
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彼は俺の姿を認めると、ゆらゆらと揺らしていた体をぴたりと止めた。そして立ち止まってしまった俺を、何を言うわけでもなくただ見つめていた。
俺は一瞬座るかどうか迷ってしまったが、引き返すのも躊躇われ、バスが来るまでどうせあと3分ばかりだと自分を励まし、ゆっくりと彼の隣に腰掛けた。
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彼の視線はまるで繋がっているかのように俺についてきて、横に腰掛けてもなお、俺を見つめ続けていた。
こんな夜中にどうして車掌がいるのか。俺は隣の視線を感じながらそう思った。
バス停でバスを待つ車掌というのはなんだか新鮮な光景だったが、もちろん俺の心は明るくなかった。
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彼があまりにも見てくるので、今にも閉じそうな瞼を必死に見開きその様子を横目で伺っていなければならず、内心相当にいらついていた。
本当は死ぬほど眠たかったが、彼が何かしてくるのではないかと思うと、目をつぶってこの場をやり過ごす勇気が俺にはなかった。
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そのうち隣の彼が、ボソボソと何かを言い始めたのを聞いた。その声は雨音に消されてわずかに聞こえる程度で、何を言っているのかは聞き取れなかった。
流石に俺も悠長に座っていられなくなり、その場を立って彼を見た。
彼は、相変わらず視線を真っ直ぐ俺に向けたまま、まるで何かを訴えているように口を動かしていた。
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…この時の俺は、どうかしていた。
無計画な残業をさせられた挙句、機械の故障の濡れ衣を着せられたから。疲れている中見知らぬ人に凝視され続けたストレスから。そして、もうすぐバスが来るという逃げ道があるから。
理由はいろいろあったが、俺は目の前の彼に向かって、「もっとはっきり喋れよ」なんて口走っていた。
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彼はその異様な目でただ俺を見ていた。大きく見える目は、瞳孔が開き切っているからなのだとその時気づいた。
しばらくして俺の注文通りに、彼の声は徐々にはっきりと、大きなものになっていった。
雨の音がフェードアウトしていく代わりに彼の声がその場の音となっていき、その音源である彼の大きな目に、吸い込まれてしまうような妙な浮遊感を覚えた。
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「次は、〇〇…」
その声はどうも、終点であるここまでの、各バス停の名前を言っていることに俺は気づいた。
「次は、△△…」
そしてその名前は、都市伝説のメリーさんさながら、このバス停に少しずつ近づいていた。
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「次は、◇◇…」
「次は、◎◎…」
「次は、☆☆…」
………………
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「終点、地獄」
えっ?
このバス停まであと数箇所というところで、突然彼は終点を告げた。
しかも、その名前は…。もちろん、そんな名前のバス停は聞いたことがなかった。
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俺は地獄と聞いて、罪人が死後に行くというあの地獄しか思いつかなかった。そして彼は、その地獄のことを言っているのだろうか?
俺はふと、もう来てもいいはずのバスが一向に来ないことに気づいた。
俺はなんでもいいから、この場を離れるきっかけが欲しかった。逆に言えば、俺はどんな些細なことでもいいからきっかけがなければ、この場から動けないように思われた。
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「この度は…ご利用いただき…ありがとうございました」
彼は再び小さな声で、途切れ途切れにそう言った。途中聞こえない箇所もあるが、おおかたの意味がわかるくらいにははっきりとした声だった。
「しかしながら…私の不手際によって…乗客の皆様には多大なる…」
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そこで、彼はぴくりとも動かなくなった。そして苦しいほどの沈黙が二人の間に流れた。
雨はいつのまにかやんでいて、まるで外の世界のすべてを洗い流してしまったかのように、この世界には俺と目の前の彼の二人しか存在しないような錯覚に襲われた。
あるいは、まるでここだけがこの世ではないような…。
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地獄。
ふとその言葉が脳裏をよぎった時、目の前の彼は突然に叫び出した。
「皆様には、多大なるご迷惑を、おかけしましたあああぁあ!」
その目はどろりと溶け落ちて、真っ黒な眼孔が二つ、それでも俺を見ていた。
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「申し訳、ございませんでしたあああアアアあああぁあ‼︎」
彼はもうこの世の姿ではなく、あり得ないほど口を大きく開けて、生々しく喉を動かしていた。
その胸には小さな穴があいていて、止めどなく血が流れ出ていた。
断末魔のような謝罪の声とともに、天井の蛍光灯は点滅しはじめて、やがて目の前の世界は暗黒に包まれた。
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いや、俺は、いつのまにか気を失っていたのだ。
再び目を覚ましたのは、偶然バス停の前を通りかかった工場長の、きつめのビンタをくらった時であった。
その時には車掌姿の男はいなくなっていて、俺は初めて口を開くと、工場長に今の時間を訊いた。
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呆れながらも彼が教えてくれた時刻は、最後に時間を確認したあの時から、ほんの10分しか経っていなかった。
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後で聞いた話によると、俺が気を失ったその日、一件のバスジャック事件が起きていた。
その事件では運転手を含め、乗客34名が命を落とした。犯人は現在も逃走中で、殺害に使用された凶器は、なんと拳銃だったという。
事の発端はとある警察官が職務質問中、相手の男に突然複数箇所刺され、拳銃を奪われたことだった。
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そしてその夜、犯人はあるバス停から市営バスに乗り込むと、終点「工場前」のバス停で折り返したことをきっかけに、自分が乗り込んだバス停へと戻るまでの10分間で犯行に及んだ。
乗客の33名を先に殺し、運転手には指示を出して運転させた。そして目的のバス停に到着すると、運転手の胸を撃って殺害し、彼は降車して逃亡した。
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乗客のほとんどは、工場で働く作業員だったという。事件にあったそのバスは、もし機械の故障がなければ、俺が乗っていたはずのバスだった。
あの夜、工場長の善意により彼の車で家まで送り届けてもらったが、別れてから数時間後、涙声の彼の声は、自身もさっき知ったばかりだという凄惨な事件の概要を電話口で教えてくれた。
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そこではじめて、俺は工場長が来る前に起きた、不思議な体験について彼に話した。
工場長の話が正しければ、犯人が乗り込んだバス停は、あの車掌の男が終点と言った、そして地獄と呼んだそのバス停と一致していた。
電話を切ってからしばらく、俺は言いようのない寂寥感に侵されていた。
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車掌の彼は、犯人が乗り込んだ時点で何かを言われたのかもしれない。俺はぼんやりとした頭で、そんなことを考えはじめた。
彼は後に殺されるとわかっていながら、犯人の乗車を拒否できずに走り続けるしかなく、また犯人は工場からの帰りで一度に大量の人が乗ってくるタイミングで、ひと息に大勢を殺したのかもしれない。
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自分が犯人を乗せてしまったばかりに、大勢の命が奪われた。そのことに対して、彼は謝っていたのではないだろうか。
そう思うと、俺はとんでもないことをしてしまったような気がした。
散々だったのは、俺ではなかった。そして俺は、苦痛と後悔に歪んだ彼の懺悔を、真摯に受け止めてやるべきだった。
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俺は楽しみにしていた長期休暇を風邪をひいて寝て過ごしたが、一度に30人弱の作業員を失った工場は稼働できるはずもなく、年末年始が終わってももうしばらくは休みが続いた。
ようやく工場も稼働の目処がたち、遅れを取り戻すべくまた残業三昧の日々が再開したが、その時にはあの事件に対する憤りや後悔は、確実に薄れつつあった。
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まるであの日の雨音のように事件の記憶は次第にフェードアウトし、目の前を支配し始めた元どおりの日常だけが、確実なものとして受け入れられた。
それは何も、俺だけの話ではなかった。
「今週から地獄のような毎日になるぞ」
あれだけ作業員の死を嘆き悲しんでいた工場長も、今ではすっかり工場を仕切る監督官の顔に切り替わっていた。
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人は、よくも悪くも慣れる生き物なのだ。
しかし俺には、どうしても慣れないものがひとつあった。
それから俺は、毎日身を粉にして働いた。
しかしそれは、亡くなった同僚たちへの思いから奮い立ったわけではなかった。
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残業時間になると、間断なく飛び交う機械の音の隙間に、決まってあの時の叫び声が聞こえてくるようになった。
そしてその声は、大勢の何者かによる罵声によって、再び機械音の中に掻き消されていった。
「申し訳、ございませんでしたあああアアアあああぁあ‼︎」
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俺は一刻でも早くこの声から逃れたくて、死に物狂いに、手を動かした。
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