「パン屋のヤマオカって奴、覚えてるか?」
大吾(だいご)が不用意に放った一言で、僕の記憶は一気に小学生時代へと逆行した。いや、そもそもが小学校の同窓会なのだから、何を話題にしても全く同じ現象に陥るのだけれど。
ヤマオカって誰、なんて野暮な質問は、当然誰も口にしない。
ああ、そうそう、あいつ。
皆が知ってる、スーパーのパン屋。あの店に、いつもあいつは居た。
「懐かしいなあ。あのスーパー、まだあるのかな?」
ほろ酔い加減に頬を赤らめた景子(けいこ)が、口元を綻ばせる。卒業直前までただのオカメだったくせに、女というのはどうしてこうも顔が変わってしまうのか。
「スーパーってか、ええと……量販店ってやつか? 服とか靴とか売ってたし、本屋やゲームコーナーもあった」
護(まもる)が中指で眼鏡をくいと押し上げる。大人になっても、子供の頃からの癖は健在だ。
「あのパン屋、ゲームコーナーの中にあったな」
「そうそう。何か、ゲーム機が並んでる空間の隅っこにちょこんとあるの」
「何であんな場所にパン屋なんだ?」
「知らねえよ。ただの設計ミスだろ」
大吾の発言で誰もが記憶中枢を刺激されたらしく、狭苦しい居酒屋の宴会席は俄かに盛り上がりを見せた。
どこにでもある田舎の小さな町、どこにでもある小さな小学校の同窓会。クラスはひとつっきり、一人が知っている話題は、あの頃の仲間たち全員が知っていて当たり前だった。
「ねえねえ、祐樹(ゆうき)は覚えてる?」
控えめに歯を見せて笑いながら、弓香(ゆみか)が僕の袖を引っ張る。前歯に青海苔ついてるぞ、とは指摘しないで、僕も「うーん」と考え込むように顎に手を当てた。
「ヤマオカって、いっつも同じ格好してたよな。ほら、胸のところに染みがついた、青いエプロン」
僕の発言で、会場は再び「懐かしい!」の大合唱になる。
「うわ、思い出して来ちゃった。お揃いの青い野球帽で……」
「他の店員さんは皆名札付けてたのに、あいつだけ無かったよな」
「そんで、俺らが『名前何?』って聞いたら……」
「変に裏返った声で、『や、や、やまおか……』って……」
そこまで言って、景子は思いきり吹き出した。大吾は膝を叩きながら笑っている。護は我慢していたけれど、景子の物まねが余りにそれらしかったものだから、とうとう耐え切れず吹き出してハンカチで口元を抑えていた。
「おい景子、急に笑わせるなよ」
「だってー、あの時だって皆ゲラゲラ笑ってたじゃん」
そう、『パン屋のヤマオカ』は、あの時の僕達にとっては格好の遊び相手……なんて、美しい思い出ではなく。
純粋無垢故に残酷非道な小学生たちの、単なる玩具だった。
「あいつ、今どうしてんだろうなー」
大吾が懐かしそうに天井を仰ぐ。ガキ大将(今もこの呼び方が生き残っているのかは不明だが)だった大吾は、ヤマオカを自分の子分の一人のように捉えていたのかもしれない。
パン屋のヤマオカ。本当は、わざわざ名前を聞く必要なんて無かった。ヤマオカがヤマオカだということは、この町に住む全員が知っていることだったし。
名前は恐らく『山岡』と書くのだろうけれど、本当のことは誰も知らない。ただ皆がヤマオカと呼んで、本人も自分はヤマオカだと思っている、ただそれだけのこと。
ガキ大将の大吾、気の強い景子、頭の良い護、昔っから可愛かった弓香……それに、何の特徴も無い僕こと祐樹。
小学生の頃の僕らにとって、世界の全てはこの小さな町ひとつだった。大人は皆ここでお酒を飲むんだな、と、子供の頃通り過ぎる度に思っていたこの居酒屋で、本当に同窓会をしているんだから何だか不思議だ。
「ヤマオカ、まだあのスーパーにいたりして」
「居るだろ。だって、ヤマオカだぞ?」
僕の「だってヤマオカだぞ」がツボに入ったのか、皆はまたげらげらと笑い出した。
何も怖くなかったあの頃。護の眼鏡の奥に、あの頃の意地悪っぽいような、嫌味っぽいような光が戻った。大吾の顔は、またガキ大将の悪だくみの表情になった。景子だって今やいっぱしの女子大生の癖に、オカメの頃みたいに頬を赤くしている。
パン屋のヤマオカ。会いたいな、と、ほんの少しの郷愁と共に思う。この町を離れて、都会の大学に入った、ただそれだけのことなのに。今日のこの瞬間まで、思い出すことさえ無かったとは。
「俺もマジで忘れてたぜ」
「私も」
「俺もだ。他の事は結構覚えてるもんなのにな」
皆が口々に言いながら、飲み放題の安いビールで喉を潤していた時。
「ねえ、皆。ヤマオカのことなんだけど……この町に住んでいない人に、その話、したことある?」
弓香がおずおずと手を挙げた。景子とは正反対の気弱な性格は、昔っから変わっていない。
「いや、無いけど?」
「無いよ。だから、忘れてたんだって」
僕も忘れていた。と、いうか、きっとどうでも良かったんだろう。
さっきの郷愁とやらは嘘かと突っ込まれそうだが、それは大人になった今だからそう思うのであって。当時小学生だった僕らにとって、ヤマオカは本当にその程度の、取るに足らない存在だったのだ。
「私はね、覚えてた。それで、学校の……大学のゼミの友達に、ちょっとだけ話したんだ」
僕達五人がきちんと地元に集まるのは、実に六年振りだ。中学校までは一緒だったけれど、僕らの町には高校が無かった。皆、違う町の学校に通ったり、寮に入ったり、護に至っては海外留学までしたりして。弓香は、今は東京の女子大に通っている。
「そしたらね、皆……怖い、って言うの。そんな話おかしい、あり得ない、って」
弓香が悲しそうにため息を吐く。
弓香によると、ゼミの仲間を怖がらせるつもりは毛頭無く。単に、何かの拍子に子供の頃の思い出の話になって、自分の中の懐かしい記憶のひとつとして語っただけなのだと言う。
「それなのに、皆、怖い怖いって騒いでさ。だから、あれっきり何だか話せなくなっちゃって」
ヤマオカが怖い、だって?
僕が思わずにやりとして大吾を見ると、大吾もにやにやしながら僕の肘を突いた。
「私も、そう言ったよ。ヤマオカなんか、ハムスターより怖くない、って」
弓香がむきになって、甘いカクテルのグラスをどんと置く。ハムスターと比較するのは意味不明だが、言いたいことはわかる。少なくとも、ヤマオカはその辺のげっ歯類よりも遥かに無害な存在で、ヤマオカを怖がるということは即ち、自分はげっ歯類より弱いと認めることになる。
「うーん。しかし確かに、昔は当たり前に子供の遊び相手になっていた大人たちが、今や変質者として忌み嫌われる時代だ」
護が考え込むように腕を組んだ。
「景子は確か、教員志望だったな。どうするんだ? 将来教える子供たちが、ヤマオカみたいなのと遊んでたら」
急に話を振られて、景子が吸っていた煙草を取り落としそうになる。
「ええ? そりゃ……中には本当に変な人もいるから、気を付けなさい、って言うよ。ヤマオカは別だけど」
そう、ヤマオカは別。あいつと日常的に遊んでいた(と、いうか、あいつを玩具にして遊んでいた)僕らが、全員無事に大学生にまで成長したわけだし。
「じゃあ、今のうちに考えておいたらどうだ? 悪い変質者と、良い変質者の見分け方、ってやつ」
大吾がガキ大将の顔でにやにや笑う。
「ええー、何それ……っていうか、それで卒論いけるかなぁ?」
いけるわけないだろ。
と、僕は景子に突っ込む代わりにくるりと後ろを向いて、愛用のリュックサックからメモ帳とペンを取り出した。
「よし。論文の為にも、今からヤマオカのことを記録しておこう。皆、ヤマオカに関する懐かしき思い出をどんどん出してくれ」
わぁ、と歓声が上がり、何故か皆が拍手する。居酒屋の空気は良い。酔った勢いの悪乗りに、全員が加担してくれるのだから。
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僕らの小学校から、歩いて一キロ程のところにある量販店。店名はナントカ・ストアーズ(覚えていない)、どこにでもある田舎の何でも屋さんといった感じだ。放課後は一度お家に帰ってから遊びに行きなさい、と、先生たちは口を酸っぱくして言っていたけれど、何一つ従わないのが僕ら悪ガキ連盟である。チャイムが鳴るや否や全員集合で、山道をダッシュで駆け下り、麓の町のこの量販店に飛び込んで、一直線にゲームコーナーを目指す。
パン屋のヤマオカ。
今思えば、確かに不思議な奴だった気がする。
まず、さっき景子が言ったように、場所がおかしい。量販店だからパン屋があっても不思議は無いのだが、食品館とは正反対の、子供用のゲームコーナーの中にぽつんとある。本当に、ぬいぐるみのクレーンゲームやメダルゲーム、レーシングゲームなんかに囲まれて、居心地悪そうな『パン』の上りが揺れていたのを覚えている。
壁際の店。大きさは、四畳半よりも更に小さかっただろうか。入り口にドアは無くて、店名を記すような看板も無くって、白字で『パン』とだけ書かれた、色あせた赤い上りの旗だけが目印だった。
木製の壁は棚状になっていて、そこにはぎっしり……ではなく、かなり微妙な量のパンが並んでいる。菓子パンだった気がするが、じっくり観察した者はいないから詳しいことはわからない。
天井ではオレンジがかった照明が優しく店内を照らしていて、カウンターの上には壊れているんじゃないかと疑いたくなるような、黄ばんだレジスターが暇そうに鎮座していた。
ヤマオカは、そんな店の唯一の店員だった。
性別は男。
黒くて脂ぎったような髪の毛は、丸刈りよりは長くて、普通の成人男性よりは大分短かった。
ヤマオカは、店長と呼べるほどの存在ではない。年は良くわからなかったけれど、多分二十五から三十くらいの間ではないだろうか。少なくとも、僕の母はそう言っていた気がするし、弓香のお母さんも同意見だったはずだ。
ヤマオカは青いエプロンをしていて、青い野球帽を被っている。エプロンは、胸のところに染みがある。何の染みかはわからないが、茶色っぽい染みだ。シャツはポロシャツだった気がするが、色は緑っぽかったり黄色っぽかったり、正直これも良く覚えていない。
すれ違ったら三秒で忘れるような、薄い顔をしている。
何の印象にも残らない顔、というのは、逆に珍しい。絵心の無い者にとっては有難いだろう。マル書いてチョン、それだけでかなり正確なヤマオカの肖像画が完成するのだから。
今思えば、ヤマオカの恰好はその量販店のどの店員にも似ていなかった。エプロンも帽子も古びていて、どうしてヤマオカの雇い主というか、量販店のオーナーは新しいものを買い与えなかったのか不思議だが。おそらく、ヤマオカごときに新しいものを与えるのが面倒だったのだろう。
ヤマオカがヤマオカという名前であることは、僕の母や当時の担任教師含む全員が知っていて、もちろん僕らも知っていた。
ヤマオカは、背が低かった。その上猫背でやせっぽちなもんだから、下手をするとうちの母よりも小さくて、現に大吾は中学校に入る前に、護と僕は中学二年でヤマオカの身長を越してしまった。
ヤマオカをちょっと驚かすと、びくっと肩を震わせた後で媚びるような笑みを浮かべる。信じられないことに、小学生に対してだ。
でもヤマオカは馬鹿だから、五分もすれば驚かされたことは忘れる。にこにこ、とも、にやにや、ともつかない締まりの無い笑みを浮かべて、時には帽子をひょいと外してお辞儀して見せたりなんかする。
ヤマオカはうまく喋れない。あんまり長いこと喋らないからああなったんじゃないか、と、当時の護は分析していた。
ヤマオカは怒らない。
やんちゃな大吾が、「ヤマオカー!」と怒鳴りながら蹴りを入れたり、体当たりを食らわせたりしていたけれど、ヤマオカはいつもびくびくと蹲るだけで、反撃という言葉を知らないみたいだった。
ヤマオカには友達がいない。
僕らがヤマオカに会いに行くのは、友達だからという美しい理由では無かった。高架下で見つけた野良犬を観察に行くような、まだ生きているかの確認と、小学生らしい好奇心で弄りまわして虐めるのが目的だったからだ。
本当に、僕らは良くヤマオカ『で』遊んだ。
小学生にとっては数百円の硬貨さえも大金であり、例えお小遣いを貰っていたとしても、毎日のようにゲームコーナーで散財することは到底無理な話だったけれど。
その点、いつもパン屋で床を磨いたり、暇そうにレジにもたれかかったりしているヤマオカはタダである。
おい、ヤマオカ、と、声を掛けるだけでも奴は嬉しそうにへらへら笑っていじらしく手を振ったりするもんだから、僕らの残虐な魂には常に火が付きっぱなしだった。
四つん這いにさせて馬乗りになり、ゲームコーナー中を練り歩かせたこともある。かくれんぼをすると言って、ヤマオカが隠れている隙に全員こっそり帰ってしまったこともある。
護はヤマオカが苦手なクイズを出して、大人の癖にこんなのもわからないのかと馬鹿にし、大吾はヤマオカでプロレス技の練習をし、景子と弓香はヤマオカが卑猥な言葉を使ったと騒いでは、周囲の大人がヤマオカに食って掛かるのを見てくすくす笑い合っていた。
僕はと言えば、図画工作の時間にヤマオカの絵を描いて持っていき(僕には絵心が無い)、ヤマオカが嬉しそうに受け取ろうとした瞬間に破り捨てる……といったことをしていたのだから、考えてみれば僕が一番残酷だったかもしれない。
「ヤマオカの売ってるパンってさ、すっごい不味そうだよね」
誰かが無邪気にそう言うと、全員がどっと笑った。
ヤマオカとはつまり、そういう奴だったのである。
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「懐かしいなー、本当に。食品館で見切り品のコーナーに行って、半額のポテトチップ買ってさ、それをゲームコーナーに持ってって……」
「あったなあ、そんなこと。そんとき、ヤマオカが……」
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ポテトチップス事件。僕は勝手に、そう呼んでいる。
そう、あのポテトチップは不味かった。僕らが想像する、ヤマオカのパンの味より不味かった。大吾が金返せと怒鳴り散らし(買ったのは僕だし八十円程の損害だったが)、護はこれが流通に乗るとは思えないとブツブツ言い、景子はジュース買って来ると言って一人でいなくなり、弓香はお腹壊しそうだから諦めて捨てようと提案するような、何とも形容しようの無い、妙に癖のある味をしていた。
僕自身、見切り品コーナーで半額の菓子を漁るような真似は今後絶対に辞めようと心に誓ったくらいである。
「おい、ヤマオカ。お前、ポテチ食うか?」
炭酸入りジュースで口直しをしながら、そんなことを言ったのは大吾だったと記憶している。徳用の大袋の中には、まだ三分の二以上もポテトチップが残っていた。
「食うか、って聞いてんだよ」
当時小学五年生だった大吾は、急に背が伸びつつあった。ずんずんとヤマオカに近づいて、胸倉を掴むような勢いでヤマオカの青白い顔を覗き込んだ。
ヤマオカは、弱々しく首を振った。薄い顔には例の、締まりの無い笑みを浮かべて。
「へえ。食いてえのか。ヤマオカの癖によ」
ヤマオカの必死の首振りを無視して、大吾はにやりと笑った。
「おい、祐樹。その袋よこせ」
大吾に命令されて、僕は最早食べる気のないポテトチップスを大人しく渡した。弓香が心配そうな顔をしていたが、僕は気付かない振りをしていた。
まだ小学生だったが、大吾は力が強い。中学生と喧嘩して勝ったという伝説まである。誰だって、殴られるのは嫌だ。
「食いてえなら、拾え!」
大吾は、そう叫ぶと。
パン屋の床に、袋に詰まったポテトチップをばら撒いた。
袋を逆さまにして、残っていた分、全部。
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「あ、あ、あ……」
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後にも先にも、ヤマオカが『怒り』らしき感情を表に出したのはこの時だけだったような気がする。
痩せているくせにそこだけぽってりと肉の乗った拳を握りしめ、青黒い歯茎をむき出して、突っ立ったままぶるぶると震えていた。
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「ゆか、ゆか。ゆかが、よ、よ、よごれる……」
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ポテトチップスの欠片と、油だらけのパン屋の床。拳を握ってぶるぶる震える、珍しくお怒りの様子のヤマオカ。
それらを同時に見た時、僕らは。
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「ほんっと、滅茶苦茶笑ったよな」
「うん。あんなに笑えるのって、人生で何回も無いよね。何で忘れちゃってたんだろ」
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小学五年生。箸が転がってもおかしい年頃……には少し早かったし、あれは主に女の子のことを示す言葉らしいけれど。
僕らは笑った。
とにかく、笑った。
弓香は涙を流しながらお腹を抱えていたし、大吾は「お前、最高!」と言って険しい顔(本人はそのつもりだっただろう)のヤマオカの肩をばしばし叩いていた。普段冷静な護までが眼鏡を外して涙を拭っていたのだから、相当だろう。
目の前で起きていることが滅茶苦茶に面白くて、どんなお笑い番組よりも可笑しくて、本当に引き付けを起こすんじゃないかってくらい、これから先こんなに笑えることがあるんだろうかって不安になるくらい、もう、全員で背中を叩き合いながら笑いまくった。
どれだけ笑ったかと言うと、僕らの間で『ゆ、ゆかがよごれる……』と、苦し気に言うのが鉄板のジョークとして流行したくらいに。
本当にもう、そのくらい面白くてたまらなくって、ゲームコーナーの他の客たちが怪訝な顔をしていても気にならなくて、正に笑い転げるといった表現がぴったりなくらいに笑いまくった。
僕らが笑い転げている間、ヤマオカはずっと、拳を握ってぶるぶるしていた。
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「ヤマオカが怒ったのって、やっぱり『アレ』のせいなのか?」
「何、『アレ』って……ああ、ゲームコーナーの清掃のこと?」
「あったよな、三か月に一回くらい。コーナー全部封鎖して、一日掛けて丸洗いすんの」
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ヤマオカが店員として働くパン屋……の、あるゲームコーナー。そこには清掃日というのがあって、その日は丸一日ゲームコーナーを封鎖して清掃業者が徹底的に洗いまくる。ゲーム機は撤去され、床も壁も、洗剤を掛けて泡だらけにしてホースの水をばしゃばしゃ掛けて、その間当然客は中に入れない。暇を持て余した田舎の子供である僕たちは、仕方が無いから『立ち入り禁止』のテープ越しに清掃の様子をぽかんと見守っていたものだ。
三か月か四か月に一回はそんな日があって、清掃日の一週間くらい前からゲームコーナーには張り紙がされる。何月何日は清掃日です、という事務的な張り紙を見つける度に僕らは、来週は清掃日なのかと憂鬱な気持ちになったものだ。
ただ、あの頃は本当に、そういうものなのだという認識しかなく。
ゲームセンターの清掃日、というものが全国的には存在しないことを、僕はこの町を出てから初めて知ることとなった。
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「ヤマオカってさ、清掃日は何してんの?」
「知らねえよ。店に籠ってるんだろ」
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ヤマオカのパン屋にはドアが無い。入り口は常に開きっぱなしで、つまり清掃業者がまき散らす洗剤の泡やら水やらが容赦なく侵入する作りになっている。一度、パンも水浸しになってしまうんじゃないかと心配でテープを跨ごうとしたけれど、清掃業者の人から近づくんじゃないと怒られたっけ。
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「ゲーセンの入り口にテープ貼ってるからさ、そっからだと体乗り出してもヤマオカの店が見えなくって……」
「泡まみれで溺死してるんじゃねーか? とか、良く冗談言ってたよな」
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それにしても、不可解……というか、納得できないのは、僕が『立ち入り禁止』テープを跨ごうとした事件(?)が、翌日には職員室じゅうに知れ渡っていたことだ。
祐樹君、危ないじゃないの、と、担任から注意されるだけならまだしも、他の学年の先生にまで廊下ですれ違う度に説教を受ける始末。
清掃業者の邪魔をするというのは、それほどまでに大罪なのだろうか。大人の世界は理不尽に溢れていると言うが、正にその通りである。
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「清掃日は一日だけだったけど、ヤマオカのパン屋は二日くらいずっと休んでたよな」
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清掃日は、いつも一日だけだった。朝から初めて昼には終わる。夕方までにびしょ濡れの床や壁や天井を空気を吹き付ける巨大なドライヤーのようなもので乾かして。翌日には何事も無かったかのようにゲーム機を戻して、いつも通りの営業を再開していた。
ただ、ヤマオカのパン屋はそうはいかない。
清掃業者は、ゲームコーナーはぴかぴかに磨き上げて乾かすくせに、ヤマオカのパン屋がどれだけ水浸しだろうと泡まみれだろうと、平気で放置して帰ってしまうからである。
清掃日の翌日、パン屋には赤い上りが出ていない。そっけなく白字で『パン』と書かれた上り、きらびやかなゲームコーナーにあるには余りに間抜けな旗印だったけれど、いつも見慣れたものが無いというのはやはり寂しい。
「ヤマオカ、大丈夫か?」
別に心から心配していたわけではないが、僕らは一応店に立ち寄って、ヤマオカの安否確認をするのが常だった。
清掃日の翌日。
ヤマオカはいつも、泣きながら水浸しのパン屋の床を拭いていた。
青い色褪せたエプロンの膝をついて、当然エプロンどころかズボンもびしょ濡れになるのだけれど、そんなことに構っていられないかのように、一心不乱に。両手にはぼろぼろの雑巾。もうとっくに水を吸って、吸いきって、拭いても拭いても床は綺麗にならない。そうなってようやく、ヤマオカは傍らの青いバケツに手を伸ばす。縁のところが欠けた、どう見ても誰かのお下がりとしか思えないバケツを引き寄せて、生白い指で雑巾を絞る。バケツにぽたぽたと垂れる汚水。何だかその光景を見ていると苛々して、バケツを蹴っ飛ばして汚水をまき散らしてやったことも、一度や二度ではなかった。
ヤマオカは、別に怒らなかった。
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「ポテトチップぶちまけた時は、あんなに怒ったのに。何でだろ」
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わからない。ヤマオカの考えていることなど、わかるものか。
へらへら、とも、にやにや、ともつかない笑いを浮かべながら、じっとり湿って汚れた雑巾を片手に、再び床を拭き始めたような気がする。口元は笑ったまま、両目には一杯の涙を浮かべて。時折、湿った埃と汚水でべちゃべちゃに汚れた手で目元を拭う。
こうなるともう、泣いているんだか笑っているんだかもわからなくて、余計に苛立ちが募った。
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「ヤマオカってさ。結局、何だったんだろうな」
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護がぽつりと言った。その言葉に、げらげら笑っていた僕も弓香も大吾も景子も、思わず黙り込んで顔を見合わせた。
ヤマオカはヤマオカだろう。
いや、ヤマオカって何だ?
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「ちょっと、今まで出た話をまとめてみよう」
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僕はメモ帳を見下ろして、わざと生真面目な声を作る。
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その①・ヤマオカはヤマオカであり、他の名前は無い。
その②・ヤマオカはパン屋で働いている。
その③・ヤマオカのパン屋はナントカ・ストアーズのゲームコーナーの中にある。
その④・ヤマオカのパンを誰も食べたことが無い。
その⑤・ゲームコーナーは数か月に一回、丸洗いの清掃日がある。
その⑥・清掃日の邪魔をすると、この町の大人全員から叱られる。
その⑦・ヤマオカのパン屋だけは清掃されない。
その⑧・清掃日の翌日、ヤマオカは自分で自分の店を掃除する。
その⑨・ヤマオカの掃除を邪魔しても怒られないが、ヤマオカの店にポテトチップを散らばすと滅茶苦茶に怒る。
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ヤマオカって何だ?
いや、ヤマオカはヤマオカだ。
昔っからこの町にいて、ナントカ・ストアーズの中でパン屋をやっていて。
誰よりも無害で、誰よりも邪険にされていて、誰よりも粗末に扱われている、この町のお荷物のような一人の男。
当たり前に存在している、というより、例えば地元の古びたポストとか、雑草だらけの花壇とか、いつからそこにあるのかわからなくなっちゃった祠、みたいなもので。誰も気には留めないけれど何となく存在している、ってだけで。
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「あいつって、結局何だったんだろうな」
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大吾が吐き捨てるように言った。苛立っているような口調だったけれど、そこまで深い意味が無いってことは僕にもわかっていた。
意味の無さそうなポストも、雑草だらけの花壇も、何を祀っているのかわからない祠も。何で存在しているんだって、その意味を考えると何だか苛々してくるような、本当は邪魔くさいだろうに何で誰もどうにかしないんだ、っていうような、そんな気持ち。
わかるだろう?
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「懐かしいね、何か」
弓香がしみじみと目を細めた。
「あの頃は、毎日本当に楽しかったよね。学校が終わったら皆でヤマオカんとこ行ってさ、一緒に遊んで、それで」
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ゲームコーナーの中のパン屋。誰も買わないパン。丸洗いされるゲームコーナーと、取り残されるヤマオカのパン屋。
これらの日常が、どうやら世間一般的には普通じゃない、ということを理解できる程度に僕らは大人になったのだと思う。
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「今からさ、ヤマオカのところに行ってみない?」
突然、弓香がそう言って顔を上げた。
「えっ、ユミちゃん。それ、本気?」
護が奴らしくない声を出す。
「いいじゃん、マモ君。行ってみよ、行ってみよ」
すっかり出来上がった景子が、けらけら笑って両手を叩いた。
いつの間にか、互いの呼び方までが子供の頃に戻っている。
「よぉーし、決まりだ」
大吾が拳でテーブルを叩く。反動で、半分だけ残ったお新香の器や焼き鳥の串なんかが、ばんっと跳ねた。
「ヤマオカの野郎、久々に思い知らせてやる」
何をどう思い知らせるのか、僕にはわからなかったけれど。昔っからこうと決めたら押し通す性格で、今やとある格闘技の有力選手として頭角を現し始めた大吾に、異を唱える勇気は僕には無い。
「パン屋、まだやってるかな?」
「ナントカ・ストアーズはとっくに閉まってるけど。ヤマオカはいるだろ」
だって、ヤマオカだぜ。
僕の台詞に、皆はどっと笑った。我ながら気の利いた台詞だったと思う。ヤマオカ・ジョークは、大人になった僕らの間でも鉄板のネタなんだ。
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ヤマオカに家は無い。ヤマオカには家族もいない。
いるわけ無いだろう、ヤマオカのくせに。
夜風が頬に心地よかった。酔っぱらった若者五人が、肩を寄せ合って真夜中の道路を歩いている……都会じゃ良くある光景だけれど、こんな田舎じゃ珍しい。と、いうか、こんな時間に出歩いている人間、僕ら以外に誰もいない。
そう、ヤマオカはパン屋の中に住んでいる。もっと正確に言うなら、ナントカ・ストアーズの中のゲームセンターの一角に間借りしている……いや、間借り、というのはおかしいな。ヤマオカに家賃を払えるはずが無いんだから……住まわせてもらっている? 飼われている? うん、この言い方の方がしっくり来る。ヤマオカは、ナントカ・ストアーズの経営陣のお情けで、どうにかあそこに店を構え、寝泊りさせてもらっている。それだけの存在。
「ヤマオカってさ、何食べて生きてるんだろ?」
「自分とこのパンじゃねーの? 他に食うものなんかねえだろ」
「あいつが買い物してるとこ、見たこと無い」
ナントカ・ストアーズは、相変わらず名前は思い出せないけれど、複合型の施設だ。ゲームセンターもあれば本屋もある。スポーツ用品店もあるし、もちろん食品館もある。
どれもこれもとても小さくて品ぞろえも悪くて、とても大満足とは言えない規模ではあったけれど。
とにかく、ヤマオカは買おうと思えば食品館で食料を買うこともできるし、それを食べることだってできたはずなんだ……理論上は。
「そもそも、さ」
僕は足を止めて、護の方を見た。皆酔っぱらっていたけれど、こいつが一番マシなように見えたからだ。
「ヤマオカが何か食ってるとこ、見たか?」
護はしばらくの間、ぽかんとした感じで僕の顔を見ていた。それから、ゆっくりと鼻の上の眼鏡を押し上げた。
「無い」
げらげら笑いながら歩いていた大吾と景子と弓香が、ぴたっと足を止めて僕たちの方を見た。
「無いな、祐樹。ヤマオカは……俺の知る限り、俺の前じゃ何も食べなかった」
皆の視線に気づいたのだろう。護はもう一度眼鏡を押し上げて、少しだけきまり悪そうに言い直した。
「俺たちの前では……かな?」
ポテトチップス事件だけじゃない。ヤマオカが給料を貰っていたのか、そもそもあんな店で本当に売り上げがあったのか、そんなことは子供の頃には気にも留めなかったけれど。
例えば僕らの機嫌が特別良くて、食品館でヤマオカの分のオヤツも買ってやろうか? なんて提案をすることも、何回かはあったはずなんだけど。
ヤマオカはいつも、あのへらへらした笑みを浮かべて首を振るだけだった。
「だからよ。あいつ、自分とこのパンしか食べないんだろ」
大吾がじれったそうに言う。
「あいつの売ってるパン、誰も食わなかったじゃねえか。だから、あいつ……」
「ちょっと待ってくれ」
護が言って、神経質そうに眼鏡を押し上げた。
「食べているなら、排泄するはずだ。……ヤマオカがトイレに行ってるの、見たことあるか?」
景子と弓香が、戸惑ったように顔を見合わせた。
二人が口を開く前から、僕にはわかっていた。
「無い」
そう、無いんだ。
ヤマオカは、僕らの知る限り、一度もトイレに行っていない。
たまたま鉢合わせなかっただけ?
そうかもしれない。でも、ナントカ・ストアーズは夜八時には閉店する。鍵を閉めて、従業員も警備員も皆帰るのが九時過ぎだとして。
「夜九時から、朝の開店時間の十時……いや、警備員が九時前に鍵を開けるとして……実に十二時間もの間を、一度もトイレに行かずに過ごすことができるのか?」
ヤマオカに家は無い。ヤマオカはパン屋に住んでいる。
もっと言うと、ヤマオカに許された空間はあのパン屋ひとつだけなんだ。僕たちがヤマオカを連れ出して、ゲームセンターの中でかくれんぼをすることはあったけれど。ヤマオカが自主的に、自分の意志で、あのパン屋の外に出ることは滅多に無くて。
「夜中、ゲームセンターは施錠される」
護がぼそぼそと言った。
「俺もずっと気づかなかった。それが当たり前だと思ってたんだが……ああいう店舗の中で、ゲームセンター『だけ』がやけに厳重に施錠される、ってのは普通じゃないらしい」
景子が、信じられないものを見るような目で護を睨んだ。
「は? だから、何だっての?」
景子の奴、何だってこんな苛ついてるんだ?
「私も、言われた」
弓香が、おずおずと片手を上げる。
「大学の友達に言われたの、そんなの変だって。あんな風に鎖で囲って……ねえ、窓にも鉄格子みたいなの、はまってたよね。他は何ともないのに、ゲームセンターの窓だけ、鉄格子……」
そうだ。だから、あのゲームセンターはいつも薄暗かった。薄暗いのを誤魔化すために、あの場所をゲームセンターにしたんだろうか。
いつもゲーム機の明かりがぴかぴかしていて、五月蠅いくらいの音楽が全体に鳴り響いていて。
演出された明るさ?
何でこんなことを考えているんだ?
パン屋のヤマオカ。ゲームセンターの中の、不自然な店。へらへら、にやにや笑うヤマオカの顔と染みのついたエプロン。
「ゲームセンターの中、トイレ無かったよね」
弓香が、傍らにいる景子の顔色を窺うようにしながら言った。
「ゲームセンターから出られない……ってことは、ナントカ・ストアーズの中のトイレには行けないよね。ヤマオカ、本当に……」
「やめて」
景子がぴしゃりと言って、弓香を睨みつけた。小学校からの親友を見るような目じゃなかったけれど、女の友情は僕にはわからない。
「何でだよ。 何で、やめなきゃいけないんだ?」
僕はたまらず、景子と弓香の間に割って入る。景子は何故か鼻息を荒くして目を逸らすと、バッグから煙草を取り出して不機嫌そうに火を付けた。フィルターが口紅色に染まる。
真っ赤。
僕は少しだけぎょっとして、小柄な弓香を庇うように前に出る。
「さっきまで、皆で楽しくヤマオカの話をしていたじゃないか。それが、どうして」
「ふふっ」
赤い口元から煙草を離して、景子が吹き出した。
「何、本気にしちゃってるの? 祐樹ってば。だってヤマオカだよ? 従業員用のトイレなんか、使わせてもらえるわけ、無いじゃん」
さっきまでの様子とは打って変わって、景子はげらげら笑っていた。ヒステリックにさえ見えたのは、僕の考えすぎかもしれない。大袈裟に体を九の字に曲げて、景子は腹を抱えて笑っている。
考えてみれば、そうだ。僕の顔は一気に赤く、熱くなった。
「祐樹は、弓香のことってなるとすぐムキになるからな」
護までが意地悪く茶々を入れる。畜生、お前らは昔っからそんなだよ。
「おい、着いたぞ」
大吾の言葉に、景子はぴたりと笑うのを辞めた。僕は汗ばんだ額を掻き上げると、目の前にそびえる横に平たい建物を見上げた。
ナントカ・ストアーズ……字が掠れていて、ちゃんと読めない……でも、記憶の通りのあの店が、目の前にあった。
二階建ての量販店。一階は食品館にゲームセンターにその他細々した店がちらほら、二階は衣料品を売る店と美容室があったはずだ。古びた駐車場には、一台の車も停まっていない。真夜中なんだから、当たり前か。
「ああ」
弓香が嘆息する。
僕も同じ気持ちだった、と、言いたいけれど。
不思議と、懐かしいとは思わなかった。何て言うのかな、学校をずっと休んでいて、久しぶりに登校した感じに似ている。日常に戻ることのできた安堵が半分、また毎日ここに来なきゃいけないのか、っていう気怠さとうんざりが半分、ってとこ。
僕らは大人だ。
そんなわけ、無いのにな。
「ヤマオカの店は」
大吾がにやりと笑う。
「裏側だったな」
ナントカ・ストアーズの経営者が、何を考えていたのかはわからない。ヤマオカを表側、つまり客の目に入りやすい場所に置く、それが恥ずかしかったのかもしれない。
とにかく、ヤマオカの店は裏側……つまり、駐車場に面していない、すぐ後ろは雑木林が広がっているような、ゲームセンターの中にあったはずだ。
「行くぞ」
大吾はそう言って、ずんずんと駐車場を横切って行った。盛り上がった背中の筋肉が、暗がりの中にぼんやりと浮かんでいる。僕と皆も、後に従った。重ねて言うが、格闘技のプロである大吾に逆らう術を僕たちは知らない。
「ヤマオカ、さあ」
弓香が、僕の服の袖を引いて言った。長い睫毛が、心細そうに震えていた。
「本当に、あそこに住んでるの?」
そんなの、と、僕は言いかけて口を噤んだ。
当たり前じゃないか。
でも、本当に。
本当に、あんな場所に、人が住むことなんてできるのか?
ゲームセンターの端っこのパン屋。ヤマオカには家なんか無い。だから、パン屋に住んでいる。昼間は誰も買わないパンを売って、夜になったらパン屋の床で丸まって眠る。
ヤマオカが言ったんだから間違いない。
子供の頃、僕はヤマオカに聞いたことがある。家も無いし家族もいないのに、ヤマオカはどこで寝るの? って。
ヤマオカはへらへらと困ったように笑いながら、パン屋の汚い床を指さした。
ああ、そうなのか。まあ、ヤマオカだもんな。
妙に納得したのを、僕は覚えている。
「あの野郎。思い知らせてやる」
大吾は口の中でぶつぶつ言っている。
「ヤマオカだもんね、ヤマオカだもん」
景子はくすくす笑っている。弓香は、どこか不安そうな潤んだ瞳で僕を見上げた。
何がそんなに心配なんだ?
だって、ヤマオカだぜ?
「おっ」
護が呟いて、眼鏡を指先で押し上げた。この仕草、今日だけで何回目だ? 妙に気になる、っていうか。護って、昔っから神経質なところあったよな、っていうか。
「居るみたいだぞ」
ナントカ・ストアーズの裏側。
見覚えのある鉄格子。
ああ、そうだった。
ここが、ヤマオカのパン屋だ。
「昔もさ。皆で、ここに来たよね」
僕の袖にしがみ付いて、弓香が小声で言った。弓香の身長は、何年経っても小柄なまま。確かに小学生の時よりは成長したけれど、僕より頭二つ分も小さいという事実は変わっていない。
「うん」
僕は曖昧に返事を返す。身長差は、変わっていないけれど。あの頃よりは遥かに膨らみを増した弓香の胸が、僕の二の腕にぎゅっと押し付けられていたからだ。
「たまには裏から驚かしてやろう、って大吾が言って、皆でこの、お店の裏に回ってさ……」
覚えている。
っていうか、今思い出したよ、弓香。
いつもいつも、僕らは正面口を入って、真っ先にゲームセンターを目指して、それからヤマオカのパン屋に正面切って突っ込んで行っていたから。
ヤマオカはいつでも、そんな僕らの影を見かけるとへらへら笑って手を振っていたから。
それが面白くない、って言いだしたのは、きっと多分大吾だ。
そして、それに乗っかる形で、だったらもっと工夫しでびっくりさせてやろう、って言いだしたのは多分護だ。
「ねえ」
弓香が僕の腕を両手で掴んで、ますます強く胸を押し付ける。
「あの時も、祐樹って……」
覚えてる。言われなくても、それだけは覚えている。
僕たちは……小学生の僕たちは、敢えて正面口からは入らずに、真っすぐに駐車場を突っ切ってこの場所に来た。店の裏側。すぐ後ろは林で、鬱蒼と茂った木々がざわざわ鳴っている。
ヤマオカのパン屋には、窓がひとつだけある。たいして日も差さない上に、その窓から見える景色は林の緑一色で、窓ガラスの他に頑丈そうな鉄格子がはまっていた。
最も、ゲームセンターの中にある他の窓も、さっき弓香が言ったみたいに例外なく鉄格子がはまっている。だから、ヤマオカのところだけ特別、ってわけじゃないんだけど。
「あの時も、お前は言った」
いつの間にか、護が僕の隣に来ていた。暗闇の中で、眼鏡のレンズが反射する僅かな光だけが妙に鮮やかに浮かんでいた。
「ヤマオカの奴、どうやって外に出るんだ? って」
そう。
僕は頷いた。
何の気なしに言った一言、だったと思う。
ヤマオカの奴、どうやって外に出るんだ?
ゲームセンターは夜中に施錠される。ヤマオカのパン屋に窓はあるけれど、外に出るためのドアは存在しない。
その時の僕が何を考えていたのかはわからないけれど、深い意味なんか無かったんじゃないか? だって、今思い出してみても、何が何だか良くわからない出来事ではあるんだし。
それなのに。
「大吾に、殴られた」
僕はぼそりと言って、大吾の広い背中を見上げた。
「うるせえ、って言って、何だかわからないけれど殴られた」
あの時の大吾は、どんな顔をしてたのだろう。
怒っていた?
それとも、怯えていた?
何で?
ヤマオカごときに。
どうしてヤマオカに怯える必要があるんだ? 大吾は、ヤマオカにプロレスの技を掛けて遊んでいたくらいなのに。
「おい、ヤマオカ! 起きてるか!?」
僕がはっとした時には、もう遅かった。あの時よりも大分背が伸びた大吾は、鉄格子を揺すって大声で怒鳴っていた。
「起きてるんだろ。出てこい、ヤマオカ!」
鉄格子はぎしぎし鳴ったけれど、大吾の腕力でも折れはしなかった。
鉄格子の向こう。ヤマオカのパン屋。ゲームセンターにある窓は、皆同じ形だけれど。何故だか僕らには、今目の前にあるのがヤマオカの窓だって、それだけはわかっていた。
「ヤマオカ! ヤマオカー!」
窓の向こうは、暗い。
「帰ろうよ……」
意外なことに、そう呟いたのは景子だった。
「もう、遅い時間だし……」
真っ赤なマニキュアを塗った爪で、神経質そうにバッグの中を探っている。煙草を探しているんだろう。
「ねえ、大吾……」
「ヤマオカぁ! 返事しろ!」
その時だった。鉄格子の向こうに、ぱっと明かりが付いた。
「ヤマオカ!」
覚えている。この光景を、僕は覚えている。
大吾の怒鳴り声。景子は何故か泣いていて、弓香と護は黙っていて。格子窓の向こう。
へらへら笑う、ヤマオカの顔。
「てめぇ、居たなら返事しやがれ!」
大吾は、何処かほっとしたような顔でそう叫んだ。
明るい窓の向こうで、ヤマオカはやっぱり笑っていた。
あの頃のままで。
閉まりの無い顔。弛んだ頬に、ぐにゃりと歪んだ唇。すれ違ったら三秒で忘れてしまいそうな、何度会っても記憶に残らないような、似顔絵はマル書いてチョンで済んでしまうような……。
でも、強烈に記憶に残っている。いや、忘れていなかった、っていう方が正しいかな。自分じゃ忘れたつもりでも、一目見たら絶対に思い出してしまうような、少なくともヤマオカとそれ以外を見間違えることは絶対に無いような、そんなのがきっとヤマオカなんだ。
「ヤマオカぁ!」
格子窓が軋んだ。大吾の腕の筋肉に、血管の筋が浮かんで見えた。
大吾が何に怯えているのか、僕にはさっぱりわからなかった。
「なあ」
僕はゆっくりと、皆を刺激しないようにゆっくりと口を開く。
「なあ大吾、ヤマオカ相手に何をむきになってるんだ?」
明るい窓の向こうで、ヤマオカは少しだけ困ったように笑いながら、ただへらへらと僕らを見下ろしている。
例えば、ヤマオカが大吾以上に筋肉だらけの大男になっていたとか、出刃包丁を持っていたとか、でなければ爆弾のスイッチを持っていたとかなら、まだ納得はできる。
でも。
色褪せた、青い野球帽。
染みのついた青いエプロン。
媚びたような、何かに怯えているような笑い方。
何も変わっていない。何も……。
「馬鹿」
護が、震える声でそう言った。
「俺たちは大人になった。それなのに……」
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何で、ヤマオカは変わっていないんだ?
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ふわ、と、甘いパンの匂いが漂った。
小麦の匂い。何度もヤマオカのパン屋には通ったけれど、こんな匂い、今まで嗅いだことも無かったのに。
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「ヤマオカぁ!」
大吾がまた叫んだ。腕も顔も真っ赤になって、両目はぎらぎらと充血していた。
窓の向こうでは、ヤマオカが。
やっぱり、困ったように笑いながら、おどおどと僕らを見回していて。
「ヤマオカ。久しぶりだな」
護がにやりと笑って、暗闇で光る眼鏡を押し上げた。額には汗が滲んでいた。
「久しぶりに、クイズだ。……紫陽花の色が変わるのは、どうしてだと思う?」
ヤマオカの頼りない眉毛が、たちまちのうちにハの字になる。
「わ、わ、わからな……」
「土壌が酸性かアルカリ性かで変化するんだ。そんなこともわからないのか?」
ヤマオカの小さな目に、たちまちのうちに涙が溜まる。護は得意げに腰に手を当てると、心底呆れた顔で首を振った。
「……大人のくせに」
もう僕らだって良い大人だろう、ということは、この際口に出さないことにした。
だって、景子も弓香も、とっくに子供の頃の顔に戻っていたから。
「嫌ぁ、ヤマオカが嫌らしいこと言った!」
「最悪! このヘンタイ! ロリコン!」
頬を紅潮させて、きゃあきゃあと。薄っすらと汗ばみ、青ざめた表情を隠すかのように。この場には僕らしかいないのだから誰も聞いていないのに、まるで誰かに聞かせようとでもするように。
こいつら、昔からこうだったっけ?
ヤマオカは何も言わない。ただ、やっぱり少し困ったような、悲しそうな顔で笑いながら、格子の窓越しに僕らを見下ろしている。
「あ、あの、あの……」
ヤマオカはうまく喋れない。
「あの、じゃわからねえよ、ヤマオカ!」
昔からだって、僕の母さんは言っていた。
でも、昔っていつだ?
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子供の頃の僕たちは。
そう言えば、どうしてヤマオカをいじめていたんだろう?
どうして、ヤマオカのことが気になって仕方なかったんだろう?
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「帰ろう」
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そう言ったのは、弓香だったのか景子だったのか。もしかすると、護だったのかもしれない。
誰かが僕の腕を引いた。
僕は頷いた、のだと思う。
その『誰か』に引っ張られるような形で、僕は走り出した。
「ヤマオカぁ!」
大吾の怒鳴り声が、背中で響いたけれど。
僕は、どうしても振り返ってみる気がしなかった。
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僕は大学を辞めた。何となく、続けていく意味がわからなくなってしまったのだ。これは本当に『何となく』であって、それ以上でもそれ以下でもない。
することの無くなった僕は、『何となく』地元に帰ってぶらぶらしていた。そんな僕を見かねた弓香のお母さんが、どうにかこうにか、話を付けてくれたらしく。
僕は『何となく』、例の居酒屋で働くことになった。例の、とは、あの小学校の同窓会をやった居酒屋である。『何となく』の板前仕事は僕の性に合っていたらしく。あれから三年経つけれど、今では自分の店を持ちたいなんて、途方も無い夢まで見ている始末だ。
「ねえ祐樹、お祝いってどうする?」
僕の腕に縋りながら、弓香が言う。子供の頃より成長した胸が当たっていたけれど、大人になった僕は素知らぬ顔をするのが随分上手になっている。
「お祝い?」
「もう、前も話したじゃないの。護と景子の結婚祝いよ」
弓香は、実家の商店を手伝っている。護は、地元に戻って公務員になった。景子は僕らの通っていた小学校の先生になったけれど、僕らのような悪ガキが相手ならきっと苦労しているだろう。
「景子の生徒もさ、やっぱりヤマオカの店に行くんだって」
弓香が唇に手を当てて、くすくすと笑う。
「私たちの時と一緒だよね」
僕は何だか嬉しくなって、今夜の突き出しである山菜の煮物の味見を辞めて弓香の肩を抱き寄せた。
「ヤマオカは、相変わらずだって?」
「全然、変わってないよ。へらへらしててさ、護みたいな頭の良い子が、やっぱり意地悪なクイズ出したりしてるって」
ヤマオカは変わらない。
僕や弓香の母によると、彼女らも子供の頃は、同じようにヤマオカ『で』遊んで放課後を過ごしていたのだと言う。あの頃からエプロンは染み付きだったと言うのだから、いろんな意味で驚きだ。
変な大人には近づくな、と生徒を叱る景子も、流石にヤマオカに近づくな、とは言わない。
ただし、ヤマオカの店のパンは食べないように指導しているらしい。
「ねえ、それよりさ。お祝い、どうする?」
大きな目をくりくりさせて、弓香は僕を見上げる。
「この店の割引券は?」
「ええー、それ? 景子たちの就職祝いにも贈ったじゃない」
僕はこの町で生きて、この町で死ぬ。多分それが幸せってやつじゃないかと思う。
ナントカ・ストアーズには、時々行く。海鮮の仕入れなんかは、もっと大きな業者を通すから、本当にたまに、だけれど。
「結婚の話、ヤマオカにも教えてやるのか?」
「昔のよしみってやつ? ヤマオカってば、どんな反応するかなあ」
僕はわざと難しい顔をすると、咳払いしてから意識して上ずった声を作って言った。
「お、お、おめでとぉ……」
弓香がたまらず噴き出して、割烹着を来た僕の胸を拳で叩く。
「もう、やめてよ!」
ヤマオカの物真似……もとい、ヤマオカ・ジョークは今でも僕らの間で鉄板のネタだ。
風がぴゅうっと拭いて、店先に貼った行方不明者のポスターがばたばた揺れた。
大吾は、まだ見つかっていない。
作者林檎亭紅玉