従妹のエイミーから聞いた話です。生粋の日本人なのですが、仇名がエイミーなので作中ではこの名前で通すことにします。
尚、少しだけ昔の時代のお話となりますので、現代とは良識・常識等が多少異なっている点はご了承ください。
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これはエイミーが高校生の頃のお話です。エイミーは私の一つ年下の従妹です。一応同じ県内には住んでいたのですが、お互い端っこに居るような状態でして……例えば、私が某県の真北に住んでいたとしたらエイミーは真南、という感じで。
そんなわけで学校は勿論別々でしたし、実際に会うのも年に数回が限度でした。
ただ、私とエイミーは決して仲が悪いわけではなく、互いに電話を掛け合うことはしょっちゅうでした。
当時の私たちは携帯電話を持っていませんでしたが、夜ごとに自宅の電話を占領し、長時間お喋りをした記憶は今も鮮明に残っております。
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さて、高校時代のエイミーですが、控えめに言っても顔は結構可愛い方でした。その分性格は少々特殊と言うか、なかなかの曲者でして。究極のマイペース、とでも言いますか。現代の言葉で言うなら、空気が読めない、ということになるのでしょうか(ちなみに言うと、この性格は現在もほぼ全く治っておりません)。
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具体的な例をお出ししますと、クラスの女子全員が思春期を迎え、目立たないよう、他の女子生徒に目を付けられないよう、一生懸命に埋没しようとしている中、「可愛いから」という理由で校則違反もお構いなしに巨大な深紅のリボンの髪飾りを付けて来る。皆がこき下ろす新作のドラマを、「私は好きだけど」と、悪びれもせずに言ってのける。周囲が山と田んぼに囲まれた田舎であるにも関わらず、休日にはひらひらのフリルが付いたスカートで出かける。男子に対して媚びるどころか、「私は違うと思う」と、しゃあしゃあと自分の意見を言ってのける……こんなところでしょうか。
極めつけは、尾崎君の件でした。尾崎君というのはクラスでも有名な不良の男子生徒で、聞けば学校内どころか、学校の外でも割と有名な人物だったようです。流石にバイクを盗んだことは無いそうですが、ここでは仮に尾崎君としておきます。
当時から絶滅危惧種ではありましたが、田舎では『不良』という文化が幾分腐りながらも残っておりました。尾崎君もその一人で、暇があれば体力を持て余した不良仲間と拳を交えて喧嘩しているような、そんな子だったそうです。
その上、他校の生徒の前歯を折ったとか、鼻の骨を折ったとか、耳の鼓膜を破いたとか、お互い納得ずくの喧嘩とは言え洒落にならない怪我を負わせてしまうことも多かったようで。
しかし一般生徒に暴力を奮うことは無く、むしろいじめられっ子を他の不良から守ってやるような男気のある子で、エイミーはそんな尾崎君のことを、前々から『好きだなぁ』と思っていたそうです。
不幸なことに(?)この尾崎君、顔は割と男前でした。その上背も高くて、『学ランのズボンが少し短かった』というエイミーの証言通り、足も長いモデルのような体系だったのです。
当然、女子にも人気がありました。しかし不良だし、喧嘩好きだし危ないし、何より他の女子の恨みを買うのは怖いし……で、女子たちの間では話題に昇ることはあっても、暗黙の了解で実際にアピールする子はいませんでした。
毎日生で見られるアイドル、誰も抜け駆けできない不可侵領域……と、いったところでしょうか。
けれどエイミーは、そんな『空気』が読める子ではありません。
ある日の調理実習の後、手作りしたクッキーを不可侵領域である尾崎君に手渡したのです。
「はい、あげる」と、物凄く自然に。
尾崎君も、「どうも」と言って、ごく自然に受け取って、ごく自然に食べ始めたそうです。
「おいしい?」
「粉っぽい」
「何点?」
「65点」
向かい合って淡々と会話する二人を、周囲のクラスメイトはどんな気持ちで眺めていたのでしょう。その上尾崎君は、
「お前も食え」
と言って、エイミーの口にクッキーを放り込んだそうです。
全部食べ終わると、尾崎君は包み紙をくしゃくしゃと丸めて、
「次はもっと上手く作れよ」
と、エイミーの頭を撫でてくれたのだとか。
エイミーは全く気付いてもいなかったようですが、そんな安い少女漫画のような場面を見せつけられた周囲のブスな女子生徒達が般若や阿修羅のように顔を歪めていたことは想像に難くありません。
何はともあれ、その日以来二人は急速に仲良くなったようです。
エイミーによると、尾崎君の方からエイミーに話しかけたり、エイミーの手や髪や体(と言っても、肩くらいが限度)に触れることが多くなったとか……。
クラスの女子生徒たちは、当然エイミーを恨みました。
ですが、喧嘩の強い尾崎君を怒らせるのはやはり怖く、エイミーに直接手出しはできません。
代わりに、無視と言う名のイジメが始まりました。
しかしエイミーは逞しいもので、「それじゃあ、男子と遊べば良いや」と、尾崎君を始めとする男子生徒とばかりつるむようになりました。女子からは常時冷たい目で見られていたはずですが、エイミーはどこ吹く風だったようです。
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前置きが長くなりました。そんなこんなで、エイミーも尾崎君も他のクラスメイトも、学年が上がって修学旅行の季節を迎えました。
大体の修学旅行に共通する事柄とは思いますが、クラスで決めた班分けなど表向き。現地ではお互い気の合う仲間とばかりつるんでいて、エイミーもその例に漏れなかったようです。
エイミーが主に一緒に行動していたのは、尾崎君と剣道部の剣持君、それに少し臆病な弱木君でした。いじめられっ子から守ってもらった子、というのがこの弱木君で、以来尾崎君に多少なりとも心酔していたようです。剣持君はと言えば、不良でこそありませんが腕っぷしは強く、尾崎君をライバル視していたとか。
多少のトラブルはありつつも無事にその日の観光を終え、いざ宿泊先に辿り着いた時。女子の間からは、ぶうぶう、文句が上がりました。
だって、みすぼらしいんです。ぼろっちいんです。
修学旅行なので予算が限られているのはわかりますが、もう少し何とかならなかったのか。そう思ってしまう程、老舗と呼ぶにしてもあまりにひなびた宿だったそうです。
しかし、ここがエイミー達の凄いところ。
担任に文句を言う女子たちを背に、
「お化け屋敷みたい!」
と、勝手に盛り上がっていたようです。
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さて、宿に入った時点で、女将さんから挨拶と一緒にこの宿での注意事項を聞かされました。
注意と言っても簡単なもので、立ち入り禁止の部屋には決して入らないでください、というもの。ここでは仮に、『幽の間』としておきます。
普通の客室です。
ですが、今は使われておりません。
全く手入れもしておらず、危険なので絶対に入らないでください、ということでした。
他の生徒達は、興味すら無さそうでした。むしろ先程までの不満をまだ引きずっていて、これでは夕飯も期待できないとか、風呂が汚かったら嫌だとか、そんなことばかり言っていたそうです。
しかし、先程『お化け屋敷みたい』と盛り上がっていたエイミー達が、こんな魅力的な話を聞かされて黙っていられるでしょうか。
答は否、です。
開かずの間……余りに魅力的なその言葉の響きに抗えず、エイミー、尾崎君、剣持君、そして弱木君の四人は、先生や仲居さんたちの目を盗んで、その『幽の間』を目指しました。
弱木君だけは最後まで嫌がっていたようですが、彼の心酔する尾崎君がどうしても行くと言って聞かないため、結局は折れて、一番後ろをとぼとぼついて来たそうです。
件の部屋は、案外すぐに見つかりました。
エイミー達が泊っている棟とは真逆の方にある、今はもう使われていない棟の、ずらりと部屋の並んだ廊下の一番端……ではなく、中途半端に端から三番目か四番目、だったそうです。
『幽の間』……特におどろおどろしくも無い、そっけない程簡単に取り付けられたプレートを確認して、四人はまずガムテープをはがしにかかりました。そうです。引き戸の入り口は、鍵が壊れているのか何なのか、ガムテープで何重にも固定されていたそうです。
その異様な有様に、弱木君はすっかり怯え切って、「やめよう、帰ろう」と何度も繰り返していたようです。
しかし馬鹿というのは恐ろしいもので、他の三人は構わずべりべりと、授業中の数倍の集中力を以て根気よくガムテープをはがしてしまいました。
テープがはがれてしまうと、尾崎君と剣持君がそれぞれ引き戸の両側に立って、「せーの」で扉を開けました。
意外と引っかかるような抵抗も無く、するっと開いたそうです。
尾崎君は後に、「歓迎されているみたいだった」と話しています。
部屋の中は、それはそれは黴臭かったそうです。長年掃除も手入れもしていないと一目でわかるような、年季の入った埃の積もりよう。低い天井には蜘蛛の巣が張り巡らされ、ほったらかしの巣に引っかかるようにして巣の主である蜘蛛が干からびています。それも、一か所ではありません。天井のあちこちが、ほぼその調子です。
足を踏み入れました。けば立った畳が靴下越しに足を指します。歩くと現実感が無く、「何だかふわふわしていた」とエイミーは言っていました。おそらく、畳の根太が腐っていたのだと思います。
窓は封鎖されていました。建物の外から窓に板を十字に打ち付け、台風の時のように封印しているのです。封印……いや、この言い方もおかしいですね。だって、板は十字に打ち付けてあるだけなので、部屋の中から外の景色を見ることは一応できるのですから。
「何でこの部屋だけ」
と、窓を開けようとして板に気付いた剣持君は思ったそうです。
他の三人にも自分の発見を見せつけ、「中を見られない為、と言うよりは、窓からさえも誰も侵入できないようにしている」「部屋に比べて板が新しい。頻繁に取り換えている」「そう言えば、ガムテープも劣化していなかった」「何の為に、そうまでしてこの部屋を封印しているのか」と、いう自分の説を披露したのですが、尾崎君の「お化けが出るからだろ」の一言で一蹴されたそうです。
尾崎君は、そんなこと(剣持君、ごめん)よりも自分の発見に夢中でした。
床の間、ってありますよね。宿の和室には必ずと言って良いほど存在する、あの掛け軸を掛けてあったり、花を活けてあったりする、一段高くなっている空間のことです。
その床の間には、掛け軸も掛かっていなければ花も活けてありませんでした。代わりに、ぽつんと置かれているものがありました。
刀、でした。
古びて埃の積もった刀掛け(刀を引っかけて飾る台のことです)に、同じくらい埃の積もった刀が置かれています。
何年も誰も触っていないのだろう、ということはすぐにわかりました。鞘は傷だらけで真っ黒、鍔には黒い点のような錆が散り、握りの部分は手垢なのか何なのか、茶色っぽいような黒っぽいような、変な汚れが付着していたそうです。
古い、古い刀でした。
しかし同時に、「古いだけで、価値は無さそうだな」とも思われるような、何だかまあ、部屋に負けず劣らず、みすぼらしい刀だったそうです。
そもそも、価値ある宝物だったら、こんな汚い部屋に放置しておくなんてあり得ませんよね?
弱木君はもう、『古い汚れた刀が、開かずの間に安置されている』という状況そのものに怯え切ってしまい、帰ろう、戻ろうと半泣きで繰り返していたそうです。
しかし前述した通り、馬鹿とは本気で恐ろしいもので……。
怖いもの知らずの尾崎君と、剣道部の剣持君は奪い合うようにして刀に飛びつきました。
それでどうしたかと言うと、代わる代わる、抜いてみようとしたそうです。何でそんなことをしたのかと言えば、剣持君は「竹刀しか触ったことが無いから、真剣を抜いてみたかった」そうで……尾崎君は更に呆れたことに、「何となく」だそうです。
しかしこの「何となく」について、エイミーは後に「呼ばれていたんじゃないか」とも語っています。
何はともあれ、そんな古くてボロボロの刀がまともに抜けるわけありません。鞘の中で刀身が錆びているのか何なのか、がたがたと引っかかるような感触だけで、全く抜ける気配は無かったそうです。
弱木君はもう、そんな怪しい汚い刀に平気で触れる二人が心配で心配で、半泣きどころか本泣きに近くなりながら、「帰ろう、帰ろう」と繰り返していたそうです。
確かに、日本刀なんかで怪我をしたら洒落になりません。先生にも、開かずの間に入ったことがばれてしまいます。
エイミーが「そろそろ帰ろう」「埃だらけだし、お風呂入りたい」と言うと、尾崎君はあっさりと刀を床の間に戻し、エイミーの肩を抱いてさっさと部屋を出てしまいました。剣持君と弱木君も廊下に出て、四人ではがしたガムテープを元通り直しました。完全に元通り、とは行きませんが、そもそも使われていない棟なので、誰も見には来ないでしょう。自分たちが宿を後にする、その瞬間まで気づかれなければそれで良いのです。
弱木君はガムテープを戻しながらも、「呪われたらどうしよう」と繰り返していたそうですが、その時は何も起こりませんでした。
汚い部屋に、汚い刀があった。
ただ、それだけの話です。
何食わぬ顔をして宿泊棟に戻り、何食わぬ顔をして入浴と食事を済ませる頃には、弱木君も大分元気になっていました。剣持君と尾崎君は、そんなささやかな冒険すら半分忘れているようでした。
尚、食事時間中にエイミーが嫌いなおかずを「あーん」と言って尾崎君に食べさせたり、逆に尾崎君がエイミーの唇に付いた食べこぼしを指で拭ってやったりといった、どうでも良い惚気エピソードは本筋に関係ないため割愛させていただきます(ついでに言うとこの二人、この時点では付き合うとか恋人だとか、そういう認識は無かったそうです)。
食事が終わり、消灯時間が過ぎて、半分諦めの混じった担任の投げやりな見回りをやり過ごすと、さあ自由時間、です。
他の女子たちが菓子を肴に「好きな人いる?」なんていう時間の無駄遣いに興じるのを放置し、エイミーはいそいそと男子部屋に向かいました。勿論、尾崎君の部屋です。部屋には、例のメンバー……尾崎君、剣持君、弱木君が既に集まっていました。
「おい、遅ぇぞ」
「やっと揃ったな」
「ごめん、お菓子選んでたら遅くなっちゃった」
時間の無駄遣い、という点では、こちらも良い勝負だったかもしれません。旅館の浴衣姿のエイミーは、当然のように尾崎君の隣に座ります。同じく浴衣姿の尾崎君も、当然のようにエイミーの肩を抱きます。剣持君、弱木君の反応については、エイミーに実際に聞いていないため推測するしか無いのですが、おそらく「はいはい、わかりましたよ」という感じの顔をしていたのではないでしょうか。
好きな漫画の話、テレビ番組の話。インターネットと言う言葉さえ余り普及していない時代でしたが、楽しい話題には事欠かなかったようです。最も尾崎君以外の男子二人は、エイミーの口から語られる「女子のリアルな日常」の話に興味津々だったとか。
盛り上がりもやや落ち着いた頃、やおら剣持君が立ち上がって、昼に買ったお土産の袋を漁り始めました。にやりと不敵な笑みを浮かべながら彼が取り出したのは、『お土産』で買ったはずの日本酒の一升瓶でした。
言い訳させていただきますと、当時は今ほど規制が厳しくはなく、決して緩いというわけではないのですが、『お土産』『お使い』と言い訳すれば未成年でも酒が買えてしまう時代でした。
「呑めるか?」
と、いう剣持君の一言に、弱木君以外の二人が頷き、多数決で酒盛り開始と相成りました。
とはいえ、全員酒を呑むのはこの時が初めてだったようで。量も加減も良くわからず、その辺の湯飲みに注いで乾杯したそうです。
初飲酒が茶碗酒とは、なかなかのものです。
エイミー曰く、「お茶碗三杯しか呑んでない」そうですが、当時から駄目人間の片鱗を見せていた私は時折酒を嗜む駄目学生だったため、「エイミーの奴、結構呑めるな」と思いました。
弱木君は茶碗に半分だけ、他の三人は三、四杯。
それだけ呑めば、酔いも回ります。
良い気分になって、各々勝手に寝ころんで、片付けもせずにそのまま眠り込んでしまったそうです。エイミーは尾崎君のすぐ隣に寝ていたそうです。
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どのくらい眠ったでしょうか。
「ざっけんなゴラアァァァァ!!!!」
物凄い絶叫と言うか、怒りの咆哮でエイミーは叩き起こされました。
「な、何?」
弱木君も起きてしまったらしく、おどおどと泣きそうな声がします。エイミーは慌てて立ち上がると、電灯の紐に手を伸ばしました。手探りで引っ張ると、『ぱちん』と音がして灯りが付きました。
この時のことを、エイミーは今でも不思議がっています。何故なら、寝る前に灯りを消した覚えが無いからです。酒に酔っていたため記憶が曖昧なのでしょうが、確かに自分が横になった時に灯りは付けっぱなしだったと主張していました(普通に考えて、途中で起きた誰かが消したのでしょうが……)。
部屋が再び明るくなりました。エイミーが顔を上げると、尾崎君が布団の上に仁王立ちしていました。肩で息をしながら、体中汗びっしょりで。浴衣がはだけて、胸や肩の筋肉がむき出しになっています。
背後では、剣持君が鼾をかきながら寝ています。
「ひっ!」
弱木君が悲鳴を上げました。エイミーも、悲鳴を上げないよう口を両手で押さえなければなりませんでした。
血まみれだったのです。
尾崎君の顔も、胸も、肩も。
浴衣にも血が滲んで、真っ赤に染まっていました。
エイミーは泣きながら尾崎君にしがみつくと、自分でもわけがわからないまま、「座って、座って」と繰り返しました。尾崎君はエイミーを見ると、真っ青な顔のまま目を見開き、突然エイミーを抱きしめたと言います。エイミーは「骨が折れるかと思った」そうです。
エイミーはどうにか尾崎君を座らせると、ちゃぶ台に放置してあった一升瓶を取り上げ、中の酒をラッパ飲みしました。そして、尾崎君の血まみれの胸にぷっと吹き付けました。アルコール消毒です。実際にはそれほど上手くいかなくて、『ぷっ』というより『べっ』と唾を吐く感じになったそうですが……。
エイミーは、尾崎君が怪我をしたと思ったのでしょう。
しかし、尾崎君の体には傷一つありませんでした。
血なんて、どこからも出ていません。
深紅に染まっていたと思われた浴衣も、綺麗なままでした。
嘘、どうして。
エイミーの頭は混乱します。
光の加減。そんな言い訳では済まされないくらい、確かに尾崎君の体は血まみれだったのに。
尾崎君は自分の体に傷が無いのを見て、深くため息を吐きました。それからエイミーの肩に両手を回して、もう一度しっかり抱きしめました。尾崎君の体も浴衣も汗でぐっしょりでしたが、エイミーは嫌がらなかったそうです。尾崎君が「離れたくないみたいだった」のと、「少し震えていた」のが理由だそうです。
剣持君は鼾をかいています。
「ただの夢じゃねぇってことか」
尾崎君は呟くと、エイミーから一升瓶を取り上げて、口を付けて自分もラッパ飲みしました。それから、唖然とするエイミーと弱木君に向かってぽつり、ぽつりと語り始めました。
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夢の中で、尾崎君は真っ黒な空間の中にいました。真っ暗ではなく真っ黒と言ったのは、その空間の上下左右さえわからないくらい暗くて、ただ裸足の下に感じる畳の感触と、周囲にずらりと並んだ蝋燭の灯りだけが確かだったからです。
どのくらいの広さなのかさえもわかりません。
途方に暮れた尾崎君は、とりあえずその空間を歩き回ってみたそうです。蝋燭の火が、ゆらゆら、揺れます。蝋燭は蝋燭立ての上に乗っていて、尾崎君の肩より少し下くらいの位置に均一に並んでいます。一直線の道を照らしているようです。
道を外れたらどうなるのかはわかりません。道の先に何があるかもわかりません。ただ、蝋燭を頼りに真っ直ぐ歩いて行くと、こつんと裸足に当たるものがありました。
拾い上げてみると、それは酷く冷たく、ずしりと重い感触がしました。
刀でした。
黒い鞘に納められた、昼のささやかな冒険で見つけたはずの、あの古びた刀でした。
「でもな。その時は全然、古い感じなんてしなかった」
尾崎君は語ります。
「傷も汚れも無かった。新品みたいだった。夢だから、かもしれないけど……」
尾崎君は拾った刀を観察しました。それから、ごく自然に、これを抜いてみようと思いました。抜きたい、ではなく、抜いてみようと思ったのです。それが当然のような気がしていました。
刀は、すぐに抜けました。何の抵抗も無く、するりと。
それが当然であるかのように。
抜き身の刀身を見て、尾崎君は息を飲みました。家庭科で使う包丁や、その辺のチンピラが振り回すナイフとは比べ物にならない程……いや、比べるのが惜しいほど、余りに透明感のある銀色でした。
鏡のように磨き抜かれ、ぎらぎらに研ぎ澄まされた刃は、好奇心で触れただけでその者の指を骨ごと奪ってしまうでしょう。
刃には尾崎君の顔がくっきりと映っています。手にはずしりと心地よい重さがあります。
どうして、これがここに? いや、そもそもここは何処だ?
疑問に思うのが遅い気がしますが、尾崎君が再び鏡のような刃に目をやると。
その鋭い鏡の中に、尾崎君とは別の顔が映っていました。同時に、背後に気配を感じました。尾崎君は、反射的に刀を握ったまま振り返りました。
「人が、居たんだ」
さっきまでは、尾崎君一人でした。他に人なんか居ませんでした。
尾崎君が、刀を拾った瞬間に現れた。そうとしか思えません。
「爺さんだった。髪の毛は灰色で長くてぼさぼさ。髭もぼうぼうで、汚い緑色の着物を着ていて……」
同じ刀を持っていました。尾崎君が持っているのと全く同じ、昼間に床の間で見つけたものと瓜二つの、ただし新品同然に磨き抜かれた例の刀です。
老人の姿かたちは酷くみすぼらしいものでした。その美しい刀身と、冷たい両目だけが異様なほどの光を放っていました。
抜き身の刀を構えた老人は、尾崎君に向かって無言のまま一礼しました。
そして。
獣のような咆哮を上げると、老人とは思えない勢いで斬りかかって来たのです。
「びっくりした、なんてもんじゃねぇ。何なんだよ、って頭がこんがらがっちまって」
自分の持っている刀で、尾崎君は老人の刃を受け止めました。喧嘩で培った反射神経です。刀同士がぶつかり、しんとした空間に『やけに澄んだ音』がしたそうです。
「火花って本当に散るんだな。俺、これで斬られたらマジで死ぬかもな、って」
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老人ではあり得ない程の力だったそうです。尾崎君の足の下で畳が擦れました。自分が押されている。喧嘩では連戦勝利を納めて来た尾崎君にとって、信じがたい体験でした。
緑色の着物の袖がずれて、老人の皺だらけの腕がむき出しになりました。皺だらけではありましたが、決して細身ではなく、隆々とした筋肉の盛り上がりが見えたそうです。
恐怖はありませんでした。
代わりにあったのは、怒りでした。
「だってそうだろ? 俺、確かに喧嘩はするけど、爺さんの恨みを買うことはやってねぇんだぜ。っていうか、バスとかで席譲ったりもするし」
理不尽への怒り。何故自分がこんな目に、という時、自分を憐れんで泣く者と、怒りをぶちまけて暴れ回る者の違いとは何か。
いえ、今はこんな話をしたいのではありません。
尾崎君は老人に負けじと咆哮を上げました。ふざけんな、だったか、ぶち殺す、だったか、本人も良く覚えていないそうです。
そして、刀を互いに絡み合わせたまま、老人の腹を思いきり蹴ったそうです。
「ルール? 知らねぇよ。俺剣道やってねぇし。真剣だぞ? 負けたら死んじまうのに、手段なんか選べるかっての」
幾多の不良を吹っ飛ばして来た尾崎君渾身の蹴りを喰らい、老人は刀を持ったまま後ろに跳ばされました。が、倒れはしません。腹にまともに喰らったはずなのに、両足を踏ん張るようにして留まっているのです。
当然、刀からも手を放しませんでした。
老人は顔を上げると、肩で呼吸する尾崎君の方を見ました。そして、長く伸びた灰色の前髪の隙間から、
にやり。
笑って見せたのです。
尾崎君がカッとしたのは言うまでもありません。
爺ぃ、馬鹿にしやがって。
逃げる、という選択肢は、不良の中にはありません。尾崎君は刀を構え直すと、それこそ「老人を殺すつもりで」飛び掛かりました。
「後のことなんか考えなかった。負けたら死ぬ、って、それだけわかってる感じだった」
尾崎君の一撃は、老人に簡単に防がれてしまいました。仕方がありません。喧嘩がスポーツだったなら尾崎君はオリンピックに出られたかもしれませんが、剣道に関しては素人です。
金属のぶつかる音がします。きんきん、ともがりがり、とも付かない、金属同士が擦れる音が鼓膜を刺激します。刃の鏡に、老人の笑い顔が映ります。冷たい瞳。尾崎君は既に汗をかいているのに、老人は一筋の汗も流していません。
「ムカついたよ。俺も力じゃ自信があったのに、あのジジイ、同じくらいの力で押し返して来やがって」
ですが、尾崎君はそれでも負けないつもりでした。
喧嘩なら負けない。負けるわけにはいかない。こんな爺さんに負けたと知られたら、皆に笑われる。
尾崎君にも、不良としてのプライドがありました。
尾崎君は思い切って、力を込めて両手で握りしめていた刀から右手を離しました。そして、至近距離まで迫った老人の顔面に拳を叩き込みました。左手一本では、老人が両手で構えた刀を防ぐことができません。しかし、殴られたことで老人もバランスを欠いたようです。よろめいた拍子に再び互いの刀が離れました、が。
老人は素早く体制を立て直すと、尾崎君の『視界が刃で一杯になるほど、近くで』刀を振ったのです。
掠ったとも感じませんでした。痛みも、最初は何もありませんでした。ただ、浴衣の胸元がやけに生暖かくて、尾崎君は老人に一撃を入れた喜びもつかの間、何とも不気味な感覚に襲われたそうです。
「単純に痛いってのとは違ってた。痛くないけど痛い、みたいな……やばい事になった、って、やっぱりわかってて」
浴衣の胸元に目をやりました。合わせがずれて、むき出しになった胸板は斜めにぱっくりと割れていました。
白、赤、白……その時見えたものを、尾崎君は色で記憶しています。すぐに血が吹き出して赤一色になってしまったそうですが、尾崎君は一番奥に見えた『白』は、深く切られたために丸見えになった、自分の肋骨だったのではないかと思っているそうです。
血と一緒に冷や汗が吹き出しました。どくん、どくん。これが自分の心臓の音なのだろうか、今にも止まってしまうのではないか。
老人は笑っています。
尾崎君に殴られたために鼻から血を流していましたが、それでも笑っていたそうです。老人が握っていた刀を振ると、二、三滴の血が、雨のように散りました。蝋燭に囲まれた空間の中、尾崎君は自分の血の雫が終わりのように輝くのをはっきりと見たそうです。
舐めやがって!
尾崎君は痛みも忘れて、再び老人に飛び掛かろうとしました……が、流石は喧嘩のプロ。同じ轍は踏みません。
一般に不良と呼ばれる生き物が皆同じなのかどうかはわかりませんが、尾崎君には喧嘩をしながら即興で戦法を練るという、一種の特技のようなものがあったそうで。
老人の戦い方、お互いの力の程度、自分の状況などを、普段の喧嘩と同じように、やけに冷静に計算していたようです。
余談ですが、彼の脳味噌がフル回転するのは喧嘩の時だけなので、成績は常に中の下どころが下の下です(エイミーも下の中ですが)。
老人の憎らしい笑い顔を見ながら、尾崎君は自分の傷の深さを考えないようにして作戦を練りました。汗が額を伝い、目に入ります。
長く楽しむ為、なのでしょうか。老人は、自分から仕掛けてこようとはしません。ただ、にやにやと尾崎君を見つめています。
尾崎君は考えました。
悔しいが、刀の扱いはジジイの方が圧倒的に上だ。いや、剣道なんかやったことも無いが、あいつは剣持だって認めるくらいに強いんじゃないか。それに比べて自分は、せいぜい木刀を振り回した経験がある程度。まともにやったら、負ける。
負けたら、死ぬ。
死ぬ……。
尾崎君の頭に浮かんだのは、エイミーの顔でした。
実を言うと、これはエイミーに聞いた内容ではありません。後から尾崎君がこっそりと私に話してくれたのですが、エイミーのことを思い出した瞬間に、尾崎君は「プライドを捨てる決心をした」そうです。
例え卑怯な戦い方をしても、絶対に勝つ。生きて戻る。
今まで読んでくださった方は、きっと「いや、もう十分卑怯な戦い方をしているじゃないか」と思っていらっしゃると思います。
ただ、それは『剣道』というスポーツの立場からの意見だと思います。
尾崎君は、最初からスポーツをやっているつもりはありませんでした。
これは、『殺し合い』だ。
真剣を使っている以上、綺麗ごとなど言ってはいられません。
何せ、自分の命が掛かっています。
尾崎君は金属バットやら何やらを持った相手と喧嘩したことがありますが、命の危険の程度がまるで違います。
お忘れかもしれませんが、相手は何の恨みも無いはずの尾崎君に突然斬りかかって来た気の触れた殺人鬼です。正々堂々、なんて言っている奴は、真っ先に死にます。
尾崎君が出した結論は、『逃げながら戦う』『剣でまともに相手をしない』というものでした。
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老人に飛び掛かる。刀同士をぶつける。ただし、これは囮。老人が刀に集中している間に、蹴りなり拳なりで直接攻撃する。同時に自分はできるだけ後ろに跳んで、老人からの反撃をやり過ごす。無論、この程度で奴が倒れるとは思えない。が、喧嘩の経験上、ダメージというものは蓄積する。老人側から仕掛けて来ない、ということは、向こうは体力の消耗を恐れているのではないか。万が一仕掛けて来たら、今度は『受けない』。避けてやる。そのくらいはできる。そうすればこっちは無傷だ。傷を負っているとは言え、俺は体力にも自信がある。長期戦に持ち込んでやろうじゃないか……。
何とも単細胞と言うかどんぶり勘定と言うか、そんなので本当にうまく行くのか、というザル作戦ではありましたが。
結論から言うと、まあまあうまく行ったそうです。
ただ、事実を補足しておきます。
エイミーによれば、尾崎君は類まれなる反射神経と運動神経の持ち主であり、体力測定のシャトルランでは音楽が全て鳴り止んでも平然としている程持久力があったそうです。
言ってみれば、最初は『剣術』という老人の得意なフィールドであったのに対し、『喧嘩』という尾崎君のフィールドに引きずり込んだ形になったのでしょうか。
殴る、逃げる、蹴る、逃げる。老人から飛び掛かってきたら、刀で受けずにただ避ける。ついでに、老人の背後に回り込んで背中に蹴りを入れることもあったそうです。
力ではほぼ互角でも、素早さという点では若い尾崎君の方が上だったようで。しかしまあ、傍から見たら老人虐待を問われかねないような戦い方ですね。
逃げる、というのは、不良の世界においては一番の不名誉だそうです。こんな格好悪い戦い方、不良同士の喧嘩でやったら非難ごうごうで、勝っても負けても物笑いの種でしょう。まして、相手は老人……それでも、尾崎君は卑怯な戦いを続けました。
どのくらいそうして、不毛とも言える小競り合いを続けたでしょうか。避けているとは言え、尾崎君の胸や肩には刀傷が増えていました。避けたつもりが斬られていた、ということもあり、今ではもう、痛いのか痛くないのかさえわかりません。
「すげえ泥仕合だった。今思い出しても、あれほど情けない喧嘩はしたことが無い」
やがて、老人の額に汗が光るようになりました。蝋燭の灯りの中、老人はまだにやにやと笑っています。が、何度も殴られたため、鼻からも口の端からも血を流しています。
「あのジジイ、ジジイのくせにやけに頑丈だったんだよ。いや、もしかして俺が当てたつもりになってただけで、本当は避けられてたのかもな」
いくら達人とは言え、老人は老人。体力には限界がありますし、若い者にはかないません。
尾崎君は「いける」と思ったそうです。
しかし、次の瞬間。信じられないことが起こりました。
何と、老人が『殴って』来たのです。
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「信じられるか? 俺は馬鹿だから良くわからねえけど、刀って大事なもんなんだろ? その刀から右手離して、俺に右ストレートぶちかましやがったんだよ」
不意打ちを喰らった尾崎君は危うく倒れそうになりました。
嘘だろ、と思うと同時に、ハタと気付いたことがありました。
こっちが卑怯な手を使っているのに、向こうが正々堂々やってくれるわけが無い。
そこからはもう、無茶苦茶だったそうです。
疲労の為に段々と重さの増して来た刀を捨てて、尾崎君は自分でもわけのわからない雄叫びを上げながら老人に殴りかかりました。
思い切った判断でしたが、これが吉と出ました。
上手く使えもしない重たいお荷物が無くなったせいで、体が軽くなったからです。
老人は刀を持っていますが、体力の限界は間近なようで。段々と動きにキレのようなものが無くなり、尾崎君の拳を避けられなくなりました。刀を構えても、「切っ先が蝋燭の灯りの中で震えていた」とのことでしたから、相当な疲労が蓄積していたと思われます。
泥仕合の結果を制したのは、尾崎君でした。この時に発した絶叫だけは、尾崎君もはっきり記憶していました。
ふざけんなクソが、だそうです。
幾多の不良を地面と口付けさせてきた、全体重を掛けた渾身の右ストレートを顔面に喰らい、老人はとうとう膝を付きました。
刀を杖のように突きたてて片膝を立て、ぜいぜいと呼吸を乱しながらも立ち上がろうとする姿を見て、尾崎君は急激にこの老人が可哀そうになってきました。
殺されかけたのに随分とお人好しだなとは思いますが、尾崎君によると、「本気で戦った後は、恨みっこ無し」だそうです。不良世界の共通ルールなのかどうかは、わかりません。
老人の鼻からぼたぼたと鮮血が滴ります。汚い緑色の着物に、赤い斑点が散ります。
「もう良いだろ」
尾崎君は言いました。
「俺の勝ちだ」
老人が顔を上げました。顔じゅうが血だらけで、灰色の髭も赤く染まり、片方の目が腫れ上がっていました。
それでも、尚。汗と血にまみれた顔で、にやにや、笑っていたそうです。尾崎君によると、「すげえ不気味だった」そうです。この状況になって、初めて恐怖を感じたのだとか。
老人は歯の抜けた口を開いて、何事か呟いたようでした。が、尾崎君の耳には何も聞こえません。
そして、そのまま。
背後の闇に溶けるようにして、すっと消えてしまったのだと言います。
「マジでふざけんな、って思ったよ。滅茶苦茶やっといて、結局逃げんのかよ、って」
恨みっこ無しなんじゃなかったの、という問いに、尾崎君はこう答えたそうです。
「いきなり人に斬りかかって来やがって。一言くらい謝ってくれても良いだろ!」
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話し終わると、尾崎君は再び溜息を吐きました。そして、一升瓶の中身を出しっぱなしの湯飲み茶碗に注いで呑み干しました。
「それで怒鳴ったわけ?」
エイミーが恐る恐る尋ねると、尾崎君は頷きました。
ふざけんなコラ、正しい発音は「ざっけんなゴラアァァァァ!!!!」ですが、そう怒鳴った瞬間に目が覚めたそうです。
横になって寝ていたはずなのに、布団の上に立っていた理由はわかりません。体中が血まみれに見えた理由もわかりません。かなりの大声だったはずなのに、先生も、隣の部屋に泊まっているはずのクラスメイトも、誰も起きて来ないのが不思議でした。
弱木君は本気で泣いていました。何とも言えない不安そうな顔をしたエイミーに向かって、尾崎君は「風呂入って来る」と告げると、汗で皺くちゃになった浴衣の肩にタオルを引っかけて部屋を出て行ったそうです。
深夜の二時を過ぎていたため、大浴場の利用時間が終わっていて、結局すぐに戻って来たそうです。
剣持君は気持ちよさそうに鼾をかいていて、尾崎君に蹴られても全く目を覚ましませんでした。
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これだけならば、ただ『変な夢を見ただけの話』で無理矢理終わらせることもできそうですが。今回の場合は、そうも行きませんでした。
翌朝、酒臭い息をミントのガムで抑え込んで二日酔いの頭を抱えながら朝食会場に行こうとした面々を、怖い顔をした担任が呼び止めました。普通に怒っているのではなく、何かほっとしたような、奇妙に歪んだ顔をしていたそうです。
傍らには、やはり複雑な顔をした女将さんがいらっしゃいました。
ばれた。
全員、咄嗟にそう悟ったそうです。
こうなっては、シラを切るのはおそらく無理でしょう。四人は、大人しく別室へと連行されました。
「入ったんだな?」
担任は、単刀直入にそう尋ねました。尾崎君は咄嗟に、
「俺が行こうって言ったんです」
と、答えました。
「俺一人じゃ怖いから付いてきてくれって。こいつらに無理矢理頼んだんです」
しゃあしゃあと嘘を吐く尾崎君に、担任は流石に呆れた顔をしたそうです。尾崎君は幽霊なんか怖がるようなタイプではないのに。
女将さんは困ったような顔をして、
「あの部屋をああいう風にしておいたのには、理由があるんです」
と、語り始めました。
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『幽の間』にあった、あの刀……あれが、いつからこの旅館にあるのか。一体誰のものだったのか。謂れは一切、わからないそうです。ただ、あれを『幽の間』から動かそうとすると、何か『とても厭なこと』が起こる。どんな『厭なこと』なのかは、女将さんはどうしても教えてくれませんでした。
「昨晩は、良くお休みになられましたか?」
探るような女将さんの質問です。剣持君は「はい!」と元気よく答えました。尾崎君は少し迷ったようですが、結局、変なお爺さんの夢について話しました。
「ただの夢なんですけど……」
その前置きだけで、女将さんの顔がさぁっと青ざめたそうです。
お爺さんが刀で斬りかかって来た、という下りになると、女将さんは可哀そうなくらい恐縮して、
「すみません、すみません」
と、何度も謝りました。担任は慌てて、「勝手に入ったこいつらが悪いんですから」とか何とか言っていたそうですが。
「あのお爺さん、挑んで来るんです」
女将さんが泣きながら放った一言に、今度は尾崎君の顔が強張りました。
普通の人……例えば、女性や子供や、体の丈夫でない人が『幽の間』に入っても、何も起こらない。
が、屈強で腕に覚えのある男性があの部屋に入ると。
件の老人に、目を付けられてしまう。
「夢で勝負を挑まれたんだな?」
担任に問われて、尾崎君は頷きました。
「俺が勝ちました」
担任が溜息を吐きました。安心したような溜息だったそうです。
「昔の話だし、信じたわけじゃないが」
担任は少し躊躇いながらも、泣きじゃくる女将さんに代わって話し始めました。
以下は伝聞の伝聞なので、少し曖昧な点もありますが、そこはご容赦ください。
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詳しい時代や、いつから『それ』が始まったのかは、今の女将さんも伝えられていないそうですが。
『幽の間』に男性客を泊めたところ、翌朝に布団の中で亡くなっていた、という悲しい出来事があったそうです。死因は心臓麻痺でした。悲しいですが、この時点では誰も不審には思いません。
が、この出来事は一回では終わりませんでした。
毎回では無かったものの、『幽の間』での客の死は続きました。
体が丈夫そうで、腕っぷしの強そうな男性が、急な心臓麻痺を起こして死んでいくのです。か弱そうな女性やお年寄りは何ともないのに、殺したって死ななそうな人ばかりが亡くなっていく。
流石に、只事ではありません。悪い噂が広まれば、旅館の存続にも関わります。
当時の女将さんは気味悪がって、とうとう部屋を封印してしまいました。
しかしまあ、どの時代にも尾崎君のような人間はいるもので。
話を聞いて、わざわざ『幽の間』に泊まりたいという客が現れたそうです。やはり屈強な体の持ち主で、いかにも強そうな外見だったとか。
泊めるわけにはいかないと断ったのですが、どうしてもと譲らないので、仕方なく部屋の中を見せたそうです。やはり尾崎君と同じように、床の間のあの古い刀に興味を示していたとか。
見せるだけなら大丈夫だろう、との考えだったわけですが。
翌朝、その男性客はとても難しい顔をして、女将さんに自分が見た『夢』の話をしたそうです……。
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「それって、まさか」
エイミーは息を飲みました。担任が頷きます。
「尾崎が見たっていう老人と、同じ外見の奴に挑まれたらしい」
例の男性客も、やはり尾崎君と同じように「勝った」と告げたそうです。そして、意見を述べました。
自分は勝ったから助かった。が、もし負けていたら……。
エイミーは思わず悲鳴を上げてしまったそうです。隣に座っている尾崎君を見上げると、真っ青な顔をして、黙って正面を睨んでいたのだとか。
「負けたら死ぬって、夢の中でずっと思ってたんだ。でも……」
代々、『幽の間』は厳重に封印されているそうです。『幽の間』がある棟は丸ごと封鎖して、客が立ち入ることができないようになっています。
「それでも、入ってしまう方はいるんです」
女将さんによると、どんなに鍵を掛けても、どんなにお祓いをしても、効果はなかったそうです。呼ばれてしまう、とでも言うのでしょうか。『幽の間』に入ってしまった男性は、やはり、布団の中で翌朝冷たくなっていることが多かったそうで。
そんな出来事が続くうちに、ここは『縁起の悪い旅館』として悪評が広まってしまい、かつての面影も無く寂れてしまったのだとか。
「ここ何年も、何も起きていなかったんです」
世の中から、強い男性が減ったためでしょうか。それとも、旅館自体が寂れて、宿泊客そのものが減ったためでしょうか。
「まさか、生徒さんを危険な目に合わせてしまうなんて」
今の女将さんも、最初は信じていませんでした。何か土産話は無いかと聞いて来た客に、うっかり『幽の間』の話をしてしまったそうです。客は翌朝、布団の中で冷たくなっていました。同行者によれば、彼は昨晩の夕飯の席で、『幽の間』に肝試し気分で入ったことを自慢げに語っていたとか。
それ以来、誰もが『幽の間』を恐れるようになりました。厳重に封をして、毎日従業員が見回りに行きます。入ろうとしている客を見つけたら、すぐにでも呼び止められるように。
エイミー達の『冒険』がばれてしまったのは、見回りに行った従業員がはがれかけのガムテープを発見したためでした。今朝の話だそうです。朝、昼、夕、晩と見回りに行っているはずなのに、昨日は痕跡を発見できなかったのでしょうか。そもそも、四人とうまい具合に入れ違いになってしまった点も奇妙です。
「信じたわけじゃない。信じたわけじゃないが……」
普段から喧嘩三昧の尾崎君を心配している担任は、眉根を寄せながらこう語りました。
「今回ばっかりは、お前が強くて良かったと思っているよ」
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一応、ということで、近所のお寺で簡単なお祓いを済ませ、四人はようやく解放されました。他のクラスメイトはすっかり旅支度を整えていて、エイミー達は少し気まずい思いをしながら、冷めてしまった朝食を急いでもそもそかき込んだそうです。
「生きてて良かった」
タクアンを口に運びながら尾崎君が放った言葉を、エイミーは忘れられないと言っています。
「格好良く死ぬくらいなら、どんなに格好悪くても生き残って、絶対にお前のところに帰ってやるよ」
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電話口で長話を終えたエイミーは、やり遂げたようにふーっと息を吐きました。電話越しにも、得意げというか、自慢げというか、そんな雰囲気が伝わって来たのを覚えています。
「だからね。私、もう尾崎君が喧嘩しても、心配するの辞めたんだ」
受話器の向こうで、こくりと喉を鳴らす音が聞こえました。エイミーのことです。もう深夜なのに、大好物のミルクココアでも作って飲んでいるのでしょう。
「生きて私のところに帰って来るって、それだけ約束してくれたんだもん」
はいはい、ご馳走様。
全く、修学旅行の感想を聞いただけなのに、どうしてこんなことになったのか。
例のお爺さんが何者なのかは、結局誰にもわからないそうです。あの古い刀の所有者だった……と、いうことは何となく想像が付くのですが、勝つためなら手段を選ばないタイプのお方らしいので、歴史に名が残っているような剣豪ではないでしょう。
「だけどねー、一番悔しそうにしてたの、誰だと思う? 剣持君! 俺は剣道部だぞ! 何で俺に挑んで来ないんだ! って、帰ってからもずーっとブツブツ言ってたよ。でも、あんな風にグーグー眠ってるようじゃ駄目だよねー」
幽霊(?)と喧嘩して勝ってしまう尾崎君も恐ろしいですが、その幽霊と戦いたがる剣持君も恐ろしい。
ですが。
一番恐ろしいのは、男子しかいない部屋で酒を呑んで雑魚寝してしまうエイミー……ではないかと、私は思うのです。
作者林檎亭紅玉