従妹のエイミーから聞いた話です。生粋の日本人なのですが、仇名がエイミーなので作中ではこの名前で通すことにします。
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昨年の話です。林檎(りんご)の県に住むエイミーは、用があってAという市に出かけました。県内ではありますが、エイミーの住む田舎から見れば十分都会です。
用を済ませるついで、エイミーはA市に住む友人を訪ねました(お断りしておきますが、私ではありません)。
手土産は、林檎です。
林檎県と言われる地元では良くあることなのですが、知り合いに林檎農家の方、林檎農家と仲が良い方、或いは農家と言う程ではないけれど趣味で林檎作りを続けている方、などがいらっしゃると、秋には自動的に林檎が届けられるシステムとなっております。
売りに出せない規格外品や、自家消費できない分を、冗談ではなく本当に段ボール一杯分くらいお裾分けしてくれるのです。
有難い話ではあるのですが、本場の林檎はとにかく糖度が高く、「一日一個は病気を遠ざけるが、一日三個で医者に注意される」などと言われるくらいに甘いもので。段ボール一杯の消費は大変なので、お裾分けのお裾分けというか、そんな感じで周囲に配ります。
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が。
向こう様もこちらと同じ状況で、頂いた林檎の消費に苦労している……と、いうことも珍しくはなく。
この日も、エイミーは赤い林檎を手土産として持参し、確かに友人に手渡したはずでした。しかし帰路に付くエイミーの手には、黄色い林檎を入れた紙袋がありました。友人家の台所には林檎の詰め込まれた段ボールが二つほどあり、親切な友人は「お返しに」と言って、わざわざエイミーが持ってきたものとは違う品種を選んでお土産に持たせてくれたのです。
このような現象を、私とエイミーは密かにマネー・ロンダリングならぬ林檎・ロンダリングと呼んでおります。
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さて、A駅にほど近い広場には、やはり林檎県というか、それとも観光客の目を意識してか。街路樹として林檎の木が植えてあります。
姫林檎(ひめりんご)、というのでしょうか。私は林檎農家ではないため断言はできませんが、非常に小粒な林檎です。更に言うと、駅前のそれは完全に観賞目的で存在しています。
実は大量に生るだけ生ったまま放置、肥料も無し、場所柄のせいで常時排気ガスを浴びまくる……といった過酷な環境下でして。
ただでさえ小さな果実は更に小さく、サクランボ大の赤い実が枝がしなるほどぎっしりと生っており、ご覧になった観光客の叔母さまが「何だか、可哀そうね」と呟くような、見ようによってはちょっと痛々しいような有様でした。
別に柵で囲っているわけでも無いのですが、地元の人は誰も食べません。鳥さえ見向きもしません。物凄く酸っぱい上に、いつまでも口に残る噛み切れない繊維、舌に残るエグみと渋み、実は小さいくせに一丁前に主張する種……と、はっきり言って不味いからです。
一度、イベントで連れて来られた猿回しのお猿さんがするするとこの木に登って小さな果実をもぎ取っていましたが、一口齧って捨てていました。
そんな出来損ないの林檎ですが、小さな深紅の実が木いっぱいに生っている光景、というのはそれなりに美しいものです。
これぞ林檎県の秋、といったところでしょうか。
エイミーも、思わず足を止めました。
世間的には平日だったので、林檎の広場に人影はありません。休日であればカップルや学生で埋まっているベンチも、今日は空いています。
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あのベンチで、コーヒーを飲んで帰ろう。
帰りの電車の時間まで間があったこともあり、エイミーは何となくそう考えて、駅中のコーヒーショップで『何とかラテ』をテイクアウトしたそうです(私はブラックしか飲めないため、ラテの名前が覚えられません)。
広場に戻っても、やはりエイミー以外に人はいませんでした。ベンチに腰かけて顔を上げると、目の前には林檎の木があります。深紅の実が鈴生りで、微かに甘酸っぱい香りがします。天気が良かったせいでしょうか、日の光を浴びた姫林檎は、真っ赤な宝石のようにきらきらと輝いています。
写真、撮ろうかな。
エイミーは、そう思ったそうです。
綺麗だし、尾崎君にも見せよう。
尾崎君、というのは、エイミーの夫に当たる人なのですが、学生時代は典型的な不良少年だったため、ここではこう呼ぶこととします。
エイミーがバックからスマートフォンを取り出し、再び顔を上げると。
姫林檎の木の下に、人が立っているのが見えました。
エイミーは、「あれ?」と思ったそうです。
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いつの間に。
エイミーは少し抜けているというか、年の割に子供っぽいというか、まあ、頭のネジが二、三本緩んでいるような、そんな性格なのですが。
それでも何か「おかしい」ということはわかったそうです。
エイミーが居る姫林檎の広場は、駅から近いとは言え、十数メートルくらいは歩かなければなりません。反対側にあるちょっとお洒落な土産物屋から来るという手もありますが、こっちも距離は似たようなものでして。
何が言いたいかと言いますと、『スマートフォンをバックから取り出す』という、時間にして数秒しか掛からない動作の間に突如この場に出現する、なんてことはほぼ不可能なわけです。
十数メートルなら猛ダッシュして来れば数秒も掛からないでしょうが、そんな異様な行いをする人間が居れば流石に気付くはず。
エイミーには、姫林檎の木の下に立つその人物が、どうしても『急に現れた』としか思えなかったそうです。
若い女の子だった、とエイミーは言っていました。髪は黒くて、肩までのセミロング。顔は残念ながら良く覚えていないそうですが、焦げ茶色のブラウスにワインレッドのゆったりしたスカートを合わせていたそうです。
秋の装い、といったところでしょうか。
しかし材質やデザイン的に高価なものではなく、おそらくは若い女性向け雑誌を見てその通りに服を着るような、そんな典型的女子大生のような子だったのでしょう。
姫林檎の写真を撮るのかな。
エイミーは、そう思ったそうです。食べても不味い林檎である以上、鑑賞以外の目的には使えませんからね。
しかし、彼女は林檎の木の下に立ったまま動きません。
スマートフォンを取り出す様子さえありません。
どうしたんだろう。
エイミーは少し不思議になって、さりげなく彼女の方に近づきました。
私も写真を撮りたいだけですよ、という雰囲気を出すため、わざとらしくスマートフォンを掲げて。
エイミーが近づいても、女の子は全く気付かないようでした。気にしていないだけかもしれませんが、全くエイミーの方を見ようともしないのです。ただ、やや俯き加減で、口の中で何やらブツブツと呟いています。
具合でも悪いのかな。
人の好いエイミーは、そう考えました。
声を掛けるべきかどうか迷っていた、その時でした。
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女の子が、目の前にある姫林檎の枝を掴んだそうです。近くで見る為とか、写真を撮る為とか、そういう目的とは思えない程の勢いで。枝は勢いよく弛んで、紅葉した葉がぱらぱら散ったそうです。
女の子は、枝を自分の方へ引き寄せると。
枝に鈴生りの小さな姫林檎に、直接齧りつきました。
余りのことに、エイミーは声を掛けるのも忘れて女の子を見つめてしまったそうです。
がじゅ、がじゅ、じゃく、じゃく。
固い果肉を咀嚼する音が、やけに大きく聞こえました。
サクランボ大の小さな林檎は、一度に二つ、三つ、四つと、彼女の口の中に消えて行きました。その枝に生っていた林檎を全て食べ尽くすと、彼女は今度は別の枝に手を伸ばしました。
じゃぐ、じゃぐ、じゃぐ。
枝に唇を這わせ、しごくようにして姫林檎の実を口に入れて行きます。折れた枝に唇が擦れ、血が滲みます。口の端から、果汁と噛み切れない茶色い繊維が零れ落ちました。枝についた実を直接口に入れるだけでは飽き足らず、空いている方の手で無造作に実をむしり取っては口に入れます。口に入りきらなかった実がころころと地面に落ちましたが、彼女は気にしません。夢中で、美味しくないはずの姫林檎を貪っています。
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何、これ。
この子、何をしているの。
当たり前ですが、エイミーは混乱しました。女の子はすぐ側でエイミーが見ているのも構わず……いや、気付いていなかったのでしょうか……エイミー曰く、「まるで焼き鳥でも食べるみたいに」枝に生った林檎を次々と平らげて行きました。
じゃぐじゃぐ、がじゅがじゅがじゅ……。
不思議なことに、こんな異様な光景が繰り広げられているにも関わらず、エイミー以外は誰一人興味を示しません。いや、そもそも広場に入って来る人間がいないのです。辺りを見回せば、駅前でお喋りしているサラリーマンや、お洒落な土産物屋から出て来る若い男女の姿が目に入ります。エイミーは、そんな周囲と自分との間に「見えない壁ができているみたいだった」と言っていました。
女の子は尚も食べ続けます。女の子の周辺にあった枝は、ほとんど焼け野原というか、実が無くなったり折れたりしています。
がじゅ、がじゅ、がじゅ……。
私ならこの時点で逃げ出していますが、そうは行かないのがエイミーの凄いところです。エイミーはしばらく呆然と女の子の奇行(と、しか思えません)を見守っていましたが、ふと、ベンチの上に放置している荷物の存在を思い出したそうです。
貰い物の、黄色い林檎。
エイミーは、自分が座っていたベンチまでそっと移動しました。
そして、黄色い林檎の入った紙袋を掴んで、姫林檎の木の下まで戻りました。
「あの!」
エイミーは、思い切って声を出しました。思ったより大きな声が出たそうです。女の子が枝に齧りついたまま顔を上げます。口の周りも頬も林檎の果汁で汚れ、髪の毛がべたべたはり付いていたそうです。
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私の声、聞こえるんだ。
不思議なことに、エイミーはそんなことを思ったそうです。
「それ、美味しくないでしょう?」
震える声で、それでも精いっぱいに笑いながら、エイミーは黄色い林檎の袋を差し出しました。
「良かったら、これ……」
紙袋一杯の黄色い林檎を見た途端、女の子は目を見開きました。
血走っていたそうです。眼球が零れそうだったようです。
女の子はエイミーから紙袋をひったくると、黄色い林檎を掴み出して口に押し付けました。
じゃぐり。
果肉を食む音が響きます。女の子は大急ぎで一つ目の林檎を咀嚼しながら、もう次の林檎に手を出していました。両手で黄色い林檎を掴み、次々と口の中に押し込みます。顎を果汁が伝い落ちます。紙袋が地面で倒れ、中の林檎がころころ転がります。でも、女の子は気にしません。ひとつ食べ終わったら次、更に次。地面に膝を付き、転がる林檎を拾っては口に押し付けるようにして食べていたそうです。
エイミーが言うには、「味わうのももどかしそうだった」とか。
エイミーは、ゆっくり、ゆっくり後ずさりました。背中を見せないように気を付けたそうです。
女の子に気付かれてはならない。
自分はもう林檎を持っていないのだということを、気付かれてはならない。
何故か、そんな思いで一杯だったそうです。
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「あの林檎をあげなかったら、私はもっと怖い目に合ってたかもしれない」
考えすぎ、だとは思います。しかしエイミーは、あの時林檎を持っていて本当に良かったと言っています。
女の子が最後の林檎に手を伸ばします。黄色い林檎で一杯だったはずの紙袋は、ぺたんこになっています。
じゃぐり。
もう駄目。
エイミーはくるりと踵を返すと、できる限りの速さで歩きました。
走ったら気付かれる。
そんな思いがあったそうです。
じゃぐり。じゃぐり。
咀嚼音が背中を追います。エイミーの頭の中に、段々小さくなる黄色い林檎が浮かびます。
あれが無くなるまでに、人のいる場所まで辿り着けなかったら。
「駅までほんのちょっとしか離れてないのに、凄い距離歩いてるみたいだった。駅前、さっきまで人がいたのに、全然いないの。皆どこ行っちゃったの、尾崎君助けて、ってずっと思ってて、もう涙目」
じゃぐり。
もう女の子からは大分離れているはずなのに……林檎を咀嚼する音が、エイミーの耳に届くはずが無いのに。
まるで、耳元で林檎を齧られているような。
そのくらい、はっきりと響いたそうです。
「もう駄目かも、って思った。駅に入れないかも、って」
結論から言うと、駄目ではありませんでした。
エイミーの足は誰にも邪魔されることなく、無事に駅の入り口を通って中に入りました。
車掌さんが居ます。買い物帰りの主婦のような人や、高校生らしい制服姿も見えます。『みどりの窓口』では、係の人が外国人らしい人と何か話をしています。
エイミーは体中から力が抜けて、その場に座り込みそうになりました。
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「本当に座り込んだりはしないよぉ。駅中のコーヒーショップまで我慢したもん」
ついさっきラテを買って行った客が戻って来て、全く同じものを注文したので、店員も多少は面食らったかもしれません。
人で賑わっている中でコーヒーを啜っていると、気分は大分落ち着いて来ました。
「それでね、ちょっと気になったから、またあの姫林檎の広場に行ってみたの」
……え?
また?
「うん。電車が来るまで、まだ時間あったし……」
エイミーは常にこんな感じです。長い付き合いである私や、夫の尾崎君にさえ理解が及ばないことをするのがエイミーです。
「でね。駅前で林檎売ってたから、それ買って行った」
期待に反して(?)広場には誰もいませんでした。黄色い林檎の入っていた紙袋も見当たりません。あれほど大量に林檎を貪っていたのに、林檎の芯ひとつ、食べかすさえも落ちていません。姫林檎の木の前にあるベンチには、エイミーが忘れて行ったラテの紙コップだけが、ぽつんと取り残されています。
「でもね……」
白昼夢、などではありませんでした。
姫林檎の木。
一見、何も変わっていないようでした。
ですが、あの女の子が『焼き鳥を食べるみたいに』貪っていた部分の枝は。
一部が折れ、一部が曲がり、何よりあれほど鈴生りだったはずの実が一粒も無くなっていました。
「おかしいよ。そこだけ実がなくなって、葉っぱも落ちちゃって、禿げたみたいになってんの」
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あのね、エイミー。
泣きそうな声で話すエイミーに向かって、私は思い切って自分の考えを告げてみました。
それ、動画の撮影とかじゃないの?
「尾崎君にも、同じこと言われた」
ナントカをやってみた、という系統の動画は、今やインターネットに溢れ返っています。通行人に絡んでみたり、入ってはいけない場所に入ったり、面白いどころか単なる迷惑行為であることも少なくありません。
エイミーが見た『林檎喰い女』も、そういった奇行をインターネットに晒すことで有名になりたかっただけ、なのではないでしょうか。
きっと、エイミーが気付かなかっただけで、近くで撮影している仲間が居たのかもしれません。そうでなければ、どこかに隠しカメラがあったとか。
「でも、あの女の子、急に広場に出て来たんだよ? 足音とか全然しなかったし。それに、枝で唇怪我して血が出てたんだよ? それでも食べ続けるって普通じゃないよ」
確かに、不審な点はいくつかありますが。
「それにさ、尾崎君に言われて検索したけど。そんな動画、どこにも投稿されてなかったよ」
物凄くお腹が空いていたのかもしれません。林檎ならとにかく何でも大好きな子だったのかもしれません。
或いは、動画を撮影してみたものの、見返してみたら全く面白くなかったのでお蔵入りにしたのかもしれません。何より、エイミーが介入したことで動画の筋そのものが当初の計画と変わってしまったのかも……。
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例え人間だったにしろ、変な人であることには間違い無いので、今後見かけることがあっても関わらないように。
そう注意はしたのですが。
「でもね。あの姫林檎、誰も食べてくれないでしょ?」
人間どころか、鳥や猿さえ食べない姫林檎。
「あの女の子が食べてくれて、姫林檎は嬉しかったんじゃないかな」
はい?
いや、いや、いや。
やはり、エイミーの考えることはどこか飛んでいます。怖い思いをしたと自分で言っていたくせに、何故。
そもそも、例の女の子(?)は姫林檎を大事にしていないじゃないですか。枝が折れようと曲がろうとお構いなしに、がつがつと食べ続けていたんじゃないですか。
「私、あの子に甘い林檎あげちゃって良かったのかな。あの女の子も食べてくれなくなったら……姫林檎が可哀想」
あれから一年経ちましたが、エイミーは未だに姫林檎と、あの奇妙な女の子のことを気にしています。
りんご姫。エイミーは妖怪林檎喰い女(私が命名しました)を、そんな風に呼んでいます。
今年も、彼女は姫林檎を食べに来るだろうか。エイミーは広場まで行きたいそうですが、自宅からA市はかなり遠いし、何より尾崎君が「変なのに近寄るな」と言って許してくれません。
お化けや幽霊なんかより、平気で変なことをするような、わけのわからない人間が一番怖いんだぞ、と。
「あのさ、姉さん(尾崎君は私をこう呼びます)。エイミーには言わないで欲しいんだけど」
尾崎君が私にだけ教えてくれた事実を、こっそりとここに記しておきます。
「A駅前の姫林檎だろ? 俺も見たことがあるんだけど……たまに、不自然に実が無くなって裸になってる枝がある」
私も見たことがある、とは、流石に言えませんでした。
毎年、毎年。
深紅の小さな実が実る度、枝から実を齧り取っていく『何者か』は、確かに存在するようです。
作者林檎亭紅玉