トリガー ―バス停の二人―

長編43
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トリガー ―バス停の二人―

 念の為、傘を持って出かけた方がよろしいでしょう、という責任逃れも甚だしいニュースは不吉な予言で、日が暮れると小雨は一気に本降りに変わった。こういう時に限って近くにコンビニも無いのだから、つくづく自分の運の無さが恨めしい。唯一雨を凌げる場所は、屋根とベンチがあるだけのバスの停留所くらいのもの。この際贅沢は言えないと、足元の水たまりを蹴散らして飛び込んだ先で、二人は同時に声を上げる。

「げっ!」

 嫌な奴に出会った。

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佐々木卓也、二十四歳。

 男の風上にも置けない、と、大多数の男が眉をひそめつつも、内心では羨ましがりそうな生活を続けて早六年。音楽で食って行くつもりで、勇んで家を飛び出したのは十八の頃だ。生来の怠け癖の所為で練習をさぼり続け、ファンの女と関係を持ち、ヴォーカルの恋人にまで手を出して激怒された挙句に愛想を尽かされた。

バンドを辞めた後は、坂を転がり落ちるようだったと記憶している。声を掛ければ、調子の良い時で三回に一回、調子の悪い時でも五回に一回は女が引っ掛かった。容姿はどちらかと言えば平凡な方だったが、髪を染めて筋肉を付け、滑稽でない程度に派手な格好をしていれば、女には困らない程度には恵まれていた。卓也の方も贅沢は言わず、衣食住を提供してくれて、たまに小遣いでもくれればそれで良かった。ペットを欲しがる女の元へ転がり込んでは世話になり、飽きられるとまた別の飼い主を探した。

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楽器には何年も触っていない。所詮、自分の情熱なんてその程度だったのだ。あのまま続けていたらどうなっただろう、と考えることも無いわけではないが、一度楽な方を選んでしまうと、叶うかどうかもわからない夢を追うこと自体が馬鹿らしくなってしまった。

 自分はこのまま、大した苦労も無く他人に縋って生きて行くのだろう。そういう星の下に生まれているのだと思っていた。

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しかし今回は、少しばかり調子に乗り過ぎたらしい。

今の飼い主の怒った顔を思い出すと、途端に憂鬱な気分になった。飼い猫が悪さをしたからと言って、本気で目くじらを立てる飼い主はほぼ居ない。だが、飼い主以外の女を妊娠させたのは流石にまずかった。更に言うと、妊娠した女はなかなか面倒臭い境遇で、卓也が責任を取らずに逃げればおそらくただでは済まされない。

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今の飼い主と連絡を取りたかったが、周りに店も無ければ公衆電話も無かった。罅の入ったスマホの画面は真っ暗で、幾ら触っても何の反応も無い。雨を避けようと慌てて走って、盛大に落としてしまったのが悪かったのか。幾ら丈夫に作ろうとしても、精密機械という奴は壊れる時は簡単に壊れる。

「あー……」

 溜息が漏れた。苛立ちながらポケットを探り、潰れた煙草の箱を取り出す。未開封なのがひとつだけ残っていて良かった。

「なあ」

 突然声を掛けられ、咥えた煙草を落としそうになる。

「一本、貰えるか?」

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ベンチの端に座る男が、長い前髪の間からじっと卓也のことを見つめていた。肩まで長い黒髪はじっとりと湿ってよれよれのトレンチコートに張り付き、長い睫毛からも涙のように雫が滴っていた。

 全く、何だってこいつが此処に居るんだ。

 卓也はぷいと顔を背けると、ポケットにあるはずのライターを探った。ライブハウスにも出入りしなくなった卓也の行くところと言えば、パチンコか競馬場、或いは安居酒屋くらいのものだ。出かけると、大抵この男に出くわす。瀬川正一。年齢は、卓也より三つか四つは上らしい。同性の容姿にあまり興味の無い卓也でも、背中に付く程の長髪に一年中コートを着込んだ男を見間違えるはずが無い。

「煙草を切らしてしまってな。貸し借りは苦手なんだが、こう寒くちゃ我慢できそうにない」

 正一は低い掠れた声でそう言うと、濡れて重くなったコートの前を掻き合わせた。最後に服を洗ったのは、いつなのだろう。いや、風呂にさえ入っているかどうか。

 横顔を盗み見る。涼し気な切れ長の瞳に青白い肌、高い鼻筋。黒髪は烏の濡れ羽色でありながら、近寄ると酷く煙草臭くて、単に床屋代が勿体なくて伸ばしているのだということがすぐにわかる。

 こいつに腹が立つのは、と卓也は執拗にポケットを探りながら考えた。正一が、卓也よりもずっと綺麗な顔をしているからだ。正一を見る度、卓也は勿体ないと思う。卓也が正一の立場だったら、今以上に飼い主を増やして倍の小遣いを貰って暮らす。ホストクラブに務めるのも悪くない。口下手でホストには向いていないと言われた卓也だが、正一くらい美形であれば喋らなくたって良いだろう。卓也が七五三のようだと女に笑われたブランドもののスーツだって、正一なら着こなせる。バンドだって、才能が無くてもうまく行ったかもしれない。いくら綺麗ごとを並べても、結局世の中は外見でしか人を判断しない。

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可能性は色々ある。それなのに、わざわざ汚い恰好をして外れ馬券を握りしめて生きるのは何故なのか。大体、あんな荒れた生活を続けていれば、あの美貌が陰るのも時間の問題だ。

 卓也には、瀬川正一という男が理解できない。

 ライターがどうしても見つからなかった。唾液で湿って来たフィルターを口から離して顔を上げると、正一がにやりと笑って右手を上げた。油の半分残った、百円ライター。正一はそれを、まるで人質か何かのように楽しそうに弄んでいた。

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瀬川正一、二十八歳。

 世間で言うところの、重篤なギャンブル中毒者である。短期間のアルバイトをして小金を貯め、それが無くなるまで延々と賭け事を続ける……という、誰からも褒められることの無い生活を送っている。競馬、競艇、麻雀、パチンコ、何でもござれ。定職には就いていないし、就く予定も無い。服も食べ物も趣味も女も、他には何一つ興味が無い。

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思い返せば、初めて賭けの魅力に取りつかれたのは小学生の頃だった。校長がカツラかどうかとか、教師が授業中に何度咳ばらいをするかとか、内容は他愛ない。しかし小遣いを賭けていたのだから、子供同士とは言え立派なギャンブルだ。当然大人が良い顔をするわけも無く、父親にはいつも殴られた。碌な大人にならないぞ、と言われ続け、実際碌な大人にならなかったわけだが、これは正一の勝ちなのか。それとも、見事に予言を的中させた父親の勝ちなのか。

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勝つこともあるし、負けることもある。勝ち負けは問題じゃない。正一にとって大切なのは、賭けをしている時の高揚感と、予想や作戦を立てている時の胸の高鳴りなのである。

 人生を後悔したことは一度も無い。寧ろ、好きに生きている自分は幸福だと思っている。両親からは勘当を言い渡され、昨年の父の葬式にさえ出席できなかったが、それもまた致し方なしだ。香典を包む余裕があったら、日曜の競馬の三連単に突っ込みたい。

 まあ、それは良いとして。

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正一はベンチの反対側の端で震えている男を横目に見た。佐々木卓也。正一が出入りする賭博場で、毎回のように顔を合わせる男だ。ぎらぎら光るピアスの輪を耳に何本も光らせ、髪は茶色く染めている。雨で台無しになった革のジャケットの袖からは、幾何学模様の刺青が覗いている。バンドをやっていたらしい、と、競馬場でビールを売っている女が教えてくれた。過去形なのは、今はやっていないからだ。会う度、違う女を連れている。複数の香水が混じり合った匂いをさせていることもある。ギャンブルは好きなようだが、賭ける金は全て女に出させているらしい。

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ヒモ、というやつか。

正一は微かな軽蔑を込めて眉をひそめた。女にぶら下がって生きて、何が楽しいのだろう。恥ずかしいとは思わないのか。正一は、他人に借りを作るのが嫌いだ。どんなに負けが混んでも、他人から金は借りない。そもそも借りられるような友人も女も居ないのだが、『いない』と言うよりは『いらない』と言う方が正しい。賭けを辞めろとか真面目に働けとか、世間で言うところの常識を押し付けられるのは御免だ。金が無ければ食べなければ良いのだし、風呂に入らなくても死にはしない。見返りを求められる鬱陶しさに比べれば、勝ち負けだけが全てのギャンブルは単純明快で健全ですらある。

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そのような理由で、正一は卓也に対しあまり良い感情を持っていなかった。彼がどのような見返りを払っているかは知らないが、他人の顔色を伺う方が楽だなんて、正一には理解できない。どんなに苦しくても、自分の責任だけで自由を謳歌したいと思っている。

とは言え、現在はそんな強がりを言っていられる立場でも無くなっているのだが。

背中の痛みと共に今後のことを思うと、途端に憂鬱な気分になった。まさか、月二万の家賃さえ支払えなくなるとは。それなりに計算はしていたつもりだが、何処で何が狂ったのだろう。二か月、三か月と支払いが滞れば、いくらボロアパートの寛容な管理人でも額に青筋を浮かべるようになる。決して高い金額では無く、現に一週間前までは三万程度の現金が手元に残っていた。一万だけなら使っても良いだろうと、競艇に出掛けたのがまずかった。

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気が付けば一文無し、ついでに住所も無しである。このご時世、住所が無いというのは非常に厳しい。当然だが、ホームレスはなかなか雇って貰えない。凍える身体を両手で抱き、湿ったコートの前を掻き合わせる。

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溜息の音が聞こえた。顔を上げると、卓也が煙草のセロファンを破いて、取り出した一本を口に咥えるところだった。

「一本、貰えるか?」

 軽蔑する相手に施しを求めたことに、誰よりも正一自身が驚いていた。ニコチンを摂取すれば、背中のしつこい痛みが軽減するとでも思ったのか。いずれにしろ、自分はもう一本も持っていないのに、隣で美味そうに吸われるのには我慢ならない。空腹ならいくらでも耐えられるが、染み付いた中毒はどうにもならないのである。

「煙草を切らしてしまってな。貸し借りは苦手なんだが、こう寒くちゃ我慢できそうにない」

 卓也がぷいと顔を背けたので、正一は少し鼻白んだ。

予想はしていたが、露骨すぎる。

だが、そう来るならこっちにだって考えはある。

 正一はコートの内ポケットに右手を入れた。目当てのものは、すぐに見つかった。先日買った百円ショップのライターだ。卓也がライターを持っていないらしいことは、先ほどからの仕草を見ればすぐにわかる。こんなものでも、今の卓也は喉から手が出る程欲しいに違いない。

 卓也の喉がごくりと鳴った。

 俺の勝ちだな、と正一は思った。

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瀬川正一。やっぱり、こいつは嫌味な奴だ。

 卓也は聞こえよがしに舌打ちすると、煙草の箱を正一に放った。正一はにやりと笑って律儀に一本だけ取ると、代わりにライターを投げてよこした。

「一本だけだからな」

 釘を刺すように言ってみる。正一の安っぽいライターで火を点けると、いつも吸っている銘柄なのに、やけに薄い味がした。

「礼くらい、言えば?」

 無言で煙を吸い込む正一は、うっとりと目を細めている。その横顔は卓也が今までに付き合ったどの女よりも色っぽくて、一瞬でもどきりとしてしまった自分が嫌になった。

「いや、有難う。大分楽になった」

 正一が薄い唇で微笑んだ。濡れた髪を伝う雨の滴までが、正一の妖艶な顔立ちを一層引き立てる。

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「大袈裟だな」

「大袈裟じゃないさ。さっきから背中が痛んで困ってたんだ」

 正一の言葉に、卓也が眉をひそめる。

「どっか悪いのか?」

 変な奴だ、とは思っていたが、考えてみれば正一のことをそれほど良く知っているわけではない。正一は肩越しに背中をさすりながら、うんざりしたように息を吐いた。

「三年前にトラックに撥ねられた。背骨に罅が入ったとかで、治った後も寒いと痛みやがる」

 正一にそんな弱点があったとは知らなかった。卓也も子供の頃に喘息を経験していながら煙草を吸っているが、正一に比べれば抱えている爆弾の威力は小さい、と思う。

「ご愁傷様だな。背骨やっちまうと、爺になってから急に悪くなるって言うぜ」

「本当か? 医者は何も言わなかったぞ」

 正一が顔を曇らせる。卓也はにやりと笑って煙を吐き出すと、得意げに茶色い髪を掻き上げた。

「治っても三十年後に悪化します、なんて言われたら、患者が真面目にリハビリしなくなるだろ。ナースの元カノが言ってたから、間違い無い」

「そうか。知らなきゃ良かった」

 正一が長い睫毛を伏せる。

「歩けなくなったら、競馬場には行けないな。いや、車椅子があるか」

「そんなに悪いのか?」

 普段競馬場をうろついている正一は、そこまでの重病人には見えないのだが。それにしても、身体を壊してもギャンブルを続けようとする姿には呆れを通り越して感心してしまう。

「三年前は本当にやばかったらしい。俺は親に勘当されてて一人だったから、誰も見舞いに来なかったけどな。ベッドで目が覚めたら、手も足も全く動かねえ。その上変なおっさんが、俺の顔見て良かった、良かったって呟いてるんだ」

 ここまで言えば誰にでもわかりそうなものだが、その中年男が正一を撥ねた当人だった。

「ぼーっと突っ立ってた俺も悪かったけどな。歩道だぞ? 居眠りして突っ込んで来やがって」

 被害が正一独りで済んだのが、幸運と言えば幸運だった。何度か警察や保険会社の人間が来たらしいが、重傷で寝込んでいたため、その辺のことは良く覚えていない。

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当然、入院費は支払わずに済んだ。自分の懐が痛まないのならば、病院生活も悪くない。一日の大半を眠って過ごし、食事が摂れるようになってからは上げ膳据え膳、医者が吸うからなのか、喫煙所もある。その上慰謝料がどうとかで、正一にも幾ばくかのまとまった金が渡された。

「俺が職無しだと思って安く誤魔化された気はしたけど、別にそれは良い。それより、おっさんが見舞いに来る方が嫌だった」

「そりゃそうだろ。殺されかけたんだから」

 卓也が賛同すると、正一は首を振った。

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「違う。おっさんは反省してたし、俺も死にかけてた時の事は覚えてない。ただ、おっさんのお節介がうざかった」

 正一を撥ねた男は、毎日のように見舞いに来た。声すら出せずに横たわる正一に、男は何度も謝罪の言葉を述べた。聞かれもしない身の上を語った。最初のうちは、正一も素直に聞いていた。他にやりようが無かったのもあるが、男が余りにも憔悴しきっていたものだから、却って同情したせいもある。

「おっさんには娘が居るらしい。だけど知能に障害があって、普通の会社じゃなくて作業所ってところで働いてる。巾着とか積木とかを作って売るんだ。けど、そんなに稼げるもんでもないから、おっさんが長距離トラックで稼いでる、って話だった」

 男の鞄には、いつも薄汚れた小さな巾着袋がぶら下がっていた。縫い目ががたがたで、お世辞にも上手とは言えない。しかし、男が娘からの贈り物を何よりも大切にしていることは良くわかった。

「泣かせるじゃねえか。そんで?」

 卓也が言うと、正一は首を振った。同情、などという感情は。結局のところ、相手が上になると長続きしないものだ。

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「俺は無職で、その上ギャンブル狂いだ。それがわかると、おっさんの態度が変わった。おっさんの娘は働きたくても働けないのに、俺がこんなだから腹も立ったんだろ。うだうだ説教始めて、看護師に追い払われるまで帰らない日もあった」

 真面目に働けと言われて勤労意欲が湧くのなら、最初からギャンブラーなどやっていない。それなのに、正一に大怪我を負わせた犯人は、気持ちよさそうに滾々と説教を垂れては帰って行く。

 賭けなんて碌なものじゃ無い。金は働いて稼ぐものだ。将来のことは考えてるのか。もう二十五だろう、結婚はどうする。

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「今思えば、俺を心配してくれてたんだろう。でもな、俺の人生は俺のもんだ。おっさんの価値観で決めつけられても、迷惑なんだよ」

 そのうちに、男は正一の就職先を世話するとまで言い出した。後遺症の残るような怪我をさせてしまった負い目もあったのかもしれない。

知り合いが工場を持っている。そこで頑張ってみたらどうだ。

 冗談じゃない。正一は何度も断ったが、相手はそれを遠慮と受け取り、決して諦めてはくれなかった。

「それだけじゃねえ。いつの間にか、俺をおっさんの娘の結婚相手に、とか、そんなところまで話が進んじまった」

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「……」

 流石に卓也も何も言えなかった。自分がもし正一の立場だったら……と考えると、ぞっとする。誓って言うが、障害のある無しは関係ない。それを言ったら、正一や卓也の性格上の欠陥だって、人によっては立派な病気である。

 そうではなくて、結婚という結びつきが嫌なのだ。一人の人間に永遠に自由を奪われ、監視され続ける。その女が物凄い美女の上とんでもない資産家であったとしても、嫌なものは嫌だ。

「俺は娘に会ったことも無い。来るのはおっさんだけで、娘は一度も見舞いに来なかったからな。看護師も言葉を濁していたが、何ていうか、まあ……年は俺に近かったけど、中身は小学生くらいで止まっちまってるらしかった」

 父親としては、将来自分が死んだ後に娘の世話を任せられる相手が欲しかったのかもしれない。しかし、あまりにも身勝手ではある。第一、当事者である娘の気持ちを無視している。

働くのが人生だ、と言われても、正一にはぴんと来ない。結婚して子供を持って、というのが、どう考えても幸せだとは思えない。自由と引き換えにするほどのことかと思ってしまうのだ。

「傷は痛いし全身だるいし、こっちは少しでも寝ていたいんだ。いい加減、我慢の限界だった」

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「それで?」

卓也は、思わず膝を乗り出した。いつの間にか、正一の話に引き込まれていた。

「お前は、結局どうしたんだ? 女の子には会ったのか?」

 一旦そんな流れになってしまうと、本人にもなかなか止められない。看護師に相談したところで、無職ギャンブラーと娘想いの父親ならば、どちらの味方をするかは言わずもがなだ。

 しかし正一は、どうってことじゃ無い、とでも言うように肩をすくめて、すっかり短くなった煙草の煙を吐き出した。

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「おっさんが大事にしてる巾着を、鋏で切ってやった。おっさんがトイレに行った隙にな」

「おい。お前……」

 そこまで、するか。

やっぱり、正一は普通じゃ無い。卓也の顔から色が消えたのを見て、正一は言い訳のように眉をひそめた。

「勘違いするな、切ったのは紐だけだ。結び目のところを、薄く。どこかに引っかけたら、紐が切れて落ちるようにな」

 鞄に結び付けている紐に切れ目が入ったせいで、巾着袋は床に落ちる寸前だった。やり過ぎたかと思ったが、男は何も気付かず、巾着の落ちかけた鞄を背負って病室を出て行った。

 うまく行った。その時、正一はそれしか考えなかった。

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「俺は賭けをしたんだ。次におっさんが来た時、巾着が鞄にぶら下がってたら、おっさんの勝ち。就職でも結婚でもしてやる。巾着が無かったら、俺の勝ちだ。今まで通りの生活を続ける」

 結果を聞く前から、卓也にはわかっていた。正一は相変わらずのギャンブラーで、薄汚れたコートを着ている。

「賭けは、引き分けだった」

 正一が吸い尽くした煙草をベンチの下に捨てた。

「その日の晩に、病院がやけに騒がしくなってな。次の日になって、おっさんが二度目の事故を起こしたって聞かされた」

 今度は居眠り運転ではなかった。対向車線で追い越しをかけて来た乗用車と正面衝突したのだ。

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「おっさんが病院に運ばれた時、もう息が無かったらしい」

 巾着が残っていたかどうかは、わからない。ギャンブルというものは、時にこんなあっけない終わりを迎えることがある。

「娘には結局会わなかったな。俺は一人で退院して、今に至るってわけさ」

 卓也が、まじまじと正一の顔を見つめた。

「おっさん、化けて出たりしなかったか?」

「冗談だろ。幽霊なんて居るわけが無い」

 正一が鼻で笑う。卓也も笑ったが、その後で落ち着かなそうに辺りを見回した。バス停は明かりが灯っていて、ぼんやりと明るい。が、その周辺は一メートル先も碌に見えないくらいに真っ暗だ。

 バス停の近くには、競馬場がある。卓也も正一も、そこで雨に降られてここまで来た。街から離れているので、周囲にはコンビニも飲食店も無い。しかし、それにしても今日はやけに暗い。

「お前、怖いもんねえのかよ」

「ギャンブルが全部違法になったら、それが一番怖い」

 ギャンブルにしろアルコールにしろ、中毒者全員が中毒の原因を憎んでいるわけではない、とは良く言うが。卓也も、女遊びが法律で禁止されたら、犯罪者になるしか無いとは思っている。

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「そうかい。けど、やばい話なら俺も知ってるぜ」

卓也は新しい煙草を口に咥えると、箱を正一の方へ放った。正一は頷くと、入れ替わりにライターを投げてよこした。

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佐々木卓也は、案外負けず嫌いな性格らしい。まともに会話すること自体が初めてだったが、正一は何となくそんな印象を受けた。

生活の全てを女に依存して来た男である。正一より年下であるという点を差し引いても、どこか子供っぽさが抜けていない。

「俺、看護師と付き合ってた、って言ったろ。彼女が夜勤の時、やっぱり交通事故で運ばれて来た奴が居たらしい」

 自分の煙草に火を点け、卓也は遠くを見るように目を細めた。やけに芝居がかった動作だと思ったが、こういうところが女を惹きつけるのだろう。

「もうぐっちゃぐちゃで、どうにもなんなかったんだってよ。そいつもやっぱり、対向車とまともにぶつかっちまったとかでさ」

 横目で正一の顔色を伺う。正一が特に反応も示さず頷くと、卓也は面白く無さそうに口を尖らせて、まるで見て来たかのように先を語った。

「手も足も変な方向曲がってて、内臓もでろーんって感じでさ。まあ彼女もプロだし、それは驚かなかったんだけど。何か変だ、ってことには気付いたんだ」

 いつも見慣れているものが見当たらなかった。

「事故にあった患者は、毎日別の奴の見舞いに来てたんだ。だから、看護師連中にも顔は覚えられてたはずなんだけど」

救急で運ばれた患者の着ていたものや荷物は、纏めて置いて後で家族に引き渡す。しかし、その中をいくら探しても、あるはずのものが無かった。

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「お守りだよ、お守り。その患者が、いつも大事に鞄に付けてた、交通安全のお守りが消えてたんだ」

「なるほど」

 卓也が真面目な顔で言ったので、正一も真面目な顔で頷いた。

「お守りを失くしたせいで、そいつは事故に合った。お前はそう思ってるんだな」

「信じるのか?」

 卓也が目を見開く。正一はにべも無く首を振った。

「いや、全然。でも、お前が信じてるなら否定するつもりも無い」

神頼みで運命が変わるなら、ギャンブルで大損する奴なんかいないと思う。

「案外、信心深いことだな」

 正一が笑うと、卓也は流石にむっとした顔になった。

「うるせえよ」

 卓也も、別にオカルトにかぶれているわけでは無いのだろう。ただ、そういう女と付き合ったことはあるのではないか。

「俺はそう思ったさ。信じてるわけじゃねえけど、お守りを踏んづけろとか、捨てろとか言われたら、やっぱ嫌な感じはするし。そういうもん、粗末にしちゃいけねえって死んだ婆ちゃんが言ってたけど、本当だったんだなって思ったよ」

 その時付き合っていたのがオカルト女だったならば、卓也の話はここで終わっていたはずだ。だが卓也は勿体を付けるように首を振ると、正一を横目で見てにやっと笑った。

「けどな。彼女の意見は違ってた」

 卓也の目に緑色のコンタクトレンズがはまっていることに、正一は初めて気付いた。顔立ちが紛れも無く日本人なので、不自然というか、こんな真夜中に見ると不気味ですらある。

「そいつはさ。運転中、お守りが消えてることに、気が付いたんじゃないかって」

「どういうことだ?」

 正一が尋ねると、卓也はふうっと煙を吐いた。

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「大事なお守りなんだぜ。失くした、って思ったら、すげえ気になるだろ。そいつ、助手席に鞄置いてたんだよ。お守り付けた鞄をさ」

 運転中、ふと助手席に目をやる。見慣れた鞄から、大切なものが消えている。何処にやったのだろう。一度気が付くと、気になって仕方が無い。車を停めれば良いのだろうが、そんな場所も近くには無い。ハンドルを握りながら、つい、隣に視線が行ってしまう。そうだ、どこかその辺に落ちていないだろうか。案外、すぐに見つかるかもしれない……。

「座席の下にあるんじゃないかと思って、こう、覗き込んだ隙に……」

「正面衝突か」

 正一が僅かに眉を動かす。

「俺を轢いたおっさんの死因とそっくりだな」

 きちんと前を見ていたなら、咄嗟にハンドルを切ったかもしれない。ブレーキが間に合ったかもしれない。勿論、だからと言って完全に事故を防げた保証は無い。けれど、注意力が散漫になっていなければ、助かる道が残されていたことも否定できない。

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「お守りは、後で彼女が見つけた。病院の廊下に落ちてたんだ」

 卓也が言った。

「彼女はそれを看護師長に渡して、後はどうなったかわからん。お守りを失くしたから事故った、ってより、お守りがあったから事故った、って話さ」

「さぞかし、名のある神社のお守りだったんだろうな」

 正一が喉の奥でくくっと笑い声を立てた。皮肉にも程がある。

「持ち主を殺しちまうなんて」

 少し、悪趣味が過ぎただろうか。卓也は短くなった煙草をぴんと指で弾き飛ばすと、緑の目で正一を睨んだ。

「神社のお守りなんかじゃねえよ。何か、子どもの手作りなんだってさ。小学生が作ったみたいなピンク色のやつでさ、よれよれの刺繍で、『こうつうあんぜん』って書いてあったんだってよ」

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ほんの一瞬、正一は卓也の言ったことが理解できなかった。気温が、更に下がった気がする。卓也の緑の目が、暗闇で鈍く光っている。ずきずきとした背中の痛みは、続いている。

「なあ、卓也」

 正一から表情が消えたことに、卓也は気付いただろうか。骨ばった指の間から、滑るように煙草が落ちる。

「それ、何年前の話だ?」

 ライターを放り投げた。卓也は闇の中でそれを受け取ると、当たり前のような顔で二本の煙草に火を点け、一本を押し付けるようにして正一の手に握らせた。

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「それ、何年前の話だ?」

 寒さのせいか、ただでさえ白い正一の肌が一層青白く見える。卓也は素知らぬ顔で自分の煙草を咥えると、正一から目を逸らして脱色した髪を掻き上げた。

「結構前の女だからなあ」

 正一の声の調子が変わったことに、卓也は少なからず驚いていた。

死体の有様を聞いても眉一つ動かさなかったくせに、今更一体何に取り乱すというのだろう。

「三年くらい前かな。お前が入院してた頃に近いかもしれねえ」

「その、死んだ患者の子どもってのは、小学生なんだな?」

「いや、二十歳過ぎだってよ。ちょっと問題があるとかで、学校も仕事も無理だとか……」

 ふと、言葉が途切れた。

緑色の目で、卓也は正一の顔を見上げた。

まさか。

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手にした煙草から灰が落ち、正一の古いコートを掠るようにして地面に落ちたが、正一は呆けたように卓也を見つめ返すだけだった。

「……正一。お前が入院してたの、何て言う病院だ?」

 卓也の顔が、正一と同じくらい蒼白になる。濡れたコートを身体に巻き付けて、正一は首を振った。

「覚えてるわけ……」

「おっさんが持ってた巾着袋ってのは、何色だっけ?」

 点と線を結びつけるのは、それほど難しい作業ではない。

「何色だったんだよ……」

 青でも、緑でも、黄色でも、赤でも良い。

 あの色でないならば、それで……。

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「ピンク色だ」

 掠れた低い声で、正一は言った。

「おっさんは、ピンク色の巾着を鞄に付けてたんだ。そうか、あれはお守りだったんだな。知らなかったよ」

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笑い声が引きつっていたのは、気のせいではあるまい。

「俺が紐を切ったせいで、巾着は病院の廊下に落ちた」

肌は寒さで白くなっているのに、正一の唇は赤い。

「そんな事は知らないおっさんは、運転中に娘お手製の巾着が……お守りが、消えていることに気付いて……」

 想像したくなくて、卓也は唇を噛み締める。

 ふと横を見ると宝物が消えている、その心情はいかばかりか。日常生活もままならない娘が、一生懸命作ってくれたお守りだ。車内に落ちていれば良い。半ば祈るような形で、助手席とその周辺を見回す。座席の下に落ちたのではないか。そうであってくれ。ハンドルを握っていることさえ忘れ、狭い座席下に手を伸ばした、その瞬間。

「俺が、殺した」

にい、と笑った正一の顔は相変わらず奇麗で、卓也は何と言って良いかわからなくなる。

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「違うだろ」

 卓也は煙草の箱を開けると、残りの本数を確かめた。

「偶然だ。っていうか、お前を轢いたおっさんと同じ人間だったって証拠も無いだろうが」

 煙の白。微かに灯る炎の赤に、正一の顔が浮かび上がる。辺りは暗い。他には何も、見えない。

「あのさ」

 多分今、自分は酷く間抜けな顔をしているはずだ。知っていながら、卓也は明るい声を出すしかなかった。

「ナースの彼女なんだけどさ、結構思い込みが激しくって、面倒くさい女だったんだよ。だから別れたんだけどさ。ほら、お守りがどうこうってのも彼女の想像なんだし……」

 しんとしている。聞こえるのは自分の声だけだ。今日は日曜で、競馬場にはあれだけ大勢の客が居たはずなのに。何故、誰もバス停に来ないのだろう。彼らは、どうやって帰ったのだろう。

「……無理な女、って居るもんでさ。ナースの前に付き合ってたのも、結構凄かったんだぜ」

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笑って話すような内容ではないかもしれない。でも、話さずにはいられなかった。正一が聞いているのかどうかも確かめず、卓也は一方的に喋り始めた。

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正一は誰の施しも受けない。金を借りるどころか、食事を奢ってもらうことさえ嫌がる。今まで散々褒められないことをして来たが、他人に迷惑だけは掛けないようにして来たつもりだ。

だが。

正一は煙草の煙を深く吸い込んだ。一時的にだが、背中の痛みが消えて行く。

「ナースの彼女と会う前なんだけど、俺のバンド時代のファンだって子に会って。二十歳って言ってたけど、多分未成年でさ。まあ、知ってて手ぇ出した俺も俺なんだけど」

 誰が聞いても軽蔑しそうな話を、卓也は実にあっけらかんと話す。

「ロリータ、っていうの? バンドのファンには珍しくないんだけど、真っ白いフリフリのドレスみたいな恰好が好きでさ。髪は金髪。睫毛なんかマスカラで人形みたいに長くなってて、付き合ってる間に一回もスッピン見なかったな」

「未成年じゃ、ヒモはできないだろう」

 正一が素直に疑問を口にする。卓也は、何でもないことのように笑って首を振った。

「できるよ。彼女、大学生だったもん。一人暮らしで、親は新幹線の距離で。良いとこのお嬢さんだったから、仕送りもたっぷり貰ってたし」

 親に金を出して貰ったマンションで、男を飼い始めたわけだ。正一は自分こそ親不孝の代表だと思っていたが、上には上が居るらしい。

「俺もな、最初はラッキーって思ったんだよ。厚化粧だったけどまあまあ可愛かったし、スタイルも悪くないし。料理も上手だったから、良い奥さんになれそうだっておだてて、家事も全部やってもらってさ」

「良い御身分だな」

 正一が眉をひそめると、卓也は大真面目な顔で頷いた。

「うん、でも気を付けろよ正一。ああいう、尽くす自分に酔っちゃう女、って、結構な確率でやばい女だぜ」

 むしろ、正気な女だったならば、卓也など相手にしないと思うが。

「元々ちょっと夢見がちだったけど、付き合ってしばらくしたらどんどん酷くなって。俺が朝帰りしたら手首切って泣き叫ぶし、ずっと傍に居て、とか言いながら縋りついて来て、授業にも出なくなったりしてさ」

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女がおかしくなった原因は、大半が卓也の浮気癖と浪費癖によるものだろう。他人に縋りながら他人の気持ちなどわからない卓也に、それが理解できたとも思えないが。

「そのうち、俺に女の生霊が憑いてるって言い始めた。俺が彼女以外の女と会うのを辞めないと、生霊に殺されるんだってよ」

 卓也を逃したくないがための、苦し紛れの言い訳。そう取ることもできただろう。

「正一。お前は信じられねえかもしれねえけどよ。マジなんだって」

しかし彼女にとって幸運だったのは、卓也が普通以上に頭の弱い男だったことだ。

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「俺が競馬かパチンコに行って、夕方帰って来ると、彼女がリビングに座り込んでブツブツ言ってるんだよ。そんで、妙に空気が湿っぽくてさ。枕には長い髪の毛がくっ付いてるし……」

 正一の目つきに気付いたのだろう。卓也ははっとして言葉を切ると、言い訳のように右手を顔の前で振った。

「違うぞ。信じたわけじゃねえって」 

 卓也がオカルト女と付き合ったことがある、という正一の予想は、どうやら当たっていたらしい。

「だけどさ。彼女は金髪だったのに、枕に付いてたのは黒い髪なんだよ。部屋は気のせいじゃなくて、本当に湿っぽかった。壁に黴が生えてきたし、炊飯器も掃除機も急に動かなくなるし……」

 一生懸命に語る卓也を見て、正一は何故か気の毒な気持ちになってきた。女を手のひらで転がしているつもりだろうが、実は転がされているのは卓也の方だ。

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「お前が家に帰って来る時間ってのは、決まってたのか?」

「大体は。小遣いなくなるのが午後の二時か、三時頃だったし」

 相手にヒントを与えておきながら、卓也自身はそれに気付くことが無い。正一は脂ぎった長髪を掻き上げた。

「じゃあ、簡単だ。ロリータ少女は大学生だったんだろう? 教室や更衣室を探せば、同じ年頃の女の抜け毛くらい、簡単に手に入る」

 卓也の目が見開かれた。自分が女に騙されているのかもしれない、という考えには、今の今まで至らなかったようだ。

「黒髪の友達に相談して、髪を分けて貰うって手もあるな。同じくらい夢見がちな女だったら、きっと協力してくれる」

「でも。部屋が湿っぽかったのは気の所為じゃねえぞ。黴だって……花だって枯れちまうし、飼ってた熱帯魚も皆死んで……」

「それも簡単な細工だ。風呂の換気扇を回さずに、ドアを開け放してお湯を出しっぱなしにするだけで良い。熱い蒸気が溢れ出して、湿気が籠る。火災報知器が鳴るはずだが、それはあらかじめ壊してあったんだろうな」

 卓也が帰って来る頃を見計らってお湯を止め、浴室のドアを元通り閉めてしまえば良い。窓を締め切っておけば、廊下やリビングに湿気は籠りきりになるはずだ。

「そんなことを繰り返してりゃ、壁も黴だらけになるだろうよ。電化製品だって湿気でイカれちまう。そんな環境じゃ花は枯れるし、水槽の電源を抜けば熱帯魚なんてもんは簡単に死ぬんだ」

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「マジかよ」

 卓也がごくりと唾を飲み込んだ。

「じゃあ……あのロリータ女が言ったことも、全部嘘だったのか」

 素直、と言うよりも、単に間抜けだ。正一は、さして興味も無さそうな目つきで卓也を見た。

「お前、今度は何を信じたんだ?」

この男と比べれば、やはり自分の方が数段マシなのではないかという気さえする。

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「いや、その。あの女、俺に憑いた生霊を追い払ってやるとか、そんなこと言い出して」

 すっかり怯えた卓也に向かって、金髪のロリータ女は妙な目つきで語った。卓也を呪っているのは、黒髪の女だ。卓也はとっくに別れたつもりかもしれないし、ただの遊び相手のつもりかもしれない。しかし、当の女は諦めていない。このままでは卓也が殺されてしまう。救えるのは、自分だけだ……。

「上手いな、その女」

 正一がぽつりと言った。

卓也のような男は、自分で責任を取るということをまるでしない。何でもかんでも他人のせいにする癖が付いてしまっている。

「確かに、黒髪の女を手酷く振ったことがあったかもしれない。お前はそう思い込んだ。ギャンブルの負けも、ナンパの失敗も、全部生霊のせいにしたんじゃないか?」

 典型的な霊感商法だ。曖昧な言葉でやんわりと脅し、悪いことは全て霊のせい、呪いのせいと思い込ませる。

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「生霊を追い払うには、別の誰かを犠牲にするしか無い。あの女は、そう言ったんだ」

 今度は、卓也の顔の方が青かった。煙草を持つ手が震えている。半分近くが灰になっていたが、碌に口を付けてもいない。

「厄を落とすには、何かを捨てて別の誰かに拾わせれば良いんだってよ。正一、聞いたことあるか?」

 あるような、無いような。正一が曖昧に首を傾げると、卓也は頷いて先を続けた。

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「大したことじゃ無いんだ。駅前でさ、スクラッチってあるだろ? 銀色のとこ擦って、縦横で揃ったら金が貰えるやつ。彼女はそれを一枚、買って来た。そんで、普通は銀色のとこを擦るんだけどさ」

 金髪ロリータはそれを卓也に渡すと、そのまま捨てるように指示した。銀を剥がさず、本当にそのまま、だ。

「女が言うには、霊感でこれが大当たりだってのはわかってるんだってよ。中身を見なくてもわかるって。そんで、それを拾った奴に生霊が移るから、後は何も心配しなくて良いって」

 高額な品物や現金だったならば、こうはいかない。しかし、捨てるのは本当に当たりかどうかもわからない紙切れ一枚だ。拾った奴に対し嫉妬することも無ければ、過度に良心が咎めることもない。

「簡単だな。ただ、お前が女に従った、っていう実績は残る」

 正一が煙草の煙を吐き出す。背中の古傷は、落ち着いたかと思うとまたしつこく疼き始める。

「そして、事ある毎にその『おまじない』のことを持ち出すんだ。恋人に従ったからこそ、お前は助かった。そう思い込ませて、二度と裏切れないようにするためにな」

 リビングに湿気が籠ることも、家電が壊れることも無い。卓也が彼女に従って、『おまじない』をやったからだ。何か良いことがあれば、それも全て『おまじない』のお陰。何度も言い聞かせ、悪いことがあれば再び同じ『おまじない』をやらせる。ギャンブルの運、不運なんて、偶然にしか左右されない。それでも、人間というものは単純だ。段々と、『おまじない』をせずに負けた記憶と、『おまじない』をやって勝った記憶しか残らなくなっていく。

「壺を買わせるのと同じ手口だ、卓也。お前は段々、その女に依存するようになる。女の『霊感』が無ければ、生きて行けない……そうなる予定だったんだ、ロリータ少女のシナリオでは」

 今となっては、卓也も頷くしか無かった。卓也が当時何を考えていたのか、本当に女を信じていたのか。正一には、わからないが。

「でも、そうはならなかった」

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卓也が笑った。女を夢中にさせるのは無理そうな、下手くそに歪んだ笑い方だった。

「正一。お前にそんな風に言われて、俺は正直安心してるんだ」

 暗い。

 辺りはあまりにも暗い。

「俺はさ、怖くなっちまったんだよ。本当にさ……もしかしたら、本当に、生霊とか呪いとか、そんなのが……いや、馬鹿馬鹿しいんだけど、さ……」

車が一台も通らないのは、どうしてなのだろう。まだ、それほど遅い時間とも思えないのだが。

濡れた肘を抱いて、卓也は身震いした。寒い。そう寒い時期でも無いだろうに。

「全部ただの偶然か、俺が騙されただけなら、その方が良いんだ」

 卓也は、スクラッチくじを人通りの多い歩道の上に置いた。誰かが拾うだろう。それで終わりの、はずだった。

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「俺がくじを置いた辺りで、事故が起こった」

 本当に、あのくじは当たりなのか。どんな奴が拾うのか。卓也は、すぐにその場を去る気にはなれなかった。傍にあったコーヒーのチェーン店に入ると、窓際の席に陣取って、ぼんやりと歩道の方を眺めていた。

「暴走トラックが歩道に突っ込んだんだ。歩道に居た奴が轢かれた。タイヤが滑った後に血がべったり残って……」

 凄まじい激突音。空回りするタイヤ。削れた宴席に鮮血が滴る。コーヒーショップでくつろいでいた客たちが、がやがやと立ち上がる。店員が腰を抜かしている。道路に残る鮮血。

「すぐに救急車の音が聞こえた。俺も腰を抜かしそうだった」

 卓也の額に脂汗が滲んでいた。他人事なら、ここまで取り乱しはしなかっただろう。現に、看護師の元恋人から聞かされたという、酷い死体の有様を語る時は面白がっていたはずだ。

「笑えよ、正一。……生霊のせいだと思った。俺に憑いてた生霊が、くじを拾った奴に移った。そのせいで、そいつは轢かれたんだって……俺は、本気でそう思ったんだ」

 くじがまだ残っているかどうか、確かめに行く勇気は無かった。卓也はロリータ少女の連絡先をスマートフォンから削除すると、二度とマンションには帰らなかった。

「看護師の彼女とは、それからしばらく経ってから会った」

 卓也は俯いたまま、煙草の吸殻を投げ捨てた。闇に吸い込まれるように消えた吸殻は、どの辺に落ちたのか見当も付かなかった。

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「轢かれた奴がどうなったか、知ってるのか?」

 にこりともせずに、正一はそう言った。煙草で麻痺させているはずなのに、背中の痛みが酷くなっている。

 焦点の定まらない目で、卓也はのろのろと正一を見上げた。緑色の瞳は、暗闇の中でも奇妙に明るかった。

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 トラックの事故というのは、そう頻繁に起こるものなのだろうか。

卓也は正一の目を見返す。怒っているのかと、最初は思った。だが、どうやら違うらしい。驚いている、或いは、戸惑っている、と言った方が正しい。何故正一がそんな顔をするのか、卓也にはわかりそうでわからない。

「轢かれた奴が、どうなったか、だって?」

卓也は咳払いして、正一に煙草の箱を渡した。後何本残っているのか、数える気にはならなかった。

「小さくニュースにはなってたよ。重傷だってな」

それにしても、今夜は酷く冷える。正一は暫くの間、煙草を取ろうともせずに黙って俯いていた。薄いコートを着た身体が震えている。

「多分……いや、確実に、そいつは生きている」

 いつの間にか、正一と卓也の距離が縮まっていた。気に食わない相手でも、こんな暗闇の中ではいないよりマシだ。

「何でわかるんだ……」

 言いかけて、卓也は口を噤んだ。信じられない。おそらく、今は卓也も正一と同じ目つきをしているに違いない。

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「同じトラックか?」

 正一がゆっくりと頷いた。

 馬鹿な。卓也は正一から受け取ったライターを取り落としそうになった。あり得ない。そんな偶然、あるわけが無い。

「俺はあの後、怖くなってできるだけ遠くへ逃げたんだ。手持ちが無かったし、実際はそんな遠くでもなかったけど……」

 気を紛らわそうと、卓也はわざと明るい声を出す。上辺だけの明るさは闇の中を滑って、飲み込まれるように消えて行った。

 正一が何を考えているのか、卓也にはわからない。碌に食べない身体は、卓也よりもずっと細く見えた。顔色も良くない。怪我の後遺症だって辛いだろうに、本当にこのまま生きて行くつもりなのか。このまま、いつまで生きて行けると思っているのだろう。

「……俺がくじを置いたところは、繁華街だ。郊外の田舎町だけど、近くには大きい病院だってあったし……」

「たらい回しにされたんだ。俺も後から聞いたよ。受け入れ先がなかなか見つからなくて、手術が遅れたってな」

 卓也は、霊感商法のロリータ女から逃げ出した。その逃亡先の町に、正一も救急車に乗せられてやって来た。

まるで、卓也を追いかけるかのように。

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「そんな。そんな、馬鹿な」

 今度こそ、声に出して卓也は叫んだ。正一は無言のまま、静かに煙草をふかしている。濡れた長い黒髪。生まれてから一度も染めたことが無いみたいだ。正一は、卓也よりももっと良い家庭で育ったのかもしれない。ふと、そんなことを考える。そうでなければ、マンションの火災報知機の仕組みや、熱帯魚の飼い方がわかるはずも無い。

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「お前、拾ったのか」

 卓也が捨てたくじは、当たっていたのか、外れていたのか。正一は苦笑すると、骨ばった指で背中を擦った。

「本当に拾うつもりだったのかどうか、俺にも良くわからないんだ」

 ギャンブル好きの正一ならば、手を出さずにはいられなかったのではないか。正一が歩道に落ちたくじを見下ろしている様子が、卓也の目にはっきりと浮かんだ。

「俺は借りを作るのが嫌いでな。誰かの落とし物で、万が一当たっていた場合は面倒なことになりかねない。けど、拾って削ってみたいって気持ちも確かにあった」

 当たりか、外れか。当たっているなら、幾ら手に入るのか。もしも当たっていたら、その金は何に賭けるべきか。外れていたら、今日の大勝負を考え直そう。

そんな願掛けまで考えてしまうギャンブル中毒者は、居眠り運転のトラックが眼前に迫っていることに気付かなかった。

「気が付いたら病院だ。くじがどうなったか、医者に聞いてみたけど呆れられただけだったな」

 そんなことを聞かれて、医者もさぞ困ったことだろう。聞くべきことはもっと他にあるだろうに、正一という男はやはり何処かが根本的にずれている。

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「俺のせいかよ」

 卓也は笑おうとしたが、やはりうまく行かなかった。煙草の煙が喉に苦い。正一がどんな金持ちの家に生まれたか知らないが、ギャンブルにはまったのは彼自身の責任だ。怪我をしたのだって、ギャンブル狂いがきっかけには違いない。

 あの場で、くじには目もくれずに歩き去っていれば。

 いや、それでも。

卓也が女の言いなりになってくじを捨てなければ、正一は今も健康な身体だったかもしれない。

「あれは事故だ。あのくじが、本当にお前が捨てたものだという証拠も無い」

卓也の人工的な緑色とは異なる、深い夜のような、それでも酷く澄んだ黒い瞳。その目は、卓也を責めてもいなければ、恨んでもいないようだ。

「お前のはとっくに別の誰かに拾われて、俺が見つけたのは他の間抜けが落としたくじだったかもしれない。それに、悪いのは居眠りしていたトラックのおっさんだ」

 繋がっている。卓也は、煙草を投げ捨てて爪を噛んだ。全部、繋がっている。

卓也があんな『おまじない』をしなければ、正一は事故に合わなかった。入院先で、望まない就職や結婚を勧められることも無かった。正一は、お守りに鋏を入れるような『賭け』をしなかった。運転手はお守りを失くさず、二度目の事故を起こすことも無かった。

知的障碍者である娘が、天涯孤独になることも……。

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「因果応報、とか言うんじゃないぞ。馬鹿馬鹿しい」

正一がまだ長い吸殻を投げ捨てる。卓也は、何だって他人のせいにして生きて来た。バンドを辞めたのも、音楽を続けなかったのも、その時の運と女たちが悪い。今だって、そう考えれば良い。

「だから、なのかな」

 卓也は、縋るように正一を見た。自分の喉から、こんなに情けない声が出るなんて考えたことも無かった。

「俺が、あの子を妊娠させちまったのは」

正一の綺麗な目が見開かれた。長い睫毛が震える。

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「何だって?」

 ベンチに寄り掛かっていた身体を急に起こしたので、背中に響いたのだろう。正一は僅かに顔を歪めると、肩の辺りを押さえて苦しそうに背を丸めた。

「大丈夫かよ?」

 柄にも無く、卓也がそう口にする。正一は暫く蹲っていたが、やがて身体を起こすと、卓也のジャケットの襟に手を伸ばした。胸ぐらを掴んだつもりなのだろうが、力の入らない手は縋りつくような動きしかしていなかった。

「お前、今……何て言った?」

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繋がっている。皆、繋がっている。ただ、気付く奴と気付かない奴がいるだけなんだ。

運命のトリガー。最初に引き金を引いたのは、一体。

正一の少ない体重を胸に受けて、卓也の心臓は五月蠅いくらいに脈打っていた。

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正一は一瞬、卓也の言ったことが理解できなかった。

「誰を、お前は……」

「多分、お前を轢き殺しかけたおっさんの娘だ」

 卓也は泣きそうな顔で、自分よりもずっと力の弱い正一を見返した。どうすれば良いのか、卓也自身もわからないらしい。

「だけど。あんな話聞かされて……中身は子供のままなのに、一人ぼっちになったって聞いて……これからどうするんだろうって、そう思っちまって……」

 看護師である同居人に頼めば、事は簡単だとわかっていた。

 偽善ですらない。同情という言葉も違う。言うならば、ただの好奇心だ。唯一の拠り所である父親が死んで、障害を抱えた娘はどうなるのだろう。

「会ったのか?」

「会ったよ。別に美人じゃなかったぜ」

 正一は唖然として卓也を見た。

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「驚いたか? お前が結婚したかもしれない女と、俺はちょっと前まで付き合ってたんだ」

 お世辞にも美しいとは言えなかったが、子どもっぽい分、素直で可愛らしい。少なくとも、卓也の目にはそう映った。

「激しい女とばっかり付き合ってたから、たまにはこういうのも良いかなって……魔がさしたんだよ、本当に」

 まるで、自分が被害者であるかのように言い訳する。責任逃れの性格は、こんな時にまで健在だ。

「子供ができるなんて思わなかった。本当に、自分が子供みたいなくせによ。施設の人間に気付かれるまで、妊娠って言葉も知らないくらいだったんだ」

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卓也の吐く息が白かった。今は何時なのか、気温はどのくらいなのか。いつになったら暖かい太陽が出て、道を照らしてくれるのか。

 緑の目は、怯えたようにぐらぐらと揺れている。普通に考えれば、こんな男に入れあげる女の方が悪い。しかし、相手があのような女、ともなると。

「畜生」

 正一は口の中で呟いて、卓也の胸ぐらから手を離した。

事故に合ったのは偶然だとしても、あの巾着の紐を切ったのは紛れも無く正一の意志だ。

「畜生……」

寒さのせいか痛みのせいか、指先が痺れてうまく動かなかった。

正一は借りを作るのが嫌いだ。好き勝手に生きる分、他人に迷惑は掛けないようにして来たつもりだった。

 それ自体、無意味な自己満足だったと今ではわかる。人と関わることを嫌い続けた自分は、逃げてばかりの卓也と何も変わらない。

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卓也は、ぐったりと俯いた正一を見た。それから、動かなくなったスマートフォンを見た。逃避していた問題が、肩にずしりと圧し掛かって来る。

「俺さ。本当は、看護師ともまだ別れていないんだ」

 罅の入ったスマートフォンは沈黙している。

「そんな顔するなよ。本当にもう潮時だなっては思ってたんだ。だけど、小遣いもあるし家もあるし、踏ん切りが付かなくって。それで、気が付いたら」

 バンドの時も、思えばそうだった。もう何年も前なのに、当時の仲間の顔が思い出される。失望した顔、怒った顔、呆れた顔。別にどうということも無い。感慨も無ければ、後悔も無い。ただ、卓也が気付いた時には、何もかも遅すぎるというだけだ。

「卓也。お前は、どうするつもりなんだ」

 正一が静かに言う。相変わらず、卓也のことを怒ってもいなければ、責めているようにも見えなかった。

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「もう、堕ろすには遅すぎるんだ。産みたくない、育てたくないって、あの子は毎日泣いてるってよ」

 中身が子供のままなのだから、当たり前だろう。母性本能という本能は存在しない。

 あれきり、卓也は施設にも作業所にも行っていない。連絡は全て拒否している。施設の職員からは随分と責められたし、現にスマートフォンが壊れる寸前までは職員からのメッセージが入りっぱなしだったのだが、卓也にはどうすれば良いかがわからなかった。本当に、わからなかったのだ。

「看護師の恋人には話したのか?」

「話さなきゃって、思ってたけど……」

 卓也が言葉を濁す。正一もそれで察したのか、ただ溜息を吐いただけだった。

「言わなくても、多分……もう、気付かれてる」

 向こうが何も言って来ないのが不気味だった。今朝も、何事も無かったかのように笑いながら小遣いを渡してくれたのだが。

 障碍者支援施設は、彼女の務める病院とも繋がりがある。看護師たちの間では、とっくに噂になっているかもしれない。

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「それで競馬場に逃げていれば、世話ないな」

 正一の言葉にも、卓也は何も言い返すことができない。

 雨はまだ、降り続いている。停電だとしたら、随分と長い停電だ。

 隣に座る正一が咳き込んだ。正一は苦しそうに顔を歪めると、強張った白い指先で肩の辺りを擦った。濡れた古いコートは、べったりと身体に張り付いたままで、全く乾く気配が無かった。

「そのコート、脱げ。却って冷えるぞ」

 卓也は眉を潜めると、革のジャケットを脱いだ。途端に冷気が突き刺さり、刺青の上に鳥肌が立つ。

「代わりに、これ着てろよ」

 自分でも、どうしてこんな気紛れを起こしたのかわからない。卓也は高価な革のジャケットを正一の痩せた肩に羽織らせると、急いで顔を背けた。

「表面は濡れてるけど、裏地は乾いてるから」

 信じられないものを見るような目で、正一が卓也を見返す。何か言いかけるように口を開いたので、卓也はわざとそれを遮って大声で喋った。正一が借りを作りたがらないのは知っている。卓也だって、正一のことは好きではない。

「俺さ。女の子に頼られたの、初めてだったんだ」

 初めて作業所に行った時のことを思い出す。言葉さえおぼつかず、出来ることと言えば拙い手芸品を量産することくらいだったが、はにかんだような笑顔が印象に残った。

「周りは止めなかったのか?」

「成人女性だぞ。恋愛する権利は平等にある」

 本人が望むなら、他人に止める権利など無い。その娘の場合、身体だけは問題なく健康なのだ。

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「最初はそのつもりじゃなかった。ただ、ちょっと話をしただけだ。絵本だって読んでやったよ。一緒にお絵かきもした。そしたら俺に懐いちまって、大好き、大好きってくっ付いて来るんだ」

 作業所と施設を往復するだけの生活で、卓也の存在は新鮮だったのだろう。本来なら父親が割って入りそうなものだが、その父親は既にこの世にいない。

 また来て欲しい、と最初に言ったのはあの子ではなく、あの子の世話をしていた施設の職員だ。悪い気はしなかった。

「シンデレラとか白雪姫とか、王子様が出て来る場面で俺を指さすんだぜ。笑えるだろ?」

 思い出しながら、卓也は少しだけ笑う。

「看護師もロリータ少女も、他のどの女にとっても俺はペットだった。俺に期待する奴なんか誰も居ねえ」

 それが楽だったはずだ。バンドも恋愛も人生も、真面目とは程遠い選択しかして来なかった。他人の期待を無責任に背負ってしまったら、その瞬間からもう、自由ではなくなる。

「なのに……ああもう、俺、どうしちまったんだ」

 卓也が両手で頭を抱えた。

「あの子にとっては」

正一がぼんやりと空を見上げる。分厚い雲に覆われ、月も星もまるで見えない。

「お前は、間違いなく王子様だったんだろうな」

 卓也が顔を上げた。正一は卓也のジャケットをしっかりと身体に巻き付けていたが、あまりにもぶかぶか過ぎて、どう見ても似合ってはいなかった。

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直前まで卓也が着ていたせいで、ジャケットは少し生暖かかった。

「卓也。俺も、隠していたことがある」

普段なら気味が悪いと突き返すところだが、こう寒くては贅沢も言っていられない。正一はジャケットを毛布のように巻き付けると、ベンチにもたれて溜息を吐いた。

 正一には友人もいなければ恋人もいない。家族さえ捨ててしまった。一番馬の合わない相手に、どうしてこんな事まで喋っているのだろう。

「俺は、あの子には会わなかったと言った。でも、嘘だ」

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娘の精神的な時間は、子供のまま止まっている。だが、父親の死を理解できない程幼くはなかった。しかし、父親から聞いた『結婚』の話を、ただの与太話で片づけてしまえる程、大人でもなかったのだ。

「おっさんが事故死して、救急車で運ばれた次の日だった。当然、娘は施設の人間に付き添われて病院に来るわけだ」

 泣き喚く声が聞こえた、ような気もするが。記憶違いかもしれない。とにかく、これでもう関わらなくて済むと、正一は清々した思いでいた。

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娘が病室に飛び込んで来たのは、その時だ。

「目を真っ赤に泣き腫らして、鼻水とよだれで顔じゅう汚れてたな。それ以外は、普通の若い女に見えたんだが」

 正一を見た瞬間、泣き顔が何とも言えない表情に変わった。無理に笑っている、というよりも、ふいにこぼれ出たような笑み。はにかんだように前歯を少しだけ見せて、既に濡れている袖でべたべたの顔を擦り上げた。

「だんなさま。俺の顔を見て、確かにそう言った」

 私の、旦那様。今でも時折思い出してはぞくりとなる。

「俺のことを、父親から聞いていたんだろうな。迷惑な話だ」

 まだリハビリの許可も出ていないのに、正一はベッドから起き上がろうとした。その場から逃げたかった。汚れてべたつく手を伸ばし、うっとりと淀んだ目つきでふらつきながら正一に近寄って来る娘。父親の無残な死より、この女の執着が薄気味悪い。

「仕方ねえだろ。もう、お前しか頼る相手がいねえんだ」

 大好きな父親はもう居ない。でも、自分は一人ではない。彼女なりに、そう解釈したのかもしれない。

「言っておくけどな、卓也。結婚の話は、おっさんが勝手に言ってただけだ。俺は受け入れた覚えが無い」

 そんな理屈が通じる相手ではないということは、当時の正一にもよくわかっていた。気の毒な娘ではある。だが、正一には関係ない。

親子そろって、一体いつまで付きまとえば気が済むのか。

同情よりも先に、きつい言葉が飛び出した。

「迷惑だ、出て行け。俺はそう言った。お前なんか嫌いだとか、親父と一緒に死ねば良かったとか、随分幼稚なことも言った気がする」

 娘はきょとんとして立ち止まった後、一回だけしゃくり上げた。そして、棒立ちのまま声を上げて泣き始めた。泣き喚く声を聞きつけて、看護師や医者が飛び込んで来る。

 五月蠅い。

 引き摺られるようにして連れて行かれる娘を見ても、正一はそんなことしか思わなかった。

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「その後少しして、俺は無理矢理退院した。二度と会いたくなかったんだ」

 寒いのに、額には汗が浮かんでいた。栄養不良のせいなのか、正一は頻繁に微熱を出す。熱があるのを卓也に悟られなければ良いな、と、正一は卓也のジャケットの袖でこっそりと額を拭う。

「リハビリに通えってしつこく言われたが、それも無視した」

 お陰で、この様だ。

 卓也の驚いた顔がおかしい。仕方ないだろう。正一は笑ってみせる。長く健康でいる為の病院代よりも、正一は明日賭け事に使うための目先の金の方が大事だった。

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正一はやっぱり正気じゃない。卓也は茶色い髪を乱暴に掻いた。

 自分の身体のことなのに、他人事のようだ。後遺症には今でも苦しめられているのに、後悔したことは無いのだろうか。

「俺を最低だと思うか?」

 正一が薄い唇を歪める。酷薄な笑みが、どうしてこの男には似合うのだろう。

「いや……俺は」

 正一を責められる立場ではない。いくら卓也でも、その程度のことは自覚している。

 正一は美男子だ。競馬場でも、わざわざ振り返る女が多い。卓也が連れている女でさえ、偶然見かけた正一を目で追っている。

 あの子だって、女の子だ。卓也は、膨らんだ腹を恐々と擦って、蹲ってすすり泣いていた姿を思い出した。あの子が、正一に見惚れなかったわけが無い。結婚という言葉は、あの子の中でどれだけ甘く響いていたのだろう。

「俺に罵倒された後で、優しくしてくれるお前と出会った。だからあの子にとって、お前は本物の王子様だったんだ」

 卓也は冷えた指先で右目を擦った。コンタクトレンズを入れっぱなしなので、目の中がごろごろする。

 いつの間にか、煙草の箱を握りしめていた。くしゃくしゃになったのを解いて覗き込むと、どうにか一本だけ残っている。ライターの方を確かめた。油は、少しだけ残っていた。

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「やるよ」

 潰れた箱にライターを押し込むと、卓也は正一に差し出した。

「お前に、譲る」

 手を出そうともせずに、正一は黙って一本だけの煙草を見つめていた。長い睫毛を伏せ、ゆっくりと首を振る。

「もう良い。十分だ」

 卓也のジャケットはしっかりと着込んだまま、酷く疲れた顔で正一はベンチに寄り掛かった。そのままずるずると姿勢を崩し、卓也の肩に体重を預ける。重い、とは全く思わなかった。軽いし、冷たすぎる。今は卓也よりも着込んでいるくせに、この男には体温というものが無いのか。閉じられた薄い瞼の下で、びっしりと並んだ睫毛が震えている。

「寝るなよ、正一」

 最後の煙草を見下ろしたまま、卓也はぽつりと言った。

「こんなところで寝たら、風邪引いちまうぞ」

 聞こえているのか、いないのか。吐く息は、二人とも白い。真っ暗闇の中で、それだけがくっきりと浮かび上がる。

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煙草の煙ではなく、白い呼気を吐き出していた卓也は、やがて意を決したように口を開いた。

「朝になってバスが来たら、俺、あの子のいる施設まで行くよ。正一、お前も一緒に来るだろ?」

 我ながら馬鹿みたいだ。正一に対してこんな宣言をしたところで、何の意味も無い。

「俺も一緒に土下座すれば良いのか?」

 正一が薄く目を開けた。

「そうしてくれると、助かるな」

 スマートフォンは反応しない。修理にはどのくらい掛かるのか。

正一に聞こうと思ったが、辞めた。こいつが文明の利器に明るいとは思えない。

「施設は病院のすぐ近くなんだ。背骨って整形外科で良いのか?」

 正一が億劫そうに身を起こしかける。

「おい、冗談だろ?」

「俺の彼女は看護師だ。性格きついけど、別に鬼ってわけじゃない。治療代くらいは貸してくれると思うぜ」

 この後に及んで、まだ女の世話になろうとしている。自分で自分に呆れてしまう。ということは、傍で聞いている正一はもっと呆れた顔をしているはずだ。動かない画面を悪戯に指で突きながら、卓也は凍える声で喋り続ける。

「多分さ。俺もお前も、許しちゃ貰えねえよ。殺されるかもしれねえし、滅茶苦茶借金背負わされるかもしれねえ」

 逃げる以外の選択肢を、卓也は選んだことが無い。

「正一、お前はバイトしてたこともあるんだよな? どっか、俺に紹介してくれよ。お前にできたなら、俺にもできる」

 何かに立ち向かった経験なんて一度も無い。今更、それができるとも思えない。それは正一も全く同じだ。

「それは面白いな。続かなかったら笑ってやる」

 笑って卓也に寄り掛かる正一の額には、薄く汗が滲んでいる。

 辺りは、いつまでも暗かった。雨音と自分たちの息遣い以外、本当に何も聞こえない。

「もうすぐ、夜が明ける。すぐに明るくなるぞ」

 祈るように、卓也は暗い空を見上げる。

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「地獄みたいな空だな」

 随分と煙草臭い地獄に来たものだ。

「あのさ、正一。朝……ちゃんと、来るよな?」

 眠そうに欠伸を噛み殺して、正一は冷たい身体を卓也に押し付けた。

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「朝なんて、来なくて良い」

 雲は途切れず、雨はまだ降りやまない。

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