従妹のエイミーから聞いた話です。生粋の日本人なのですが、仇名がエイミーなので作中ではこの名前で通すことにします。
尚、少しだけ昔の時代のお話となりますので、現代とは良識・常識等が多少異なっている点はご了承ください。
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これはエイミーが高校生の頃のお話です。
あまり成績の良くなかった彼女ですが、それでも仲の良い先生というのは居ました。
美術部の顧問で、風景画を得意としていたので仮に景子先生としておきましょう。小柄で眼鏡の似合うぽっちゃりとした女性で、絶世の美女ではありませんが、可愛らしい先生でした。
どんな生徒にもまるで友人のように気さくに声を掛けてくれるため、それなりに人気者だったようです。
最も、男子生徒にも女子生徒と同じ頻度で話しかけるので(当然と言えば当然なのですが……)一部の女子生徒からは「先生の癖に、男の子に媚びている」という批判もあったとか。
そういう部分も、エイミーと波長が合ったのでしょうか。
エイミーは外見こそ並外れて可愛かったのですが、思春期を迎えても自由奔放な性格が変わらず、仲間意識に凝り固まった顔の醜い女子生徒達からは遠巻きにされている状態でした。
景子先生をすっかり気に入ったエイミーは、美術部員でも無いのに美術部に入り浸るようになったのです。
「景子先生、聞いて聞いて」
校則違反の真っ赤なリボン飾りを頭にひらひらさせて、どうでも良い雑談だけをして帰るエイミーを、部員たちは最初のうちこそ疎ましく思っていたそうですが。
景子先生が全く追い返そうとしないので、段々と「仕方ないなぁ」と生ぬるく受け入れる姿勢に変わって行ったようです。
エイミーは決して悪い子ではないので、頼まれれば美術準備室の片付けも手伝ったそうですし、五月蠅いと思えばお菓子を与えておくだけで黙らせられますからね。
景子先生は部員を指導する傍ら、エイミーの脈絡の無い話に相槌を打ってくれました。ただ聞き流すのではなく、話の要所、要所ではきちんと反応を返してくれたと言うのだからたいしたものです。
黒い縁取りの分厚いレンズの向こうから、優しくエイミーを見つめていた長い睫毛の似合う目が。エイミーさん、と丁寧に「さん」付けで名前を呼んでくれた澄んだ声が。校則違反の髪飾りを、良く似合っていると褒めてくれた先生が。
エイミーは本当に大好きだったと言っていました。
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「でも、それってやっぱり迷惑だろ」
エイミーと一番仲の良い男友達である尾崎君は、こう言ってエイミーを嗜めたそうです。エイミーは女友達が極端に少ない為、普段は尾崎君を始めとする男友達とばかり遊んでいました。
「えー、そんなことないよ。部長さんだって、最近はお菓子くれたりして構ってくれるもん」
エイミーは頬を膨らませました。
「部長は俺らより年上だから大人なんだよ。行くなとは言わねぇけど、毎日はよせ」
尾崎君はいわゆる不良という生き物で、学校をさぼっては他校の不良と喧嘩していたりする学生だったそうですが。当時から、エイミーよりも常識は持ち合わせておりました。
その時期は丁度、文化祭が近づいていました。帰宅部のエイミーや尾崎君とは異なり、部活に所属している生徒は皆準備に追われています。美術部もそれは同じことで、部員たちは皆それぞれの展示作品制作に必死になっている状況でした。
そうか、確かに邪魔だったかもしれない。
自由気ままなように見えて、実は結構素直なのがエイミーの良いところです。
エイミーは尾崎君に言われた通り、しばらくは美術部に近づかないようにしようと考えました。
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そのまま、何週間か過ぎた頃でしょうか。
美術部の部長が、困ったような顔をしてエイミーの教室を訪れました。何も用事が無いのに、上級生がわざわざ下級生の教室に来るなんてまずあり得ません。
美術部に何かあったのかもしれない。
鈍いエイミーにもピンと来ました。
果たして、その通りだったのです。
景子先生が、学校に来られなくなった。
困り顔の美術部長は、そう告げると悲しそうに俯きました。何処か、エイミーに同情しているようだったと言います。
しばらく、じゃないらしいよ。学校辞めるんだって。
エイミーの頭は真っ白になりました。
そんな急に、どうして。
クラスの皆が振り返る程の大声で叫んだエイミーに多少たじろきつつ、部長はぼそぼそと先を続けます。
詳しくは知らないけれど、何か難しい病気だったんだって。病気が悪化して働けなくなったから、仕事を辞めて実家に帰るんだって。
部長はそれだけ告げると、指先で目元を拭ったと言います。
優しい景子先生のことを、美術部の部員達は心から慕っていました。
悲しいのは、皆同じです。
でも、エイミーにはどうしても納得が行きませんでした。
「だって私、昨日景子先生に会ったのに」
部長が悪いニュースを持ってきた日の前日、エイミー達のクラスでは美術の授業がありました。美術部に行かなくなったエイミーにとって、美術の授業は合法的に景子先生と話ができる貴重な時間です。
キャンバスの前でろくに手も動かさず、はしゃいでお喋りし続けるエイミーをクラスの女子生徒達が白い目で見ていたことは想像に難くありませんが……。
景子先生は時折エイミーの話に相槌を打ちつつ、他の生徒のことも決しておざなりにはせず、丁寧に絵の指導をしていたそうです。
口元に微笑を浮かべながら。
エイミーのようにはしゃいだりはしなくとも、生徒と触れ合うのが楽しくて堪らないと言うように。
「病気になんか見えなかった。別にげっそりしてたわけじゃないし。私がメロンパンの話したら、私もお昼はメロンパンにしましょうかね、なんて嬉しそうに笑ってたのに」
傍から見ただけでは、わからない病気ということもあります。
「そんな話、一回も聞いたこと無かったよ。それにさ。授業の終わりに、景子先生、何て言ったと思う?」
チャイムが鳴り、生徒達がキャンバスを片付け始めた時でした。景子先生が自らエイミーに近づいて、言ったそうです。
「最近、美術部に来ませんね。またいらっしゃい。
私に向かって、こんなこと言ったんだよ?」
エイミーはどれだけ喜んだことでしょう。これでまた、堂々と部室に入り浸れます。何せ、先生の方から誘ってくれたんですから。
その日は尾崎君と映画に行く予定だったので、エイミーは明日行きますと答えたそうです。
学生だけで映画館へ行くことは禁止されていましたが、景子先生は別に咎めることも無く、それでは明日待っていますね、と言って笑っていたそうです。
「先生と会うの、楽しみにしてたのに。昨日見た映画の話するんだって、朝からずっと考えてたのに」
担任の先生からも、改めて説明がありました。
美術部の部長と大差ない内容だったと言うので、おそらく先生方も詳しい事情は知らなかったものと思われます。
担任の話ぶりからして、戸惑っている様子が伝わりました。
教室中が少しざわつきました。
私もあまり人のことは言えませんが、人間とはとにかく薄情なものだと思います。
景子先生をあまり良く思っていなかった女子生徒が、意地悪そうに笑いながら呟いたそうです。
人に言えない病気だったりして。
途端に、便乗する者が現れました。
景子先生、ニンシンしてたんじゃない?
えー、太ってるからわかんなかったー。
昼休みの間中、教室はそんな会話で持ち切りでした。
知識の少ない高校生の妄想なのでたかが知れているとは思いますが、幼稚な悪意に満ちている分、聞くに堪えない酷い内容だったそうです。
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奥さんのある男性のお子さんを身籠った、とか。
複数の男性と関係を持った挙句、悪い病気を貰った、とか。
その複数の男性というのに、この学校の先生や男子生徒も含まれているのではないか、とか。
当時の下世話な週刊誌でさえもここまでは書かないだろう、という品の無い噂話の最中、エイミーは一人でぽつんと座っていました。
お昼休みなのに食欲がありません。
景子先生が食べたがっていたメロンパン……購買で何となく買ってしまったそれを見下ろしたまま、一口も齧ることができなかったそうです。
景子先生のことを、良く思っていなかった生徒だけが悪口を言っていたのならばまだわかります。しかし、面白おかしく噂話をしている生徒の中には、景子先生と仲の良かった生徒も混じっていました。
どうして。どうして、大好きだったはずの人を悪く言えるの?
本心に嘘を吐いてでも同調しなければ、仲間ではいられなくなることがあります。けれどエイミーは、そんな人間関係を理解するにはあまりにも幼く、余りにも純粋でした。
「おい。景子先生んとこ、行くぞ」
そんなエイミーにこっそりと声を掛けてくれたのは、やはり尾崎君でした。
「どこ行ってたの? お昼休み、終わっちゃうよ」
エイミーが驚いて顔を上げると、尾崎君は黙って一枚のメモ書きを差し出したそうです。
「何か、適当に千切ったノートに汚い字で書いてあったの。尾崎君の字だったよ」
景子先生の名前と電話番号、そして住所でした。
「何か、こう……先生の住所とか、全部書いてある学級名簿みたいなやつ?」
住所録?
「そう、多分それ。尾崎君、書き写しておいてくれたんだよ」
当時の尾崎君は、職員室に忍び込んだり先生の鞄を漁ったりして、テスト問題を盗み出すことが度々あったそうです(今は更生していますし、テスト問題以外は盗んだことが無いそうです。当然、万引きなんか一回やったことがありません。念のため)。
今回も同じ要領で、職員の住所録から景子先生の住所を盗み出したのでしょう。
「午後の授業、フケられるか? 景子先生引っ越すって言ってたけど、今日行けば間に合うだろ」
エイミーが毎日美術部へ行くことに対し、尾崎君は難色を示していました。私が思うに、エイミーと過ごす時間が減ってしまうことに不満もあったのでしょうが……。
彼なりに、多少の責任は感じていたのかもしれません。
深く考えもせずに、エイミーは頷きました。元々、今日は美術部へ顔を出す予定だったのです。景子先生が学校を去るのなら止めることはできないけれど、せめて最後のお別れくらいはきちんとしたい。
そんな風に思ったのだそうです。
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そんなわけで、二人は学校を抜け出しました。尾崎君の手引きがあったためか、案外あっさりと抜け出すことができました。
尾崎君が「とりあえず電話しろ」と言うので、エイミーは公衆電話から景子先生に電話を掛けました(携帯電話がまだ一般的ではない時代でした)。
「はーい」
景子先生の快活な声が聞こえます。
何だ、思ったより元気そうだ。
その声だけで、エイミーはとても安心したそうです。
「景子先生、エイミーです」
エイミーが名乗ると、受話器の向こうに一瞬だけ沈黙が訪れました。
「……エイミーさん?」
先生の声はいつも通りでしたが、どこか無理をしているような……言わば、空元気のような違和感があったそうです。
「ごめんなさいね。今日、部室に来てくれる約束だったのに」
ふふふ、と、含み笑いの声が聞こえたそうですが。それもやっぱり、無理をして笑っているように聞こえました。
「先生。病気って本当ですか」
「……」
再びの沈黙でした。
「学校、辞めちゃうって本当ですか」
受話器越しに息遣いは聞こえるのに、景子先生は何も答えてくれません。
「先生。今から、先生の家に行っても良いですか?」
エイミーは、思い切ってそう尋ねました。
校則違反を咎めない景子先生なので、学校をさぼっても叱られはしないだろう、と、そんな考えもあったようです。
「……エイミーさん」
先生がようやく口を開きました。
「先生の事、嫌いにならないでいてくれる?」
エイミーは驚いてしまい、言葉に詰まりました。
景子先生を嫌いになるなんて、あり得ません。
いつもいつも話し相手になってくれる、大好きな景子先生なのに。
今日だって、美術部に行くのを楽しみにしていたのに。
エイミーが何も言えないでいる間に、電話はがちゃんと切れました。
「どうしたんだ?」
尾崎君は心配そうに聞いてきたそうで、エイミーはよほど青い顔をしていたのだと思います。
「切れちゃった」
エイミーが理由を話すと、尾崎君は眉間に皺を寄せてエイミーの腕を掴みました。
「急ごう。不味いかもしれない」
普段から喧嘩ばかりの尾崎君は、人より動物的な勘が優れていたのでしょう。
そして尾崎君の勘は、やはり当たっていたのです。
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メモによると、景子先生の家は学校から随分離れた場所にあるようでした。辿り着くには、バスを利用しなければなりません。
平日の昼日中なので、バスの中は空いていました。お爺さんが一人と、買い物袋を提げた女の人が一人しかいなかったそうです。
現代とは違って、大人が子供のやること成すことにいちいち口出しをしていた時代ではありますが。学校をさぼっているにも関わらず、尾崎君とエイミーは誰からも何も言われなかったそうです。
最も、尾崎君は背が高くて目付きの鋭いいかにもな不良。エイミーは頭に大きなリボン飾りを付け、校則を無視して短くしたスカートを穿いた、いかにもな変わり者。
誰も何も関わりたくなかったのだと思います。
一時間余り、バスに揺られていたでしょうか。お爺さんが降り、買い物帰りの女性が降り、バスの乗客は尾崎君とエイミーの二人だけになりました。
『次は……、……。お降りのお客様は……』
同じ市内であるにも関わらず、全く聞いたことの無いバス停でした。降りるのを躊躇ってしまったエイミーの手を、尾崎君は黙って握ったまま降車ボタンを押してくれたそうです。
「何にも無い場所だった。バス停から少し歩いたんだけど、周りが木と山に囲まれてて、お店も何も無くって」
田舎住まいなので、こういう場所が多いことは知っていました。
そこに実際に住んでいる人がいる、という事実も知っているつもりでした。
けれど、エイミーの生活圏には商店街があります。デパートだってあるし、少し歩けばコンビニエンスストアもあります。
「あの景子先生が、こんな寂しい場所に住んでいたなんて」
失礼も甚だしいですが、エイミーはそう思ってしまいました。
「こっちの坂を上った先だ。結構急だから気を付けろよ」
尾崎君はそう言うと、エイミーの手を取って、自分が先に立って歩き始めました。
車の一台も通れないような、細い、細い坂だったそうです。舗装なんかされていません。雑草は生え放題で苔むした砂利が敷き詰められ、雨が降っていなくても滑りやすい、湿った道でした。
「ここで合っているの? 本当に、ここに景子先生が居るの? って、歩きながらずっと思ってた」
辿り着いた先は、エイミーの予想を更に超えていました。
ぼろぼろの一軒家……空き家、と言われても信じるしかないような、寂れた小さな家でした。
壁の色は淡い黄色でしたが、ところどころ舗装が剥がれています。玄関前のタイルも剥がれて、破片がそこかしこに転がっています。庭……と呼んで良いのか、家周辺の雑草が生い茂った広場には、古くなった家財道具や衣服などが雨ざらしのまま捨てられています。
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窓にカーテンは掛けられていませんでした。失礼と知りつつ覗いてみると、中は薄暗くて、画面に罅の入ったテレビが置いてありました。
テレビの前のハンガーに、いつか景子先生が来ていた紺色のワンピースが掛けてあるのを見て、エイミーは酷く悲しくなったと言っています。
「ああ、ここは本当に景子先生の家なんだ、って。あのワンピースを見るまでは、何かの間違いじゃないかって思ってたのに」
とても天気の良い、明るい日でした。
遠くからパチンコの宣伝カーの音楽が聞こえてきました。余りに場違いなその音にはっとなったのか、尾崎君はエイミーの手を引いて黄色い家のドアに手を掛けました。
ドアチャイムはありませんでした。
鍵も掛かっていませんでした。
玄関から一歩足を踏み入れると、むせかえるようなカビの臭いが鼻を突きました。
靴箱の前に、毛布の掛かった真新しい車椅子が鎮座していました。
古びた家と、新しい車椅子……その光景を、エイミーは良く覚えていると言います。
「景子先生!」
エイミーはカビ臭い空気を胸いっぱいに吸うと、思い切って大声を出しました。
「景子先生! エイミーです!」
家の中も、外観と負けず劣らず荒れていたようです。薄暗い廊下には、脱ぎっぱなしの服や郵便受けから落ちてそのままになっている郵便物が散乱していたそうです。
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「はーい」
荒れた家にはおよそ似つかわしくないような、明るい声が響きました。エイミーの顔がぱっと輝きます。
景子先生だ。
やっぱり、元気だったんだ。
エイミーは、景子先生が学校を辞めることに関しては仕方が無いと思っていました。ただ、皆が言うような重い病気でなければ良い。
先生と生徒の関係ではなくなっても、手紙や電話のやり取りが変わらず続けられるならそれで良い。
優しいエイミーはそう考えていたわけです。
しかし、そんなささやかな希望すら、すぐに打ち砕かれてしまいました。
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ぺたぺた、ずるずる。
ごつ、ごつ、ごつ。
ずる、ずる。
ごっごっごっ。
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薄暗い玄関に立つエイミー達の耳に聞こえて来たのは、何とも不自然で奇妙な音でした。
何かを引きずるような、ぶつけるような。いや、何かを引きずりながら、不規則に床に打ち付けているような。
ぺた、ぺた、ぺた……。
ごっごっごっ。
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音は段々と近づいて来ます。ゆっくり、ゆっくり。
ずる、ずる。
ごつ、ごつ、ごっ、ごっ。
エイミーは靴箱の横にある車椅子に目をやりました。自分が置かれている状況が、全く理解できませんでした。
尾崎君を見ると、彼は正面を凝視したまま、黙ってエイミーの前に出たそうです。それから、エイミーを庇うように左手を後ろに回しました。
私が思うに、やはり彼は動物的な勘でもって『危険』を感じ取ったのでしょう。
ぺたぺた。
ずるずる、ごっ……ぺた……ごっ……ごっごっ。
どれだけの時間が過ぎたでしょうか。実際には数分も経っていないはずですが、エイミー達にとってはとてつもない時間でした。
ぺたぺた、ごっごっごっ。
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「いらっしゃい、エイミーさん」
薄暗い廊下に、似つかわしくない明るい声が響きました。薄闇の中から、まるで生まれてきたかのように、景子先生が顔を出しました。
「景子先生……」
エイミーは言葉を失いました。
景子先生の声は、エイミー達の視線よりもずっと下から聞こえていました。
「あら。尾崎君もいるんですね」
景子先生は、いつものように笑って顔に掛かる髪を掻きあげました。エイミーが大好きな、あの優しい笑みでした。
でも。
暗闇から覗いた景子先生の顔も、予想よりもずっと下にあったのです。
「先生……」
エイミーは涙を堪えきれなかったと言います。
景子先生は。
昨日までは元気に学校へ来て、エイミーとメロンパンの話で盛り上がって、文化祭に向けて張り切って準備を進めていたはずの景子先生は。
「先生。どうしちゃったんですか」
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景子先生は。
歩くことが、できなくなっていました。
先生は、廊下を這って来たのでした。
両手だけで体を支え、下半身を引きずりながら、やっとエイミー達の元へやって来たのでした。
景子先生の下半身……腰から下の両足は、毛布で何重にも包まれ、ガムテープとロープで厳重に縛られていたそうです。
毛布にくるまれた両足を引きずり、両手で上半身を支えながら、景子先生は静かに微笑んでいました。どこか照れたような、ばつの悪そうな笑みだったそうです。
汚れた廊下を引きずって来た為か、毛布は埃と何か粘つくような液体で汚れ、ガムテープも剥がれかけていました。手のひらを床に付けて這ったせいで、両手も黒く汚れていたそうです。
景子先生は元々ぽっちゃりした体形だったため、尾崎君はこの時の先生を「トドかセイウチみたいだった」と、後に語っています。
「エイミーさん」
景子先生が口を開きました。上半身はいつもの景子先生で、エイミーが好きだと言った黒いレース飾りのブラウスを着ていました。
しかし、異様なのはやはりその下半身でした。
ロープとガムテープで縛った毛布の中は、当然景子先生の足があるはずです。
それが、蠢いていました。
本当に、『蠢く』としか表現のしようが無い状態だったそうです。
ぼこぼこと、波打つように、不規則に。
例えるなら、毛布の内側に無数の小動物がいて、それが好き勝手に動き回っているかのような。
およそ、人間の体とは思えないような滅茶苦茶な動き方だったと言います。
「エイミーさん。先生はね……」
景子先生がもう一度言いました。苦笑、という表情の見本のような、そんな顔をしていたようです。
「先生ね……少し、バチが当たってしまいまして……」
その瞬間。
尾崎君が、エイミーの腕を引きました。
えっ、と言う間も無く、尾崎君はエイミーを引っ張って走り出しました。
ぎゅっと唇を引き結んで。決して振り返ることも無く。
どうしたの、どうして。
わけもわからないまま同じ言葉を繰り返すエイミーを、尾崎君は無言で引きずりながら走り続けたそうです。滑りやすい狭い坂を駆け下り、何も無い道路を抜けて、バス停まで。
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お昼に出て来たはずなのに、空が妙に暗いのが不思議でした。
群青色を背景に、色づき始めた木々がざわざわ、鳴ります。
バス停に駆けこむと、丁度バスが来たところでした。
尾崎君は、押し込むようにしてエイミーをバスに乗せた後、自分も飛び乗って座席で息を整えました。エイミーは尾崎君以上に息を切らしていましたが、それ以上に彼の不可解な行動が気になって仕方がありませんでした。
「何で? って思った。景子先生に聞きたいこと、いっぱいあったのに」
ここまで話を聞いた私は、密かに尾崎君の動物的本能に感謝を捧げました。エイミーには足りない部分がたくさんありますが、一番足りないのは危機感だからです。
「あれからね。景子先生の家に電話かけても、繋がらなくなっちゃったんだ。もう一回行きたい、って言っても、尾崎君に駄目だって言われるし」
元々、実家に帰るという話だったはずです。もう、その家にはいないのでしょう。私がそう指摘すると、エイミーは溜息を吐いて、
「やっぱりそうだよねえ」
と、残念そうに呟きました。
尾崎君とエイミーが乗り込んだバスは、何と最終便だったそうです。田舎なのでバスが走らなくなる時間も早いのですが、外がほとんど真っ暗になっていて、時計を見ると午後の八時を回っていました。
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「だって、お昼に出て来たんだよ? 先生の家にだって、何時間も居たわけじゃないのに」
いつの間に、それほど時間が経過していたのでしょうか。
景子先生の家に来た時、確かに外は明るかったはずです。家にいた時間は、十分も無かったはず、なのに。
最終バスに揺られながら、エイミーはずっと泣いていたそうです。
景子先生にはもう会えないんだ。
何故だか、そんな思いで頭が一杯だったとか。
尾崎君に付き添われて家に帰る頃、エイミーは熱を出していました。そのまま、三日間は学校に行けませんでした。私に電話をくれたのは、熱が下がった三日目の晩のことです。
「お母さんたら、酷いんだよ。景子先生のこと話してるのに、尾崎君のことばっかり聞いてくるんだから」
最終バスで夜遅くに帰って来た娘を、母親は少しだけ叱ったそうですが。
それ以前に、エイミーを自宅まで送り届けてくれた『尾崎君』の方に興味が集中していたとかで。
まるで女子高生に戻ったかのようにはしゃぎながら、ボーイフレンドなの、どこまで進んでるの、デートはしたの、と、目を輝かせて矢継ぎ早に質問して来たそうです。
「熱下がったと思ったらさぁ、お母さんがすっごいレースフリフリの服、いっぱい持ってきて。デートならお洒落しなさい! って、五月蠅いんだから」
この娘にして、この母親あり。私は、喉元まで出かかった言葉を飲み込みました。エイミーが景子先生のような落ち着いた大人の女性を求めた理由も、案外ここにあるのかもしれません。
「ねえ。景子先生って、やっぱり病気だったのかなぁ」
私は医者ではないので、詳しいことはわかりませんが。体が自分の意志に反して動いてしまう病気、というのは、確かに存在するようです。
私はエイミーにそのことを告げると、病気は隠したいこともあるのだからもう深入りはしない方が良いこと、尾崎君の言うことをちゃんと聞くこと、を忠告して電話を切りました。
一人の女性教諭が、病気を理由に早期退職をしただけ。
ただ、それだけの話です。
けれど。
私は、景子先生の「バチが当たった」という言葉が、どうにも気になってしまうのです。
帰りのバスの中で、尾崎君が放った言葉の方も。
「もう手遅れだ。ああなったら、人間はお終いだ」
作者林檎亭紅玉