私の話です。
ウマの合わない相手、というのは、どこに行っても居るもので。私が新しく配属された課の係長も、そんなうちの一人でした。
私という人間は『自由』と『それ以外』を天秤に掛けた時、高確率で『自由』を選択してしまいます。仕事ははっきり言って遊ぶ金欲しさに嫌々やっているだけなので、やる気も向上心もありません。
係長は真面目な方です。それも、『悪い意味で』真面目なのです。
年齢は五十代手前くらいの、不美人で大柄な女性です。
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学生時代は絶対に風紀委員か生徒会に入っていたような、帰りのホームルームで率先して素行の悪い生徒の吊し上げを行うような……。
真面目な自分が大好きで、でも「私だけがどうして頑張らなきゃいけないの、我慢しなきゃいけないの」という自由へのコンプレックスと自由な人間への憎しみが凝り固まったまま成長してしまった、ある意味可哀そうな方でもありました。
係長の趣味は、サービス残業と休日出勤です。良き母でもあり主婦でもある彼女は、家事も完璧にこなすそうです。
定時になった瞬間、職場に一秒でも留まることを惜しんで帰ってしまう私と気が合うはずもございません。
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次第に、係長は私に辛く当たるようになりました。
『講習』『指導』と称して、私だけ別室で何時間も説教されたことがあります。課長や部長のフルネームと家族構成などを、全て暗記するように言われた時は面食らいました(そこまで媚びて何の得があるのでしょう……)。
いつも苛々した口調で理不尽な要求をぶつける彼女に私の方が我慢できなくなり、つい、強い口調で言い返してしまったことがありました。
その時の係長はと言えば、私に何も言い返さないまま突然自分の机まで飛んで帰り、若い男性社員を捕まえて『いやーん、怖―い』なんて身をくねらせながら囁くのです。
五十代手前のくせに、女子高生みたいな真似しやがって。
気持ち悪いんだよ。
私は、鬱陶しくてたまりませんでした。
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そんな私ですが、別に全身全霊の憎しみを込めて係長を呪っていたつもりはございません。単に「鬱陶しいから目の前から消えてくれないかなぁ」といった、蠅やカメムシに対するような漠然とした嫌悪感があるだけでした。
ですから、仕事は仕方ないにしろ、極力プライベートでは関わらないようにしていたのですが……。
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ある日のことです。私が所属する労働組合の会議が思いのほか長引いてしまい、帰りが遅くなってしまいました。
職場にまだ灯りはついていますが、流石に残業している人は疎らです。余談ですが、サービス残業(趣味)は組合でも問題になっています。
鞄よし、傘よし、忘れ物なし。
自分の荷物を確認してコートを羽織り、社員用の出入り口を目指して廊下に出た瞬間。
(げっ!)
嫌な気分になりました。丁度、コートを着て帰り支度を済ませた係長と鉢合わせになったからです。
廊下の途中には、社員用のトイレがあります。おそらく係長は、帰る前にトイレに寄ったのでしょう。
用を済ませて出てきた途端に、私と顔を突き合わせる形になった、と……。
私も嫌でしたが、向こうも眉をひそめたのがわかりました。私がこんな時間まで残っているとは思わなかったに違いありません。
しかし、そこは大人同士。
それに私には「逃げたら小物っぽい」という妙な対抗心まであり、敢えて平然とした風を装ったまま、係長と並んで廊下を歩きました。
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二人とも、当然のように無言のままです。
足音だけが、響きます。
この廊下、こんな長かったっけ。
っていうか、帰り際に挨拶くらいはしなきゃな……。
一日の締めくくりがこのオバサンかよ……。
気まずい、なんてものじゃありません。
上司だろ。何か言えよ……。
普段は微塵も尊敬していない(どころか、軽蔑している)相手に、こんなことを思う私も大概ですが。
灯りの消えた給湯室の前を通り過ぎようとした時、私の中にひとつの悪戯心が芽生えてしまいました。
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「係長。知っていますか?」
係長が顔を上げます。まさか、私の方から話しかけて来るとは思わなかったのでしょう。とても驚いた顔をしていました。
「このビル、『出る』らしいですよ」
給湯室の前で足を止めたまま、私は軽い調子でそう言いました。
「出る……?」
やはり、敗走したとは思われたくないのでしょうか。係長が、わざとらしく口角を吊り上げながら尋ねます。
「幽霊……なんですかね? 同期の奴が言ってたんです」
私は興味を惹かれているふりをしながら、わざと真っ暗な給湯室に身を乗り出しました。
「残業帰りに廊下を一人で歩いていると、真っ暗な給湯室の中から『くいっ』と袖を引かれた、って」
廊下の蛍光灯に照らされた係長の表情が、一瞬で強張ったのがわかりました。
作戦成功です。
昼休みに係長が雑談するのを盗み聞いていたため、彼女がこの手の話を苦手としているのを知っていたのです。
「呑みの席の話でしょう? 信じられないわ」
強張った笑顔のまま、係長が言いました。
私は無邪気とも取れる笑顔を作って、
「私も信じちゃいませんけどね。給湯室に消える真っ白い手を見た、とか、コートの裾引っ張られた、って奴が二、三人いまして。もし本当なら、私も会えるかなー、と」
私は大の怪談好きですが、係長は怪談が苦手。
こんな部分も、ウマが合わない原因なのかもしれません。
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「やめて」
係長が呟きました。声が震えていました。
この人、こんなに怖がりだったのか。
私は、少し反省しました。実際に、残業していた社員が怖い目にあった、という話は何度か聞いていたのですが。暗闇から手が出るなんてありがちな怪談、誰かのでっち上げに違いないと、私は最初から信じていなかったのです。
「でも、子供だましですよね」
私は係長を振り返って、呆れたように言いました。
「幽霊なんか居るわけ無いんですよ。すいません、変な話しちゃって」
言い訳させて頂きますと。この時私がこんな話をしたのは、ただ係長に対して嫌がらせをするためではありませんでした。
嫌がらせ半分、他の目的半分だったでしょうか。
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係長にサービス残業をやめさせる。
それも、目的の一つでした。
前述した通り、誰にも強要されていない自主的なサービス残業に関しては組合でも度々問題にされていました。
当の本人は「好きでやっているから」と、何度注意しても残業代の申請をしません。それが上司だったりすると最悪で、部下までが残業代の申請をせず、当たり前にサービス残業を行う環境が定着してしまうのです。
全員が馬車馬のように働けば、期待以上の成果は出ます。
が、それは自分の自由時間や睡眠時間を削って出している成果です。残業代が出ないため、実質タダ働きです。
しかし会社は、「これだけ成果が出ているなら」と、更に倍の仕事を振って来ます。人としての尊厳を捨てて働くのが当たり前になってしまい、人員は増員されません。
ブラック企業の完成です。
私のように神経の太い人間なら、係長がサービス残業するのを尻目に堂々と帰ることも可能ですが。気遣いの鬼でもある昨今の若者には、難しいでしょう。
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怪談……それも自分が働いている会社の怪談を聞かせれば、怖がって不必要な残業をしなくなるかもしれない。
浅はかだとは思いますが、私にはそんな狙いもありました。
「大丈夫ですよ。何もありませんでしたから」
少しやりすぎたかな、と思った私は、係長に向かってそう言いました。けれど私は、怖がりな人間を正直舐めていました。
度を越して怖がりな人間というものは、怖いが故に怪異の出現場所に首を突っ込んで、何も無いということを確認しないと安心できないらしいのです。心配性な人間が、何度も旅行の荷物を開けて忘れ物が無いか確認するのと似ています。
私が廊下に出ると、入れ替わりに係長が給湯室を覗き込みました。
あれ? 怖いんじゃなかったの?
驚く私を振り返って、係長が苦笑します。
「本当ね。何もいないわ」
安心したような表情でした。しかしその顔は、一秒後には別人のように強張りました。
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係長の全身が、ぐいっと。
それこそ、誰かに引っ張られたとしか思えない速度で給湯室に消えたのです。
「……!」
人間、本気で恐怖を感じると声が出ないものですね。係長もそうでした。怪奇映画のような甲高い悲鳴など、上がりませんでした。
「係長!」
私は慌てて給湯室に飛び込みました。
さっきまでは誰もいなかったのに。空っぽの、コードの抜かれた電子レンジと錆びたガスコンロと流しがあるだけの、簡素でそっけないただの給湯室だったのに。
給湯室の中に、微かに人影が見えます。片方は係長。廊下に近い為か、蛍光灯の灯りが頬を照らしています。
背後に、もう一人。
私は前を見据えたまま、給湯室の壁を手探りしました。
指先が出っ張りに触れます。
電灯のスイッチ。
ぱちん。
灯りは、二、三度瞬いてからようやく灯りました。
「……!」
人間、本気で驚いた時も声が出ないものです。私も声が出せませんでした。
係長は、自分よりも背の低い人間に腕を掴まれていました。コートに深く皺が寄る程、強く掴まれているようでした。
係長は声も出せずに震えています。震えながら、私と、それから自分の腕を捕まえている人物を交互に見つめています。
信じられない。
係長が首を振ったのは、自分が見たものが理解できなかったからではないかと思います。
係長の腕を掴んでいたのは。
係長よりも背が低くて、髪の短いその女は。
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私、でした。
何だか良くわからないでしょうが、確かに『私』だったのです。
毎日鏡で見ている丸顔も。オレンジがかった赤い口紅も。フリーマーケットで購入した、この世でひとつしか無いはずの手作りのバッグさえも、何もかもが同じだったのです。
え、何で?
私は唖然として『私』を見つめました。
私は確かに此処に居る。廊下に居て、給湯室の光景を眺めている。
それじゃあ、給湯室に居るのは……係長の背後で、係長の腕を掴んだまま、無表情にこちらを見返す『私』は一体。
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係長が唇を動かしました。
不格好に青ざめた、桃色の芋虫のような唇の動きを、何故だか私は覚えています。
た、す、け、て。
声は出ていませんでしたが、そう言っているように見えました。
途端に、私の全身にぶわっと鳥肌が立ちました。『驚き』が『恐怖』に変わったのだと、今では思っています。
逃げよう。
頭に浮かんだのは、そのことでした。
係長がどうなろうと、知ったことじゃない。
もういい、私だけ逃げよう。
人間が死に直面したと思った時、思い出すのは家族や友人との大切な記憶ではなく、案外どうでも良いことなのかもしれません。
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私の場合は、浪人時代に通っていた予備校の先生のことでした。
お断りしておきますが、私が先生に恋していたとか、そういう感情は一切ありません。
ただ、先生は若いころから世界中を渡り歩いては冒険記を執筆していらっしゃるような方で、辛い勉強の息抜きに、と、時折自分の冒険譚を面白おかしく語ってくださいました。
私が『私』から逃げようとした際に、思い出したのは例の先生が語ってくれたお話のひとつでした。
先生が某国を冒険していた際、同行者であった外国人の女性が死に直面するような事故に合ったそうです。先生は逃げようとしましたが、「ここで逃げたら、自分は今後の人生ずっと後悔し続ける」と思い、恐怖を振り切って彼女を救い出したそうです。
幸い、先生も女性も助かりました。
先生は、「あの時の気持ちは忘れられない」と語っていました。
そんなことを思い出した私は、改めて係長と、係長を押さえつけている『私』に向き直りました。
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今、ここで逃げたら。
私と向き合う『私』は、相変わらず無表情に、不思議そうとも言える目付きでこちらを見返しています。
私は、一生後悔し続ける。
失礼な言い方になりますが、予備校の先生が外国人の女性を助けたのは、必ずしも正義感から来る行為ではなかったと思います。
一人の命を見捨てて逃げたのだ……そんな余計な罪を背負いたくなかったからこそ、無茶な行動に及んだのではないでしょうか。
係長なんかの為に後悔する人生なんて御免です。
係長は、『私』に捕まれていない方の腕を精いっぱいに伸ばしています。
その腕を、私は何も考えずに掴みました。
そして、全身の力を込めてぐいと引っ張りました。
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意外なほどあっさりと、係長は『私』の手から抜けました。
私は全体重を掛けて係長を引っ張ったので、結果的に重なり合うようにして廊下に倒れ込む形となりました。
私に覆い被さった係長の体重が予想以上に重く、窒息しそうになったことをここに記しておきます。
係長は、しばらくの間呆然と廊下に座り込んでいました。
「係長、係長」
私は係長の両肩を掴んで揺さぶりました。
係長は虚ろな視線を上げて、ようやく私の顔を見ました。
「林檎亭さん?」
係長が私の名前を呼びます。声は震えて、掠れています。
「あなた……本当に、林檎亭さん?」
私は『私』の存在を確かめる為に、給湯室に飛び込みました。
当然のように、そこには誰も居ませんでした。
「何言ってるんですか、係長」
やはり、人間とは汚いものです。私は叱りつけるような口調でそう怒鳴りました。
「不審者ですよ、不審者! ビルに入り込んだ不審者が居るんです!」
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それからのことは、係長よりも私の方が良く覚えていると思います。係長は腑抜けのようになってしまったため、私が彼女を引きずって警備室まで連れて行ったからです。
警備員の方々には、見たままのことを話しました。
給湯室に不審者が潜んでいたこと。
『係長より背が低い』、『髪の短い』女だったこと。
嘘は吐かなかったはずです。
顔はどうだったか聞かれたので、「詳しい造形は覚えていないけれど、結構美人だった」と答えました。嘘は吐いていません。
警備室の方から、警察へも連絡してくださいました。
係長は本当に何も言えないくらいに消耗していたので(スカートの色が少し変色していたため、少量ながら粗相していたのではないかと思います)、その日は私だけが何度も事情を聞かれることになりました。
係長が何か言いたげに私を見つめていた気もしますが、私は始終気付かない振りをして、あくまで『不審者』が居たのだという話をし続けました。
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あれから何か月も経ちますが、『不審者』は捕まっていません。
係長は、あまり私に干渉しなくなりました。できる限り、私に関わらないようにしているみたいです。私は至って快適ですが、仕事のことで話しかけても怯えた顔をされるので、やっぱり多少「鬱陶しいな」とは思ってしまいます。
お化け騒ぎで盛り上がっていた同期たちは大盛り上がりの大騒ぎでしたが、私があくまで「給湯室に潜んでいただけの、ただの頭のおかしい不審者」というスタイルを崩さなかったためか、次第に噂も下火になって行きました。
係長の憔悴振りを見て、話題にするのが気の毒になってしまったのかもしれません。
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私はと言えば。
「自分自身に勝つなんて、少年漫画みたいで格好良いな」
と、一人悦に入っている次第でしたが、当然他人に自慢することなどできないのでありました。
作者林檎亭紅玉