高校2年生の9月、2学期が始まり季節も少しずつ涼しくなってきた頃、新しい自転車を買った。
安物だけど、初めてのマウンテンバイクに、毎日乗るのが楽しみで仕方がなかった。
運転にも慣れてきた頃、いつもの学校からの帰り道を走っていた。
ある英会話教室の前の小さな信号が赤になり止まる。
その道の右は車道で、自転車に乗ったおばあさんと、綺麗な白ワンピースの女性が立っていて、私とは別の信号を待っていた。
両方の信号が同時に青になり、自転車を走らせようとしたが、なにかボソボソ聞こえる。
「…いでよ…」
ん?と思い、周りを見た。
あの白ワンピースの女性が、俯きながらに話している。
顔を上げ、こっちを向いた。
あの顔は今でも忘れない、あの恐ろしくも悲しい顔。
涙こそは出ていなかったが、今にも泣きそうな顔だった。
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shake
「行かないでよ!!!」
全身が総毛立った。
女は続けて言う。
「ねえ……なんで行っちゃうの…?なんで私を置いて行くの…?行かないでよ…ねえ…」
状況が呑み込めずにいた。
しかし一つだけわかる。
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この女、やばい
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しかも、おかしなことに、あのおばあさんは女の叫び声に反応していないのだ。
おばあさんと言えど、耳が遠くなるほどじゃない。
パッと見齢60弱くらいだ。
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そして女は、ついに歩み寄って来た。
1歩、また1歩、無気力な動きで近づいてくる。
女が3歩目に踏み込んだ時、私はハッとして、ペダルを漕いだ。
信号は渡ってない、その横の小道に入った。
そして後ろから聞こえる声。
「ねえ…行かないでよ…置いていかないでよおお!!!」
驚いて後ろを見たら、あの女が追いかけてきていた。
もう先程の麗しい女性とは似つかない形相。
ゾンビのように手を前にして走ってくる。
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とっさに判断したことは、家に真っ直ぐ帰ってはダメだということ。
道を知られたら何が起こるかわかったもんじゃない。
私は、入ったことも無い小道に入ってすぐ、家とは反対の方向の道に入った。
案の定女はついてくる。
距離が離れつつあることに気づいた女は、短距離走を走るようなフォームに変えて追いかけてきていた。
形相はあのままだ。
それでもマウンテンバイクの速度に追いつける人間なんている訳もなく、どんどん距離は離れていく。
そろそろ道を変えて家に帰ろうと考え、右に入った。
入る間際、後ろを見ると女は立ち止まっていた。
真顔のままこちらを凝視していた。
「しまった」と思った。
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女は交差点の真ん中にいる。
つまり、仮にやつが立ち止まったままでいたら、私が家に帰る場合、いずれの道を通ってもやつに方向を見られてしまう。
大通りに出て更に道を変えようにも左へ道を変える際にまたやつに位置を知らせることになる。
今できることは、並行線の道を、家と反対の方向に真っ直ぐ進むことだ。
それしか安全な方法はない。
それから、来たことも無い道をただただ真っ直ぐ走っていた。
人も車も通らないような道だ。
恐怖でどうにかなりそうだった。
よく言うよな、「女の変質者なんて怖くない、男の方が力が強いんだから」なんて。
怖ぇよ、めちゃくちゃ怖ぇよ。
正気を失い、理性のない人間に種類なんてない。
男だろうが、女だろうが、まして老人だろうが、子供だろうが、そんなこと関係ないんだよ。
1度会ってみるまではわからんかもしれんが、会ってみたらわかる、そこに恐怖の差異はない。
そんなことを思いながら五分くらいずっと走っていた。
その際、怖くて後ろを1度も振り返っていない。
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左の道とは別の大通りが見えてきた。
学校のすぐ側の通りだ。
ほっと胸をなでおろした。
ここなら人通りも多く安全だろう。
とは言え、どうしたものか…
うーん…。少し遠回りだが仕方ない、この道を進んだ先にある川に沿って帰るか。
ということで川に向かって走り出し、ついでに道の途中にあったお地蔵様に安全の祈願をした。
川が見えたきた。
さて、行くか。
さすがにこんな道にはいないと思うが、怖いことには変わりがない。
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慣れない道を走ることおよそ5分。
ちょうど先程の場所の直線上付近だ。
しかし先程の道からこちらは見えない構造になっているので、見つかるわけはない。
慎重に、けれど速く、私はペダルを漕いだ
ドクンッ、ドクンッ
緊張と恐怖の鼓動がやけに響く。
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知っている高層マンションが見えてきた、残り4分くらいで家に着きそうだ。
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「ねえ…なんで行っちゃうの…?」
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心臓が、本当に一瞬止まった気がした。
息が出来なかった。
体も硬直する。
(どこにいる…?どこだ…!)
自分の眼球を動かし、見える視野内を徹底的に探した。
「置いていかないでよ…」
近づいてくる声と逆に、見えぬ姿。
(後ろ…!)
そう思ったと同時に、反射神経が作用してペダルを全速力で漕ぎ出した。
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後ろでは叫び声が聞こえるがもうどうでもいい、早く逃げなければ
今思えば人や車の通らない道で本当に良かったと思う。ぶつかったら絶対無事では済まされない速さだった。
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家に着いた。
しかしあそこから最短ルートで帰宅したので追われているかもしれない。
私は低腰でサッとカーテンを閉めた。
ドアにも鍵を閉め、その日は一日中模造刀をそばに置いていた。
母さんには笑われたけどね。
私からしたらシャレにならない。
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次の日、学校にはタクシーで行かせてもらった。
友達に話すもやはり信じず。
そこでふと思い出した。
(録音、しっぱなしだった)
私は軽音部の部長を務めており、文化祭も近いということで、昨日はみんなで練習に励んでいた。
その時の演奏をあとから聞くために録音をしていて切るのを忘れていたのだ。
(そうだ、ここにあの声が!)
思い出すのは嫌だが、知ってもらいたい衝動の方が勝り、わたしは録音を聴かせた。
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ない
あの女の声がどこにもない。
どこを探してもあの女の声は録音されていない。
聴こえるのは、私が必死に自転車を漕いでいる荒い息遣いだけだ。
(なんなんだよ!どういうことだよ!)
「やっぱうそやーんおつ〜」
とバカにする友人の声に腹を立てる余裕が私にはなかった。
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そこであるおかしな時間帯に、大きな波長があるのを見つけた。
私の寝ている時間だ。
(なんだ?…また何か寝言でも言ったかな?…)
と思い、恐怖を紛らわすついでに聞いてみることにした。
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shake
「置いていかないでよおお!!!!」
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そこからどうしたかは、もう覚えていない。
言うまでもないが、もうその道には決して近づいていない。
あの女はなんだったのだろうか。
ただの変質者だったのか…?それとも…
作者詩雲_shion
お読みいただきありがとうございました。
前作「近所の空き家」の元となった、私の実体験のひとつです。
1部フィクションが含まれていますが、9割は事実です。
本当に、怖かったです。