ある昼下がり、俺は自宅の一室で、高校野球のライブ放送を見ていた。
窓の外では雨脚が絶えず通り過ぎていき、時折誰かがノックするように、大きな雨粒が窓を叩いていた。
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窓ガラスには均等な大きさで水滴が散りばめられていたが、よく見てみると雨粒には大小さまざまなものがあることに気づいた。
水滴はある程度の大きさになると重力に引っ張られて窓をつたい、ほかの水滴を仲間につけてますます大きくなっていった。
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俺は、時折深いため息をつきながら、その様子を飽きることなく見つめていた。
目当ての試合は、まだまだ始まりそうになかったのだ。
テレビの画面は、少しも雨粒のついていない透明なレンズで、夏の甲子園に向けた地区予選の中継をこちらに届けていた。
その前で俺は、片手にはビール缶を持ち、もう片方の手で背中を掻きながら、窓の水滴と画面の中継の、それぞれの進捗を交互に見ていた。
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そんな俺はさぞ楽しんでいるかと思えば、そうではなかった。
それどころか、一定の周期で襲ってくる欠伸と一緒に、湧いてくる憂鬱も噛み締めなければいけなかった。
本当は、自分は、画面越しのあの会場に座って、球児たちの躍動を生で観ているはずだった。
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それが、どうして今日に限って雨なのか。
窓の外からは相変わらず降り続ける雨の音が、ちょうど小降りになった時にはなぜか自分を慰めているようにも聞こえた。
そしてその度に、通り過ぎようとする雨脚をとっ捕まえて、俺の憂鬱はお前のせいなんだぞ、と怒鳴りたい衝動に駆られた。
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別に、雨だからといって野球の試合がなくなるわけではなく、会場で観戦しようと思えばすることだってできた。
でも、雨に濡れながら野球観戦をしたいかと聞かれれば、そこまでではないという思いがあった。
そして、俺はそんな自分に、いちばん嫌気がさしているのだと思った。
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実際に雨が降っても降らなくても、俺の気分はいつだって曇り空な気がした。
曇り空を見て、どれだけの人が傘を持って出かけるだろうか。ふとそんなことを思った。
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少なくとも俺は、傘なんて相当な土砂降りでもなければ、持ち歩かない主義である。
だから、俺は時折降る雨にはずぶ濡れにならなければならなかった。
そして俺の憂鬱な気持ちは、いつだってにわか雨のようにやってくるのだ。
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ますます雨は強くなり、今やっている試合-それは目当ての試合のひとつ前の試合であった-は中断され、俺は手持ち無沙汰になって寝転んだ。
片手のビール缶は、とっくに空になって床に転がっていた。
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俺は、自分が高校球児だった頃の後悔を思い出していた。
高校生の俺は、引退も近い3年の春に、突然部活を辞めた。
自分でも、あの時なぜ辞めたのかよくわかっていなかった。
ただ、その時にはもう野球に対する情熱が失われてしまったのは事実だった。
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そして、今の俺はどうして憂鬱なのか、実は雨のせいだけではないことに気づいた。
あれだけ楽しみにしていた会場での野球観戦を、雨を言い訳にして反故にする今の自分は、あの頃からなにも変わっていないのではないかと思うと、それが憂鬱の本当の原因な気がして、雨で落ち込みがちな気分はよりいっそう深くまで沈んだ。
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せめて、応援している俺の母校がコールド勝ちでもしてくれれば、このどんよりした気持ちは少しでも晴れてくれると思った。
目当ての試合というのは、何を隠そう、自分の母校の晴れ舞台なのであった。
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やがて雨が止んで試合は再開し、その試合が終わると、いよいよ母校の球児たちの夏が開幕した。
俺は姿勢を正して、テレビ画面にかじりついた。
しかし、やっと待ちわびたその試合では、まるで俺の意に背くように、彼らの青春は、無残にも箱の中で散っていった。
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その時の俺の手には、5本目のビール缶が握られていた。
そのビールを煽る手は、応援していた彼らの泣き崩れる姿を見て、より活発になっていた。
それは、彼らの敗戦を嘆いているのではなかった。
たとえ負けてしまっても、最後までやり遂げた彼らに嫉妬していたのであった。
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俺は何もする気にならず、だらだらとテレビの前で時間を浪費していた。
この後にも試合は2つほど残されていて、もうすっかり雨はやんでいたが、目当ての試合を見終わったいまさら、会場に行く気なんてまったく起こらなかった。
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画面の中では、次の試合までの穴埋めとして、会場の外で待機する選手にリポーターがインタビューしていた。
俺は、あと数時間後には笑っているか泣いているかわからない、インタビューを受ける選手の顔をぼんやりと眺めていた。
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俺には、たとえどちらの顔になろうとも、彼の顔は輝かしいのだろうと思った。
会場の上の空はまだ雨雲が待機していて、画面の中は薄暗いはずなのに、その真ん中で質問に答える彼の日焼けした肌とそこから覗く白い歯が、とても眩しく見えた。
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…さっきまで俺の手にあったビール缶は、いまでは中身を撒き散らして無造作に床に転がっていた。すでに転がっていたほかの缶は、床に広がる液体によってそれぞれが少しずつ位置を変えた。
俺は、ついにやけになって缶を投げつけたわけではなかった。
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俺は、さっきと同じインタビューの画面の、しかしある一部を見て驚いていたのだ。
手から滑り落ちたビール缶なんて目に入らないくらいに、俺は吸い込まれるように画面と向かい合っていた。
画面の中では相変わらず、選手のインタビューが続いていた。
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その後ろ。1人の男らしき人が、歩いている。
彼の相貌、歩き方。別に変わったところはない。
しかし、彼の歩く場所には問題があった。
彼は、地面を歩いてはいなかった。
彼が歩いているのは、壁だったのだ。
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スタジアムの側面の壁を、重力を少しも意に介さず、上に向かって単調な速度で歩いていく。
俺は、インタビュアーや選手たちを含め、そこにいる誰もが彼の存在に気付いていないのが、不思議で仕方なかった。
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彼のことが見えているのは、俺だけなのか?
そう思うと、俺は身体中からどっと汗が吹き出るのを感じた。
それも、雨上がりの蒸し暑い昼間にかく、嫌な汗だった。
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その男が明らかに幽霊の類のたたずまいをしていれば、俺はまだこの状況を受け入れられたのかもしれなかった。
彼が、どこにでもいそうな普通の男であることが、よりいっそう俺を震えさせた。
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しかし、彼が普通な存在でないことは、明らかだった。
そして、俺が一瞬画面から目を離すと、次に見た時にはすでにその姿は消えていた。
彼は、画面外まで歩いていったのか。それとも、途端に重力に耐えきれなくなって、地面に落ちて消えたのか。
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しかし、俺はそのどちらの可能性も、考えるのをやめた。
それは、彼の姿が消えた今となっては、さっきの映像は見間違いであると思うことの方が、正しいような気がしたからだった。
思えば、俺はひどく酔っていた。そんな酩酊した自分の、単なる勘違いに過ぎないという方が、あの男の垂直二足歩行を認めるよりも、ずっと簡単であったのだ。
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それでも、胸の内のもやもやは一向に消えず、俺はもう寝てしまおうと思った。
そして、缶に混ざって床に転がっていたリモコンを手に取り、テレビの電源を消そうとした。
そのリモコンもまた、床に広がったビールの池にずぶずぶに浸されていたので、俺の思う通りになることはなかった。
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俺はリモコンを修理する気にもならず、仕方なくテレビの前まで歩み寄り、手で電源を切った。
そして、俺はまた、しかしさっきの比にならないくらいの戦慄を覚えた。
暗転したテレビ画面の奥。
天井から、ぶら下がるものがあった。
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それは、普通ではありえない格好で、画面越しに俺を見つめていた。
その男は、天井に直立不動?して、腕は固く組みながら、微動だにせずこちらを見ていた。
その顔は笑っているようにも見えたが、俺は振り返る勇気もなく、画面の反射だけでは分かり得なかった。
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俺は、それがさっきの垂直歩行男であることを悟った。
どうして俺の部屋に?スタジアムから一瞬でどうやってここまで来れた?
俺の疑問はどれも現実的でなく、そう思う自分でも馬鹿馬鹿しくなってきた。
でも、彼がいることは、今では疑いようがなかった。
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いや、あくまで暗転した画面に映る彼を見つけただけで、実際に彼の姿を見てはいないのだから、彼が「いる」なんてことは確実ではないのかもしれなかった。
しかし、目は騙せても、耳には嘘をつけなかった。俺は背後から聞こえる声に、いよいよ男の存在を認めなければならなかったのだ。
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「過去をやり直さないか?」
男は、確かにこう言った。そして続けて、
「もし、お前が過去をやり直したいなら、後ろを振り向いてごらんなさい。
ただ、お前に過去をやり直す気がないのであれば、ぎゅっと目をつむって、そのまま10秒ほど待ちなさい」
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男の声はエコーがかかったように俺の脳内に響いた。
俺は耳ではなく、自分の脳が彼の存在を認めたように思った。そして、もうこの状況から逃れられないのだとも思った。
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俺は、男の言うことを考えなければいけなかった。
自分は、本当に過去をやり直したいのだろうか。
今の自分を受け入れて前に進むことと、過去をやり直せるならばそうすることの、どちらの方が前向きな考え方であるのか、俺にはわからなかった。
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でも。俺は、さっきまで見ていた高校生たちの様々なシーンを思い出した。
試合前の、緊張する面持ち。応援席で声を張り続ける制服姿。結果が出て仲間と抱き合う者。結果が出なくて悔し涙を流す者。
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もし、過去に戻ることができるなら、もう一度彼らのような青春を、自分も味わうことができるかもしれないのだ。
もし、本当に、過去に戻れるのであれば…。
そして、俺は振り返っていた。
俺は自分のいまに目を瞑るかわりに、過去に戻りたい一心で、振り返ったのだ。
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…振り返った俺の視界に、男の姿はなかった。
その時の俺は、男の存在なんて気にも留めず、窓についた水滴を見ていた。
ある水滴は重力に引っ張られて、ほかのものを吸収して大きくなりながら流れ落ちていった。
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その窓の向こうでは、さっきまで止んでいたはずの雨が、窓を叩きながら降っていた。
俺はなんだか憂鬱な気分になって、深いため息をつきながら、目当ての試合が始まるのをビール缶を片手に待っていた。
もちろん、床に広がっていたビールの池は消えていた。
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ある男の壁を歩く姿を、俺が画面の中に発見するのは、それから試合2つ分先のことであった。
その男の目撃がもう何度目になるのかは、降っては止みを繰り返す、雨脚だけが知っていた。
俺は何も気づかずに、窓を叩く雨に舌打ちすると、もう一度深いため息をついた。
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雨はそれでも、ざあざあと降り続けている。
まるで空にぶら下がる何者かが、哀れな俺を見て、涙を落としているように…。
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