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大長編63
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神御呂司村の怪奇譚

俺は川岸に佇んでいた。車椅子ではなく自分

の足で立っていた。

 辺り一面に紫色の花畑が広がっている。空

は夕陽で燃えるように赤くなっていた。

 ここはどこなのだろうか?

 もしかして、俺は死んでしまったのか?

 さまざまな思いが頭の中を去来していく。

臨死体験をした人間はたいてい「綺麗な花畑

が広がっていた」とか、「今まで見たことも

ない幻想的な景色だった」などと語っている。

それが本当だとするなら自分は今まさに死へ

と近づいているのかも知れない。

 夕闇が迫りつつある中、対岸に一つだけ人

影があった。

 俺は相手が何者なのか気になってもう一度、

対岸の人影を凝視した。すると、それはヘル

パーの一人である清水康介だった。

 桜花精の事件後、清水は行方不明になって

いたのだ。

 「おーい、今まで連絡もせずにどこにいた

んだ?」

 「……」

 俺は対岸に向かって声をかけたのだが返事

は返ってこない。

 聞こえていないのかとも思ったが、自分と

相手を隔てている川の規模は小さく、川幅も

狭いので対岸と言っても少し大きい声を出せ

ば聞こえる程度の距離しかなかった。俺は自

分の発音が悪かったのかも知れないと考えて

もう一度話しかけた。

 「ここはどこなんだ?」

 「……」

 清水は相変わらず声を発しなかった。だが、

今度はこちらに何かを伝えようとしているら

しく、首を横に振りながらしきりに口を動か

している。口の動きを目で追ってみるに「危

険だ。こっちに来てはいけない」と言ってい

るように見えた。

 「何が危険なのか?」と叫んだが相手に声

は届かず、気がついた時には対岸に深い霧が

たちこめていた。あっという間に清水の姿は

見えなくなっていた。

 俺が呆然としていると横から「稲生さん、

起きてください」という聞き覚えのある声が

した。

 目覚めた時、自分は新幹線の中にいた。声

をかけたのはヘルパーの坂口だった。

 この日、俺は山口県岩国市へと向かってい

た。理由は清水康介の葬式に出席するためだ。

葬式に参列しようと思ったその動機は長年に

わたり世話になったというのもあるが、見知

らぬ土地に好奇心をもったというのも理由の

一つではあった。

 三日前、ヘルパーの派遣事務所から電話が

かってきた。内容は清水の訃報を告げるもの

だった。清水の母親から事務所に連絡があっ

たという。

 母親によれば五カ月前、清水がいきなり帰

省したのだという。それから一か月もしない

うちに失踪してしまった。それが最近になっ

て実家近くの竹林で彼は変死体で発見された

という。 

 遺体の状態は異常なもので全身の血液が抜

かれており、ほぼミイラ状態だったそうだ。

 そして、同時に清水は現場付近で発生した

殺人事件の関与を疑われ、遺体は解剖された

ようだが何もわからないまま。結局、遺体は

実家に返されたということらしい。

 清水は俺の家で介護を何年も続けており、

自分にとっては馴染みのヘルパーたちの一人

だ。 

 桜花精の事件後に失踪しただけに気にはな

っていたのである。それが死体で発見される

という最悪の結末にショックは大きかった。

 彼の実家は山口県岩国市にある神御呂司村

という寒村にあった。三日後にその実家で彼

の葬儀があるということなので出席すること

にしたのである。

 出発当日、俺はヘルパー二名と共に東京駅

発、新岩国駅行きの新幹線に乗った。所要時

間は四時間。それに新岩国駅に到着した後、

さらにそこから神御呂司村までは車で一時間

四十分かかる。全所要時間は五時間四十分。

恐ろしく遠い距離だ。俺は久しぶりに早起き

をしたのでひどく眠かった。車椅子専用のス

ペースでリクライニングを倒して休んでいる

うちに眠ってしまったようだ。車内の適度な

振動が睡眠へと誘ったのかも知れない。

 それにしても奇妙な夢だった。

 ──あの夢はいったい何を暗示しているの

だろうか?

 そんなことを寝ぼけた顔で考えていた俺は

ふと、車内の電光掲示板に表示されたニュー

スが気になった。

 「この五ヶ月間において山口県内で幼女が

何者かに殺害、あるいは行方不明になる事件

が多発しており、県警は同一犯による幼児連

続誘拐殺人事件として捜査……」

 俺はそれが清水にかけられた容疑と関係す

る事件のような気がしてならなかった。もち

ろん、根拠はなかった。ただ、彼が異常な死

にかたをしていることもあり、何がどこで繋

がっていてもおかしくないのではないかと不

意に思ったのである。いずれにせよ本人が死

亡してしまっては謎が深まるばかりだった。

 俺が目覚めてから五分後、新幹線が新岩国

駅に到着した。

 駅を降りるとロータリー近くで介護タクシ

ーが待っていた。車両はハイエースバン。後

方に車椅子を載せるための昇降機がついてい

る。運転手がそれを操作して昇降機に車椅子

を載せて地面から押し上げて車内へと誘導し

てくれるのだ。運転手が俺にシートベルトを

装着している間、ヘルパー二人は荷物を車に

積み込んでいた。

 出発の準備が整った後、タクシーは神御呂

司村に向かって走り出した。

 車窓の移り変わる景色は広大な田畑、遠く

に連なる山々の峰、青空を流れていく白い雲。

せわしない都会とは違い、どこか時間がゆっ

くりと動いていた。道中、俺はあまりにもか

わりばえのしない風景に眠気をもよおしてき

たが、夜に眠れないのは困るのでヘルパーと

会話をしながらやり過ごした。

 駅を後にしてから一時間後。タクシーは神

御呂司村手前の橋にさしかかっていた。橋は

深い谷間を跨ぐように架けられていた。谷底

には川が流れていた。川の流れがかなり激し

いらしく、白く泡立った水が渦を巻きながら

水しぶきを飛ばしているのが見えた。電動車

椅子の座高はヘルパーが座っているシートよ

りも高いため、窓越しに谷底の激流を見下ろ

すことができた。車内だというのに激流の轟

音が耳に届いていた。

 橋を渡り終えると村の景色が見えてきた。

周囲を山に囲まれた小さな集落と言った印象

だ。

 紅葉に彩られた山の中にたたずむ村はどこ

か寂しくもあった。どの民家も木造の茅葺屋

根が多く、村だけが時代から取り残されてい

るような古めかしい雰囲気を漂わせていた。

黄金色に輝く田んぼでは村人たちが稲刈りに

精を出していた。どの顔も高齢者ばかりで若

者の姿は見受けられない。少子高齢化の影響

なのか人間の数より建物の方が多いようだっ

た。

 やがて、タクシーは予約していた旅館に到

着した。旅館……いや、旅館というよりも民

宿と言った方が正しいかも知れない。古い木

造家屋の民家を改築しただけのものでみすぼ

らしいものだった。

 その民宿は数件の民家が密集した一角にひ

っそりと佇んでいた。屋根はひしゃげており、

建物自体も全体的に傾いていた。今にも突風

で吹き飛ばされてしまいそうな状態だったの

である。 

 薄汚い宿に比べて、夕陽に照らされた庭先

の桜の紅葉が目にしみるほど鮮やかに見えた。

 俺はタクシーを降りた後、ヘルパーたちと

一緒に宿の方へ向かって動き出した。清水の

遺族に手配してもらった手前、文句を言うの

も非常識なのでボロ宿でも我慢しようと心に

決める。

 それでも庭先から宿まで綺麗に舗装された

小道が続いており、電動車椅子でも容易に走

行することができた。

 宿の正面玄関の手前に段差があったのだが、

車椅子で上がれるようにスロープが用意され

ていた。十分な配慮に感謝しながら玄関口へ

と向かう。

 ところがそこには誰もいなかった。予定よ

り早くに到着したのかとおもった。だが、ス

マートフォンの液晶画面に視線を移してみる

と、表示された時刻は夕方の四時過ぎ。予約

していたのは四時半だから早すぎるというこ

とはない。

 「まあ、ひとまずは中に入ってみるか」と

俺たち三人は玄関の引き戸を開けて奥へと進

んだ。

 中はがらんとしていた。天井には照明設備

があるのだが、裸電球が吊るされているだけ

なのでどこか薄暗いような気がした。どこか

の部屋でお香を焚いているらしく、寺院を彷

彿とさせる匂いが鼻腔に入り込む。屋内には

骨董品として価値がありそうな壺、水墨画が

描かれた掛け軸などが展示されていた。

 それにしても誰もいない。辺りには言いよ

うのない静寂だけが漂っていた。俺は人の気

配がまったく感じられないことに気味が悪く

なってきた。

 ふと、視線を目の前に移してみれば、床の

上に座布団が敷いてあり、その上には小さい

老婆の人形が置かれていた。

 「おかしなぐらいによくできた人形だな。

顔が真っ白じゃないか」

 俺が一人ごちていると突然、その人形のこ

うべが垂れた。

 「遠方からお越しいただきありがとうござ

います」

 突然のことに俺は呆気に取られて言葉が何

も浮かばなかった。ヘルパー二人も明らかに

動揺しており、自然と後ずさっていた。

 「お荷物をお持ちしましょう」

 老婆がふたたび声をかけてきたのをやっと

の思いで制止した。

 「ヘルパーがいますので大丈夫です…」

 俺たちの動揺に気づいたのかそうでないの

か、老婆は赤い紅をさした口の端に笑みを浮

かべながら受付に案内するようにきびすを返

した。

 ごおおーん、ごおーん。

 いきなり柱時計が鳴った。

 「お部屋までご案内いたします」

 宿の女将の老婆が歩きながらこちらを振り

返ってそう告げた。

 女将によるとこの宿を利用しているのはほ

とんどが釣り客であるという。彼女の亭主は

若い頃から釣りが好きであり、趣味の延長で

宿を開業したそうだ。

 女将はそんな世間話をしながら客室まで案

内してくれた。

 宿は全部で十二部屋。当然ながらほとんど

が和室だった。だが、俺たちが案内された客

室は部屋の奥半分が畳、入り口側が板の間と

いう作りになっていた。板の間には簡易ベッ

トが用意されていたので畳の上で寝るよりは

楽そうだった。完全に改修工事がしてある自

宅に比べれば不便だが、ヘルパーが二人いる

ので二、三日程度ならどうにか乗り切れそう

な気もした。

 「では、これで失礼いたします」

 女将は食事の時間や諸々の説明を終えると

そのまま退室した。

 俺は少し休憩した後、喪服に着替えて清水

の実家へと向かった。

 五時半を少し過ぎた頃。

 俺は坂口と二人で清水家の門前にいた。も

う一人のヘルパーは夜勤なので部屋に残って

仮眠をとってもらうことにしたのである。

 村には外灯が少ないということもあって外

は真っ暗だった。日中に比べてだいぶ寒くな

っている。

 門を抜けた先にはテントが設置されており、

その場所が受付となっていた。受付の担当と

おぼしき女性がこちらに気づいて会釈してき

た。

 綺麗な女だった。黒くて長い髪には艶があ

った。喪服の着物が似合っている。

 俺が受付のところにいくと笑顔で話しかけ

てきた。

 「遠方からお越しいただきありがとうござ

います。稲生さんですよね?」

 「はい。この度はご愁傷様です」

 「生前は弟の康介がお世話になりました。

私は姉の楓(かえで)と申します」

 「こちらこそお世話になりました。それに

しても清水さんにご兄弟がいらしたなんて知

りませんでした」

 「稲生さんのことは生前、弟から聞いてお

りました」

 俺は清水に兄弟がいたとは知らなかった。

しかもこんな美人な姉がいるなんて本人から

聞いたこともない。まあ、プライベートな話

は職場で話したくない人間もいるからおかし

くはないかとその時は思った。

 ただ、不思議に思ったのは女の態度だった。

普通、どんなに気丈に振舞っても身内が死ね

ば涙を流す場面は何度かあるものだ。それに

原因不明の変死という未だに多くの謎を残し

ており、遺族にとっては穏やかでいられる状

況ではないはずだった。

 それが清水の姉だと名乗るこの女はまるで

他人のように平気な顔をしていたのである。

もしかすると感情を内に秘めるタイプなのか

も知れない。だが、それにしては女の瞳には

感情の色がなかった。目に光が宿っていない

のだ。涙を浮かべることもなく、俺に親しみ

を込めた笑顔を見せる時でさえもその目は無

機質なのである。

 それに女は時折、俺の顔を見つめながら舌

舐めずりしていた。まるで粘液まみれの爬虫

類の舌で全身を舐めまわされているようで不

愉快だった。

 相手の視線を感じるたびにぞくっと鳥肌が

立った。俺は楓という女の近くにこれ以上は

いたくないと思い、途中で話を切り上げて香

典を手渡した。まだ葬式は始まっていなかっ

たので坂口に線香をあげにいかせた。どうし

て自分の代わりにヘルパーを行かせたかとい

うと、清水家の屋敷は車椅子で入れるような

環境ではなかったからだ。それならばせめて

ヘルパーに線香をあげてもらおうと思ったの

である。その旨を伝えると清水の姉は坂口を

連れて屋敷の中へ入っていった。

 俺が玄関口で待っていると清水の母親が挨

拶に来てくれた。

 「遠くからありがとうございます。康介も

きっと喜ぶわ」と母親は気丈に微笑んでくれ

たがその瞳は涙で濡れていた。清水の母親は

それからしばらく世間話をしてくれたが最後

の方は泣き崩れてしまったので会話にならな

かった。最愛の息子を失ったのだから当然だ

ろう。それも常識では考えられない不可解な

死を遂げたのだ。

 ──なのにどうして、あの姉は涙を流さな

いのだろか? 血を分けた兄弟だというのに

……

 俺が咽び泣く母親への対応に戸惑っている

ところで坂口が戻ってきた。隣には先ほどの

姉の姿もあった。

 「良かったら明日も顔を出して下さい。き

っと、弟も喜ぶと思いますので」と姉はそう

言った後、母親と共に屋敷の中へ戻っていっ

た。

 こうして俺と坂口は清水家の屋敷を後にし

た。

 

 清水家の屋敷から少し歩いたところに竹林

があった。行きの道もすでに夕闇に没しては

いたものの空にはまだ残照があり、薄暗い中

でも道中の景色を窺い知ることはできたので

とくに怖さは感じなかった。それに比べて帰

り道はすでに九時をまわっていたので辺りは

夜の闇に包まれていた。夜風に揺さぶられて

竹の葉が擦れ合っているのか乾いた音が辺り

に響いていた。

 時折、その音に竹自体が軋む音や枯れた葉

が地面に落ちる音がさらに交わる。それは得

体の知れない何者かがこちらに近づいて来て

いる足音のようにも聞こえて不気味だった。

もちろん、後ろを振り返っても誰もいない。

この村にいるのはほとんどが高齢者なのだか

らこんな時間に出歩くことはなさそうだ。

 同行していた坂口も俺が心の中で思った事

を言った。

 「何だか不気味ですね。誰もいないのに気

配を感じる」

 「確かにそうだね……そういえば、清水の

遺体が発見された場所ってこの辺じゃなかっ

たか?」

 「怖いことを言わないで下さいよ! 自分

はそういうの苦手なんすから……」

 「ごめん、忘れてた。それじゃあ、急いで

宿に帰るとしよう」

 「置いて行かないで下さいよ」

 「分かってるって」

 俺は電動車椅子のスピードを高速に切り替

えて走り出した。坂口も小走りでその後を追

いかける。

 数分後。そろそろ竹林が途切れるであろう

地点を通過しようという時、突如として深い

霧が辺りに立ち込めてきた。不思議には思っ

たものの、その不気味な竹林から一刻も早く

抜け出したかったので立ち止まらずに突き進

んでいく。やがて、霧は道を進んでいるうち

に薄れていった。距離的にはもう宿が見えて

きてもおかしくはなかった。

 だが、その先で待っていたのは奇怪な現象

だった。驚いたことに竹林の入り口まで引き

戻されていたのである。その証拠に行きの道

で見た石碑が道端にあった。

 俺は思わず車椅子の走行を停止させる。呆

然と石碑を眺めていると後ろからついてきて

いた坂口が突然、裏返った声で叫んだ。

 「あふぇー、これって竹林にあったやつで

すよね?」

 「たぶん……戻ってるな」

 俺と坂口は十月だというのに汗をびっしょ

りかいていた。怪奇現象に動揺していたのは

言うまでもない。

 その後、竹林を越えていこうと何度も挑戦

してはみたのだが道の先にあるのは石碑。ど

うあがいても入り口に戻されてしまう無限ル

ープに陥ってしまった。

 俺たちは精神的に疲れ始めていた。他の道

を選んでも結局は同じ場所に出てしまう。

 ──まさか、ここから永遠に出られないん

じゃないか?

 ふと、そんなことを考えてしまった。次元

の牢獄で朽ち果てた自分の姿が脳裏をよぎっ

た。

 ──どうしよう、どうしよう……

 ただ同じ言葉が頭のなかを堂々巡りして解

決策をまったく思い描けない。坂口は坂口で

焦っているのかさっきから唇を震わせ、変色

するほど強くかみしめていた。

 なかば諦めて深い霧がたち込める場所で佇

んでいるといきなり突風が吹き荒れた。俺た

ちは何もできずにただ息をのみ、轟々と音を

立てながら吹きつける風の中で巻き起こる現

象を静観していた。それがどのくらい続いて

いたのかは覚えていない。

 ただ、気づいた時には風がやんでいた。霧

も消滅しており、頭上の空を何かが飛び去っ

て行くのが見えた。

 俺たちは宿の前に帰り着いていた。

 翌朝。俺は告別式に参列した後、遺族に挨

拶を済ませて宿へ帰るところだった。清水家

の門を抜けたところで思わぬ人物と再会した。

 それは前回、俺が悪鬼に襲われた時に助け

てくれた土御門聖歌さんだった。相変わらず

黒い衣装は似合っていたがいつも同じなので

私服なのか喪服なのか分からない。

 ──なんでこの人がここに?

 俺がそんなことを頭の中で思ったのとほぼ、

同じタイミングで彼女の方から声をかけてき

た  

 「あら、稲生君。こんなところで会うなん

て奇遇ね」

 「お久しぶりです。この前はお世話になり

ました。俺は清水家の人と縁がありまして…

…土御門さんは?」

 「ちょっと、仕事でね」

 土御門さんは清水の祖母・カネさんからあ

る呪物を探して欲しいという依頼を受けたの

だと教えてくれた。その呪物とは「呪いの壺」

であるらしい。

 依頼人のカネさんによれば清水家では代々、

男子が早死にするという呪いが続いていると

いう。それと同時に一族が保有する壺がある

らしく、その関連性を調べた上で呪いを解い

て欲しいというのが当初の依頼だったようだ。

時を同じくして孫の康介が変死した。カネさ

んはそのことも壺による災いではないかと危

惧して「あれは邪悪で危険な壺。すぐに見つ

けないと大変なことになる…」との理由で早

急に依頼を達成して欲しいようだ。それを受

けて土御門さんがカネさんを訪ねたところだ

ったのである。

 「それにしても土御門さんは全国的に解呪

師として有名なんですね」

 「どうしてそう思うの?」

 「だって、こんな深い山奥の村の人にまで

知られているなんて凄いじゃないですか」

 「それがよくわからないのよ。清水カネさ

んはどうやって私のことを知ったのかしらね。

いきなり手紙が届いたの」

 「そうなんですね。なら、本人にどうして

知ったのか訊けばいいんじゃないですか?」

 「それが尋ねても覚えてないって言うのよ」

 「まあ、ご高齢なら物忘れしたのかも」

 「そうかもしれないわね……ところで稲生

君。もし、私の仕事に興味があったら手伝っ

てもらえない?」

 「……まあ、多少は興味あります。清水康

介が何故、死んだのか知りたいですし」

 「そう。良い返事が聞けて嬉しいわ。私は

これからカネさんに壺についてお話を聞かせ

てもらうから、稲生君は図書館とかでこの村

に壺の伝承があるか調べてみて」

 「分かりました」

 「それじゃあ、明日、郷土資料館で待って

いるからその時に調べたことを教えてちょう

だい」

 土御門さんはそう言った後、颯爽とした足

取りで屋敷の方に歩いていった。

 俺はひとまず宿に戻って着替えてから坂口

と図書館へ向かうことにした。

 古めかしい村の中で図書館や村役場などの

現代風の建築物は不釣り合いに見えた。電信

柱がなければ江戸時代にタイプスリップした

ような印象を受けてしまうこの場所に鉄筋コ

ンクリートで築かれたものは違和感さえある。

 さすがに図書館は公共施設なので車椅子で

も問題なく入ることができた。都市部にある

ような大きなものではなかったがそれなり書

籍は揃っている。

 俺は歴史コーナーに向かった。本棚にびっ

しりと並んでいる本を眺めながら移動してい

たら「神御呂司村 村史」というタイトルが

目についた。坂口に頼んでその本を取っても

らった。ページを開いてみると面白くもない

記事が延々と続いていたが一つだけ気になる

項目を見つけた。それは神御呂司村で行われ

てきた祭りについて記されたもので『ミサゲ

祭り』とあった。

 本文タイトルの真下に白黒の写真が印刷さ

れていた。写真に写っていたのは草木が鬱蒼

と生い茂る山の入り口であり、その両側には

神社にあるような石灯籠が立っていた。その

間には注連縄が張られていて、いかにも侵入

を拒んでいるように見えた。

 写真の下には小さな文字で『大正十四年、

ミサゲ山入り口にて撮影』とあった。

 さっそく、ページをめくって本文に目を通

すことにした。

『──古来より神御呂司村においてミサゲ祭

りという奇祭が行われてきた。

 伝承によれば遥か昔、この村は大飢饉に見

舞われた。村の長は飢えに苦しむ村人たちを

救う手立てがないか色々と試みたが成功しな

かった。日に日に餓死者が増えていく中、村

の長は天を仰いで「どんな神様でもかまいま

せん。どうかこの村を、村人たちをお助け下

さい」と願った。すると、天からそれを見て

いた神が人々を哀れに思い、村の中心に位置

する小さな山に降り立った。そして、神は雨

雲を呼び出して村に恵みの雨を降らせた。翌

日、不思議なことに枯れていたはずの田畑は

大量の農作物で埋め尽くされていたという。

それからというもの豊作が続いたことで村人

たちは飢饉から救ってくれた神を崇め、その

神が降り立った山そのものをご神体として祀

った。

 その後、村では年一回、神への感謝を込め

て祭りを行うようになった。祭事の具体的な

内容は次のようなものである。

 祭りは村の長と神主の二人が仮面をかけ、

村人たちを指導して進めていく。

まず、壺に五穀を納める。その壺を密封して

竹で組んだ輿に載せて男たちが掛け声と一緒

に運んでいく。そして、村の若い女たちは赤

い着物を身につけて踊り始める。仮面をかけ

た村の長と神主は手に鈴を持って打ち鳴らし

ながらその二つのグループを誘導し、山の周

りを練り歩く。三周した後に山の入口で山の

長と神主が男たちから壺を受け取り、二人だ

けで神を祀った祠がある山の山頂に登ってい

く決まりになっている。その際、壺を運んで

きた男たちと赤い着物を身につけて踊る女、

それに他の者たちはただちに各々の家に帰ら

なければならない。二人の後を追いかけては

いけないし、帰宅途中も家に着くまでは無言

でいなければならない。村の長と神主の二人

が最後に祠の前に壺を供え、二礼二拍手をし

て静かに下山して祭りは終わるという。ちな

みに祭りを指導する村の長と神主しか入山で

きない理由は普段から山が禁足地とされてい

るからである。ただ、この両者でさえ入山を

許されるのは年に一度だけであり、祭り以外

で立ち入ることは認められていない。

 この祭りが行われるようになってから村で

はミサゲという言葉が生まれた。

 神御呂司村においてミサゲという言葉は神

への感謝を忘れず、親身に尽くすという意味

が込められている。そのことから神が降り立

った山をミサゲ山と呼ぶようになり、祭りの

名称もミサゲ祭りとされた──』

 俺はこの記事を読んでいて祭事に壺が使わ

れるという点に興味をもった。珍しいという

理由で気にはなったものの、とても呪いの壺

と関係があるとは思えなかった。神事に使わ

れる壺なら神聖なものに違いない。ただ、土

御門さんに頼まれた「壺にまつわる伝承」で

はあるからひとまずは目的を達成できたと言

える。

 村の祭りに関するページだけコピーして宿

に戻ることにした。

 その夜、俺は食事を持って来てくれた女将

に世間話がてら奇祭について訊いてみた。

 すると、女将は喜んで話してくれた。

 「私も若い時、赤い着物を身につけて踊っ

たものですわ」

彼女は遠い過去を反芻しながら語った。

 「うちの亭主は今じゃ病気がひどく市内の

病院に入院していますが、若い時は輿を担い

でおりました……」

 「いい思い出なんでしょうね。ところで清

水家の近所にある竹林をご存知ですか?」

 「ええ、あの竹林のことですね。存じては

いますが……」

 「実は昨日、通夜の帰りにあの竹林がある

道を歩いていた時、何故だかすぐに抜け出せ

なかったんですよ。似たような話とかあった

りしませんか?」

 その話を持ち出した瞬間、相手の表情がこ

わばった。

 「さあ、どうでしょうね。ただ、ミサゲ祭

りで使われる輿は竹林の竹を伐採して作りま

すので、この村であの竹林はミサゲ山と同じ

ぐらい神聖な場所とされております」

 「そうだったんですね。知らなかった」

 「……ですので、村以外の人間があそこに

踏み入れると良くないことが起きるそうです。

他の道を通られた方がよろしいかと」

 「ご忠告、ありがとうございます」

 「……それではこれで失礼致します」

 そう言うと女将は怯えたような顔でそそく

さと部屋から出て行ってしまった。

 俺は申し訳ないと心から思った。村の伝承

は現代でも村民たちの中で息づいており、知

らなかったとは言っても神聖な場所に踏み込

んでしまったことを後悔したのである。

 その夜、不思議なことが起こった。

 深夜。俺がベッド上でまどろみに落ちよう

としていたら突然、ドアを開ける音がした。

最初は夜勤のヘルパーが喫煙をするために外

へ出ていったのだろうと思った。だが、気に

なって目を開けてみると夜勤のヘルパーは隣

で寝息をたてながらが眠っている。いつも不

眠症の坂口は明日に備えてゆっくり休もうと

睡眠薬を飲んで深く眠っている。俺の位置か

らその姿は見えないがいびきだけは聞こえて

いた。

 ──それじゃあ、今、部屋に入ろうといる

のは誰?

 恐怖で完全に目が覚めた。

 ──強盗が入ろうとしているのだろうか?

 だが、それはないと思った。こんな安っぽ

い民宿に泊まる客が大金を持っていると思う

泥棒なんているはずもない。どうせ強盗に入

るなら観光客が賑わっている場所でやればい

い。

 ──となると……また、怪異か?

 俺がそう思った時、ベッドの傍らに人影が

現れた。

 五十歳ぐらいの男だった。

 服装は修験者のような格好をしていた。

 その男はこちらを見下ろすように立ってい

た。血の気のない蒼白い顔。とても生きた人

間とは思えなかった。

男はその場に正座して律義に一礼した後、少

し間をあけてから口を開く。

 「夜分遅くに申し訳ございません。手前は

鳴鬼鉄斎(なるき てっさい)と申す者。生前

は鳴鬼流蟲術(なるきりゅうこじゅつ)の祈祷

師をしておりましたが、今ではご覧の通り村

内を彷徨い歩く幽鬼と成り果てました」

 「鳴鬼流蟲術?」

 「左様。大陸より伝来した蟲毒という呪術

を用い、殺生代行を請け負う稼業にございま

す」

 「……人殺しを生業としている恐ろしい方

が俺にどんなご用で?」

 「手前は一生涯、祈祷師として各地を放浪

しておりました。ところが最後に請け負った

仕事で失態を犯しまして……」

 「失態?」

 「はい。少し話が長くなるとは思いますが

……お聞きいただけますでしょうか?」

 「その長い話が俺にどんな関係があるんで

すか?」

 「それは手前の話を最後まで聞けばわかる」

 祈祷師は俺の問いかけを威圧的な態度でい

なし、淡々とした口調で語り始めた。俺は仕

方なく耳を傾けることにした。

 あれは天保のことでございました。ちょう

ど手前はこの神御呂司村に逗留しておりまし

た。

 村は飢饉に苦しんでおりました。

 ある時、手前は村の長から相談を受けたの

でございます。その相談とは「この村の枯れ

た田畑を実り豊かなものに変えることはでき

まいか」というものでありました。正直に申

しますと手前は答えに窮(きゅう)しました。

解決策が無いわけではございませんが……そ

れは高名なお坊様の霊験あらたかな仏法の力

とは異なります。手前が行うのはあくまで悪

しき邪法。おぞましく、人の道から外れた術

ばかり。

 それでも村の長は教えて欲しいと申されま

して、手前はやむなく秘術を授けたのでござ

います。ハッカイ法というものですが、それ

こそが村長の一族「清水家」の不幸の始まり

であり、手前が死してもなお、成仏できぬ理

由でございます。

 この秘策はまことに惨い方法でして……ま

ず、八人の幼子を人身御供に選びます。皆、

歳の頃は七つの幼き娘であることが条件でご

ざいました。人身御供に選ばれた子らを殺し、

八人分の心臓を取り出して大きな壺に納める

のです。すると、犠牲になった者たちの怨念

が壺の中で溢れかえります。その怨念が壺か

ら流れ出ぬように封印した後、村の中心部で

ある山の頂きに埋めるのでございます。今で

はミサゲ山と呼ばれる、かの山を選んだのは

あそこが村の心臓部に位置するからでありま

した。ミサゲ山から気が沸き上がり、その気

が地脈を通じて村全体に流れているのでござ

います。人体に例えるならば、ミサゲ山が心

臓、地脈が血液を体全体に行き渡らせる血管

とでも言えばよろしいでしょうか。

 どうしてこの秘策が適していたのかと申し

ますと、実は神御呂司村の地は陰の気で満ち

ており、農作物が実らない状態にあったから

でございます。手前の秘策はこの陰の土地に

対して、同じく陰の性質のものをぶつけるこ

とで互いを相殺させ、土地の気を陽に転じる

というものでございます。土地が陽の気に満

ちれば田畑は豊になるでしょう。陰の性質の

ものとはすなわち、件の壺に封じられた怨念

のことであります。

 この呪法は確実な方法ではございますが人

間を殺し、悪霊に仕上げるのですから容易な

ことではございません。怨念が暴れ出さぬよ

うに壺を埋めた場所には祠を築き、荒ぶる御

霊を神として祀り上げる必要もございます。

そうしなければ村に災いが起きるからです。

 村の長は恐ろしさに身震いしておりました

が村のためならばと覚悟され、ご子息と共に

ハッカイ法を執り行いました。

 しかし、これには代価が求められるという

ことを村長にお伝えすることが叶いませんで

した。

 代価とは村の長の一族に連なる男は皆、短

命になるということです。何故ならこの秘策

を行った者は子々孫々と末代まで祟られるこ

とになるからです。罪もない幼子たちは村長

の親子に殺されたのですから男子を恨むのは

当然でございましょう。犠牲のおかげで村は

豊かになっていきました。

 ただ、手前は村長にこのことをお伝えする

前に流行り病で命を落としてしまったのです。

その後悔からこの地で呪縛霊となり、清水家

の行動を見てきました。残念なことに一族の

人々はご先祖が犯した所業を忘れておられる

ようです。

 このままでは恐らく……幼子の怨念が悪霊

として祟りを起こし、この村だけでは飽き足

らずに全ての生きる者に災いを与えることで

ございましょう。

 今宵、手前がここにお邪魔したのはそのこ

とで貴方様にご相談があるからでございます。

 俺は想像を絶するほどにおぞましい裏の歴

史を知らされて驚愕した。と同時に神御呂司

村の寂しげな雰囲気も納得できる。この村は

多くの犠牲のもとに成り立ってきたというこ

とだ。とても褒められたことではないと思っ

た。天保の大飢饉と言えば江戸四大飢饉の一

つであり、大勢の人々が災害や飢餓によって

亡くなった。辛かったのはこの村だけではな

いはずだ。追い込まれていたとはいえ、村長

の決断は正しかったとは思えない。

 まあ、現代に生きている自分たちには想像

もできないような苦悩があったのだろうけれ

ど。

 ──だけど、そんなことを俺に話してどう

しろと言うのだろうか?

 祈祷師はこちらが愕然としている様子に申

し訳なさそうな表情をしながらも話し続けた。

 「どうか、悪霊を打ち祓って頂きたいので

す」

 「自分で引き起こしておきながら他人に後

始末をさせるんですか?随分と勝手な人だな。

だけど、俺には何もできませんよ」

 「いえ、貴方様一人だけに頼ろうというの

ではございません。お連れの陰陽師様にもお

力添えを頂きたいのです」

 「どうして俺の居場所や土御門さんのこと

を知っているんです?」

 「実は清水家で貴方と陰陽師様が壺の話を

しているのを目にしたもので」

 「俺の後をつけていたんですか?」

 「申し訳ございません。ご無礼を承知でつ

けさせて頂きました」

 「まあ、あなたの話を信じて良いかはわか

らないけれど、とりあえず明日、土御門さん

に話してみるよ」

 「それは有り難い。では、よろしくお願い

致します」

 祈祷師は安堵したような表情を浮かべ、最

後に深々と頭を下げた後に忽然と姿を消した。

 その後、俺は目の前が真っ暗になって昏倒

してしまった。

 目覚めた時には夜が明けていた。どうやら

夢を見ていたようだ。

 翌朝。俺は郷土資料館の閲覧室で土御門さ

んと落ち合った。坂口は宿に置いてきた。彼

を危険な事件に巻き込むのは不憫だと思った

からである。

 土御門さんはテーブルをはさんで俺と向き

合うように椅子に座った。

 「それで稲生君。何か新しい発見とかあっ

たのかな?」と彼女は無邪気に微笑んで言っ

た。

 「まあ、色々と分かりましたけど、あんま

り気分の良い情報ではありませんね……」

 俺が憂鬱気味に答えると、土御門さんは少

し心配そうに訊いてきた。

 「何か嫌なことでもあったの?」

 「後味が悪い話っていうか何というか……

土御門さんはどうでした?」

 「私も色々と情報を得ることができたわ。

だけど、まだはっきりしないことがあるから

お互いに情報を共有しましょ」

 「そうですね。じゃあ、俺から話しますね」

 「どんな話が聞けるのか楽しみだわ」

 土御門さんはさっきまで心配そうな表情だ

ったのにもう、好奇心旺盛な子供のように瞳

を輝かせながらこちらが話すのを待っている。

以前にも感じたことだが彼女の瞳は琥珀色に

見える。

 何とも美しく、引き込まれてしまうような

気がした。見とれてしまうのは土御門さんが

美人だということもあるけれど……。

 「どうしたの? 人の顔なんて見つめちゃ

って。早く話しなさいよ」と土御門さんはニ

コニコしながら俺の頬を軽く突いた。

 「あっ、すみません。今から話しますよ」

 俺はまず、図書館でコピーしたミサゲ祭り

に関する記事を見せた上で壺を使った奇祭が

あることを伝えた。そして、夢の中で祈祷師

の亡霊が教えてくれた村の悪しき歴史を説明

した。鳴鬼流蟲術という名称を出した辺りか

ら土御門さんの表情が険しくなってきた。

 「鳴鬼流蟲術か。私も耳にしたことがある

わ。悪い評判しか聞かないけどね」

 「やっぱり。どおりで胡散臭いわけだ」

「そうね。簡単に言うと蟲毒を用いる殺し屋

のようなものだからね。それで祈祷師が村長

に授けた呪法っていうのはなに?」

 「確か……ハッカイ法と言ってました」

 「なるほど。私が調べたことと合致するわ

ね」

 土御門さんは気になっていた問題が解けた

らしく、納得したような表情を見せた。

 「さあ、今度はこっちが話す番ね」

 土御門さんは自分が調べてきたことを順番

にゆっくりと話してくれた。

 「まず、私は手始めに清水家の蔵を調査し

たわ」

 「調査って、許可は得たんですか?」

 「いいえ。得てないわよ。だって、楓さん

が怖い顔でダメっていうから」

 「勝手にやったんですか!? でも、どう

やって?」

 「式神にやらせたのよ。ほら、ちゃんと証

拠も持ってこさせたわ」

 土御門さんはそう言うとおもむろに「清水

家秘伝書」と題された古めかしい和綴じの目

録を取り出した。

 「これによるとね……」

 土御門さんは目録をめくりながら説明し始

めた。

 目録の天保年間の項目に「某年某月某日。

祈祷師の鳴鬼鉄斎より秘術ハッカイ法を授か

る」と書かれていた。それに続いてハッカイ

法の説明やどうしてそれをやるのかという理

由が記載されていた。

 「これは俺が夢の中で祈祷師から聞かされ

たのと同じだ!」

 「そうなのよ。それでもっと情報を得よう

と思ってカネさんに教えてもらったの」

 土御門さんはカネさんから教えてもらった

ことを話してくれた。

 カネさんが嫁いだ清水家は代々、ミサゲ山

に祀られている祠の壺を管理してきた一族だ

った。

 太平洋戦争の折、当主になるはずの長男が

出征してなくなり、急遽事情を知らない次男

が相続することになった。この次男は無神論

者で気味の悪い祠を壊して、御神体の壺をど

こかに捨ててしまった。その祟りが影響した

のか次男は祠を破壊した半年後、何の前触れ

もなしに吐血して急死してしまった。

 その為、カネさんの夫である三男が跡を継

ぐことになった。信心深い彼は祠を建て直そ

うとした。だが、息子が生まれた後に病死し

てしまう。

 カネさんは病に伏せていた夫の臨終の際に

遺言を聞いていた。

 夫の遺言は「あの壺は恐ろしいものだ。兄

貴が捨てたと言っていたが、まだ祟りが続い

ている。きっと、どこかにあるはずだ。すぐ

に見つけて祀ってさしあげろ」というものだ

った。

 カネさんは遺言通りに壺を探したが見つけ

ることができなかった。困り果てた彼女はふ

と、前当主と夫が同じ部屋で倒れた場所に因

縁があるのではないかと考えて床下を調べた。

すると、そこには件の壺が捨てられていたと

いう。

 だが、三男の死と同時に家計が傾いたため、

祠の復元は困難になっていた。前当主からの

負債が恐ろしい金額に膨れ上がっていたらし

い。

 そこでカネさんはやむなく近所の神主に壺

を預けることにした。だが、その神主はすぐ

に壺を紛失してしまったのだという。以来、

カネさんは壺を探し続けてきたが未だに発見

できていない。 

 高齢ということもあってしばらくは壺のこ

とを忘れていたようだが、孫の康介が死んだ

と同時に記憶が蘇ったようだ。それで土御門

さんに手紙で依頼をしたということらしい。

 「なるほど。そういう事情があったんです

ね。だけど、康介の死と同時に壺を思い出す

なんて妙ですね?」

 「確かにそうね」

 「今のところ、情報を持っていそうなのは

死んだ康介かも知れませんね。彼の魂から聞

き出せればなあ」

 「できるわよ」

 土御門さんは涼しい顔で当たり前のように

言った。

 「できるんですか?」

 「もちろん。あなただって夢の中で死者と

会話したんでしょ?」

 「まあ、そうなんですけど……ちなみに彼

が死んだのは清水家の近所にある竹林です」

 「それじゃあ、今から一緒に行きましょう」

 土御門さんはまるでピクニックに出かける

ような明るいテンションで動き出した。正直、

俺はこの竹林で恐ろしいめに遭ったばかりで

行きたくなかった。そもそも、人が死んだ場

所にわざわざ喜んでいくバカがどこかにいる

のだろうか。俺には土御門さんがどこか奇怪

な事件を楽しんでいるような気がした。叔父

がこの人を変わった人間だと言ったのも納得

できると思った。それでも俺は清水がどうし

て死んだのかも知りたかったので黙ってつい

ていくことにした。

 こうして、俺と土御門さんは清水康介の遺

体が発見された現場へ向かうことになった。

 郷土資料館から出た時、太陽は中天にさし

かかっていた。冬の訪れを予感した季節とは

いえ、陽光はまぶしく目にささるようだった。

風が時折、道すがらに広がる田んぼの藁束を

揺らすのをぼんやり見ながら畦道を進んでい

ると突然、土御門さんが悲鳴を上げた。

 「きゃ!」

 彼女はピクニック気分で軽快な足取りを不

意にやめ、俺の電動車いすの背後に隠れてし

まった。

 「どうしたんですか?」

 俺が驚いて尋ねたが、土御門さんは震えた

声で何かつぶやいた。

 「え?」

 俺が問い返す。

 「い、い……」

 「うんっ?」

 「あ、あれ……」

 土御門さんがおどおどした様子で何かを指

差しているのだけはわかった。

 俺がその方向を見ると、柴犬が一匹、老人

に連れられて散歩しているところだった。

 「まさか、あの老人が何か悪い霊にとり憑

かれているんですか?」

 「何言ってるのバカね、そんなんじゃない

わよ、問題はその隣にいる獣よ」

 「どこに?」

 どうみても愛くるしく尻尾を振った柴犬の

ことを言っているようにしか思えないのだが、

そんなことは……。

 「私は苦手なの! あの姿を見かけるだけ

でも鳥肌が立っちゃうのよ」

 そう言うと土御門さんは犬と目を合わせな

いように老人が近づいてくるにつれて俺の電

動車椅子を起点にして身をよけるのだった。

可愛い一面もあるものだ、と俺は苦笑しかけ

たが、あとでどんな復讐をされるかわからな

いので土御門さんに気づかれないように声を

押し殺すのに必死だった。

 やがて、老人に連れられた柴犬はその場か

ら立ち去った。彼女は犬が居なくなったのを

確認するや否や立ち上がり、何事もなかった

かのような顔で俺の先を歩き出した。

 「グダグダしてないで。早く来なさいよ!」

 土御門さんは少し不機嫌気味にそう言った。

 「そうですね。急ぐとしましょう!」

 俺は従順な下僕のようにうやうやしく受け

答え、彼女の後を追うように動き出した。

 竹林は昼下がりだというのに静まり返って

いた。

 まあ、誰も通らないのだから当然のことか

もしれない。それは地元の人間がいかにこの

場所を本気で神聖なものとして考えているこ

とを意味していた。

 清水の遺体が発見されたのは道から少し外

れた場所だった。竹林の管理人が降り積もっ

た竹の枯れ葉の上に仰向けで倒れているのを

発見したという。

 土御門さんは現場に到着すると早速、そこ

で霊視を開始した。俺は土御門さんの傍らで

静かに霊視の様子を見守った。

 土御門さんが呪文らしき言葉を二言ほど吐

いた後、しばらくして辺りに一陣の風が巻き

起こった。髪を軽くなぶる程度の風圧だった。

だが、季節に似合わぬ生暖かい風で薄気味悪

いものがあった。

 やがて、不穏な風に引き込まれるように黒

い煙が集まってきた。

「土御門さん。その黒い煙のようなものは何

ですか?」

「ああ、これは残留思念よ」

土御門さんによると人間は日々、思念をまき

散らして生きているという。

 残留思念とは人々の怒り、憎悪、悲しみな

ど強い負の感情が思念というエネルギー粒子

となって空気中に漂うらしい。その残留思念

に対して、霊や魂と呼ばれるものの場合は人

間の様々な記憶の集合体であり、本来は何も

できずに漂う存在でしかないそうだ。だが、

霊的な存在が空気中に漂っている思念を取り

込みことで現実に怪奇現象を起すほどの力を

持つという。そのせいなのかは不明だが霊魂

は残留思念の溜まり場に引き寄せられる性質

があるらしい。駅などの人混み、それに自殺

や殺人現場には通常よりも多くの残留思念が

漂っているために霊魂を呼び寄せてしまうの

だそうだ。霊感がある人間には残念思念が黒

い煙に見えるという。

「なるほど。ちなみに前回、俺を呪った安達

も殺人事件現場で黒い煙を見たと供述してい

たんですけど、それは残留思念だったのかも

知れませんね」

「そうね。人が死んだ場所には強い殺意や憎

悪が残るはずだから。精神的に弱い人が残念

思念に悪影響を受けるのは珍しいことじゃな

いわ。そんなことより、そろそろ清水康介を

呼び出せそうよ」

土御門さんは残念思念の話題を打ち切り、遺

体があったとされる場所を凝視した。

それから五分が経過した頃、土御門さんの凝

視している辺りに黒い人影がぼんやりと浮か

び上がってきた。最初は誰なのか分からなか

ったが、黒い影が徐々に消え去っていくと同

時に半透明の清水の姿が現れた。彼の目は虚

ろであり、どこか寝ぼけているようだった。

土御門さんはその様子を見て少しだけ、困っ

た表情を浮かべた。

「これはまともに会話できるか分からないわ」

「それはどういうことですか?」

「だって、この人。記憶の一部を失っている

みたいなの」

「幽霊が記憶喪失って──そんなこと、あり

得るんですか?」

「それはあるわよ。交通事故とかあまりにも

衝撃的なことで死んだ者は記憶を失うケース

があると言うから」

記憶を失っている霊はまともに会話できるか

不明らしいが、土御門さんは「それでも話し

かけるわ」と言った。

土御門さんは清水に近づいて一言、声をかけ

た。

「こんにちは。私は土御門。あなたが清水康

介さん?」

 「──」

蒼白な顔で空中に浮かんでいる清水は何も答

えない。表情も変えずに虚空の一点を眺めて

いる。

  土御門さんは諦めず、彼の名を呼び続けた。

 「清水さん。清水康介さんでしょ?」

 「……ああ……ううん。……頭が痛い。…

…何だ、アンタは誰だ? こっちは気持ち良

く眠っているんだ。起こさずに放っておいて

くれよ」

 「私はあなたがどうやって亡くなったのか

知りたいの。教えてくれない?」

 「ぼくが死んだって? 何を言っているん

だ。だけど、眠る前の記憶ならあるけどね」

 「それなら是非とも聞かせてちょうだい」

 「アンタも変わった人だね。まあ、知りた

いなら教えてやるよ」

 清水はまるで独り言のように誰の顔も見ず、

淡々と語り出した。

 あれはいつだったかな。もうずいぶん前だ

ったような……そうでもないような。

 まあ、いいや。

 気づいた時、ぼくは「あの人」の声が聞こ

えるようになった。

 誰かだって?

 それはぼくの大切な人。あの人はあの人さ。

 あの人はぼくに助けて欲しいと言った。な

んでもあの人は真っ暗で、狭苦しい場所に閉

じ込められているらしい。だから、あの人は

そこから出たいと言った。抜け出す手助けを

して欲しいとも言ったな。

 ぼくはあの人に同情してさ。可哀想だと思

ったから協力することにした。どうすればい

いのかと訊いたらあの人はこう言った。

 「ワタシは身動きが取れない。だから、不

思議な力であなたの頭の中に語りかけている

の。今日から順番に指示を出していくから従

ってくれる?」

 ぼくはもちろん従うと答えた。それで何を

すればいいのかと訊いたんだが、とんでもな

いことをあの人は言い出した。

 「七歳ぐらいの幼女を八人さらってきなさ

い。それで順番に殺していき、心臓を抜き取

るのです」

 さすがに抵抗はあったよ。人を、しかも小

さな女の子を殺すのだからね。だけど、この

世で一番大切なあの人が言うことには従うし

かなかった。

 最初は辛かったよ。見知らぬ女の子をお菓

子やおもちゃで信用させて騙し、最終的には

殺していくのだから罪悪感はあった。必死に

命乞いをするあの子たちの表情を今でも覚え

ている。

 一人一人順番にさらい、順番に殺していっ

た。

 ぼくは泣きじゃくる相手の首を両手で締め

上げた。少しづづ、ゆっくりと息ができなく

ほどに締め上げていく。

 だんだん、ぼくは罪悪感を通り越して……

性的な興奮を感じていたよ。あの苦悶と絶望

に満ちた表情はたまらなかった。みんな、気

づいた時には真っ白な顔で死んでいた。

 それにしても人間は死ぬといろんなものを

垂れ流すんだね。血液はもちろんだけど、き

りがないほどに糞尿なんかもドロドロに流れ

出ていたよ。臭いはきつかったけど、作業は

それじゃ終わらない。今度は心臓を抜き取ら

ないといけない。あれは嫌な作業だったな。

 まず、腹部に刃物を突き刺して、胸部にか

けてゆっくりと切り開いていった。最初はぐ

にゃっとした感触が気持ち悪かった。だけど、

臓物を眺めているうちに気持ちが変わった。

 アンタ、知っているかい? 案外、臓器っ

て綺麗な色をしているんだぞ。鮮やかなほど

のピンク色だった。ものによっては赤かった

り、薄紫色だったりと色とりどりだった。最

後に心臓を手で掴んで取り出した。最初は抵

抗があったけど、よく見たら牛や豚とかの家

畜の肉と変わらないな。そう考えたら人間の

子供を殺すなんて簡単だと思えてきてね。あ

っという間に目標の八人を殺していた。

 集めた心臓はクーラーボックスにちゃんと

保存したよ。

 ぼくが目標を遂げると今度はあの人が「ワ

タシは竹林に落ちている壺に封印されている。

その壺を見つけ出し、その場で儀式を行って

欲しい」と言った。

 封印とか儀式とか変なことを言っていると

思ったけど、もう八人も殺してしまったんだ。

あとには引き返せない。

 ぼくはその壺を見つけ出した時、またあの

人の声が聞こえた。

「さあ、心臓が入った箱を壺の隣に置きなさ

い。それでワタシは自由になれる」

ぼくは言われた通りにクーラーボックスと壺

を隣り合わせに並べた。

 すると、クーラーボックスの蓋が勝手に開

き、中に入っていた八つの心臓が一つの肉塊

として融合し、その次に赤黒い煙となって壺

の蓋を吹き飛ばした。そして、その煙は壺の

中に入っていった。

 その後、壺の口の部分から大量の赤い液体

が溢れ出してきた。溢れ出てきた液体はスラ

イム状の物体に変化し、最終的にあの人の姿

となった。

 ぼくは感動したよ。ああ、これでやっとあ

の人に会えるんだってね。

 あの人はご褒美をくれた。それは激しい口

づけだった。全てを吸い取られてしまいそう

な勢いでね。今までに味わったことのない快

楽だったよ。

 ぼくはいつの間にか深い眠りへと落ちてし

まった。そういうわけさ。話はこれでおしま

いにしていいかな?

 清水の話が終わった後、俺と土御門さんは

物凄く気分が悪くなった。正直、殺人の様子

が生々しくて不快だった。被害者本人や遺族

の気持ちを考えるとやるせない気持ちになる。

 清水が壺の悪霊に操られて幼児連続誘拐殺

人事件を引き起こしたということは間違いな

さそうだった。

 土御門さんはうんざりとした表情で清水に

声をかけた。

 「……もう充分だわ。聞かせてくれてあり

がとう。最後に私の隣にいるのは誰だか分か

る?」

 「いや、知らないな。なあ、もういいだ

ろ?眠らせてくれよ」と清水はこちらの顔を

見ようとはせずに瞼を閉じてしまった。

 「そう。分かったわ。ゆっくりと眠りなさ

い」

 土御門さんはどこに隠していたのか白木で

作られた棒を取り出した。棒の先端には「御

幣(ごへい)」と呼ばれる紙でできた飾りが取

り付けられている。この道具は神主が祭事に

使う道具で「祓(はらえ)串(くし)」と呼ばれ

るらしい。

 土御門さんは深呼吸した後、その祓串を左

右にゆっくりと振りだした。同時に清水の魂

を鎮めるために祝詞を上げ始める。

 「──諸々禍事罪穢(もろもろのまがごとつ

みけがれ)を、祓い給え(はらいたまえ)、清め

給え(きよめたまえ)──」

 土御門さんの厳かな声と共に清水は安らか

な顔で消えていった。

 「それにしても……どうして、彼は俺のこ

とを覚えていないと言ったんでしょうか?」

 俺は全てが終わった後、独り言のように呟

いた。

 「彼は壺の悪霊によって完全に洗脳されて

しまったのね。洗脳されたまま死んだとした

らその前後の記憶しか残っていないのかも」

 「じゃあ、欠落した記憶を持った霊体の一

部はどこへ?」

 「たぶん、彼は実体化した壺の悪霊に血や

生気、それに魂のほとんどを吸い取られてし

まったのよ。私が呼び出した霊体は食いカス

のようなものだから覚えていないんだろうね」

 「そうなんですか。じゃあ、その悪霊がこ

の世から消滅したらどうなりますか?」

 「きっと、悪霊に取り込まれた魂も解放さ

れると思うわ」

 「なるほど。でも、どうして悪霊は清水の

魂を?」

 「異形の者にとって人間の魂や生気という

のはね、栄養源みたいなものなのよ。何をす

るにもね。形状が流動的な物質だというから、

変身した姿を維持するのにエネルギーが必要

だったのでしょうね」

 「ところで清水が言っていたあの人って、

誰の事を言っているんでしょうか?それが一

番、気になります」

 「それについてはこっちの方で調べてある

から、目星はついているわ。いまからその人

に会いに行きましょう」

 「場所は?」

 「まあ、行けば分かるわ。私について来て」

 「分かりました」

 俺は土御門さんに付き従ってその場を後に

した。

 土御門さんは少し早いペースで竹林を抜け

ていき、清水家の屋敷がある方向へと歩いて

いった。

 「土御門さん。もしかして、壺の悪霊は清

水家の誰かになりすましているってことで

す?」

 「そうね。あなたもすでに会っていると思

うけど……」

 土御門さんは俺に話しかけている途中で突

然、数メートル前方を睨みながら指さした。

俺は彼女の反応に驚いてどうしたのかと訊い

た。

 「何かあったんですか?」

 「清水家の玄関先で誰かが倒れているのよ

……あれっ、カネさんよね?」

 「あっ、ホントだ。何かあったんだ!急ぎ

ましょう」

 土御門さんが言ったように屋敷の玄関先で

カネさんが倒れていた。俺はカネさんが高齢

なので心臓発作を起こしたのだろうと思った。。

いずれにしても救急車を呼ぶ必要があるかも

しれないので俺と土御門さんは急ぐことにし

た。

 現場に到着してみると、カネさんが吐血し

て倒れ込んでいた。弱々しく呼吸をしていた

のだが、まだ辛うじて息はあった。

 土御門さんはカネさんの体を抱きかかえて

声をかけた。

 「カネさん、大丈夫ですか?何があったん

です?」

 「……み、ミサゲ様が……」

 カネさんはそう言い残して息絶えた。

 俺と土御門さんが突然のことに絶句してい

ると、縁側の方から清水の母親と思われる女

性の悲鳴が上がる。

 カネさんの遺体をその場に残し、俺たちは

縁側の方に回り込んだ。

 縁側のところに行ってみると、ガラス戸越

しに清水の母親の姿が見えた。

 清水の母親は背中をこちらに向け、体を震

わせながら畳の上に尻餅をついた格好で半開

きになっているガラス戸の方に後退し続けて

いる状態だった。明らかに脅えており、何者

かに追い詰めれているのは間違いなかった。

 やがて、彼女の背中がガラスに触れる。そ

れに気づいた彼女がこちらに向き直り、引き

戸を開けて外に出ようとした刹那、異変が起

こった。それは一瞬──室内から凄まじい力

が膨れ上がって爆発したかのように衝撃波が

押し寄せ、俺は反射的に手首をもたげた。そ

の衝撃で母親の体はガラスをぶち破り、その

おびただしい破片とともに鞠(まり)が跳ね回

るように庭に飛び出し、枯(かれ)山水(さんす

い)の岩に頭を打ちつけた。その無残な顔は白

目を剥き、口から泡をふきながら痙攣し、つ

いには身動きしなくなった。

 俺と土御門さんが駆け寄ったが、彼女の死

は明らかだった。何があったのかと薄暗い室

内に視線を向けた時、奥からひたひたという

裸足で歩く音とともに人影がこちらに向かっ

てきた。

 清水楓だった。

 彼女は長い髪を振り乱し、不敵な笑みを浮

かべている。その表情は最初に見た時とは異

なり、妖艶とはほど遠い下卑た笑顔だった。

その瞳には邪悪な炎が宿っていた。

 土御門さんはその様子を見るなり、相手を

挑発するように言い放った。

 「ようやく本性を露わにしたようね!楓さ

ん。いや、壺の中の悪霊──禍神(まがつか

み)と言った方が正しいかしら?」

 「人とはか弱き者よのう。これでは虫けら

以下じゃ」

 禍神は土御門さんと問答するつもりはない

らしく、尊大な態度で一方的に喋り続けた。

 「我を永きに渡り、狭苦しいところに封じ

込めてきた輩がこれほど脆弱とはな」

 禍神は自分の足元に転がっている清水の母

親の屍を見下ろし、唾を吐きかけた。

 「今まで弱々しい者たちに自由を奪われた

きたおのれが嘆かわしいわ。この老いぼれど

ものこせがれを傀儡(くぐつ)とするのもたや

すいものであった。幼少の頃に死んだ姉の幻

影を見せただけで我を信じおった。これほど

脆弱で儚きものはいらぬ。わが力によって生

あるものことごとくを屠(ほふ)り、この地上

を灰塵(かいじん)に帰してくれようぞ」

 「そうはさせないわ! 陰陽師の家に連な

る者として、これ以上の殺戮を許すわけには

いかない」

 「案ずるな。汝らも我が贄(にえ)として喰

ろうてやる──ヤソマガツヒノカミ……オオ

マガツヒノカミ」

 禍神は目を閉じると、呪詛らしきものを吐

いた。

 すると、彼女の肉体は変異しはじめた。い

や、もう彼女、という表現もおかしいだろう。

それは人間に擬態(ぎたい)していた存在がそ

の正体を変異とともに顕現(けんげん)するた

めの変化だったのだ。

 白くて艶のある女の肉体はみるみるうちに

膨張し続け、ついには破裂しておびただしい

血肉が辺りに四散した。飛び散った破片たち

はアメーバのように地面を蠢(うごめ)いて互

いに絡み合い、一つの大きな肉塊と化した。

そして、さらにこの赤い血肉でできたスライ

ム状の怪物は別の生物に擬態するために新た

な変貌を遂げた。

 その姿はオオサンショウウオに酷似してい

た。長い尾、四つの足、長大な頭部。シルエ

ットこそサンショウウオではあったが、外見

はおぞましいというしかないものだった。雄

牛一頭ほどもある巨体の表面はまるで全身の

皮膚を剥いだかのように血管がむき出し、そ

れがぬめりのある粘液にまみれた赤とピンク

色の肉と共に規則的に脈打つ。眼はなく、口

だと思われる部分的には植物のうろのように

縦に割れた口があり、無数の鋭い歯がびっし

りと生えていた。口の中からは舌の代わりに

一本の触手が飛び出しており、先端からさら

に無数の触手が枝分かれしている。

 禍神は轟々(ごうごう)と風のような呼吸音

で大気を振動させた後、いきなり巨躯(きょ

く)に似合わぬ俊敏(しゅんびん)さでこちらへ

飛び上がってきた。俺を最初の標的に定めた

のだ。

 俺の隣にいた土御門さんが間髪を入れずに

鋭く一声を上げる。

 「稲生君。さっき、教えた護法の言霊を読

み上げて。急がないとやられるわよ!」

 「はい!……結界、護法、方陣、これらす

べて此(し)岸(がん)と彼岸(ひがん)を別け隔

つものなり。冥府魔(めいふま)導(どう)の邪

法を封ずるものなり。言霊(ことだま)よ。我

を守護せよ。我を守りし御楯(みたて)となれ」

 俺は呼気を整えながら断続的にその言葉を

吐いた。

 最初に郷土資料館で会った時、土御門さん

が俺に「敵に襲撃させれそうになったら唱え

るように」と教えてくれたのだ。この護法の

言霊には唱える者の身を守るだけではなく、

敵の力を半減させる効果があるらしい。その

時、俺は神と名乗る敵に通用するのかと正直

に言うと半信半疑だった。土御門さんが攻撃

を受け持つと言ってくれていたので信じるし

かなかった。

 禍神は護法を唱え終えた俺に飛びかかった。

禍神のもつ触手の攻撃が今にも俺を八つ裂き

にするかと身をすくませた時、車椅子を含め

自分の周囲が蒼白い光に包まれ、禍神の巨体

は弾き飛んだ。敵は地面に倒れ込んだが戦闘

意欲をまったく削がれていないことを証明す

るかのようにすぐに起き上がり、今度は大き

く虚ろ(うつろ)な口からではなく体の深奥か

ら音声を発し始めたようだった。

 「ザマヌムフラル-リジ-パ-グルド-ズ

ネメ-エ、イギ-ヌドゥ-ア-フルイギ-セ

-ジド-ジン……」

 意味は理解できなかったがおぞましい呪詛

に違いない。それと同時にさっきまで晴れて

いた空が一転、暗雲に覆い尽くされてしまっ

たのだった。

 禍神の波打つ血管からどす黒い血があふれ

出し、辺り一帯がその呪われた血によって真

っ黒な泥のようなものに汚染され、地面全体

が血の沼のように変質していた。手を施す術

を持たないまま俺はその泥に飲み込まれ、す

ぐに意識を失ってしまった……。

 目覚めると清水家屋敷の庭先ではなく、山

の中のようだった。杉林の尖った枝葉が茂り、

わずかな隙間から山並みが宵闇(よいやみ)の

背景にうかがいみることが出来た。時の進行

すら歪んでしまったのだろうか。隣にいたは

ずの土御門さんがいない。彼女を探すように、

いやむしろ、誘われるように目の前にある鳥

居をくぐる。しばらく進むと開けた場所に出

た。その遥か奥に木造の建物だったのだろう、

屋根が崩落し、焼け焦げた柱の残る残骸がう

かがえた。祠でも建っていたのだろうか。さ

っきまで恐ろしい存在と相対していたことを

忘れてしまったように呆然としていると横か

ら聞き慣れた声が飛んできた。

 「どうやら、私たちは敵のテリトリーに引

き込まれてしまったようね」

 土御門さんだった。彼女も泥に飲み込まれ

てしまったようだ。

「縄張りということは……ここはミサゲ山の

頂上ですか?」

 ともかく土御門さんと合流してほっと一息

ついた。

 「そうね。おそらく、さっきのは空間を移

動させる術よ」

  「さすがは神……なんて褒めてる場合じゃ

ないですね、土御門さんはどう倒すつもりで

すか?」

 「わからない……。だけど、やるしかない

でしょ……っ!! 稲生君、危ない。後ろ

に!」

 俺が指示通りに後方へと下がった瞬間、真

横から緑色をした消化液のようなものが自分

の顔を掠めていった。避けるのが遅かったら

まともにそれが当たっていただろう。液体が

落ちた地面からは硫黄の臭いと白煙が上がり、

その液体がかかった草がこげ茶から黒に変色

し、地面と同化していった。

 「これは!」

 俺が驚いて液体の飛んできた方向に向き直

ると、そこに禍神の新たな姿があった。先ほ

どのサンショウウオに酷似したものの背中が

裂け、裸体の女の上半身が生えていたのであ

る。粘液がまとわりついているのかその白い

皮膚はつややかで、長く背中にしなだれかか

る髪が朱色に染まっていた。両端の裂けた口

からは緑色の液体が滴っており、おそらく俺

を溶かしかけたのはこれだったのだろう。

 禍神は標的を土御門さんに変更したらしく、

次は彼女に攻撃を仕掛けてきた。

 弱い俺は後回しということか。悔しいより

も、土御門さんを心配する気持ちが先に立っ

たがいつあの消化液が飛んでくるかと思うと

身動きできなかった。

 禍神は指先に鋭利な爪を備えた長い腕をし

なやかに振り下ろしたが、土御門さんは初撃

を俊敏にかわし、相手の背後に回り込んで後

ろ飛びに距離をとった。俺を巻き込まないよ

うするために敵をひきつけようと思ってくれ

たのだろうか、俺はその隙に再び護法の言霊

を唱え続けた。

 俺に出来ることはこれしかないのだ。ただ

それを、真摯に遂行するのみだ。

 土御門さんは祓串を右手に握りしめ、左手

で懐から護符を取り出し、呪文を唱えた。

 「急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょ

う) 思業式(しぎょうしき)神(がみ)よ、この

右手に掴みし神具に宿りて剣となれ。神星の

刃──天刑の剣!」

 すると、彼女の手元に両刃の剣が現れた。

古墳時代の刀剣に酷似してはいたが、ただな

らぬ気配を帯びている。神気というものだろ

う、先ほど禍神があらわれたときのような威

圧感をもった衝撃波ではなく、荘厳な力強い

空気そのものが俺をとらえ、畏怖を与えるよ

うだった。剣そのものは黒い金属のように見

えたが、刀身に金色の光が宿っており、激し

く明滅を繰り返している。

 自分の背丈ほどもあるその剣を、土御門さ

んは軽々と振り回していた。爪による攻撃を

受け止め、薙ぎ払って牽制するなどの早業を

次々に繰り出した。

 それでも禍神は機動力を失ってはいなかっ

た。以前より重量が増しているにもかかわら

ずだ。それどころか攻撃を繰り出す速度、俊

敏さが向上していた。土御門さんはなかなか

決定的な一撃を相手に喰らわすことができな

い。激しい応酬がいつ果てるともなく続いた。

彼らのなかで動きの読み合いがあったに違い

ない。その一つでも土御門さんが見誤れば、

禍神はその背後に高速で移動して至近距離か

らの襲撃を仕掛けるのだ。そのわずかな力量

差が圧倒的なダメージとなって彼女を痛めつ

けていた。土御門さんは何とか致命傷は回避

しているのだが、このままでは埒(らち)があ

かないことを悟っているようだった。

 禍神は尊大にふるまい、悠長に歌を口ずさ

み始めた。戦いの最中である。その歌詞が意

味不明で不気味で、俺たち二人を苛立たせる

効果もあった。

センヤリオト センヤリオト

ヤジチミシホノマサンジンテ ヤジチミソホ

ノコドハココ

センヤシダク テシオトトッチ

ヌセヤシオト ノモイナノウヨゴ

スマリイマニメサオヲダフオ ニイワユオノ

ツナナノコノコ

イワコハリエカ イヨイヨハキイ

モラガナイワコ

センヤリオト センヤリオト

 禍神はひとしきり歌い終えると、大胆不敵

にも防御せぬまま土御門さんの間合いへと踏

み込んできた。真正面から消化液を吐くと同

時に両腕を彼女めがけて振り降ろした。しか

し、ここは土御門さんが油断に乗じて先んじ

た。この時すでに彼女は地面を蹴り上げて跳

躍し、その姿は宙にあった。禍神は腕を引き

戻した後、いるはずの標的がいないことに驚

いて辺りを見回した。

これが最大にして唯一の隙となる。土御門さ

んは地面に降下する寸前でがら空きになった

相手の首をめがけて横に薙ぎ払った。天刑の

剣が血しぶきと共に禍神の首を跳ね上げる。

 彼女は続けざまに禍神の両腕を順番に切り

離した上、その上半身をオオサンショウウオ

の本体から胴払いに分断した。血しぶきに彩

られながら白い体は鈍い音と共に地面に崩れ

落ちた。膨大な量の血液が気泡とともに流れ

出てきた。

 傍から見ていた俺には土御門さんの勝利を

信じた……が、戦いはそれでは終わらなかっ

た。

 禍神の四散した肉体たちはそれぞれが形状

をドロドロなものに崩して再び流動的な状態

となり、融合して巨大な肉塊へとその姿を戻

した。

 「こいつ何なの! いくら斬っても再生し

てしまうわ。それなら!」

 土御門さんは術を解いて剣を消し、今度は

赤い護符を禍神にめがけて投げつけた。する

と、護符は紅蓮の炎と化してスライム状の相

手に襲い掛かる。

 だが、火は炎上することもなく、瞬時にか

き消えてしまった。その直後、土御門さんの

嗚咽のような悲鳴が上がった。

 「っっ!」

 彼女の体は禍神の流動的な姿に覆い尽くさ

れていたのである。顔だけは出ているが今に

も見えなくなりそうだ。巨大なゼリーの中に

取り込まれたようなものだった。身動きなど

できるはずもない。

 「に、にげ……」

 土御門さんは逃げることを指示したかった

のだろうが、最後の言葉を発することもでき

ずに相手の体内へと引きずり込まれていった。

 もっとも、彼女が逃げろとはっきり言えた

としてもそれを回避することは不可能だった。

 禍神の固体でありながら、液体の流動性を

保っている特異な肉体は俺がいる場所までき

ており、今にも飲み込まれてしまいそうな状

態だったからだ。

 土御門さんに続いて、何の抵抗もできずに

俺は足のつま先から吸い込まれる形で車椅子

ごと禍神の体内に取り込まれようとしていた。

もはや、体外に露出している部分は顔だけと

なった。 

 もうダメだ……。瞼を閉じる。次第に薄れ

ゆく意識のなかで、瞼の隙間から青い閃光が

射しこんだ。と同時に懐かしい声が聞こえて

きた。

 「正芳。こんなところで斃れてはいけない。

私たちがついているのだから」

 俺が再び目を開けると、自分の体と電動車

いすを覆い尽くしていたスライム状の物体は

かき消えていた。いや、正確に言えば、辺り

を見回すと地面のいたるところに禍神のおび

ただしい残骸が重油をまき散らしたように散

らばっていた。そして、目の前に一組の男女

がこちらをみながら佇んでいた。死んだはず

の父と母だった。だが、その姿は生前のもの

とは違った。異形の姿だった。修験者の装束

に身を包んだまではまだ良かったが、背中に

は漆黒の翼が生えていた。手には太刀をもっ

ており、その刃にはスライム状の物体から分

泌される赤黒い液体がついていた。どうやら

彼らが助けてくれたようだ。

 この世に再びあらわれた異形の両親は微笑

みを浮かべながら煙のように姿を消してしま

った。呆然としていると突然、俺の視界に土

御門さんの顔が飛び込んできた。彼女も禍神

の身体が四散したことで体の自由を取り戻し

ていたようだ。俺の隣で同じように黒い翼が

生えた一組の男女を目撃したらしい。

 「あなた、凄い力を秘めていたのね。今の

はなんていう技?」と土御門さんは瞳を輝か

せながら訊いてきた。

 「いや、俺じゃないですよ。たぶん、父と

母の霊が助けてくれたのかと……」

 「そう。やっぱりそうだったのね……その

話はあとで説明させてもらうわ。……それよ

りもこの強大な敵をどうすべきか」

 土御門さんは地面に転がっている肉片のよ

うな残骸を睨んだ。よく見たらそれはまだ動

いていた。今すぐにでも融合してしまいそう

な勢いだった。

 「こいつらすぐに再生するからきりがない

ですね。どうすれば?」

 「うん……たぶん、普通に倒せない」

 「倒せないって、それじゃいずれ殺されて

しまうじゃないですか」

 「だから、最後の手段を試そうと思うの」

 「最後の手段?」

 「ええ。とにかく、私に任せて」

 土御門さんはそう言うと小走りに俺がいる

場所から離れていき、禍神の残骸がもっとも

多く集中している地点で立ち止まってこちら

に向き直る。そして、深呼吸を数回した後、

手で髪を掻き分け、今まで隠れていた片方の

目を露わにした。最初、その目は瞼を閉じて

いた。俺は彼女が片方の目を失明しているの

だろうとしか思わなかった。だが、これから

先の光景をみて振り返ってみるとその予想は

半ば正解でもあり、不正解でもあった。

 俺は土御門さんが片方の目を見開いた瞬間、

愕然として口を文字通りあんぐりと開けてし

まった。〝目が見えない〟のではなく〝目そ

のものが無かった〟。眼窩(がんか)に収まっ

ているはずの眼球がなく、代わりに底知れぬ

黒い闇がのぞいている。

 「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(し

ゃ)・皆(かい)・陣(じん)・烈(れつ)・在(ざ

い)・前(ぜん)!!」

 土御門さんは明確に一文字づつ区切って発

音しながら指で九字を切った。

 すると、片方の闇を覗かせている眼窩に赤

い梵字のような文字が一字だけ浮かび上がっ

た──と同時に彼女の足元から激しい風が沸

き起こり、銀色の髪を揺らし、黒衣装の裾や

袖を強く靡かせる。

 この時、俺の目には土御門さんの姿が異形

に映った。彼女の頭に白い狐の耳があり、そ

の背後には九つの尾が揺れていたのだ。ただ

それはあまりに一瞬のことで、時間が経つに

つれて俺の見間違いのように思え、やがては

朧(おぼろ)げな光景となった。

 土御門さんはその次に厳めしい表情で声高

らかに呪文を叫んだ。

 「穢(けが)されし者よ。哀れな亡者よ。逝

くべき場所へゆけ! 冥界(めいかい)転送(て

んそう)──黄泉(よもつ)比良坂(ひらさか)!」

 すると、闇を覗かせている眼窩に浮かんで

いた梵字が消え去り、その黒い闇の底から赤

い光球が外に飛び出した。その灼球は土御門

さんの頭上に舞い浮かぶと膨張し始めた。見

る間に臨界に達した光球は爆発して消滅する

と同時に、空間そのものに大きな亀裂を生み

出した。それは縦にみみずばれのように走り、

生じた隙間には深い闇が見えた。計一分も経

たないうちに亀裂は広がり続け、遂には大き

な穴となった。その穴は四トントラック数十

台を一度に飲み込んでしまえるほどの巨大な

風穴と化していた。

 この巨大な穴から轟々と強風が吐き出して

きたと見たのも束の間、転じて禍神の残骸を

凄まじい勢いで吸い込んでいった。地面に飛

び散っていた残骸は瞬く間に数を減らしてい

った。それに伴って無数の人魂が空に昇って

いくのが見えた。おそらくは生贄の犠牲にさ

れた幼女たちが浄化されていったのだろうと

思う。その中には清水の魂もあったのかもし

れない。

 すでに勝敗は決していたが、禍神は最後に

悪態をしてみせた。残りわずかの残骸を融合

して女の生首となって浮遊し、土御門さんの

喉笛を噛み切ろうと最後のあがきで襲いかか

った。だがそれも、風穴の吸引力には逆らえ

ず空を食んで吸い込まれてしまうのだった。

 「祟(たた)りは終わらぬぞ。この世の生き

る者すべてを呪い殺してくれよう!」

 禍神は恨めしい顔で呪詛を吐いた後、深淵

の闇に飲まれていき、土御門さんによって現

出した風穴も完全に閉じて消滅した。

 気づいた時、俺たち二人は清水家の庭先に

戻っていた。禍神が現世から消滅したことで

その術も効力を失ったのだろう。

 庭先に散らばったガラスの破片、折れ曲が

った樹木、無残な最期を遂げた二人の遺体の

存在が壮絶な戦いを物語っている。

 土御門さんは相当に体力と気力を消耗した

らしく、その場に崩れるように座り込んでし

まった。

 「土御門さん! 大丈夫ですか?」

 俺が傍に駆け寄ると、彼女は疲労の色を見

せながらも微笑んだ。

 「どうにか今回も無事に終わったわね。な

かなかの強敵だったわ」

 「そうですね。お疲れ様でした。ところで、

土御門さんが開いたあの穴って?」

 「あれはこの世から隔絶された虚無の空間

……次元の狭間よ。あの空間に落ちたものは

二度と出ることができないの」

 俺はそれを聞いてほっとした。あんな恐ろ

しい存在が再び復活したら生きた心地がしな

いからだ。安心する一方でふと、気になるこ

とが浮かんだ。

 「あの禍神が自分の肉体を再生させたらど

うなりますか?」

 「どうにもならないわね。復活したところ

で出られるわけじゃない。死ぬこともできず、

永遠の牢獄に囚われ続けるでしょうね」

 「なるほど。それにしても土御門さんは凄

いですよ! あんな邪神を封じ込めてしまう

なんて!」

 「それほどでもないわ。今回ばかりは勝て

ないかもって思ったもの」

 土御門さんはクールなキャラを維持しよう

と冷めたセリフを吐いたものの、頬を赤くし

て照れている様子だった。俺は内心「土御門

さんも照れる時があるんですね」と言おうと

思ったのだが、本人のプライドを尊重するこ

とにした。照れていることに気づかぬふりを

して褒めておいた。

 「確かに強敵でしたよね、禍神といっても

神様ですから。結局、清水の言っていたあの

人って、彼の姉だったんですね」

 俺がそう言うと土御門さんは得意げな顔を

して答える。

 「私は知ってたけどね」

 「えっ! どういうことですか?」

 「実は、私は警察関係にもコネがあってね。

山口県警の刑事に清水楓を調べてもらったの

よ。そしたら、彼女はすでに亡くなっていた

ことが分かったの。調査してもらった結果、

清水康介が七歳の時、楓さんは十八歳の若さ

で病死したそうよ」

 「なるほど、清水は死んだ姉を深く想って

いたから、生きていたらという願望があって

禍神の幻影にすぐ取り込まれてしまったとい

うことなんでしょうね」

 「彼にとって楓さんは恋人というより母親

以上の大きな存在だったようなの」

 「清水も可哀想な被害者に思えてきました」

 「そうね。あれだけの幼女を殺しておきな

がら変だけれど。禍神は壺に封印された状態

にもかかわらず康介の記憶を読んで、彼の弱

い心につけ込むことができたのかもしれない

わ」

 「それで結局、禍神って日本神話に登場す

る同名の神と関係あるんですか?」

 俺の頭には禍津日神(まがつひのかみ)の

名があった。

 「ああ、あれは別ものね」

 土御門さんは冷めた口調できっぱりと否定

した。

 「今回、私が封じた禍神は蟲毒(こどく)に

よって生み出された人工的な神よ。犠牲にな

った子供たちの怨念と心臓が融合した存在。

おぞましい怪物と言った方が正しいかもしれ

ない」

彼女は不快感を露わにしながら吐き捨てた。

何の罪もない幼子を犠牲にした所業が許せな

いのだとも言った。俺もその意見には賛成だ。

同時に膨大な負のエネルギーを秘めた人間の

怨念に恐ろしさを実感した。もしかしたら、

怪異よりも人間の方が恐ろしいのかもしれな

い。

 「人間の怨念って恐ろしいですね。まあ、

それを生み出せる呪術師も怖いですけど」

 俺がそう投げかけると、土御門さんは鋭い

眼差しをこちらに向け、強い口調で釘を刺す

ように言った。

 「ええ。だから、その鳴鬼鉄斎とかいう亡

霊にも気を許さないでね。今のところ害はな

さそうだけど、鳴鬼流蟲術の使い手は死した

後も生きている人間の肉体を乗っ取って蘇ろ

うとするらしいから」

 「彼は人を呪い殺すのが仕事って言ってま

したし、自分でハッカイ法を使えと言いなが

らそれを惨いと妙に客観視していた態度もお

かしかったし、あまり近づきたくない相手で

すね。夢で見た存在だから現実的に感じなか

ったですけど、そんなこと言われたらいきな

り現れそうじゃないですか。怖いこと言わな

いで下さいよ。でも、ご忠告ありがとうござ

います……ところで、土御門さん?」

 「うん?」

 「土御門さんにお聞きしたいことがあるん

ですけど……」

 俺はこの際だから今まで気になっていたこ

とを本人に訊いてみたくなった。

 「なあに? そんなに改まっちゃって」

土御門さんは飄々とした顔で訊いてきた。

 「土御門さんはどうして俺に術や知識を教

えてくれるんですか?」

 「うふふ……」

 土御門さんは不敵に笑うと、気持ちが落ち

着いてきたのかおもむろに立ち上がった。そ

して、微笑みながら俺の肩に手を置いて言っ

た。

 「試験合格ね。あの竹林であなたが自分の

力で抜け出せず、私が式神を飛ばして助けて

あげたときは不合格にしようかと思ったけど

……」

 「ああ、あのとき竹林で迫ってきたもの、

空を飛んでいた得体の知れないものは式神だ

ったのか」

 「そう、禍神が結界を使ってあなたを取り

込もうとしていたから。でも、凄まじい力を

秘めているようね……今日からあなたは私の

助手になりなさい」

 「どうして俺が?」

 「あなたには言霊を操れる素質があるから

よ」

 「何ですかそれ?」

 「それはね──」

 彼女によれば、どの国でも昔から言葉には

精霊の力が宿ると信じられてきたという。普

通の人間が発する言葉に力はないが、霊感の

ある人間が発する言葉には超常現象を起こす

力が宿るそうだ。そういった者のことを言霊

師と呼ぶらしい。俺にはその素質があるとい

うのである。

 「私は稲生君がどこまで成長するのか見た

いの。怪異に狙われやすいあなたに自衛手段

を与えたいという老婆(ろうば)心(しん)が発

端だけどね」

 土御門さんの眼差しは真剣だった。だが、

俺には修業に耐えられる自信は無かったし、

本当にそんな素質が自分にあるとは思えなか

った。

 「私は言霊に関する知識もある。実は解呪

師以外に探偵業を営んでいるのだけど、人手

が足りないので困っているの。もし、助手と

して手伝ってくれれば、知っている知識と言

霊を操るための精神鍛錬を教えてあげるわ」

 「なるほど。だけど、俺は助手として役に

立てますか?」

 すると、土御門さんは何を今さらという顔

をした。

 「あなたは結界に関係する言霊に素質があ

るから十分な戦力となるはずよ。それに、さ

っきのあれ、あなた自身から発した力かどう

かはわからないけれど、わからないことが逆

に私には興味深いし、可能性を秘めているよ

うに思えて仕方ないの」

 「どうでしょうか……あともう一つ気にな

っていたんですけど、この前安達によって呼

び出された死霊が襲ってきた時、叔父が眠っ

てしまったのは土御門さんの仕業ですか?」

 その問いを投げかけると、彼女は悪戯好き

の子供のように無邪気な顔で答えた。

 「バレちゃったら仕方ないわね。あれもあ

なたが助手にできる人間なのかを確かめたか

ったのよ。本当なら私が呪文をとなえるだけ

で調伏できたけれど、あなたに敢えて唱えさ

せたのも同じ理由よ。力がどれほどのものか

知りたかった」

 土御門さんはいかにも「あなたの素質は予

想以上よ」と言いたげだったが、どういうわ

けかその言葉は飲み込んだ様子だった。おそ

らくは過剰に褒めても俺のためにならないと

判断したのかもしれない。人間は自信があり

過ぎると、物事の判断を見誤ってしまうとい

うことなのだろう。

 実際、俺は子供の時に叔父から「お前は褒

められるとすぐに調子に乗る」と諭された記

憶がある。土御門さんは二回しか会っていな

いのに俺の性格を理解しているのだ。それほ

ど洞察力が鋭い人物ということであり、彼女

を師と仰げることは幸運なことだと思った。

 「土御門さんは抜け目のない人ですね。参

りましたよ」

 「それにね、探偵と言っても私が依頼され

る仕事は怪異と関係する危険なものが多いの

よ。素質が無ければ誘っていないわ」

 「まあ、土御門さんは確証のないことはお

っしゃらないですもんね。了解しました。自

分がどこまでやれるか分かりませんがよろし

くお願い申し上げます」

 俺がいつになく慇懃(いんぎん)な態度をと

ると、土御門さんは少し困った顔をした。

 「……じゃあ、今日からあなたは私の助手

ね。ああ、それから私が先生といってもそこ

までへりくだる必要はないわよ。言われるた

びに背中がむずがゆくなるから」

 土御門さんはふいに俺の手を強く握った。

プレッシャーをこめた力強さにも感じたが。

 「今回はこれで解散しましょう。きっと、

宿で待っているヘルパーさんも心配している

んじゃない?」

 「確かにそうですね。では連絡を待ってま

す」

 俺は土御門さんに別れを告げた後、清水家

の屋敷を後にした。土御門さんが清水家の二

人の遺体や諸々の問題に関して事後処理をし

てくれると言ったので任せることにした。き

っと、彼女は色んな業界に顔がきくのだろう

し、大抵のことは実現可能だろう。

 宿への帰り道。

ふと、空を仰いだ。秋の透いた青い空にいわ

し雲がすいてゆっくりと流れていた。生きと

し死せる者たちを穏やかに見守っているよう

なのどかな午後だった。

 

 翌日の昼頃、東京行きの新幹線の中で居眠

りをしている時に夢を見た。

 俺は川岸に佇んでいた。車椅子ではなく自

分の足で立っていた。

 辺り一面に紫色の花畑が広がっている。空

は夕陽が一面を染めて赤く燃えたっていた。

 夕闇が迫りつつある中、対岸に一つだけ人

影があった。

 俺は相手が何者なのか気になってもう一度、

対岸の人影を凝視した。すると、それは清水

康介だった。彼の隣には姉である楓の姿もあ

った。さらに二人に寄り添うように清水の母

と祖母の姿もそこにはあった。全員、幸せそ

うな表情を浮かべている。

ふと、清水康介はこちらに気づき、嬉しそう

な顔で手を振りながら「さようなら」と言っ

た。

 「うん。今までご苦労様。安らかに眠って

くれ」 

 俺が別れの言葉を伝えると清水は静かに頷

き、家族に連れられて対岸の奥へと姿を消し

てしまった。彼は無事に家族と合流し、死者

の世界に旅立ったのだろう。

 その後、俺はすぐに夢から目覚めた。この

日以来、彼の夢を見ることは一度もない。

 

 俺が神御呂司村から東京に帰ってきた一週

間後のある日、叔父の家を訪れた。帰宅して

すぐに訪ねようと思ったのだが、拝み屋の仕

事で出張が多いためになかなか会うことがで

きなかったのだ。

 時刻は四時を少し過ぎた頃。叔父は自宅の

居間でくつろいでいた。縁側に面したガラス

戸から西日が射しこんでいる。庭先に植えら

れた樹木の葉が紅葉し始めていた。夏の日、

この木におびただしい数の蝉が喧しく鳴き続

けていたことが嘘のように静まり返っていた。

 いつものように叔父とテーブルを挟んで向

き合った。

 俺は今回、神御呂司村において土御門さん

と二人で禍神に立ち向かった話を伝えた。

 「それにしても、正芳はあの女と縁がある

んだな。お前たち、付き合ってるんじゃない

か?」

 叔父は俺をからかうようにニヤリと笑った。

 「今の俺には笑えない冗談だな……そんな

ことより叔父さんに聞きたいことがあって来

たんだけど」

 「何だ? 恋愛相談ならいつでも受けるが」

 「未だに独身の叔父さんに恋愛相談する気

はない」と俺は目を細め、軽蔑するように冷

たい視線を送った。

 「何だよ、その目は? まあいいだろう、

悪かったよ、真面目に聞いてやるから言って

みろ」

  叔父は悪ふざけが過ぎたと気づいたらし

く、少し気まずそうにテーブルに置かれたま

んじゅうをひと噛みして、俺の言葉を待った。

 「実は禍神にやられそうになった時、父さ

んと母さんが現れたんだよ」

 俺は両親が異形の姿で現れたこと、凄まじ

い力で敵を圧倒したことを話した。

 両親の名を聞いた途端、叔父は真剣な顔つ

きになった。そして、虚空を見上げながら呟

く。

 「……やっぱり、お前には素質があるんだ

な」

 「素質?」

 「ああ。稲生家の者は代々、守護霊を呼び

出すことができた」

 叔父によると、稲生家の者は霊力が高いた

めに死後、守護霊となって子孫を守るとされ

ているそうだ。始祖の密教僧が烏天狗に助け

られたとされているが、その正体は僧侶自身

に宿っていた全ての先祖霊が融合した集合体

だったというのだ。それこそが烏天狗と呼ば

れる存在らしい。

 「もしかして、うちの寺の御本尊っていう

のは?」

 叔父はその問いを受け、口に含んだお茶を

飲み込んだ。

 「ああ、飯(いず)縄(な)権現(ごんげん)と

して崇めているが、あれは稲生家の先祖たち

を供養するために始祖が彫ったものだ」

 「知らなかったな」

 「お前の両親もそれに含まれているんだぞ」

 「なるほど。だから、父さんと母さんの顔

に見えたのか」

 俺にも始祖以前からの先祖霊たちが宿って

いるということらしい。

 稲生家の直系は代々、この先祖霊が具現化

した一組の烏天狗を使役することができると

いう。叔父は修行によって強力な霊力を得た

のだが、どういうわけか先祖霊を呼び出すこ

とができない。ある程度の素質も必要なのだ

ろうか。

 「でも、俺はどうして今まで呼び出すこと

ができなかったんだろう?」

 「この一年、お前は怪異に絡んだ事件に三

度も巻き込まれた。危機的状況に追い込まれ

たことで生存本能が働き、それをきっかけに

自分の中に眠っていた霊力が覚醒したんだろ

う」

 「なるほどそういうことか」

 「ただ、今回は偶然に呼び出せたのかも知

れないな。もしかしたら両親の息子を救いた

いという思いが同調してその思いの強さがつ

ながったのかもな。だから今後お前が精神鍛

錬を積んでいけば自在に烏天狗を呼び出すこ

とができるはずだ」

 「これで納得できたか?」

 「まあ、理解はできたよ。それともう一つ、

叔父さんに伝えたいことがあるんだ」

 「何だ?」

 叔父はまだ何かあるのかという顔で言った。

 「実は俺、土御門さんの助手になったんだ」

と、俺は土御門さんとの取り決めを叔父に全

て話した。

 すると、叔父は片方の口の端を吊り上げて

ニヤリと笑った。

 「やっぱり、お前ら二人、仲が良いんだな」

 「……そうやって俺を何かとからかおうと

するんだね」

 俺は再び軽蔑の眼差しで叔父を睨んだ。

 「まあ、そう怖い顔をするなよ」

 叔父はそっと俺の肩に手を置いて真剣な顔

で質問してきた。

 「土御門と行動を共にするということはこ

れまで以上に怪異と遭遇することになる。お

前はそれでも平気か?」

 「それは覚悟しているよ。だけど、俺の場

合は何もしなくても怪異の方から絡まれてし

まう宿命な気がするんだよ」

 「確かにそうかもしれないな。桜花精や安

達の事件は巻き込まれたようなものだった」

 「それなら危険でも経験を積み重ねながら

どう対処するべきかを学ぶべきだし、土御門

さんならそれを熟知していると思うんだ」

 「そうか。正芳がそこまで覚悟しているな

ら好きにするといい。ただ、困ったことがあ

ったら相談に来いよ。ワシは頼りない男だが、

これでもお前の身内だからな」と叔父は自分

の頭を叩きながら言った。

 「叔父さん、ありがとう。俺なりに頑張っ

てみるよ」

 「まあ、無理はするなよ」

 「分かってるって……あれ?」

 叔父と会話をしている途中で突然、スマー

トフォンの着信音が鳴り響いた。

 「叔父さん、俺のカバンの中でスマホが鳴

ってるみたいだ。ちょっと見てもらえる?」

 「おう」

 叔父にスマートフォンを確認してもらった。

 「これは土御門からのメールだな。今から

事務所に来れないかってよ」

 「随分と急だな。でも、予定もないからす

ぐに向かうとするよ」

 「気をつけてな」

 俺はスマートフォンをカバンに入れてもら

った後、叔父に別れを告げてすぐに目的地へ

と向かった。土御門さんの事務所の住所は教

えてもらっていたがいきなり呼び出されると

は思っていなかったので驚いた。

 しかし、同時に「今度はどんな事件が待っ

ているのか?」という期待もあった。この時

から俺は自分の境遇を受け入れ、過酷な状況

下をどこか面白がるようになっていたのかも

知れない。もっとも、多少はイカれていなけ

れば怪異と対峙できないし、土御門聖歌とい

う人間の助手は務まらないだろう。

 

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