これはボクが小学生の時に経験した不思議な
話だ。
子供の頃は小児喘息を患っていた。両親は
都会の空気汚染が喘息に悪影響を及ぼすので
はないかと心配して、東京から地方に引っ越
すことを決心した。
小学校三年生の春にボクたち一家は<烏帽
子山>という小さな山の近くにある田舎町に
移住した。町の近くには小川が流れていた。
清流といっても良いぐらいに水が澄みきって
おり、川底を泳いでいる魚やサワガニの姿が
はっきりと見えた。
川の周辺には鬱蒼とした深い森が広がって
いた。豊かな自然が残されているだけに空気
もきれいであり、おかげでボクの喘息の発作
もすっかり治まっていた。
町の人は親切な人ばかりで両親はすっかり
馴染んでいた。だが、ボクは転校先の学校に
なかなか馴染めずに同級生とも打ち解けられ
なかった。東京にいた時も小学一年生から入
退院を繰り返していたからまともに通学でき
ず、勉強は家庭教師に教えてもらっていた。
そのせいで同年代の子供たちと過ごす機会が
少なくてコミュニケーションの仕方もわから
なかった。
そうこうしているうちに桜の花びらは散り、
若葉が芽吹いて山や森はすっかり新緑の装い
に様変わりし、季節は初夏に向かっていった。
ボクは学校には馴染めなかったが森に行く
と気分が落ち着いた。町の東のはずれにある
小川には橋が架かっていて、その対岸から森
に行くことができた。
自宅から十五分ぐらい歩けば行ける距離だ
ったので学校帰りや休みの日はいつも一人ぼ
っちの探検を楽しんだ。その森は昼間でも薄
暗かったが木漏れ日が降り注ぐ場所もあり、
陽だまりに座っていると暖かくて気分が良か
った。たまに森を吹き抜ける涼やかで優しい
風に頬を撫でられるのはなんとも心地よいも
のであり、木々の葉がかすかに擦れ合う音や
野鳥の囀りを聴くのがボクは好きだった。人
里では感じられない神秘的な雰囲気が漂って
いたのを鮮明に覚えている。そんなことばか
りしていたせいで一人も友達ができないまま
夏休みを迎えてしまった。
夏休みが始まってから数日ほど過ぎたある
日、ボクは昆虫を飼育して観察し、観察日記
をつけてそれを自由研究のテーマにしようと
考えた。せっかくだから飼育する昆虫は自分
で捕まえようと考え、虫取り網と虫篭を持っ
て森に向かった。
その日も天気は快晴で青空には白い入道雲
が沸き立っていた。真夏の日差しが照りつけ、
意識が遠のきそうになるぐらい暑かった。息
をするたびにサウナのような熱気が肺の中に
流れ込んできた。電信柱や民家の外壁にとま
ったアブラゼミがジージーとやかましく鳴き
続けていた。地面にはすっかり干からびてし
まったミミズの死骸が転がっており、働きア
リの群れがそれを必死に運んでいく。
ボクは炎天下を歩き続けて町の東のはずれ
にある橋を渡り、森の遊歩道へと続く小道を
進んだ。
夏の森は生気に満ちていた。観賞用にいじ
られた草花とは違い、野生の植物には息吹が
感じられた。草木たちが顔に濃密な息を吹き
かけてきそうな気がした。草が蒸した香りや
土の匂いが鼻をつき、ボクはその匂いを嗅ぎ
ながら夏を実感した。
広大な森の周りを囲むように遊歩道が敷設
されており、近くの山へと続く登山道に繋が
っていた。道を歩いていたら何度も登山客と
すれ違った。高齢者や若い男女のカップル、
家族連れなど幅広い年齢の人々がいた。みん
な登山靴を履き、荷物でぱんぱんに膨らんだ
リュックを背中に背負って歩いていた。
ボクはしばらく遊歩道を歩き続けた後、通
路から外れて森の獣道に足を踏み入れ、さら
に奥へと突き進んだ。
数日前、樹皮からたっぷりと甘い蜜を滴ら
せたクヌギの木に虫が群がっているのを目撃
した。その時はアブラゼミに混じって汚い色
合いの虫や危険なスズメバチばかりだったの
で引き上げたのだ。ただ、周辺には他にも昆
虫がたくさん集まりそうな樹木はあり、今度
はクワガタやカブトムシがいることを願いな
がら森を歩いていた。数日前に行ったクヌギ
の木のところに行ってみると、今度は木の根
元辺りで休んでいたヤマトカブトムシを発見
した。ピカピカと黒光りした体の大きい一匹
のオスのカブトムシだった。頭から真っ直ぐ
に伸びた角は矛のように立派であり、二股に
分かれた先端は鋭利に尖っていてかっこよか
った。ボクはあまりの嬉しさに自然と笑みが
こぼれていた。
目的は達成したのでそのカブトムシを手で
捕まえて虫篭に入れた後、元来た道を引き返
すことにした。ところがどんなに歩いても遊
歩道にたどり着くことができなかった。
────あれ、どこで迷ってしまったのだ
ろう?
そんなに大した距離を歩いたつもりはなか
ったのだが予想以上に森の深いところまで来
てしまったらしい。今の時代なら電波の届か
ない秘境でもない限りはスマホのマップアプ
リがあれば迷わないと思うだろうが、当時は
そんな便利なものなどなかった。何の知識も
装備も持っていない子供が一人で森の中に迷
い込んだ状況というのは楽観できるものでは
ない。それは小学三年生のボクにも理解でき
た。
途方に暮れて佇んでいたら背後でパキッ、
と地面に落ちた小枝を踏んだような音がした。
驚いて後ろを振り向いたらそこには少女が立
っていた。
年の頃はボクと同じくらい。白いワンピー
スを着ていた。髪型はロングヘアで揚羽蝶の
髪飾りをしていた。色白で目がぱっちりとし
た可愛い子だった。ハーフなのか髪は黒なの
に瞳の色は翡翠色に輝いていた。
「こんにちは。ここじゃ見ない顔ね」と笑顔
で話しかけてきた。
「こんにちは……最近、森の近くの町に引っ
越してきたんだ」
「そうなのね。わたしはアゲハっていうの。
君は?」
「ボクはカズキ。よろしく」
「こちらこそよろしくね。ところでカズキ君。
ここでなにしてるの?」
「実はカブトムシを捕りにきたんだけど……」
とボクは正直に森の中で迷ってしまったこと
を伝えた。
「ふふっ。慣れない場所なのに無理するから
よ。それじゃ、わたしが森から出してあげる」
アゲハは悪戯っぽく微笑み、ボクの手を掴
んだ。
「安心して。わたしはこの森に詳しいの。す
ぐに出られるわ」
アゲハはボクの手を引いて歩き出した。獣
道を熟知しているらしく、一度も立ち止まら
ずに先へ先へと進んだ。
その後、ボクはアゲハの案内で遊歩道に出
ることができた。辺りはすっかり夕方の景色
になっていた。茜に染まった空を数羽の鴉が
飛んでいた。
しばらくの間、ボクとアゲハは無言でオレ
ンジ色に染まった雲が空を流れていくさまを
眺めていた。ふと、ボクは自分が助けてもら
ったお礼を伝えていないことに気づき、彼女
の顔をしっかりと見て言った。
「ありがとう。君のおかげで助かったよ」
「気にしないで。そんなことよりお友達にな
りましょうよ」
「友達? ボクでいいの?」
「うん」
アゲハはにっこりと笑って頷いた。
これが彼女との出会いだった。この日をき
っかけにボクらは親しくなり、翌日から森で
一緒に遊ぶようになった。一人も友達がいな
かったボクは嬉しくてはしゃいでいた。アゲ
ハは森のことなら何でも知っていた。花々や
鳥獣の種類に詳しく、季節ごとに森で採れる
果実についても教えてくれた。ただ、アゲハ
は自らの住まいや両親については答えてくれ
なかった。こちらがどんなにしつこく訊いて
みても人差し指を唇の前で立て「秘密」と言
って微笑むだけだった。
ボクは幼いなりに彼女は複雑な家庭環境に
あるのだろうと察して詮索することをやめた。
つまらないことでアゲハに嫌われるのはイヤ
だなと思った。
夏休みも半ばを過ぎたある日のこと。ボク
はいつものようにアゲハと森の中を散策して
いた。二人で楽しく会話しながら歩いていた
のだが突然、ボクらの行く手を黒い影が阻ん
だ。
目の前に現れたのは細長い男だった。男と
の距離は一メートルも無かったような気がす
る。その男は夏だというのに黒いビジネスス
ーツに黒いコートを羽織っていた。まるで体
温が無いかのように蒼白な顔には血の気がな
く、一滴の汗すら流さない。この男の目は四
白眼だった。黒目が小さく、白目が大きいせ
いで常に両目を見開いているように見えた。
男はそんな独特な目をギョロつかせながら
ボクたちを見ていた。その視線を感じるだけ
で不快だった。まるで爬虫類の冷たい舌で自
分の素肌を舐めまわされているようで背筋が
ぞくっと寒くなった。背丈は長身だったが異
様にスラっと長く伸びた手足はどこか不気味
だった。
男はボクをしばらく品定めするかのように
凝視した後、視線をゆっくりアゲハの方に移
すと口の片方の端だけを吊り上げて嗤った。
「おう。アゲハじゃねえか。随分と旨そうな
人の子を連れているな。もしかして、俺様へ
の献上品か?」
男は馴れ馴れしい態度で彼女に声をかけた。
「違うわ。お友達よ。わたしのお友達に酷い
ことをしたら許さない!」
ボクの隣に立っていたアゲハはそう言うと怒
りをあらわにして男を睨んだ。
男は何も動じずに不適切な笑みを浮かべな
がら近づいてきた。アゲハは僕から離れると、
自ら男の眼前まで歩みだした。そして、ボク
を守るために両手を広げ、男の行く手を阻ん
だ。男はどういうわけか身動きを止めた。ボ
クがいた位置からは彼女の背中しか見えなか
ったが、相当に凄まじい形相をしていたのだ
ろう。今にして思えば、アゲハには相手を一
時的に金縛りにさせる能力があったのかも知
れない。
「カズキ君っ!早く逃げてー!」
アズサは振り返らずに叫んだ。ボクは言わ
れた通りに逃げようと思ったが突然の危機的
状況に動揺してしまい、腰が抜けたようにそ
の場に尻餅をついてしまった。怖くて体が震
えてすぐに起き上がることができなかった。
男は動き出した。背中から八本の長い腕が
コートの革を突き破って飛び出していた。黒
くて長い腕には関節が五つあり、その先端か
らは長剣のように鋭くて長い爪が生えていた。
額には複眼があって赤く怪しい光を放ってい
た。
ボクはどうにか起き上がって彼女を助けた
かったが、立ち上がれないどころか今度は喘
息の発作を起こしかけていた。ふと、こんな
時によりにもよって吸入薬を家に置いてきて
しまったことに気づいて絶望した。友達を助
けられない挙句、自分の命すら守れずに死ぬ
のかと思うと涙が出てきた。ボクは息苦しさ
の中でアゲハが惨殺されてゆくさまを目の当
たりにした。
最初は彼女の悲鳴から始まった。
ぎゃあああああああああああああああああ
あああああああああああああ!!!
その次に彼女の左右の腕が肩から切断され
ていった。斬られる度に悲鳴が上がり、全身
を返り血で濡らした男はその声を聴く度に鼻
歌を歌いながら喜んだ。虐殺に狂っていた。
腕が切断面から緑色の血を噴き上げながら
飛んでいく。この瞬間、ボクははじめてアゲ
ハが人間ではないのだと気づいた。
やがて、両足が大腿部から切断された。頭
と胴体しかないアゲハはすでに死んでいた。
口からも血が溢れ出し、白く濁った眼からは
涙が流れていた。
だが、男の残虐行為は止まらない。今度は
死体の腹を切り裂き、中から臓物を引きずり
出して喰らい始めたのだ。
ぶつり。
ぶつり。
肉が食い千切られる音。
じゅる。
じゅる。
体内からあふれ出る血を啜る湿った音。
男は口の周りを血で濡らしたままボクを見
た。
「やっぱり、同じ精霊を喰っても旨くねえな。
おい、そこの人間のガキ!お前も食ってやる
よ」
男はそう言うと遅い足取りで歩き出し、ゆっ
くりと迫ってきた。ボクにはすでに逃げる力
がないと気づいていたのだろう。じりじりと
距離を詰めてくる。
気づいた時にはすでに男は目の前に立って
いた。尻餅をついたままのボクを見下ろして
いた。
「さあ、骨までしゃぶってやるから観念しな」
男が鋭利な爪をボクの体に突き立てようと
した瞬間、疾風と一緒に右側面から矢が飛ん
できた。風を切って唸りながら飛んできた矢
尻の先端が男の頭に深々と突き刺さり、その
体は黒い灰となって地面に零れ落ちた。
矢が飛んできた方向に視線を向けると不思
議な人物がいた。その人物は十四歳ぐらいの
少年で白くて大きな牡鹿に跨っていた。少年
は平安時代の貴公子のような服装をしていた。
頭に烏帽子を被り、若草色の水干に袴という
格好。赤い袖括の緒には小さな鈴が付けてあ
り、彼が動くたびにシャリンシャリンと鳴っ
ていた。背中に矢筒を背負い、片手には弓を
携えていた。
貴公子の顔は陶器のように白くて艶があり、
目鼻立ちも整っていた。唇にはうっすらと紅
がさしてあった。細く吊り上がった目には冷
たい印象を受けたが、ボクに気づくと彼はわ
ずかに微笑んだ。
「さあ、まずはこの香をゆっくりと吸込みな
さい」と貴公子は小さな香炉をボクに手渡し
た。どういう仕組みなのか貴公子の手元から
弓矢は消えていた。
ボクは言われた通りに香炉から立ち昇る煙
をゆっくり吸った。何度か呼吸をしていたら
喘息の発作が治まっていた。
「どうやら気分が落ち着いたようじゃな」
「おかげで楽になりました。ありがとうござ
います」
ボクはお礼を言うと同時に香炉を返した。
「礼には及ばん。それにしても人の子がこん
な森の深くまで来るのは久しぶりじゃ。しか
し、あまり森の奥には近づかぬほうが良いぞ」
と貴公子は忠告しつつ、ボクが差し出した香
炉を受け取った。
「わしはこの森のヌシを務めておる。森の精
霊を眷属として従えておるのじゃが、闇に属
する精霊だけは勝手なことをするのじゃ。森
の住民は部外者に手を出してはならぬと法度
で定めておるのじゃが、わしの目を盗んで森
に迷った人を喰らうのじゃ。じゃから人間が
この森に近づくのは危険なのじゃよ」
「なるほど……ところでアゲハちゃんは何者
だったのですか?」とボクは貴公子に訊いた
後、地面に転がったアゲハの原型を失った骸
があったはずの場所を見た。だが、そこには
蝶の片方の羽根が落ちているだけだった。
「あれは森の善良な蝶の精霊じゃ。気の毒だ
とは思うが自然には弱肉強食という掟がある。
こればかりはわしですら介入するにはいかぬ。
あくまで森を守り、森の均衡を保つことがヌ
シの務め」
「そうですか……」
「まあ、落ち込むな。アゲハも死ぬ前に楽し
く時を過ごせたじゃろう。さあ、もう自分の
家に帰るのじゃ」
「どうやって帰ればいいのでしょう?」
「それは心配に及ばん。アゲハの魂がそなた
を導いてくれるじゃろう」
貴公子は香炉を懐にしまうこむと今度は横
笛を取り出した。笛を両手で掴むと指穴に指
をあてがい、唇を唄口にあててそっと息を吹
き込んだ。物悲しい調べが辺りに響き渡った。
その音色は美しいものだったが聴いているう
ちにとても悲しい気分になった。同時にボク
は強い睡魔に襲われてうとうとしているうち
に眠り込んでしまった。
ボクは目覚めると木漏れ日が降り注ぐ地面
に倒れていた。
貴公子の姿はどこにもない。
あれは夢だったのだろうか?
寝ぼけまなこで上体を起こして頭上を仰ぐ
とちょうど、森の天蓋を形作っている枝葉の
隙間から午後の日差しが射し込んでいるとこ
ろだった。
おもむろに立ち上がってみるとすぐ目の前
には低木の茂みがあり、その枝には蜘蛛の巣
が張り巡らされていた。巣の中心には大人の
拳ぐらいの大きさの黒い蜘蛛がいて、粘着力
がある糸に絡まったアゲハ蝶を捕食していた。
すでに原型をとどめておらず、片方の羽根の
みが地面に落ちているだけだった。
ボクは何となくその蜘蛛がアゲハを殺した
男の正体だという気がした。そう考えたら急
に憎しみと怒りの感情が燃え上がった。衝動
的に地面に転がった枝を拾い、その枝で巣を
壊して蜘蛛を叩き落し、土の上に落ちてきた
ところを逃がさずに靴で踏み殺した。ぐしゃ
りと潰れる嫌な感触が靴の裏越しに伝わって
きた。
ざまあみろ。この悪い蜘蛛め!
ボクは蜘蛛の死骸に唾を吐きつけた。一瞬
だけ気がすっきりしたのだが、悲しみだけは
消えることがなかった。自分でも気づかない
うちに涙を流していた。
仇を討ったもののどうやって家に帰れば良
いのかわからなかった。いつも森の奥に行く
ときはアゲハが案内してくれていたから道に
迷わなかった。だが、もう彼女はいない。
ボクが途方に暮れて泣いていると、どこか
らともなく青白い燐光に包まれた一匹の揚羽
蝶が飛んできた。その揚羽蝶は何かを伝える
かのようにボクの周りをぐるぐると飛び回っ
た。
ボクが呆気にとられていると耳元で囁く声
した。
────カズキ君。わたしについて来て。
アゲハの声だった。人間の姿に変身してい
た時よりも小さい声だったが助けてくれよう
としていることはわかった。
ボクは揚羽蝶を追いかけた。それからどん
な道を通ったのかは覚えていない。ゆっくり
としたスピードだったから迷わずに済んだの
だろう。
揚羽蝶を追いかけているうちに気づけば森
から出られていた。ボクが森を抜け出した瞬
間、青白い燐光に包まれた揚羽蝶は無数の小
さな光の粒子となって空中で四散してしまっ
た。
────ありがとう。さようなら
耳元で彼女の声がした。別れの言葉だった。
おそらくあれはアゲハの魂だったのかもしれ
ない。
こちらの声がアゲハに伝わるのか分からな
かったが、ボクは夕焼けの空を見上げながら
「さようなら」と一人呟いた。
大人になった今でも夏になるとアゲハのこ
とを思い出してしまう。
作者黒月ミカド