長編8
  • 表示切替
  • 使い方

食文化

俺は肉が食べられない。血肉の生臭さが苦手

だ。以前は肉が嫌いではなかった。それが大

学生の時、友人三人と行った中華人民共和国

への旅行がきっかけで肉が食べられなくなっ

た。

 旅行二日目。俺は北京市内にある安宿の一

室で休んでいた。友人たちと北京近郊の観光

に行く予定だったのだが、俺はその日の朝か

ら片頭痛がひどくて外に行く余裕はなかった。

そこで友人たちには観光に行ってもらい、自

分は宿に残って留守番をすることにした。

 その後、痛み止めの薬が効いたのか昼過ぎ

までベッドで休んでいたらすっかり体調が良

くなった。お腹が空いたのでどこかの食堂に

行こうと宿をあとにした。安宿が建っている

のは観光地から離れた場所であるために区画

整理がいい加減だった。古い建物と新しい建

物が乱雑に軒を連ねていた。掘っ立て小屋の

ような民家を限られたスペースに何件も無理

やり詰め込んで建てているせいで通路も狭か

った。まるで迷宮のように張り巡らされた通

路を歩いていると簡単に迷い込んでしまうよ

うな気がした。雑居ビルが密集している場所

かと思えばいきなり胡散臭い土産を売ってい

る出店があったりと意味が分からなかった。

 そうこうして、五分ほど雑踏をうろついた

後にいかにも庶民むけの食堂といった趣のあ

る飲食店に入った。店内の茶色に汚れた壁に

は黄色の紙が何十枚も貼ってあり、その紙に

それぞれ簡体字で品名が書いてあった。俺は

簡単な中国語なら理解できたので水餃子と肉

入りの饅頭を注文した。店主は小太りの中年

男だった。よそ者の自分にもニコニコと笑顔

で愛想よく対応してくれた。料理の腕前もな

かなかなものであった。餃子と饅頭の生地の

中に詰め込まれた肉が旨かったのを覚えてい

る。その肉はなんとも言えないコクがあって

クセになる味だった。こんなに料理が旨くて

店主の対応も良いのに店は空いていた。四十

人ぐらいは入れる店だったが客は俺を含めて

二人だけ。昼時にしては少なかった。確かに

店の設備は良い状況とは言えなかった。照明

器具は天井から剥き出しに吊るされた裸電球

だけであり、空調設備は埃をかぶった扇風機

一基だけという有様だ。旅行当時、季節は春

先だったから問題は無かったがもし、あれが

夏だったら暑くてたまらなかっただろう。

 俺は料理を気に入ったから店主に「ここの

料理は旨いですね。これは何の肉ですか?」

と訊いてみた。

 すると店主は「気に入って頂いてありがと

うございます。いや、肉は言うほど大したも

のじゃありませんよ。実は余り物の色んな肉

を混ぜ込んだだけなんです」と厨房の熱気で

汗だくになった顔をほころばせながら言った。

 俺はおかわりを注文して平らげた後、会計

を済ませてから退店した。料金も安くて財布

にも親切で助かった。その後、すっかり体調

が良くなって三日目、四日目は友人たちと一

緒に観光を楽しんだ。

 五日目の夜は友人の中にオカルト好きな奴

がいて、そいつの提案で遼寧省の山間部に存

在している廃墟に向かうことになった。自分

も面白そうだと思って提案に賛同した。ただ、

何の準備もなしに思いつきで始めたために当

然ながら現地で迷い込んだ。それほど大きな

山ではないのだが周囲には深い森が広がって

おり、目的の廃墟はその森の奥にあるという

ことだった。ところが森に入って早々に道に

迷ってしまったのだ。

 俺たちは口喧嘩をしながら茂みを掻き分け

て進んでいると急に開けた場所に出た。そし

て、その先に〈深山酒家〉と筆で記された扁

額が掛かった一軒の建物が見えてきた。扁額

の文字はだいぶ消えかかっており、建材は簡

素な木材と石材でできていたが長い年月を風

雪に曝されたせいでだいぶ傷んでいた。木の

柱は腐りかけ、石の壁には亀裂が走っていた。

廃墟と言ってもおかしくはないのだが軒下の

格子窓からぼんやりと灯りが漏れていた。

 俺たちはその建物が気になって近づいてみ

ることにした。懐中電灯を手にゆっくりと忍

び歩くように歩を進めた。入り口の手前まで

進んだ途端、軋む音をたてながら入り口の扉

が開き、中から人影が出てきた────と、

俺は懐中電灯の光芒の先に浮かび上がった人

影の正体に愕然とした。相手は二日目に訪れ

た食堂の店主だったのだ。店主ははじめこそ

警戒していたがすぐに俺のことを思い出した

のか「おや、この前のお客様ではありません

か」と微笑んだ。

 ここから店主との噛み合わない会話が始ま

った。

 店主は驚きもせずに「それにしてもさすが

は舌の肥えたお客様だ。この美食家の集い場

所を見つけ出し、生きのいい食材まで持ち込

んで下さるとは実に見事です」と手をたたき、

称賛しながら言った。 

 「あの、食材って?」

 俺には意味が分からなかった。食材を持っ

てきた覚えもないし、そもそも店主は俺がい

きなり現れたのにどうして驚かないのだろう

か?北京から遼寧省までの距離はかなりのも

のだ。それに美食家の集いが何なのかも知ら

なかった。

 俺は何なのことなのか質問したのだが店主

は「お客様はご冗談がお好きですね。ここは

我々のような人食鬼に人肉料理を振る舞う店

ですよ」 

 俺は自分の耳を疑った。この現代社会にお

いてカニバリズムが行われているなんてあり

得ないことだし、人食鬼などという怪物だっ

ているわけがないと思った。「人肉だって?

 恐ろしい冗談はやめてください」

「いえ冗談ではありません。この前、お客様

だってうちの店で人肉をお食べになったでは

ありませんか」と店主は口元こそ微笑んでは

いたがその眼差しは真剣だった。

 「それにこうして食材をお持ちになったわ

けですし…ああ、なるほど。食いしん坊だと

思われるのが恥ずかしいのですね。ご心配な

く。私もかなりの大食漢ですから」

 店主はでっぷりと突き出た腹を軽く叩きな

がらガハハハっと下品に嗤った。

 俺と店主の噛み合っていない会話を目の前

で見ていた友人たちは不安げに「どうゆうこ

とのか?」と訊いてきた。だが、俺は店主が

本物の人喰いであり、相手が食材としきりに

言っていたのが友人たちのことだと気づいて

怯えていたから返事もまともにできなかった。

それに相手に自分が偶然にも人肉を食べてし

まっただけの人間だと気づかれるのも危険だ

と思った。いくら勘が鈍そうな店主でも、こ

れ以上こちらの動揺を見せれば疑うに違いな

い。俺は非情にもこの時点で自分一人だけが

逃げることを考えていた。

 「お客様も店主でお座りになってお待ちく

ださい。我が会自慢の料理人が食材を解体し

ますので」

 店主がそう言うと、地響きと共に建物の奥

から鉈を持った巨漢が出てきた。身長は二メ

ートルもあり、血のように赤い瞳を光らせな

がら右手に鉈、左手に人間が数人入りそうな

空の麻袋を持っていた。そして、凄まじいス

ピードでこちらに迫ってきた。

 悲鳴を上げながら逃げ惑う友人たちに人食

鬼の巨漢が襲いかかった。まず、友人の一人

を捕らえるとすぐに首を跳ね上げてしまった。

恐れおののく表情を張り付かせた生首が血し

ぶきを噴き上げなら空中を舞い、俺の足元に

転がった。

 「助けてくれ!」と友人は助けを求めたが

俺は人食鬼たちに自分が同胞ではないとバレ

るのが怖くて彼らを見殺しにした。友人たち

が巨漢に捕まって惨殺されていく中、俺は必

死に腹痛を演じ、体調不良を理由に退去を申

し出る。「それは残念ですね。またの機会に

しましょう。ところで食材はどうします?」

「ああ、アレならお好きにどうぞ」と俺は血

生臭ささに吐き気を催しつつ、友人たちの悲

鳴を背に泣きながら走って逃げ出した。「ま

たどこかでお会いしましょう」

 背後で店主の不気味だと感じるぐらいに明

るい声がしたが、追ってくる気配はなかった。

新鮮な人間の肉に満足したのかも知れない。

 俺は真っ暗な森の獣道を一心不乱に駆け続

けた。道中で何度も茂みの枝先が肌を傷つけ

たが、それを気にしている余裕などなかった。

それ以降の記憶は曖昧ではっきりとしない。

どうやって北京まで戻ったのかはわからない

が、目覚めた時にはホテルのベッドで横にな

っていた。悪夢だと思いたかったが部屋には

友人の荷物が置いたままになっていて、当然

ながら彼らの姿はなかった。衝動的に友人の

荷物を処分してしまった。友人を見殺しにし

たことが世間に露見することを恐れたのかも

しれない。

 俺はすぐに地元の警察に自分や友人に起こ

った事件を伝えたのだが、あまり真剣にとり

あってはくれなかった。「ひとまず、友人は

失踪者という扱いでこちらで捜索しておくか

ら、アンタは自分の国に帰りなさい」と受付

のカウンターで追い返されてしまった。

 帰り際、近くでこちらの様子を窺っていた

三十歳ぐらの警察官が近づいて来るなり「こ

っちで処理しておくよ。何も心配はしなくて

いい。美食家はみんな仲間だからな」と耳元

で囁いた。警察官は唇の両端を吊り上げ、白

い歯を見せてニヤリと嗤った。その笑顔が妙

に不気味で今も脳裏に焼き付いている。

 その後、俺は日本に帰国した。友人の荷物

を現地で処分するなど証拠隠滅に走っておき

ながら罪悪感に苛まれていた。いつ警察や友

人の家族から連絡が来るのかとびくびくしな

がら日々を過ごした。だが、半年経っても誰

かに追及されることはなく、いつも通りの日

常が過ぎていくだけだった。大学ではどうい

うわけか友人たちの存在が消されていた。顔

なじみの学友らも彼らのことをまったく覚え

てはいなかった。十年が過ぎても友人たちの

死体は見つかってない。

 おそらく食堂屋の店主は人食鬼の組織内に

顔がきく存在なのだろう。そして、店主は自

分の店で出しているメニューを絶賛した俺を

気に入っており、人食鬼になったばかりの存

在だと認識して証拠隠滅してくれたのかもし

れない。だとすれば人食鬼たちは世界中に跋

扈しており、その組織は裏で政府にまで影響

を与えられる力があるということになる。

 俺には難しいことはわからない。だが、は

っきりしているのは肉が食べられなくなった

ということだ。肉が苦手だ。そう。俺は人肉

以外の肉を食べられない体になった。鳥もだ

め。豚もだめ。牛もだめ。魚肉もだめ。どれ

もどんな料理でも血生臭さく感じて吐いてし

まう。ああ、野菜は普通に食べられるが肉だ

けはだめだ。人肉でないとだめだ。

 俺は店主の料理を口にした時点で人食鬼の

仲間になってしまったのだ。徐々に人間とし

ての理性を失い始めている……。

 

Concrete
コメント怖い
0
8
  • コメント
  • 作者の作品
  • タグ