稲荷新田物語:2狐仙女のトウモロコシ ※日本史・神社ネタ

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稲荷新田物語:2狐仙女のトウモロコシ ※日本史・神社ネタ

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この「新田」村で一番に古くから開けていたのは、山に近い谷合のあたりなのだそうだ。理由は水を引くのに手間が少ないからで、裾野の平野部が水田化されたのは案外に遅かった。

初期には荒野が広がっていて、ところどころで畑作や馬の肥育がなされていた土地なのだという。

そして登場初期の平安時代・鎌倉時代などの武士たちは、武装こそしていても開拓者や農場経営者(と家来の従業員)だった。戦国時代などでも半農半兵というのが普通だったようで、純粋な戦闘員や世襲官僚としての「武士階級」のイメージは江戸時代のものだろう。

よくヨーロッパの中世ファンタジーや騎士のフィクション作品があるが、それらではしばしば中世末期や近世初期の「最終的な完成形の時期」のイメージが(人々の記憶に残って美化されて)強く表れていたりする。日本の武士や過去の社会へのフィクション創作描写でも、案外に似たことは起きているはず。また、マルクス主義左翼の歴史観などが強く影響している場合も少なくないようで、後で知って「捏造や虚構でないか?」と苦笑いさせられることもある。

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新田開発が本格化する前の時期に、未開拓だった裾野の一部地域でトウモロコシが栽培されていた時期があったそうだ。

昔は案外に米以外の雑穀類なども、貴重な食料や農産品だったらしい。なぜなら水稲の栽培は大量の「水」が必要なわけで、よほど立地が良いか大規模な灌漑でもしない限り、まず不可能だから。特に山村などならば畑作で得られる産物は必須だったはずである。

さて、トウモロコシは南米の原産であるし、日本に入ってきたのは戦国時代以後だろうから、おそらくその辺りに用水が引かれて水田になったのは江戸時代のことかと推測される。

この話を伝えているのは寺社の縁起説話の他、新田大将などと呼ばれる家の一つで、少なからず信憑性がある。この新田大将というのは、草創期に灌漑設備や用水の整備工事で指揮した、村長格・庄屋のような名望家の家系によくある呼び方で、リーダーや英雄の末裔として信望を集めることが多かったようだ。

灌漑工事を主催や指導しようと思えば、その間の労役の給与や食料も調達しなくてはならず、それなりに実力や財力がなくては無理だろう。この話は、その家系の創始についての伝承でもあったらしい。

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平安時代の頃にはひとまずは京都の朝廷の権威が日本全国に広がっていた。

「風土記」の記述などからすればさらに遡って日本武尊の時代には、関東や東北にまで力を及ぼして、名声や信望は広まっていたそうだけれども、藤原氏や源氏・平氏などの後代に知られる門閥や有名な名前が出てくるのは平安時代のこと。

この新田大将(初代)の源何某というのは、京都から国司として流れてきて、そのまま地域に残って同化した家柄の次男以下の息子だったそうだ。

「源」というのは皇室の皇子が臣下戸籍になるときによく与えられる名字であるため、大臣・公卿や武士の棟梁などに有名だが、そうはいえどもピンキリ。「平」や「藤原」などでも、地方に下って地方豪族になっている場合、中央の皇室や摂関・公卿に比べられるものではあるまい。

件の源何某の生まれた家も例外ではなく、半農半兵の山間の村の村長くらいの立ち位置だったようである。それでも家来の小作や村人たちからは「お館」などと尊ばれていたらしいが、主人や跡取りならならばまだしも、次男以下・諸子であれば「ちょっといい家の坊主」くらいでしかあるまい。だから、自分で生計を立てて道を切り開くしかなかったはずである。

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その若者は山や荒野で狩りをしたり、平野部で馬の肥育などしていたらしい。武士の修養や訓練として狩りは定番でもあるが、山住みの狩人などとも付き合いがあっておかしくない。

伝わるところでは「山の仙女から不思議な種子を貰い」などと簡潔に書かれている。

一般に農業を主にしようとすれば、集団で一カ所に長期間を定住した方が有利であるので、日本人の昔のイメージはそういうことになっている。けれども、狩人・樵夫や炭焼き・木地屋(木工製品職人)などの山仕事や漁師などは、逆に「一カ所に大勢で固まっていれば仕事にならない」(材木や水産資源が枯渇して自滅するだけ)だめ、あちこちに定期異動したり分派して散らばる。また、山や僻地では自前で生産できない必要物資を外部から買い入れねば生きていけず、交通や流通が案外に生命線。

おそらくこの「山の仙女」というのも、山仕事している集団や地域流通の関係者だろう。肯定的な「仙女」という言い方には感謝の気持ちが現れているし、若者に何かしら好意感情があったり懇意の仲だったのかもしれない。また流通では寺社関係者や山伏の類も副業や下部人員が活躍しており、高野山の修行僧が僻地流通で一役買ったという話もあるくらいだから、この「仙女」とやらも下級の巫女のような一面があったか。

若者にその「種子」を手渡して言うには「これを蒔けばあなたは大将になれることでしょう」。「狐の毛のようで黄金色に輝いていた」そうだから、それが伝来して普及中のトウモロコシだったと考えて良いだろうか。

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そのトウモロコシを若者(後のその「新田大将」の初代)が、まだ未開拓だった荒野に播種して成功し、その蓄えは後の新田開発のための労役を賄う食料になったのだとか。

飢饉で流れてきた者たちや同じ村の、田畑がない者たちに、当面の仕事や食べ物と後々の生業になる田畑を与えたため、その功績と信望で長者になった。奉納された当時の村掟にも代表者として名前が残っている。

よく昔の(江戸時代以前の)有力者だの掟だのというと(共産マルクス史観の影響で)悪いイメージだが(最終的に腐敗や弊害化した時期の記憶が残ったのも一因だろうし)、それは必ずしも悪意の搾取者でばかりだったとは限らない(京都の朝廷などにしても同じだろう。文化や技術を伝えたり、睨みをきかせて戦乱や野党の跋扈や地域有力者の横暴を掣肘した面があったはず)。水田や畑に水を配分するためにはリーダーシップと采配できる人間がいなくてはならず、それができるには説得力や信頼のある者が必要だった。そうでなければ皆が破滅して飢えるしかなく、協力して安定した食料生産するには、窮屈な「村掟」なども必要やむなしだっただろう。

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そして新田村のその地区には小さな稲荷神社が建立されて、集会場を兼ねていたのだという。

勧請した祭神は伊勢の外宮の豊受姫で、おそらく「狐の仙女」からの連想か(仙女だから豊受姫の下女・お遣いと解釈されたらしい)。江戸時代までは水運や商人も盛んであったし、有名寺社と結びつくことで都合が良かったのも一因と考えられる(荘園としての庇護や便宜もそうであるし、過去の京都や大阪の商工業者の集団でも、近くの有力寺社と地域・業務の運営のためと信仰・結束力の理由で結びついていることが多かったそうだ)。

一般に「稲荷」というと京都の伏見稲荷大社などのような男神のイメージがあるが(豊受姫とは親戚らしい)、実際にはそういった農産業神の「総称」という面もあるようで、祭っている名義・代表神は各神社ごとでまちまちの場合もあるようである(その地域の祖霊も暗黙のうちに祭られているだろうし、名義上の代表神の眷属であるその土地の土地神・氏神だったりもするだろうし)。

お祭りなどでは、狐の仙女に扮した巫女が「うけのみたま(稲荷として一番有名)、とようけひめからたまわった」だの「毛がないので黄金の粉を蒔いていただいたこの着物」だの言いながら、歌い踊る。やってきた武者姿の若者に慕い寄って「わたしのかたみに」などと黄色い羽衣を手渡して昇天し、若者がそれを引き裂いて撒きながら豊作を願う歌を歌う。

この地域で独自・独自の文化習合と神話解釈がされた様子がうかがえる。

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それ以外に、この新田村には「京都から勧請した」とされる稲荷(伏見やその摂社から分霊された?)と、大昔から関東で祭られていたらしい稲荷の移設した神社があって、それら事情でついに地名になったのだそうだ。

往古の日本列島の基層文化の共通性と歴史的な重奏・相互の混淆してきたことがあらわれている。

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