35歳で独身の安河内は大手の不動産会社で営業職をやっていたのだが、度重なる上司の不条理なモラハラやパワハラに耐え切れずとうとう会社を辞めてしまう。
それから彼は大阪の都心部を離れ、周辺部の比較的庶民的なN区に移り住むと僅かな貯えを元手に小さな不動産屋を開業した。
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都心部は違うと思うが大衆的な街にひしめく古い体質の不動産屋の中で新参者が参入することは難しい。
だから彼はありきたりな物件を扱うことを端から諦め一風変わったものを対象にすることにした。
それはいわゆる「いわくつき物件」というもの。
そもそもなんで安河内はそんな普通の人ならば嫌がる物件をあえて扱うようにしたのか?
それには彼なりの思惑があった。
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どんなに優良なマンションや一軒家であってもひとたびそこで生々しい殺人や自殺などがあるとその価値は下落し、一般の不動産屋は扱うことを躊躇するようになるものだ。
ましてや今日日のSNSブームとなると動画などの心霊サイトでの格好の餌食になってしまうのだ。
ただやはり世の中は広い。
そんな物件であっても、いやむしろそんな物件だからこそ住みたいという物好きな人たちが一定数いるのである。
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彼らは総じていわゆる零(0)感体質であり霊的なものに対して全く関心がなく、もともとは優良物件なのだが自殺や殺人が起こったという理由だけで家賃が格安というのなら喜んで契約するのだ。
これから話す話は安河内が事務所を開き三カ月めにして遭遇した特に印象深い話だ。
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RinRinさんは年齢性別不詳の関西では有名なマルチアーティストだ。
その扱うジャンルは絵画、彫刻、音楽と幅広い。
彼は生来の自由人であり、その時々の人生で自らの関心のある芸術分野に関してのみ集中して仕事をする。
住むところを決める場合は仕事基準で、その時にやる仕事内容に応じた物件を賃貸して住むようにしていた。
気に入らなければ一週間もせずにあっさり転居を決めてしまう。
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そんなRinRinさんが安河内の事務所を訪れたのは、ちょうど桜の開花しだした春先のことだ。
わずか6帖ほどの狭い事務所だ。
そのパーテーションで区切っただけで形だけの応接テーブルの前に腰掛けたRinRinさんが、正面に座る安河内に向かって口を開く。
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「この近くの辺りで、今やってる仕事にぴったりな部屋を探してるの」
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「どんな部屋です?」
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白いワイシャツにネクタイ姿の安河内が、RinRinさんの派手な化粧顔を見ながら質問する。
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「そうねえ、出来れば一軒家とかが良いわ。
とりあえず広い部屋が一つあったらいいんだけどね。あとはアタシの寝る場所とトイレ風呂と、それと友達とかも呼んだりするからあと数部屋あったら良いかな」
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サイケデリック柄のパーカーに同じ柄のチノパン姿のRinRinさんが返す。
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「はあ、、、」
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そう言って安河内は頭をかくと、手元にある分厚い物件ファイルに次々目を通していく。
ファイルを見ながら彼はそれとなく言った。
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「あの、、ご存じかとは思うのですが、うちはちょっと変わった物件のみを扱っておりまして、その、いわゆる【いわくつき物件】というやつで、その辺はご了承していただけてますでしょうか?」
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「知ってるわよ、お化けが出るんでしょ。お兄さんアタシねえお化けなんて全く怖くないの。いやいるんだったら寧ろ会ってみたいくらいよ」
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「それを聞いて安心しました。それではいくつか候補があります」
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そう言って安河内はファイルから数枚を抜き取るとテーブルの上に並べる。
彼は、左に平面図右に物件の説明の書かれたA4サイズの紙をRinRinさんの前に置くと、一枚一枚説明しだした。
候補の物件はどれも住環境、間取り、広さなどから考えると破格の家賃であり理想的なのだが、全てが直近でなんらかの事件や事故その他のわけありな問題があるものだ。
一通り説明を聞き終えたRinRinさんは「じゃあ、これ!」と言って、あっさりその中の一枚を指さす。
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安河内はちょっと動揺した。
というのは、そこが候補の中では最も厄介な物件だからだ。
彼は少し遠慮がちにRinRinさんの顔を見ながら
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「これですか、、、こちら確かに良い物件なのですが、先ほども申しました通りこちらはいわゆる霊的なものではなくて、、」と言ったが、
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「分かってるわよ!でもアタシがこれで良いと言ってるんだから良いに決まってるじゃないの」ともう決めた風だ。
結局安河内はRinRinさんをすぐに対象の物件に連れて行き、見てもらうことにした。
どんなに事務所で気に入ったと言ってても実際に現地に行くと、後から断ってくる客も多いからだ。
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物件は安河内の事務所から車で10分のところにあった。
そこはJRローカル線の駅から歩いて5分の新興住宅街の中にある二階建ての家だ。
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「こちらは築まだ3年で、ご覧の通りほぼ新築に近い建物となっております」
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そう言って安河内は金属の門を開くと手入れの行き届いたアプローチを歩き進むと、玄関前に立つ。
玄関扉の横には「平田」という表札。
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「まあ素敵じゃない!本当にこれが一月5万円なの?」
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安河内の背後に立つRinRinが驚いたような声を出した。
彼は苦笑いを浮かべながら合い鍵をポケットから出すと白い玄関扉の鍵穴に入れ、カチャリと開錠する。
そしてゆっくりと開いていった。
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玄関口の端には男物の革靴が一つあった。
右手には備え付けの白い下駄箱があり正面にはフローリングの廊下が奥までのびている。
廊下沿いにはいくつか向かい合ってドアがあった。
どうやら室内も新築のようだ。
安河内が靴を脱ぎ廊下に上がるとRinRinさんも続いた。
そして廊下沿いの部屋の一つ一つを安河内が説明を始める。
RinRinさんは彼の背後から興味深げに聞いていた。
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最後に一番奥にある広いリビングの説明が終わったところで安河内はRinRinさんに「こんな感じですが、いかがでしょう?」と尋ねる。
RinRinさんは「素晴らしいパーフェクトよ!」と笑顔で答えた。
すると安河内は「ありがとうございます。じゃあ事務所に戻って契約の方を」と言うとさっさと玄関の方へ歩き出す。
そして彼が靴を履き始めた時だ。
背後から素っ頓狂なRinRinさんの声がする。
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「ねえ二階は?」
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一瞬安河内の動きが止まった。
そして彼がゆっくり振り返り怯えた顔で廊下に立つRinRinを見て、
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「いや、あの、、さきほども事務所でご説明しました通り二階は、、」としどろもどろに答えているとRinRinさんがぴしゃりと言う。
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「分かってるわよ二階に誰かいるんでしょ。
でも最初だけは一応間取りだけでも見ときたいわ。
それとその方とも出来れば会っておきたいし、、
まあ実際に生活しだしたら、もちろん契約通り上には上がらないから」
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その後しばらく二人は互いにその場で睨み合っていたが、やがて根負けした安河内が「分かりました。最初だけですよ」と念を押すように言うと再び靴を脱ぎ廊下に上がった。
階段は玄関上がって右手のところにある。
二人はその上り口の前に立った。
すると安河内はRinRinさんにしばらくここで待っていて欲しいと言うと一人階段を上り始める。
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彼はぎしりぎしりと踏板を踏みしめながら薄暗い先に姿を消した。
続いて階上で廊下を歩く音がしてやがて止んだ。
それから安河内の息を殺した抑え気味の声が微かに聞こえてくる。
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「あの、、大変恐縮なんですが、少しの間だけで結構ですので、こちらのお部屋を拝見させていただきたいのですが、、」
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それから数分の後、
再び二階廊下の足音がしたかと思うと階段踏板の軋む音が徐々に近づいてきて、やがて階下に安河内の姿が現れた。
彼は緊張した面持ちでRinRinさんの顔を見て一回こくりと頷くと再び上りだす。
RinRinさんが後に続く。
二人は階段を上りきると、その場に並び立った。
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二階も一階と同じくフローリングの廊下が奥の部屋のドアまで真っすぐ伸びていて、途中いくつかのドアが左右にある。
安河内は最初の時にしたのと同じようにドアを一つ一つ開いてはRinRinさんに見せて説明していった。
どの部屋も特に変わったところはなく、単なる普通のトイレや浴室、洋室そして和室のようだ。
そしていよいよ奥のドアの前まで来ると安河内は立ち止まる。
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それから緊張した面持ちでRinRinさんの顔を見て軽く深呼吸をした後ドアノブを握り「入ります」と小さく呟くと、ゆっくり開いていった。
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安河内の肩越しにRinRinさんは室内全体を見渡すとハッと息を飲む。
8帖ほどの畳部屋には家具や調度品など一切置かれておらず、がらんとしていた。
しかも何故か窓、壁、天井全てに新聞紙が隙間なく貼られ光が遮断されており、室内は全体に薄暗い。
そしてその貼られた新聞紙には女性と思しき画用紙サイズに引き延ばされた写真があちらこちら貼られており、そのいくつかの表面に「みなこ」とか「ゆるす」とか「あいしてた」とか赤い墨汁で大きく筆書きされている。
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安河内は入口から一歩踏み込んだ。
そして室内を改めて見渡しながら「平田さん、、平田さん、、何処ですか?」と声をかける。
だが特に室内に変化はない。
再び安河内が声をかけていると、
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「あの、、ほら、あそこ」
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といきなりRinRinさんが彼の背中をつつきながらある方を指差す。
そこは入口入って右手奥の辺り。
安河内はそちらに視線をやると「はっ」と息を飲んだ。
新聞紙が貼られていて気付かなかったが、そこは押し入れのようで襖に少し5センチほどの隙間がある。
安河内はそろそろとその向かいまで歩くと小声で「平田さん、いるんですか?」と声をかけながら隙間に顔を近づけていく。
そして、、、
「うわっ!」と小さく悲鳴をあげると数歩後退りし、思わずRinRinさんとぶつかった。
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そこは襖の隙間奥。
そこに真っ赤に充血した両目をした無表情の男の顔がボンヤリ浮かんでいる。
男は何故かパンツ一枚で押し入れの上段に正座をしている。
ガリガリに痩せていてあばら骨が浮いていた。
そしてはっきりとは聞こえないが、なにやらひたすらぶつぶつ呟いている。
呆然と立ち尽くす安河内とRinRinさん。
すると安河内が思い切って男に声をかけた。
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「あの、、お取込み中すみませんが、こちらの方が1階を借りたいと言われているのですが?」
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「…………」
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「あの、、絶対に平田さんの生活圏に踏み込むことはしないと言われてますので」
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「…………」
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「よろしいでしょうか?」
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「…………」
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返事はないまま、襖はすっと閉まった。
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二人が家を出た時、日はすっかり暮れていた。
事務所への帰りの車の中、助手席にすわるRinRinさんが安河内の横顔を見ながら尋ねる。
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「あの平田という人、、、一日中あそこに座っているのかしら?」
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ハンドルを握る安河内は強張った表情でただ前方を凝視していた。
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「ねえ、あの人さっき膝の上に包丁を置いてたみたいなんだけど、大丈夫なの?」
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RinRinさんのさらなる問いかけに対しても安河内はしばらく無言を通していたが、やがて一つため息をつくと訥々と喋りだした。
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「実はあの方3年前あの家を新築で購入されて若い奥様と二人で暮らしていたみたいなんです。
初めのうちは二人仲睦まじく暮らしていたようなんですが、2年前に突然奥様が近所のアパートに住む若い男性と一緒に家を出て行ってしまい、それからはあの方会社も辞めて一年くらい奥様を血眼で探していたそうなんですが結局消息が掴めず、、それからはずっと一日中ああやって閉じこもっているみたいなんです。ただ今年の初めくらいに貯えも減ってきて、それでもいずれ奥様が帰ってくるのでは?とむやみに外に出ていくこともできなくて、しょうがないから一階だけを誰かに貸して生活費の足しにでもと私の方に連絡をしてきたんです」
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少々不安はあったみたいだが最終的にRinRinさんはあの物件の一階を借りることに決める。
安河内の事務所の机で契約書に最後のハンコを押したRinRinさんは少し強張った表情で語りだした。
「お兄さん私ね、さっきあの家に連れて行ってもらって初めて二階にある平田さんのいる部屋に入った時なんだけど、隅っこに女の人が立っていたのを見たの」
「女の人?」
正面に座る安河内が怪訝な顔でRinRinさんを見る。
彼は続ける。
「うん、アッと思ってもう一度見た時にはいなかったんだけどね。肩までくらいの黒髪の色白でスラっとした人だった。
見間違いかなにかだったとは思うのだけど、もしやあれがお化けというやつ?、、、
だとしたら私生まれて初めて見たかも」
そう言うとしばらくの間RinRinさんはじっと安河内の顔を見ていたが、やがて思い直したように笑顔になると、
「よ~し、明日から新しい仕事場でがんばるぞ~」と言って元気よく立ち上がった。
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それから一カ月が経過した頃、気になっていた安河内はRinRinさんに電話をしてみる。
電話に出た彼はいつものあのテンションで喋りだした。
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「そうねえ、今のところは特に問題はないわね。
仕事も順調に進んでいるしね。
ただ少しだけ気になることといったら、
夜中二階から足音が聞こえてくることと、
たまに夕方平田さんがぶつぶつ言いながら家の周りをぐるぐる何周も回ってることくらいかな。
あ、そうそう、そういえばこの間ねえ買い物でも出掛けようと思って玄関で靴履いてるとさあ、何か背中がぞくりとしたのよ。それで振り返ってみると平田さんが階段の上り口に腰掛けてじっとしてたのよ。
しかも膝の上にはまた包丁乗せててね、、
あれにはさすがにびっくりしたわ、フフフ、、」
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電話を切った後安河内はホッと一息つく。
時計を見ると時刻は既に午後8時を過ぎようとしていた。
事務机に座る彼は飲みかけのコーヒーを飲みながら考えた。
─あの日平田さんのいる部屋に入った時、室内のあちこちに書かれていた文字は確か、、、
「みなこ」「ゆるす」「あいしてた」だったな。
さらにあの時平田さんは押し入れの中で包丁を携え異様に怯えているように見えた。
もし奥さんをまだ愛していてしかも許したというのなら、なぜあんなに包丁を持ってまで怯えていたんだ?
確かあの時RinRinさんはあの部屋で女の人を見たと言っていたな。
もしかしたら平田さんの奥さんはもう、、、
としたら、その死体は?、、、
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カチリ、、、カチリ、、、カチリ、、、
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誰もいない事務所の柱にあるアナログ時計の秒針の音がやけに室内に響いている。
事務机の前に座る安河内の膝はいつの間にか小刻みに震えていた。
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fin
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう