市街地を抜け、メインの国道へ出るまでには、真新しい歩道橋の掛かる小さな交差点がある。
深夜一時過ぎ、そこへ一台の黒いタクシーが停車した。
辺りは少し前から降り始めた雨が路面を濡らしている。歩道橋の下では白いコートを羽織った若い女が一人、傘もささずに手を上げていた。
この片側二車線の道路は新興住宅地と国道とを結ぶ近道を目的として作られた道路で、その利便性の良さから昼夜を問わず交通量は多いが、まだ開通してから10年程しか経ってないそうだ。
だが、この道を造るにあたり夥しい数の墓石や、それを祀っていたのであろう社などが撤去された事は、今の若い世代には余り知られていない。
交差点の側にはそれらを祀る為に造られたの供養塔がある。三時間置きに塔の上に備え付けられた鐘がここら一帯の平和と鎮魂の念を願って、数種類の柔らかなメロディーを奏でるのだ。
しかしその想いも虚しく、この交差点では10年間に5人もの自殺者を出し、見通しが良いにもかかわらずなぜか頻繁に死亡事故も起こり、計20人以上もの死傷者を出している。ここが「魔の交差点」と呼ばれる由縁でもある。
立ち尽くす女に気づいたこの道20年のベテランドライバーは、サイドブレーキを引くと素早く運転席のドアを開けた。社訓により自らが車を降り、お客様が乗る後部座席のドアを開けて安全に中へと誘導するのが規則だ。
「いらっしゃいませお客様、今回は当社をご利用頂きありがとうございます!さてどちらまで向かいましょうか?」
「 ………… 」
返答が無いので、ルームミラーをお客様の顔に合わせ直して、もう一度ミラー越しに訪ねてみる。
「お客様、このまま真っ直ぐでよろしいでしょうか?」
「…はい、おねがいします」女性は弱々しく答えた。
車は国道をぶった切って人気の無い山道へと差し掛かる。ここから先は延々と同じような山の景色が続き、峠をこえて隣町まででるには軽く30分かかる。
「お客様、このまま真っ直ぐに進んでもよろしいでしょうか?」
「…はい 」
女性はもはや真っ青を通り越して真っ白な顔色だ。濡れた髪の毛がベタリと首に巻き付いていて、女性はそれを拭おうともせずにただジッと窓の外を見つめている。
「……… 」
運転手の脳裏に、先日聞いた嫌な記憶が蘇ってきた。それは、休憩時に会社の待合室で同僚が話していた内容。
「 深夜にあの交差点で乗せた客が隣町の澤田病院まで行ってくれって言うもんで山道走ってたらさ、トンネルの手前で急に降りたいって言い出してな…」
「こんな何も無い所になんの用事かな?って思ってたら、誰も触れてないのにドアが急にバン!と開いたんだ。
そしたらその女、馬鹿笑いしながらガードレールを飛び越えてそのまま谷底に落ちて行っちまったんだよ!」
「マジだよこの話!もちろん警察も呼んで調べて貰ったんだけど遺体も何も出て来ないし、ほんとに参ったよアレには…幽霊って本当にいるんだな!そういえばそのお客、真っ白なコートを羽織ってたな…」
同僚の言うその交差点とは、まさに先程この女を拾った交差点の事だ。女性の隣りには、乗車する際に脱いだ白いコートが置かれてある。
「ま、まさかな…」
運転手は生唾を呑んだ。そう考え始めてからはどうも女の動向ばかりが気にかかり、必要以上に何度もミラーを伺ってしまう。その時、不意に女と目が合ってしまった。
「あのう…」
「は、はい、なんでしょう!」
「澤田病院までおねがいします…」
来たーー!!運転手は思わず叫びそうになる口を必死で押さえた。しかも、しかも、このままあと数分も走れば、同僚が話していた例のトンネルまでもが見えて来るという絶望的な状況。
額に浮き出した脂汗をハンカチで拭いながら運転手は言う。
「お、お客様、あそこは救急形態も整っておりませんし、多分この時間は診療時間外だと思うのですが…ほ、本当に澤田病院で宜しいんでしょうか?」
お客様の行き先に疑問を持つなど不要。普段は絶対に口に出さない様な事を、運転手は思わず口にしていた。
長い沈黙の後、女性は口を開く。
「ええとあの、澤田病院てなんの事でしょう?私そんなこと一言も言ってませんけど…」
「えっ?」
この女は名を佳代子といい、まだ二十歳の若さでグループ管理を任されるほど仕事に熱心な女性である。が、実は昨日まで高熱にうなされており会社を休んでいた。
三日ぶりに出社してみると人に任せられない仕事や雑務が山積みになっていて、一人会社に残って後片付けをしていたら見事終電を逃してしまった。
会社を出てから急に降り出してきた雨を避けようと歩道橋に避難していたところ、運良くこのタクシーが通りかかったのだ。
佳代子はさっきからやたらとミラー越しに目が合う運転手が気持ち悪いと感じていた。今だって言ってもいない行き先を確認してくるし意味がわからない。
運転手の目元を良く見てみると、まるで死んでいるように生気を感じない。
いつか新聞記事で読んだ、酔っ払った女性客をタクシーで連れ回し人気の無い所で暴行して殺害。遺体をトランクに遺棄したまま車を山中に乗り捨てて、自らは崖から投身自殺するとかいう残忍かつ悲惨な事件が頭をよぎる。
そこで佳代子ははたと気付く。その崖って確かこの先にあるトンネルの辺りじゃなかったかしら…、私もここで殺される?!
「お客様、顔色がお悪い様ですが、宜しければこの先で一旦休憩を入れていかれますか?」
「…い、いえ。大丈夫です」
一見、運転手は明るい話し口調だが、ミラー越しに見えるその目は全く笑っていない。ゾクリと寒気がして下がっていた熱がまた上がってくるのを感じた。乗った時から気になっていた妙に線香臭いこの車内の空気も、佳代子を更に不安にさせる。
嘘でしょ。この世に存在しないタクシーに乗っているなんてそんな事、絶対にありっこない。
確か…あの事件のタクシーの社名って「坂元タクシー株式会社」だった。記憶が正しければあの事件の後、すぐに社名が「大葉タクシー株式会社」に変わったはず。
でも、もしこのタクシーが「坂元タクシー」だったら、間違い無くこの車は、今は存在していない「幽霊タクシー」だという事になる。
佳代子は助手席の社名プレートを確認する為、前の座席に手をつきゆっくりと身を乗り出した。
その瞬間「ひぃ!!」と運転手が軽い悲鳴を上げた。
明らかな挙動不審に不安感が増す。早く確認したいが、助手席に座っている女性の肩が邪魔をして、中々プレートの字が確認出来ない。
『オリンピアタクシー株式会社』
ああ違う…、良かった…
どうやら佳代子の考えすぎだったようだ。プレートには全く違う社名が記載されていた。しかもオリンピアと言えば、「親切、丁寧、真心接客、お客様の為ならどこにでも駆けつけます!」がモットーの、料金的にもこの界隈では一番良心的で有名な会社だ。
佳代子はホッと胸を撫で下ろした。
良かった…。不思議な事にさっきまでは挙動不審なただの暴漢幽霊にしか見えなかった運転手さんが、今見ると人の優しそうなおじさんに見える。
そもそも落ち着いてよく考えてみたら、そんな「幽霊タクシー」なんて馬鹿げた物が存在する筈が無い。自分はなんて恥ずかしい事を考えていたのだろうかと思うと、顔から火が出そうになり、運転手さんに対して申し訳ない気持ちで一杯になった。
「ねえ運転手さん?」
ビクりと運転手の肩が上がる。
「あの、さっき運転手さんが言っていた澤田病院の事なんですけど…」
「あ、ああ、す、すいません!どうも私の聞き間違いだったようで、峠を越えましたらまた行き先をおっしゃって下さい!」
運転手さんは明らかに佳代子に対して怯えている様子。その姿を見て、助手席に座る女性がクスクスと肩を揺すりながら笑っている。
「分かりました…。てか運転手さん。澤田病院に行かれるのはもしかしてお隣りのお客さんじゃないですか?私よりも先に車に乗ってらしたんだし、先に澤田病院へ行って貰っても私は全然構いませんよ?」
佳代子はお詫びのつもりでそう言った。
「お、お客様…隣りのお客さんとは?」だが、運転手は一度だけ助手席の方をチラリと見ただけで、またすぐに顔を戻した。
「何言ってるんですか運転手さん。そのお客さん、私が乗る前からずっと隣りに乗ってらっしゃるじゃないですか」
運転手はそれを聞いて明らかに同様している。あからさまにビクビクしながらルームミラーと助手席と前方とを順番に見回しながら、みるみると顔が汗でビッショリになってきた。
「は、はは、お客様こそ悪い冗談はよして下さいよ。別のお客様を同時に乗車させる訳が無いじゃないですか、いやーまいったなぁ…ははは…まいった、まいった…」
見ると、隣りに座る女性と運転手さんとの目線の高さが全く合っていない。
「えっ?運転手さんてもしかして隣りの女性が見えてないんですか?」
その時、また「ふふふ…」と女性が笑う。イヤに高い声だ。
まさかこっちが幽霊?でも、これだけはっきりとした声と姿があるのに自分にしか見えてないとか嘘でしょ?佳代子は先週テレビで観た「ほん怖」を思い出して、少し怖くなってきた。
すると女性は自分の右手を持ち上げて、運転手さんの顔をサッと撫でる様な仕草をした。
「…ひぃ…!!」
キ、キキイイイイイイ!!!
車は軽く後輪をスピンさせながら、急停止した。
「もう!運転手さん危ないですよ!どうしたんですか?!」と、座席でしこたま頭を打ち付けた佳代子が抗議する。
「お、お客様が怖い事をおっしゃるからですよ!今車内には私とお客様しか乗っておりません、冗談は止めて下さい!」
佳代子の前に座る女性はあれ程の急停止だったにもかかわらず、どこを痛がる様子も無くまだジッと運転手さんを見つめている。
運転手さんには本当にこの人が見えてないのかしら?でも表情からしてふざけたり、嘘を言っている様にはとても見えない。
「じょ、冗談なんて言ってませんよ。今も隣りで運転手さんの顔をマジマジと見られてますし。髪は肩までで、服装はえっと…あっ!私と同んなじ白いコートを着てらっしゃいます」
「えっ!…白い…コートですか?!ひいいい!!」
そう言えばこのタクシーに手を上げた時ワイパーが回っていたせいか、助手席の女性には全く気が付かなかった。運転手さんの言う通り、今思えば何故、先客が乗っているのに自分を乗せたのだろうかという疑問が残る。
いつの間にかその女性は身体を前に向けたまま、首だけをグルリと90度以上も曲げて、両座席の隙間から佳代子をジッと見つめていた。
初めて正面から見た女性の顔は真っ白で、左目部分は目玉が抜け落ちているのか、そこだけにぽっかりと黒い穴が開いていた、
続く
作者ロビンⓂ︎
こんなお話はいかがでしょうか?…ひひ…