17年10月怖話アワード受賞作品
長編9
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馬曳浜

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女は産まれたばかりの乳飲み子を車の後部シートに、一枚のバスタオルを敷いただけの、洗濯物を入れる籠に入れ、この浜へやって来た。

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季節外れの海。

しかも低気圧の前線が近くを通過しているらしく、風雨は益々強さを増して行く。

・・・

フロントガラスの上ではワイパーが激しくせわしなく半円を描きながら動いているが、叩き付ける強い雨の所為で外の景色は薄ぼんやりと見えるだけだった。

女は浜に続く防風林の手前で車を停めると、暫くの間、ハンドルを両手で掴み、その間に自らの頭を挟む様に俯いていた。

やがてワイパーを止め、エンジンを切った。

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そして、意を決した様にドアを開けると、雨具も持たずに外に飛び出し、か細い声で泣く赤ん坊を後ろのシートから籠のまま取り出し、いつもの様に、ベランダへ洗濯物を運ぶ時と同じ様に籠を両手で抱えると、海辺へ続く薄暗い防風林へと、足早に入って行った。

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防風林から見える海は、白波が立ち、大きく畝り、砂浜に襲い掛かる様に凶暴に波を打ち付けている。

湾の入り口辺りの岩場には、高く波の壁が岩から乗り上げ砕け、そして又激しく大きく壁を作っては砕け散って行く。

女は一瞬足を止め、両手で抱えた籠の中を見る。

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赤い皺くちゃの顔が小さく口を開けているが、その声は強い風と波の音にかき消されて聞こえない。

女は、籠の中まで雨が吹き込まない様にバスタオルで、鼻と口だけが出る様に覆うと、防風林を抜けて砂浜まで歩いた。

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少し行った所に、一隻の古い木造船が浜に上げてある。

女はその船まで行くと、雨が当たらない様に、舳先辺りに潜り込み座り、籠の中からバスタオルごと、赤ん坊を抱き上げた。

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不思議なもので、赤ん坊の泣き声を聞くと胸が張り、濡れそぼり冷えた身体のただ一点、胸の辺りだけ、乳が下着を通して人肌の暖かい温もりで湿らせる。

腹が空いたと子供が泣くと、その声に反応し、乳が溢れて来る。

条件反射の様だと女は思う。

母親とは、こんなものなのか。

女は、赤ん坊の身体を横向きに抱くと、雨で濡れ、肌に張り付いたブラウスのボタンを外し、下着を下げ、張り詰めた乳を出すと滴る乳首を赤ん坊の口にあてる。

誰に教えられた訳でもないのに、赤ん坊は迷いなく乳首に喰らい付き、小さく薄い舌を絡めゴクゴクと喉を鳴らし母乳を飲む。

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その目は見えているのかいないのか。

だが、女の目を真っ直ぐに、食い入る様に見詰め、視線を逸らさない。

産まれて間も無い赤ん坊は、すぐに満腹になり、口の端から乳を垂らし、乳首を離した。

女は赤ん坊の顔を自分の肩に乗せる様に抱くと、背中を軽くトントンと叩いた。

ゲフッ

赤ん坊は口からゲップをした。

女は赤ん坊を抱き上げ、その小さな背中を優しく優しく摩り、フワフワの綿毛の様な髪を撫でる。

知らず知らずのうちに、女は嗚咽を漏らしていた。

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ひとしきり泣くと、女はゆっくり立ち上がる。

赤ん坊が風雨に晒されない様、籠は今いた船の舳先の下に置き、バスタオルで包んだ赤ん坊を両手で守る様に抱き締める。

横殴りの雨と砂が、女の全身にナイフの様に尖った粒を投げ付けて来る。

それでも女は目を細め、砂浜を歩く。

あの、波が激しく砕け散っている岩場へ向かって。

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―――【馬曳き浜】

その昔、この浜辺では馬に網を曳かせて魚を捕っていたと言う。

だが、それは後付けで作られた話し。

貧しく、未だ避妊の術もない時代。

望まない子供を間引いた浜。

産まれると直ぐに、濡れた手拭いを顔に被せ息を止め、この浜へ小さな亡骸を流したと。

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離岸流の発生し易い浜。

小さな体は打ち上げられる事なく、海の藻屑と消える浜――

日本各地の民間伝承を調べている男のゼミにいた女が、男に教えてもらった話だ。

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―――【間引き浜】

だから、女はこの浜を選んだ。

男の助手として、女は何年も男を支えた。

不器用だが真っ直ぐな人間だと信じていた。

”いつか女房と別れてお前と一緒になる。”女はその言葉を信じ続けていた。

男は避妊具を使わない。

だから女は毎月婦人科へ通い、避妊用の錠剤をもらい飲んでいた。

安心していた女が妊娠に気付いた時は、既に堕胎出来る週数を超えていたのだ。

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妊娠を喜んでくれるかと思った。

今度こそ、奥さんと別れて自分と一緒になってくれると信じていた。

だが、男は慌てふためき、”愛人のお前が妊娠なんて洒落にならない。”

男は女に別れを告げた。

女は初めて愛した男を手離したくなかった。

女は男に泣いてすがった。

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男は、子供さえ始末すれば、今まで通り、女を愛し、側にいると、幼児に言い聞かせる様に、微笑み、女を抱き締める。

・・・

女の選択肢は一つしかなかった。

女が男と一緒にいるには、赤ん坊は障害だった。

例え愛人のまま、男の妻となる事は出来なくても、女は男と別れる事など出来なかった。

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女は足場の悪い岩場を歩く。

すぐ向こうからは岩を覆い尽くす様に力強い波が打ち付け砕ける。

少しでも外海に近い場所へ。

女は雨と波をかぶりながらもびしょ濡れのバスタオル越しに赤ん坊を抱き締め、進んで行く。

先端は一段と大きな波が岩場へ向かい牙を剥いている。

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――昔からこの浜はこうして赤ん坊が流されたのだから。

あなた一人じゃないのよ――

女は呟き、波に飲まれそうになりながらも湾の入り口辺りまで来た。

抱き締める赤ん坊を包んでいたバスタオルをそっと外すと、濡れて重くなった筈なのに、それは風に舞い、波間へヒラヒラと舞い落ちて行った。

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こんな風雨に曝されていると言うのに、赤ん坊は母の愛情を疑う事なくすやすやと眠っている。

女はその柔らかな頬に、額に、玩具の様な華奢で小さな拳を作る手に、優しく唇を付けた。

そして、両手で赤ん坊を高く持ち上げると、波が砕けて引いたその瞬間、荒れ狂う波間へ弧を描く様に投げた。

赤ん坊は一瞬で海面から消えた。

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女は次の瞬間、膝から崩れ落ちる様にその場にへたり込み、ゴツゴツして濡れた岩に爪を立て、掻き毟る様に、吼え、慟哭をした。

喉が張り裂け、身体中が引き裂かれる様な痛みと激情に押し潰され、動けなかった。

波飛沫を浴び、心も身体も凍て付き、このまま気が狂った方がましだと思える後悔が、女を包み込んだ。

女は赤ん坊が消えた海面を見詰めると、怒涛の様に押し寄せ、荒れ狂う海にその身を投げた。

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強い波に身体を洗われ、両手で水をかいても思う様に進めない。

まるで洗濯機で洗われる様に、身体の自由は利かず、ぐるぐると水中を回転し、背中から岩にぶち当たるが痛みを感じる隙もなく、波に揉みくちゃにされる。

何処が海面か、何処が海の底か、方向すら見失っていた。

だが、女は波に揉まれながらも両手で力強く水をかき、一段と深い闇へ向かい、潜って行った。

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水中は砕けた波が細かい泡を無数に作り、視界が全く利かない。

息が苦しくなる。

だが女は諦めない。

深く深く水中に潜り、愛しい我が子の姿を探す。

その時視界の端に、そこだけ微かにぼんやりと暗い闇を照らすものが見えた。

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女はもがく様に水をかくと灯りを目指し、ユラユラと波に漂う海藻が伸びる岩の隙間に挟まる、麻の葉文様の産着へ手を伸ばした。

十月も羊水に包まれていたからなのか、赤ん坊は水中だと言うのに目をパチクリと瞬かせ、女の瞳を真っ直ぐに見詰めた。

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その時、小さく光る丸い灯りが辺りを包む。

それも、一つ二つではない。

無数の小さな灯りが女と赤ん坊に纏わりつき、女は身動きが出来なくなる。

女は、片手で赤ん坊を自らの胸に押し付け抱きかかえ、水面に出たいともがく。

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小さな灯りは次第に、臍の緒を垂らした小さな赤ん坊の姿に変わり、女の身体にしがみ付き、より深い深い闇へと引き寄せる。

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無数の赤ん坊は、女の両足にぶら下がると鎖の付いた足枷になり、水を蹴る事も許さず、腰に群がる者達により、抵抗する女の身体は海老の様にくの字に曲がり闇へと引き寄せられる。両腕にしがみ付く赤ん坊は、それぞれが数キロの鉄アレイの重さで我が子を抱く力さえも奪い取ろうとする。

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〈やめて…この子を奪わないで――〉

女は海水をしこたま飲み込みながらも小さな者達に懇願する。

・・・

一度は捨てた筈の命。

己の為だけに・・・・・・

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だが、女はこの腕の中の何者にも代え難い愛しい我が子を失くしたくなかった。

例え自分の命が消え去ろうと、この子だけは・・・

この子だけは、失くさない。

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水を含んだスポンジになった肺は、新鮮な空気を求める。

酸素を失った脳は、思考さえも虚ろにさせる。

それでも、女は=母親=だった。

朦朧とした意識で波に、小さき者達に抗い、我が子をその胸に抱き締めたまま水をかく。

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波は畝り、小さき者達と共に女を暗い闇へ誘うが、それを振りほどくと真直ぐに、真直ぐに、女は仄かな空の明かりを目指して水を蹴り続けた。

女は海面から顔を出すと、腕の中で動かなくなった赤ん坊の顎をゲップを出させる様に肩に置き、その背中を何度も何度も叩く。

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赤ん坊は鳴き声を発しない。

女は諦めずに、何度も何度も何度も何度も叩く。

・・・

やがて、ゲフッと水を吐き出し、赤ん坊は弱々しい声を上げた。

そうしてる間にも女と赤ん坊はみるみる沖に流されて行く。

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女は激しく打ち付ける岩場の波を一瞥し、畝った波をかぶりながらも浜に向かって泳ぎ出す。

だが離岸流は無情にも、いくら浜を目指しても沖へ沖へと親子を運ぶ。

女はそれでも流れに逆らい、片手と両足で水をかくが、我が子を抱く腕も、水の冷たさも、全ての感覚が泥の様に重くなって行く。

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・・・

やがて、意識も生きる力も消え失せた。

・・・

女は静かに、ゆっくりと海面から海の深みに沈んで行った。

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海の底にはボンヤリと光る、元は赤ん坊だった小さき者達。

女に向かい、その両手を伸ばしている。

・・・

漂う様に、女は静かに沈んで行く。

小さき者達の指先が女の足に届こうとしたその時、女の腕の中の赤ん坊が両手両足をばたつかせ暴れた。

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疲れ果て、意識を失くしかけた女だったが、我が子の異変ではたと意識が戻り、海に沈む我が身と我が子に気付く。

女は我が子を抱き締め、渾身の力を込め、泳いだ。

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海面に己と我が子の顔を出すと、今度は波を真横に被る様に砂浜と平行に水を蹴った。

横から打ち付ける波。頭から波を被り、女は我が子と共に又海に沈む。

女は何度も波を被り、その度沈みながらも今度は浜に向かって泳ぎ出す。

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浜は近くに見えるけれど、波に乗って近くまで運ばれたかと思うと、今度は強い引き波に飲まれ遠去かる。

何度も繰り返し、繰り返し・・・

男への愛情より、今、この腕にあるか弱い小さな存在で頭の中も胸も占め尽くされていた。

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・・・

早くこの子を

・・・

この子を・・・

女の思いは烈火の如く燃え上がり、最後の力を振り絞る。

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だが、女の体力は限界だった。

離岸流から逃れられたものの、波に飲み込まれ、冷たい水にも体力を奪われ、もう、水をかこうとしている腕も動かなくなった。

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―ごめんね―

最後に女は呟くと、もう直ぐ浜に辿り着くと言うのに、波に飲まれ、そのまま海に姿を消した。

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海の底には幾つもの空洞の様にポッカリ空いた目が女を見上げ、無数の小さな手を伸ばす。

小さな手は、女の身体にそっと触れる。

―我が身を呪い、我が運命を呪い、何より恋い焦がれた母親を・・・

―その腕でどれ程抱き締めて欲しかったか・・・

小さき者達は、女と腕の中の赤ん坊を静かに、静かに、波に逆らい、浜に運ぶ。

そうして、小さき者達は小さな灯りになり、ユラユラと揺らめき、やがて消えた。

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女が気が付いたのは、白いシーツのベッドの上。

悲鳴をあげなから、我が子を探す。

その声で看護師達が何人も駆け付け、赤ん坊は無事だと報せてくれた。

波打ち際で倒れた親子を発見したのは、低気圧が行き過ぎ、船の様子を見に来た漁師だった。

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古い木造船の舳先にある籠を見付け、ふと浜を見ると、其処には白いバスタオルが月の光を浴びるように波打ち際に広がり、その脇には女が。

意識を無くしながらも赤ん坊を抱く手を離さなかった。

・・・

女は男との別れを決意し、愛しい我が子をその手で抱き締めた。

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