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焼けつくような坂の上には、陽炎が揺らめいていた。助手席の美紀は楽しそうに旅の思い出を語っている。週末二泊だけの、とある山岳地帯への旅だった。
僕にとっては三度目となるその場所は、一時期観光が盛んだった地域の外れにあった。その名残を寂しく留めている、田舎のうらぶれた雰囲気が却って気に入ったらしい。
何にせよ、山からの風は爽やかだったし、七草や付近で獲れた鹿肉も美味しかった。登山まではしなかったが、山間の沢を散策するだけでもいい息抜きになったのだ。
「それでさ、あの小川で────」
美紀の明るい横顔は眩しい春の陽光にも似て、かつてその場所にいた別の女性の面影に重なっていく。
知らず彼女に手を伸ばし、その栗色に染めた髪を撫でるとくすぐったそうに甘えるような視線を送ってきた。そんな仕草まで“彼女”に似ているのだから、僕もなんだか照れてしまう。
道は小高い丘に続く、まっすぐの一本道にさし掛かっていた。太陽が中天に差し掛かる時間とあって、春とはいえ空との境界には陽炎が揺らめいている。その揺らめきの中には、ひらりひらりと黄色い何かが宙を舞っているのだった。
「蝶?」
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美紀が首を傾げる。その通り。最初は四、五頭くらいしかいなかったように見えたそれらが、車が進むにつれて数を増やしていく。そして、黄色い蝶の群がひらひらと舞うその中心に、別の白い何かが見えた気がした。
白い、何か…………。
そう言えば、あの時君は白いノースリーブのワンピースを着ていたね。黒い艶やかな髪が風に靡いて、飛ばされそうになる麦藁帽を片手で押さえながら丘を歩いてた。太陽のうららかな日差しが二人の全てを祝福するかのようだった。
今もまた、蝶の舞う中心に現れた君はあの時と全く変わらない。麦藁帽こそ無いけれど、黒い濡れガラスのような髪が蝶の羽ばたきに合わせるように舞い上がり、澄み切った青空に黄色と黒と白のコントラストを織りなしている。
ああ、涼子、なぜ君はそんなにも美しいんだ…………。いつだって君は僕の胸の中に、そのままの姿であり続ける。
「と、止めてよ貴志!! 誰かいる!!」
美紀の叫びが聞こえる。僕はゆっくりと車を停止させ、ドアを開いた。
涼子────。君こそが僕の唯一の天使。世界にたった一人の、巡り合うべき人────。君を好きになったのは、大学に入ったばかりの春だった。
君はいつも大人しめに振舞っていながら、惜しげもなく明るい笑顔を振りまいていたね。その眩しいまでの輝きに、僕ならずとも多くの男子学生が魅了されていたものさ。内気な僕は周囲に悟られないように、こっそりとそんな君を見つめていた。でも聡い君のことだ、とっくに気が付いていただろうね。
もしかしたら振られるかも知れない、そんな恐れを抱きながらも、震える声で告白した僕を君は真っ直ぐに見つめていた。僕の中にある何かを確かめようとするかのように。あの時君に振られていたら、僕は多分自殺さえ厭わなかったろう。それほどに君を求めていた。
付き合い始めて一年、君は思った通りの人だった。目立つこと、奇を衒うことを嫌い、ストレートで実直な生き方を選ぶ人だった。こんな素敵な女性と生涯を共にしたいと思うのは自然の成り行きだった。
君のお父さんに初めて会った時に思わず結婚を申し込んだのは、単に勢いだけではなかった。僕なりに真剣に考えてのことだったんだよ。ところが、エリート街道には縁遠い僕に激怒した君のお父さんは、君のアパートを解約して実家に押し込めてしまった。
結局、負け犬は負け犬の人生しか歩めないのかも知れない。どんなに懇願しても、君と連絡が取りたいと頼んでも、君のお父さんは許してくれなかった。それどころか、僕を不審者扱いして警察に通報する始末だ。
あの雨の夜、こっそり家を抜け出した君を連れて、僕はただひたすら遠くに逃げた。君のお父さんの追求が及ばない遥かな場所に逃げさえすれば、万事上手くいくと思っていた。今思えば、それもただ都合のいい妄想に縋りたかっただけなのかも知れない。
あれから半年、僕らはそれなりには頑張ったんだと思う。二人して働きに出て、慣れない労働に明け暮れた。それでも、時間とお金さえ掛ければ、人を見つけ出すなんて訳はないものなんだね。君のお父さんは君を見つけ出し、強引に連れ帰ってしまった。
君が命を絶ったのはそれから間もなくだった。お腹にいた赤ん坊も道連れにして、君は首を吊って死んだ。別の縁談が持ち上がっていたらしいと僕は後になって知ったよ。僕は葬儀の席に乱入して君のお父さんを思い切り殴ってしまった。全力で何度も何度も殴り続けたけど、君のお父さんは泣きはらした目を伏せたまま一切抵抗しなかった。遺体は僕が引き取って埋葬する、そう言った時、君のお父さんは僕に土下座して謝ってくれたよ。
それでね、僕は決めたんだ。君を埋めるのはあそこしかないって。冷たくなった君を、無数の蝶の舞う草原に埋葬した時、僕と君のお父さんはそこでまた泣きに泣いた。
それから一年、僕は大学に戻り、何とか以前の生活に戻った。君という存在が欠落した毎日を元通りだなんて言えないけれど、少なくとも傍目にはそう映ったことだろう。
美紀とはね、茫然自失状態の僕を心配して付き添ってくれているうちに、いつしか恋仲になってしまったんだ。美紀と君は仲が良かったから、きっと分かってくれるよね。でも、僕の本心は決して君を忘れたわけじゃなかったんだ。美紀と暮らす中にも、君との思い出がいつもフラッシュバックする。
美紀がコーヒーカップを手に笑いかけてきたり、手料理を作ってテーブルに運んできたり、あるいは髪を結い上げるときの何気ない仕草まで、君と過ごした日々を思い起こさずにはいなかった。
だから……。今この時だけの、例え束の間の邂逅でもいい。君の存在を、この目に焼き付けていたい────。こうしている間にも、君との思い出が次から次へと溢れてくる。駆け落ちの時に二人で歩いたこの草原を、無数の蝶が舞う、あの穏やかな日の午後を。あの蝶たちは、今も変わらずに僕を迎えてくれるだろうか。あの日、あの時の二人を迎えてくれた柔らかな時のように────。
陽炎の中の幻のように、君は蝶に囲まれて佇んでいる。僕は、美紀の制止を聞かず一人歩き出した。まさか、君が出迎えてくれるとは思わなかった。徐々に君の姿がはっきりして、すぐ間近に迫っても信じられずにしげしげと君を見つめる。
生前と同じ姿の君が、そこにいた。柔らかな微笑を湛えて僕を見つめ返している。黄色い蝶の群れが、僕と君を取り囲み、白く輝く理想郷へと誘うのがわかる。ああ、君はずっとここで待っていてくれたんだね────。
僕の心の中の呟きは、君の心に届いたのだろうか。きっと伝わったに違いない。君は明るい微笑を浮かべたまま、両の手で僕をしっかり抱擁したのだから。
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背中にめり込んだ君の手に背骨が粉砕され、尚も強く締め付けてくる。それでも痛みは一瞬で消えたし、不思議と恐怖も感じなかった。僕の魂が、肉体を離れていくのが分かる。全てが終わり、僕の身体がそこに倒れ伏した後も、君は僕の魂をしっかりと抱きしめてくれていて、二人は久しぶりのキスを交わした。肉体を伴わないキスの感触はとても不思議だったよ。ほんわかと暖かくて、でも互いの存在はどこか朧気で頼りなく、それだからこそ君もしっかり僕を掴んで離さずにいたんだね。
倒れた僕の側まで走り寄った美紀が、泣きながら僕を起こそうとしている。ごめんね、美紀。僕はやっぱり涼子が忘れられないよ。どうかこんな僕のことは忘れて、新しい恋を見つけて欲しい。もし会いたくなったら、僕はいつでもここにいるから────。
無数の蝶と戯れながら、僕は涼子と草原を歩き始めた。
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焼けつくような坂の上には、陽炎が揺らめいていた。
道は小高い丘に続く、まっすぐの一本道にさし掛かっていた。時刻は正午を回っている。楽しそうに旅の思い出を語る運転席の幸雄とは、付き合い始めて半年になる。
週末二泊だけの、とある山岳地帯への旅だった。私にとっては二度目となるその場所は、一時期観光が盛んだった地域の外れにあった。その名残を寂しく留めている田舎ではあったが、山からの風は爽やかだったし、彼が山間の沢で釣った魚も美味しかった。
幸雄の屈託のない横顔は優しい春の風にも似て、かつてその場所にいた別の男性の面影に重なっていく。
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「蝶?」
幸雄が首を傾げる。坂の頂上、陽炎の揺らめきの中で、ひらりひらりと黄色い蝶が宙を舞っているのが見えた。
最初は四、五頭くらいしかいなかったように見えたそれらが、車が進むにつれてその数を増やしていく。
そして、黄色い蝶の群がひらひらと舞うその中心に、別の何かが見えた気がした────。
作者ゴルゴム13
最後までお読みくださりありがとうございます。
本作は春のイメージで書いてみました。楽しんでいただければ幸いです。
ようやくですが改訂版が仕上がりました。
http://kowabana.jp/stories
それでは。