中編6
  • 表示切替
  • 使い方

七生報国

俺は今年四十の、ごく普通の独身サラリーマンだ。

これといった趣味はないのだが、今唯一の楽しみといえば、週末休み前の深夜のドライブだ。

ドライブというと聞こえはいいが、単に日が変わる位に家を出て、後はただひたすら走る。本当に単純なものだ。

ただスピード狂ではないから、のんびりと好きなジャズでも聴きながら、刻々と変わる景色を眺めつつ走り続けるのが、今の俺流の至福のひとときだ。

separator

その日も夜中の十二時位に、愛車のアウディで自宅マンションを出て、街中をただ走っていた。

目映いイルミネーションの眠らない歓楽街を抜け、閑静な住宅街をしばらく走ると、道は少々狭くなって、傾斜がついてくる。

ここからいつもの山道に入っていくのだ。

右側からは並び立つ鬱蒼とした木々が迫り、

反対側は白いガードレールが果てしなく続いており、そのはるか向こうには、真ん丸の月に照らされた山々の稜線が一服の墨絵のように広がっている。

季節はもう秋だから、エアコンの必要はない。

音楽のボリュームを少し大きくする。

この時間がまさに至福のひとときだ。

nextpage

しばらく単調な山道を軽快に走っていると、いきなり後方から耳障りな音が大音響とともに聞こえてきた。

nextpage

きーみーがあああ、よおおおはー……

nextpage

驚いて思わずバックミラーに目をやる。

暗闇でよくわからないのだが、中型のトラックのようだ。色は黒。

雑音はどうやら、日本国国歌、つまり「君が代」のようだ。

nextpage

車の前面には白字で「七生報国」と、毛筆体ででかでかと書かれている。てっぺんには、拡声器が設置されている。大音響の「君が代」は、ここから流れているようだ。

nextpage

ちいいよおおにいぃぃ、いぃいぃ……

nextpage

あわてて次の分かれ道で、細い方の左側の道にハンドルを切る。タイヤが鳴る。

偶然なのか、後ろのトラックも、後に続く。

大音響の国歌とともに。

nextpage

再びバックミラーに目をやり、今度は運転席辺りを見てみる。運転手は男のようなのだが、奇妙なことに、上に何も身にまとっていないようだ。

つまり、裸だ。

しかも、異様に肌の色が白く、首には、金色のネックレスが光っている。そのせいか、白い肌は青みさえも帯びている。ちょっと病的な感じだ。

nextpage

─何だ、あいつ……イカれ野郎か?

nextpage

そのあと何度か分かれ道があり、その都度、その都度、適当な方にハンドルを切るのだが、後ろのトラックは場違いな君が代とともに、ほぼ等間隔でピッタリと付いてきている。

俺は恐怖さえ感じだし、とうとうウインカーを左側に出して、道路の左端に車を寄せた。

驚いたことに、後ろのトラックも同じく、左端に車を寄せた。

nextpage

─いったいなんなんだ?

nextpage

俺はハザードを出して、エンジンを切らずに、停止していた。

暗闇の中、後方で立ち込める排気ガスの向こう側には、あのトラックが同じように、ハザードを出して、止まっている。

国歌はいつの間にか消えていた。

nextpage

俺は呼吸を整えると、音楽のボリュームを下げ、後ろの様子を伺う。

相変わらずハザードがチカチカと明滅している。

特にこれといった動きはない。それがかえって不気味さをつのらせる。

nextpage

─車から降りて、後ろの運転手に声をかけてみようか。あんた、何のつもりだ?と。

いや、こんな時間に、あんな変な車で、しかも「君が代」を大音響で鳴らしながら走るイカれ野郎だ。何をされるか分からない。

nextpage

もう一度、バックミラーに目をやる。

裸の男は何をするわけでもなく、ただ運転席にじっと座っている。運転席の位置が高いため、残念ながら顔は見えない。ただかなり痩せており、ゴールドのネックレスの下の胸にはあばら骨が浮いているのだけははっきり分かる。

nextpage

どれくらい経っただろう。

車内のデジタル時計は一時を少し過ぎている。

nextpage

─こんなことをしていてもらちがあかない。

nextpage

俺はウインカーを右に出して、再びゆっくり走り始めた。

やはり……後ろのトラックも、走り始めた。

また、あの耳障りな国歌を鳴らしなから。

nextpage

─これではっきりした。

後ろの奴のターゲットは間違いなく、俺だ。

じゃあ、何のために?

嫌がらせか?

頭の中で、そんなことをしそうな知り合いを考えたのだが、全く思い当たらない。そもそも、俺がこんな真夜中にドライブをしていることなど、誰も知らないはずだ。

nextpage

─こうなったら、逃げるしかない。

nextpage

俺はぐっとアクセルを踏み込んだ。

nextpage

時速六十、六十五、七十、……八十……百。

nextpage

デジタルのスピードメーターの数値がぐんぐん上がっていく。

ハンドルを握る手に思わず力が入る。

手のひらに生暖かい汗を感じる。

喉元に心臓の拍動をはっきり感じる。

前方の視界はどんどん狭くなっていった。

同時に、あの忌々しい「君が代」の音も、どんどん小さくなっていった。

それでもスピードは落とさず、途中何度となくタイヤを鳴らしながら左へ右へ分かれ道を曲がり、ひたすら走り続けた。

nextpage

ようやくチラリとバックミラーに目を移す。

暗闇しか見えない。

nextpage

─よし、どうやら、かなり引き離したようだ。

俺はホッと一息つくと、徐々にスピードを緩めていった。

道はいつの間にか緩やかな下り坂になっていた。

もう一度バックミラーを見る。

やはり暗闇だった。

……

separator

カン、カン、カン、カン、カン……

nextpage

しばらくすると、警笛音が聞こえてきた。

前方にチカチカと左右に赤く輝くサインが見えてきている。

どうやら踏切に近づいているようだ。

俺はスピードを落として、閉じられた遮断機の前でゆっくり停止した。

nextpage

ハンドルに顔を臥せ、再びホッとため息をついた。

それからしばらくぼんやりと閉じた遮断機を眺めていると、突然後方からまた、あの「君が代」が聞こえてきた。

nextpage

きーみーがあああ、よおおおはー……

nextpage

あわてて、バックミラーに目をやる。

いつの間にか、あの黒いトラックが真後ろに止まっている。

やがて、遠くから電車の近づく音が聞こえてきた。

断続的に警笛を鳴らしながら。

nextpage

ガタン、ガタン、ガタン……ガタン、ガタン、ガタン……

……パアアアアン!

nextpage

するとなぜか後ろのトラックも、警笛を鳴らしだす。

nextpage

パアアアアアン!!……

nextpage

その音は車が揺れる位、大きなものだった。

俺は心臓が止まるかと思う位驚き、ビクン、と反射的に体がはね上がった。

トラックは警笛を鳴らし続けた。

nextpage

パアアアアアン!!……パアアアアアン!!……パアアアアアン!!……

nextpage

まるで直下型地震に遭遇しているかのように、トラックの警笛に合わせて、車内が揺れる。

とうとう俺は両耳を塞いで叫んだ。

nextpage

「やめろおおお!やめてくれえええ!」

nextpage

電車は刻一刻と近づいてきていた。

nextpage

ガタン、ガタン、ガタン、ガタン……

……パアアアアン!!……パァン!

nextpage

「うわああああ!」

nextpage

電車がいよいよ間近に迫ったときだった。

なぜか俺はアクセルを思い切り踏み込んだ。

勢いよく前方に飛び出した車は、目の前の遮断機をいとも簡単にへし折り、猛スピードで線路を横切ると、反対側の遮断機をまたへし折り、線路の向こう側に飛び出した。俺は咄嗟にバックミラーを見た。

nextpage

線路内に侵入してくるトラックが見えた。その時、一瞬だが、前のめりになった運転手の顔を見ることが出来た。

青白い顔に、額からは二本のツノ。

血走った二つの目のその形相は間違いなく「般若」そのものだった。

nextpage

次の瞬間、黒板を思い切りかきむしるような軋むブレーキ音が夜空に鳴り響いた。

続いて耳をつんざくような強烈な金属の衝突音が響き渡り、同時に地響きが起こった。

ブレーキ音はしばらくの間続くと、やがて止まった。

nextpage

俺は線路から百メートルほど離れたところで車を停めエンジンを止めると、ドアを開けて、よろけながら外に出た。

そして、線路の方に目をやる。

nextpage

もうもうと立ち込める白い煙の中、電車は一両目が脱線して、草むらの中に見事に横転していた。

黒いトラックは、そこから五十メートルほど離れた線路上に、無残な姿でひっくり返っていた。

nextpage

俺は横転したトラックの近くまで、フラフラとつまづきながら歩いて近づく。

油の匂いが鼻をついた。

前輪はまだカタカタと音をたてながら、回っている。

車体のあちこちからは白い煙が立ち上っていた。

俺は、横たわる黒い巨体の側を歩いて、運転席の傍らまで近づく。

そして、めちゃくちゃに割れたウインドウ越しに、そっと中を覗いてみた。

nextpage

そこには、運転手の姿はなかった。

Normal
コメント怖い
2
11
  • コメント
  • 作者の作品
  • タグ
表示
ネタバレ注意
返信
表示
ネタバレ注意
返信