中編5
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色褪せた便箋

今から十数年前になるでしょうか。

私は夫の転勤に伴って、東京から地方の寂れた町へ引っ越しを致しました。

私は虚弱体質なものですから、遠方への引っ越しは余り気が進まず、中古の一軒家であることも相まって、嫌で仕方がありませんでした。

また、引っ越し先の家を内見した際、どこか不安になるような、そんな心持ちがしたのです。

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ただ、我が家の財政は厳しく、我が儘が通る状況でないことは、私自身が一番よく理解しておりました。

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引っ越しから半月ほど経ったある日、私は何時ものように夫と息子を送り出し、家事に勤しんでおりました。

息子は林間学校だからと喜び勇んでおり、夫は仕事が繁忙期のため普段より疲れている様子であったことを覚えております。

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家事が一段落し、投函されていた手紙や広告紙の仕分けをしておりますと、色褪せた便箋が目に留まりました。

それは、封筒に入れられることもなく、二つ折りにされておりましたので、某かが直に投函したと思われます。

私はその便箋を手に取り拝読致しました。

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便箋には、

「昭和十九年八月六日 大日本帝国海軍二等兵曹 我レ志半バニシテ其ノ職二弊ル 藤原勝」と書かれているのみで、一枚の写真が貼り付けられておりました。

酷く傷んだ黒茶色の写真には、軍服を身に纏った二十代とおぼしき男性が映っておりましたので、恐らく当人であると考えられます。

しかし、それと同時に、この便箋が非常に不気味で不可解な内容であることについても、受けいれざるを得ませんでした。

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まず、この便箋は我が家の郵便受けに配達員を介さず投函されております。

一体誰がこのように不謹慎な手紙を投函するのでしょうか。

また、便箋に書かれた内容は、まるで自身が絶命することを予見していたかのように見受けられたことが、私をいっそう戦慄させたのです。

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私は、冷たい汗が頬を伝うのを感じました。

この便箋をどうしたものかと思案しておりますと、不意に電話が鳴りました。

お恥ずかしい話ではありますけれども、不可解な便箋を手に取った私には、電話を受けることが恐ろしく、このまま放っておくのが最善ではないかしらと考えたのであります。

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暫くじっとしていたのですが、一向に鳴り止む気配をみせなかったため、おもむろに受話器を耳にあてました。

電話の相手は夫で、仕事が長引くため帰宅が遅くなるとのことでした。

私は胸を撫で下ろし、こちらのことは構わないでよいから無理をなさいませぬようにと伝えて受話器を置きました。

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安心したのも束の間で、内心では誰か早く帰って来て欲しいという思いが沸き上がっておりました。

息子は明日まで帰らず、夫も夜遅くになるだろうと考えると、再び不安な気持ちが襲ってくるのでした。

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気がつけば、外は日が沈んで暗くなっており、いつになく家の中も薄暗くどんよりとしていたように思います。

私は気を紛らすためにも、夕飯の支度に取りかかり、あの便箋は質の悪い悪戯であると考えることに致しました。

いいえ、きっとそうすることで、平生を保とうとしたのです。

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夕飯が出来上がる頃、再び電話が鳴りました。

夫から仕事が早く終わる旨の電話に違いない。そう考えた私は、先程とは打って変わって明るい声音で電話を受けました。

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すると、怒鳴るような声で

「藤原勝、只今帰って参りました」と返ってきたのです。

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私は反射的に電話を切っておりました。

便箋に書かれていた名前を思い出し、心臓が激しく脈打つのを全身で感じました。

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それから、直ぐに警察へ事の顛末を伝えたのです。

しかし、警察は只の悪戯だろうと取り合ってくれません。私が調査を懇願しても、頻繁に電話がかかってくるようであれば対応を検討すると答えるばかりです。

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私は落胆して受話器を置きました。

こんなにも悪質な悪戯は許しがたいと怒りが込み上げましたが、どうすることもできません。

只の悪戯、むしろそうであって欲しいと願ってさえおりました。

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私は、倒れ込むように居間のソファに腰を降ろしました。

ふと、机に広げたままの便箋が目に留まりました。

便箋を廃棄することは気が引けたため、何処か目の届かない場所へ移そうと考えた矢先、望まずして便箋に貼り付けてある写真が視界に入り込んできたのです。

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それは、今日初めて目にした時よりも、顔が歪んでいるように見えました。

そして、唐突に玄関の呼び鈴が鳴ったのです。

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私は、まさかと思いつつも、悪戯と偶然が重なっただけであると自身に言い聞かせました。

私がソファから腰を上げて玄関に向かおうとすると、激しく玄関を叩く音がするのです。

これは現実なのだろうかという思いが、頭の中を幾度となく巡りました。

私はその場に立ち尽くしていたと思います。

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ここにきて漸く、これは悪戯等という類ではなく、この家若しくは土地が尋常ではないと気がついたのです。

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正にその時、玄関の外から

「藤原勝、只今帰って参りました」と言う声が耳に入りました。

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私は暫く気を失っていたようで、気がつくとソファに倒れ込んでおり、夫と救急隊員が心配そうに声をかけてくれました。

救急隊員が帰った後、その日に起こった出来事を必死に夫へ伝えました。

夫は予想以上に理解を示してくれたため、翌週には引き払いの手続きを済ませ、少し無理をして新築のマンションへ引っ越しを致しました。

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あれから東京に戻った現在まで、何事もなく暮らしております。

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先日、夫から当時の様子について聞き出すことができましたが、やはり内見の時から私と同じように違和感を覚えていたそうです。

ただ、他の物件に比べて破格の安値であったため、多少の不都合は覚悟の上で購入したと語っておりました。

また、あの便箋は在るべき場所に送付致しましたので、現在も保管されていることでしょう。

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今となっては、夢のような話ではございますが、世の中には解明できない出来事が、何時の時代にも無数に存在しているものだと、私は考えております。

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