長編9
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誘い(いざない)

「ほらほら!ちゃんと手を拭いてからよ」

私は広げた包みのお弁当箱の中に並んだおにぎりに手を伸ばす花純(かすみ)にお手拭きを渡す。

「いただきまぁ〜す」

急いで手を拭き終わり、花純は好物の鮭のおにぎりにかぶり付く。

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その横で、水筒から冷えた麦茶をコップに注ぎ、花純の前に置くと、自分の分も注ぎ、もう一枚お手拭きを出して自分の手を拭く。

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今日は花純と2人でワラビ採りに来ている。

本当は夫も一緒に来る予定だったのだが、会社の同僚の急な入院で仕事が立て込み、休日出勤となり、来る事が出来なかった。

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日をずらして、夫の休みの日にと思っていたのだが、何ヶ月も前から約束していて花純がガッカリしているし、初めてのワラビ採りを花純にも体験させてあげたくて、結局、花純と2人でこの山に来る事になった。

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普段は近所の公園や街中しか歩いた事のない花純なのに、とても頑張って山道を歩いてくれている。

履き慣れないトレッキングシューズで、いっぱしの山ガールの様な花純の写真を、携帯で何枚も撮ってはメールに添付して、仕事中の夫へ送った。

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写真はあまり画像が良くないが、返信は来ないけれど夫も見ていると思う。

1人娘にデレデレな夫だから、きっと一緒に来れなかった事を悔しがっている事だろうと、ちょっとした優越感を感じていた。

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普段は小食な花純だが、今日はお弁当のおにぎりは勿論。

唐揚げや卵焼き、ブロッコリーやプチトマトまで、パクパクと食べている。

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朝も早くから出掛け、沢山歩き、お腹も空いたのだろう。

食欲が有るのは良い事だけど、あまり食べ過ぎても体が重くなってしまうから、そろそろ…と、デザートをいれた密封容器の蓋を外した。

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「わぁ〜♬サクランボだ♬」

花純は早速サクランボを摘むと一粒をパクッと頬張る。

種をおにぎりを包んでいたラップに出すと、もう一つを摘む。

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その時、新緑の中を一筋の光の様に、大きなサファイア色の蝶が姿を現した。

図鑑で見た事のある蝶だが、外国の蝶なのではないか?

こんな鬱蒼とした森の中に突然現れた蝶に、花純と私は驚きと共に暫し見惚れた。

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蝶は、私達2人が見詰めているのを気付いているかの様に、こちらにヒラヒラと飛んで来て、その綺麗な色の羽を優雅に羽ばたかせて魅せ付けると、横を通り過ぎ、暗い森の方へ飛んで行く。

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それを見ていた花純はサクランボを手に、すっくと立ち上がり、蝶を追いかけて森へ駆け出す。

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「ダメよ!!花純!!そっちは…」

蛇や蜂など、有害な生物の潜む森の中へ分け入って行く花純を、慌てて私も追いかけて行く。

だけど、声をかけても花純は振り返る事なく、蝶の後を追いかけて行ってしまう。

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すぐ目の前に花純が…

私は花純の腕を掴もうと手を伸ばした。

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「!!!!!!」

花純の腕を掴もうとした筈の私の手は、空を彷徨う。

一瞬で花純が消えた。

何が起こったのか分からない。

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今、ここに…

私の目の前に花純の後姿が確かに有ったのに、そこに花純は居なくなっていた。

茂った草や木々がひしめき合っているだけで、私以外の人間は誰も居ない。

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(もしかしたら…)

私は地面を這う様に花純の姿を探した。

気付かぬうちに、花純が転んでしまい、未だ幼い身体は茂った草の間に隠されてしまったのかもしれない。

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それとも、落とし穴の様なものがあって、花純はそこに落ちてしまったのかもしれない。

そうでなければ、花純が一瞬で消える筈などないのだから。

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「花純ーっ!!」

私は狂った様に名前を呼びながら花純を探し回っていた。

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どのくらい探していたのか…。

気が付くと、辺りはどこを見渡しても同じような木に囲まれ、どこから来たのかさえ分からない場所に入り込んでいた。

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花純は相変わらず見付からない。

もしかしたら、元いた場所に戻っているかもしれないと、私は回れ右をして恐らくこちらだろうと見当を付けた、花純と一緒にお弁当を食べていた少しだけ拓けた場所へ戻る事にした。

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だが…

右を見ても左を見ても、どこも同じ景色が広がるだけで、いくら歩いても見知った場所へ出る事が出来ない。

せめて山道にでも出る事が出来たら、道沿いに行けば戻る事も進む事も出来るのに、その肝心の山道にも出る事が出来ないでいた。

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花純は見付からず、どこに行ったら良いのか分からない場所。ぐるぐると歩き回り、私は終いにその場で座り込み、大きな声で泣き出してしまった。

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やがて空は茜色に染まり、木々の間から夕日が差し込んで来る。

こんな所で泣いている場合ではない。

一刻も早く花純を見付けなければ…

未だ幼い花純…

きっとその小さな胸を潰しそうな程、不安でいる事だろう。

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あぁ…

花純…

ママはここよ…

待っててね

必ず見付けるから…

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花純…

花純……

花純………

私はすっかり日が沈み、前も後ろも分からない暗闇の中を手探りで花純を探していた。

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すると、少し先で何かが揺れているように見える。

ほんの少し暗闇に目が慣れて来た私は、眼を凝らしてその揺れるものを見詰める。

だが、ただの木の枝なのか、何かの生き物なのかも判別がつかない。

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私は恐る恐る、その揺れるものに近付いて行った。

私の身長より少しだけ高い位置からぶら下がるそれは、人だった。

首吊り死体…と思ったら、その揺れている人は向きを私に変えると、低く掠れた声で何かを言っているようだ。

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眼窩から零れ落ちそうに目を見開き、口からは舌が垂れ下がり、だが、その垂れた舌の奥から捻り出す様に掠れた声で何かを言っている。

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(…………な…い…)

私はその揺れる身体を両手で持ち上げて助けようとしたが、腿の辺りを掴んだ瞬間、私の指は肉にめり込んでしまった。

グヂグヂに腐り、とてもじゃないが持ち上げる事は不可能だ。

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揺れる人は、長い髪を風になびかせると、低い掠れた声で怒声を上げた。

「畜生!!何しやがる!!」

恨みのこもった目で私を睨み付ける。

私は数歩後退りをすると、その場から走って逃げた。

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生きてはいない人間…。

私は幽霊と遭ってしまったのか?

もし、花純が同じ目に遭っていたとしたら…

その恐怖を想像したら居たたまれなくなり、名前を呼びながら、花純を一刻も早く探し、見付けなくては…と、森の中を只管、歩き出した。

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手探りの闇の中、花純を呼ぶ声も掠れて来る。

だが、私が諦めたら花純は…

そう思うと、居ても立っても居られない。

「花純ーっ!!」

私は愛しい我が子の名前を呼び続けた。

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その時、ふと…僅かばかりに視界の開けた場所がある事に気付いた。

私は月明かりの漏れるその場所へ向かい草木をかき分けて進んだ。

スポットライトの様に月明かりの射す場所。

そこには、見た事もないモノが蠢いていた。

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人間の男性を横に寝かしたくらいの大きさの、ずんぐりした体躯。

そこから無数の小さな足が忙しなく動いている。

得体の知れない生物に…

その大きさに…

私は恐怖を感じ、足を止めた。

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すると、大きな翼を持った鳥がその生物の背中に降り立ち、背中を覆う鎧の様な物の重なったその隙間に嘴を突き立てる。

その生物は一瞬で丸くなった。

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そう…。

それは…

日陰の石の下などにいる、ダンゴムシの様だった。

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鳥…フクロウとかミミズクとか、夜目の効く猛禽類なのだろう。

それでも大型の鳥だが、丸くなったダンゴムシの体の10分の1にも満たない大きさ。

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餌には到底出来そうもない。

そのうち諦めたのか、フクロウは又暗闇へ飛んで行った。

私はダンゴムシをただ見詰めていた。

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近くに行ったら襲われそうな恐怖心が、私の身体を動かせてくれなかったからだ。

花純の名前を呼ぶ事も出来ず、その丸まった体を見ていると、ピクンと動いたかと思ったら、少しずつ体が開いて来る。

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やがて出会った時と同じ様になった。

そしてダンゴムシが私の方へ顔を向けた。

私は言葉を失くした。

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ダンゴムシに付いている顔は、触覚は付いているものの、どう見ても老人の顔に見える。

口ひげを生やし、老人は触覚をヒクヒクと左右に揺らしたかと思うと、立ち止まり、私を見詰めて一言…

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「見世物じゃね〜よ!!」

そう言うと、小さな足を忙しなく動かし、暗い森の中へガサガサと音を立てて消えて行った。

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この森は…

この山は…

いったい、何なのだ?

首吊り腐乱死体の様な女。

ダンゴムシの様な老人。

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花純をこんな所へ連れて来てしまった事に後悔しかない。

私は月のスポットライトを浴び、月を見上げ、花純の無事を只管祈っていた。

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だが、そう休んでも居られない。

花純は未だ見付かっていないのだ。

大人で、母親の私でさえ怖いこんな場所に1人でいる花純…。

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どれだけ心細いか…。

どれだけ怖いか…。

どれだけ不安か…。

花純の泣き顔を思い浮かべたら、鉛の様にクタクタに疲れた重い身体も自然と動き出す。

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早く花純を見付けて、花純の小さな身体を抱き締め、そして夫の待つ家に帰ろう。

私はダンゴムシが消えた方とは逆の暗闇へと歩を進めた。

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「花純…」

「花純…」

私は呟く様に愛娘の名前を呼び続け、暗い森の中を進む。

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どこにいるのか?

この山は…

この森は…

なんでこんなに不気味なのだろう?

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暗闇で泣きじゃくる花純を一刻も早く見付け、抱き締めてあげたい。

「もう大丈夫。怖くないから。

ママが付いているわ。」そう花純に言い、安心させてあげたい。

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闇雲に暗い山の中を進んでいると、やがて空が薄らと明るみを帯び、柔らかい日差しが木々の間から射し込んで来る。

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「もう…朝…」

私は呟くと、まるで水を得た魚のように、先程までの漆黒の闇とは違う明るい山の…森の中を草をかき分け、愛しい愛娘の姿を探した。

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時たま歩を止め、掠れた声で花純の名前を呼ぶが、その呼び掛けに応える物はいない。

山道も、獣道でさえ見付からず、生きた人間どころか動物、虫にも出会う事すらない。

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(もしかしたら花純は、もう…)

そんな不安をかき消す為にも、1分、1秒でも早く花純を見付けなくては…。

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丸一日以上歩き回った身体は、やがて動く事も出来なくなり、両足のトレッキングシューズは破れ、踵の皮も剥け、傷口から絶え間なく流れる自分の体液で濡れた靴下が、グジュグジュと歩く度に音を立てる。

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花純が蝶を追いかけた時、せめて携帯だけでも持って居れば…

夫に非常事態を知らせる事も、救護要請も出来たのに…

あっという間の出来事で、まさかこんな事になるなんて、頭の片隅にもなかった…

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いきなり途絶えた連絡と、いつまでも帰らない妻と子供の心配を夫もしているだろう。

きっと、誰かが花純と私を探しに来ている筈。

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そんなに大きな山ではないし、深い森でもない筈だから…

早く花純を私が見付けて、母子共に無事だって。

夫を安心させてあげなくては…。

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花純…

花純…

疲れた…

けれど

貴女を見付けてあげなくては…

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大丈夫よ…

ママが必ず…

貴女を見付けてあげるから…

安心…

して…

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……

………

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「花純?」

夫の和義(かずよし)に声をかけられ、自分がぼんやりしていた事に花純は気付いた。

「ああ…ごめん。

毎年、この季節にはここに来て、お母さんを思い出しているの。」

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花純はお弁当を広げた、山の拓けた場所から、鬱蒼とした森へ視線を移し、和義に話す。

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「そうだね。

この場所でお母さん、消えたんだったよね…。」

「うん。

私が綺麗な蝶を追いかけて、お母さんがそのすぐ後ろにいた筈なのに、振り返ったらお母さん…居なくなってた…。

もう、20年以上も前の事なのに…。

なのに、ここに来たらお母さんに会えるような気がして、毎年この季節にはここに来ちゃうんだ。」

花純は視線を落とし、神隠しの様に突然消えた母親を思い出していた。

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「お父さんも再婚して、新しい母も腹違いの弟もいるって言うのに、やっぱり…

お母さんが何処かで生きていて欲しいって気持ちが拭えないの。

だって、お母さんが死んだなんて…遺体も何もないのに、信じられる訳ないじゃない。

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それに…

お母さんは…

本当に優しい人だった…

いつも私の事を一番に考えてくれて…

思い出すのは、お母さんの笑顔だけなんだよ?

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そんなお母さんが、幼い私を1人きりにしたまま蒸発するなんて、そんな事も信じられないもの。

だから…

私の願望でしかないのかもしれないけど…

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こうしてここに来れば…

いつか…

お母さんに会えるんじゃないかって…

お母さんも、私を探しているんじゃないかって…

そんな気がしてならないの。」

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気が付くと、花純の頬に一筋の涙が…。

夫の和義は、うんうんと花純の言葉に頷きながら、黙って花純の肩を優しく抱いてくれた。

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(お母さん。

私は今、幸せです。

もう会えないかもしれないけれど、又、来年もここに来るね。)

花純はお弁当を片付けると、帰る準備をし、来た道を戻って行った。

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……

………

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花純…

待っててね…

お母さんが必ず見付けてあげるから…

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泣かないで…

独りぼっちになんてさせないから…

怖い想いなんてさせないから…

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待っててね…

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鏡水花様
お久しぶりでございます。
この度は、怖さと哀しさと母子の絆の深さなど、心に響く作品を読むことが出来ました。
蝶の誘い。
名作「HANAシリーズ」を彷彿とさせる素晴らしいものでした。
ありがとうございました。
お会いできてうれしかったです。
今年は、想像を絶するような出来事が続き心痛む日々ですが、元気をもらえたような気がいたします。暑さの中、ご無理なさらずお大事にお過ごしくださいませ。

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