介護・オブ・ザ・リビングデッド❷ ~真章~

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介護・オブ・ザ・リビングデッド❷ ~真章~

『死者が蘇る』

その現象は、私達の社会を混乱の渦に叩き落としました。

何故なら、死はその意義を失ったからです。

不死者の存在は、人が抱いてきた命の価値を崩壊させ、未曾有の混沌を世界に生み出しました。

その混沌の中で、私達人類は、未来に何を思い、どんな社会を創造するのでしょうか?

これは、今まで存在しなかった価値観に初めて向き合った人間達が織り成す、社会の変革の物語です。

その現象は、私が勤務している老人保健施設から、始まりました。

西暦20xx年、日本。

N県K郡S町の山奥、ある山麓で、一人の老人が保護された。

山奥の廃村で一人暮らしをしていたとされるこの老人は、町の役場の職員に保護された際、重度の要介護状態であった。

(要介護状態:日本の介護保険制度において、その高齢者がどれほど介護を必要とするかを市町村が定めたもの。要介護状態のお年寄りを、要介護者という)

近隣の公立病院で治療を受けた後、身寄りも無く家族の有無すらも不明であったこの老人は、N県の老人保健施設へ特殊措置入所する事となった。

介護老人保健施設[縁寿(えんじゅ)]。

入所者定員数150人。この地域では比較的大きな規模の高齢者施設である。

(※介護老人保健施設:介護保険施設の一つ。設置当初は病院と自宅の中間施設として設立されたが、近年の要介護者増加の影響で看取りも含めたケアを行う場所とも認識されている。他の施設へ転移するケースもある。通称、老健)

その利用者食堂で、

「はいよ、爺ちゃん。昼ごはんだよ。今日はカレーだってさ。」

若く明るい声がした。

声の主である若手男性介護士の八代 立志(やしろ たつし)は、意気揚々とお年寄りに昼食は配膳する。

「ちょっと、立志先輩! 利用者さんにそんな言葉を使っちゃダメじゃないですか! ちゃんと敬語を使って下さい!」

(利用者:介護保険を利用するお年寄りの呼び方。病院でいうところの、患者)

「いや、奏…、そんな事言ってもさぁ、そんなの、俺には似合わねえよ…。」

年長者であるお年寄りに敬語を使えない立志を嗜めるのは、立志の後輩、古林 奏(こばやし かなで)である。

「それに、俺の介護のモットーは…」

「『介護は愛情だ!』でしょ? まったく、立志先輩は…。もういいです! 私はタモツさんとイセさんの食事介助するので、そっちの方の事は任せましたよ!」

と、奏はプンスカしながら、他のお年寄りの介助に廻る。

(※介助…いわゆる、お手伝い。食事介助とは、手足の不自由な要介護者の食事を食べるお手伝いをする事。ケアとも言う)

「あいよ、奏。任しとけ!」

そう言いながら、立志は老人の介助にあたる。

言葉使いは乱暴な立志であるが、その介助の技術は確かであり、繊細な箸使いで、手の不自由な老人の口元に程よく温かなカレーライスを運ぶ。

「どうだ、爺ちゃん、美味いだろ?」

立志の言葉掛けに、老人は微かに頭を動かして頷く。

その瞳には感謝の感情が込められていた。

食事の介助も終わり、昼食を終えたお年寄りは、自室に戻った。

一仕事終えた立志と奏の二人は、食事の片付けと掃除を行っていた。

「そう言えばさ。奏。」

「なんですか? 立志先輩。」

「3日前に入所した爺ちゃん、身寄りがないんだろう?」

「…はい。カルテの基本情報とインテーク(事前情報)記録を閲覧しましたが、自分の名前すらも不明だそうです。」

「へー、よく知ってるな?」

「立志先輩…。ケアを行うなら、事前に情報に目を通すのは当たり前です。」

「ははは、でも俺のモットーは、」

「『介護は情熱!』でしょ…。」

「そうそう。熱意と優しさがあれば、介護はできる!」

「できる!…わけないでしょ! それでもプロですか!」

「ま、まぁまぁ。怒るなよ。でさ、あの爺ちゃんさ、」

「はい。山奥で見つかって、保護された後、この施設に措置入所になったんです。」

「…措置入所? 聞かない言葉だな?」

「ええ。いまどき、措置入所は珍しいですね。」

「珍しい事なのか?」

「はい。って、先輩! これも基本ですよ!」

「ああ、ゴメンゴメン。」

「まったく…。本来、この国の高齢者対策は介護保険で対応されてます。

介護保険は、いわゆる国民皆保険であり、全ての国民はこの保険が適用されます。

国民は、歳を取ると…一般的に65歳以上で要介護状態になると、本人又は家族が、役所に申し込みを行い、介護保険を利用し、介護サービスを受ける事になります。」

「ふんふん。」

「この介護保険が始まる前は、お年寄りが要介護状態になると、役所、つまり行政機関ですね。が、お年寄りが暮らす場所を選んで、入所させてました。これがいわゆる措置入所です。

介護保険はそうではなく、お年寄り本人が自分で受けたいサービスを選び、望む暮らしを送れる事を保障する制度です。まぁ、結局本人の意思は反映し辛く、多少形骸化している節がある事は否めませんが…。」

「ほう…。」

「お年寄り本人がサービスを選ぶ、それは、サービスを行う事業そのものも民間に委ねることを意味しました。

老人本人と、その家族に暮らしの選択を委ね、同時にその事業も民間に委ねる。それが介護保険の基本形態です。それが善しきか悪しきか、まだ答えが出るような段階ではありませんが…。国は介護の矢面から退き、お年寄りの世話は、老人本人とその家族に、そして、私達介護の事業者に委ねられました。」

「…うん。」

「で、今回の老人のケースは、身寄りが確認できず、でも帰る家も無く、行政の判断で特例として、この施設に措置入所する事になったんですね。」

奏の解説が終わる。

「…うーん、まぁ、命は助かったんだから、良かったんだろうな…。たぶん。」

珍しく立志の言葉のキレが悪い。

「…そうですね。このお爺ちゃん、施設に入所した時は、手足も満足に動かせず、認知症もあったのか、まともな言葉も喋れなくて険しい表情ばかりでしたけど…、最近は少し表情が和らいだような気がしますね。立志先輩のおかげかもですね。」

奏が立志を褒める事は珍しい。立志の態度を気にしてだろうか。

「…そうだといいよな。…さて、仕事の戻るか!」

「そうですね。お喋りばっかりしてると、相楽主任に怒られちゃいますよ。」

そう言って、立志と奏は手早く片付けを済ませる。

「あ、そう言えば、午後の会議に立志先輩も参加するんですよね?」

「ん、ああ。二週間前に入所したサカイジロウさんの初回サービス担当者会議だよな。『お前のそろそろ参加してみろ』って相楽主任に言われてる。」

「その会議、私も参加するんですよ! 介護支援専門員の見習いで見学だけなんですけどね。 」

その日の午後。立志と奏の2人は、現場から離れ、施設二階にある会議室へ向かう。

「なあ、ところで奏。」

「はい、立志先輩。」

「サービス担当者会議ってなんだ?」

立志の言葉に、思わず転びかける奏。

「いやいやいや、先輩。常識ですよ、常識!」

「ははははは。大事な会議ってのは解ってるけど、なんせ初めてなもんでさ。」

「相楽主任から説明は受けました?」

「ああ。一応。でもよくわからん。後は自分で調べろって言われたよ。」

「…まぁ、それくらい追い込まなければ先輩は学習しませんからねぇ。少しは晋也先輩を見習ったらどうですか?」

湯上晋也(ゆがみ しんや)。立志の同期であり、奏の先輩でもある。

「人には向き不向きがあるんだよ。個性個性。個別的なケアは介護には必須だぜ。」

「いや、個別ケアは利用者さんにとって必要であって、スタッフの事を言ってるんじゃないですよ!」

奏は頭を抱える。

「で、サ担とは何か、ですよね。簡単に説明するとですね…。」

サービス担当者会議とは、介護保険上(法的に)で開催を定められた会議であり、この会議を通じて各サービス事業者や介護に携わる専門職の意見を集約し調整する事になる。

その目的は、介護サービスを利用する高齢者の目的と課題、そのプロセスを管理し、利用者個々の目標を達成する為に行われる。まさに、介護をマネジメント(ケアマネジメント)する上での中核を成す会議と言える。

今日、開催されるサ担は、この老健に二週間前に新規入所者として入られたサカイジロウさんの為に行われる。

会議の中では、サカイジロウさんとその家族が望む生活に向けて、老健施設として何が出来るかが話し合われる。

入所初期に行われる今回のサ担(初回サ担)は、サカイジロウさんの今後のケアの方向性が決定される重要な会議となるのだ。

「で、この重要な会議に、立志先輩は介護職の代表として参加する事となるのですよ。解りましたか?」

「おう、だいたい!」

「うわ、不安…。」奏は苦笑いを浮かべる。

「で、誰が参加するんだ?」

「そこもですかぁ!」

と、奏は呆れながらも、甲斐甲斐しく立志に説明する。

介護サービス及びケアマネジメントは多職種協働の基で行われる。

多職種協働。異なる専門性を持った職種が集まり、共有した目標の達成を目指す事である。

老人保健施設の場合はは、介護課、医師、看護師、リハビリ課、栄養課、それと支援相談員の専門職で構成される。

介護とは、生活することを支える事である。生活、つまり生きて暮らす上では、色々な面での支援が必要とされる。

よって様々な専門職種が関わる必要とされるのだ。

サービス担当者会議は、生活上の課題を整理し、その目標達成の為にどのように多職種間での連携を図っていくかが検討される。

検討された結果は計画書の纏められ、利用者家族などから同意を得ていく事となる。

それら会議の開催や計画の管理は、介護支援相談員の責任とされる。

「なるほどなるほど。」

「ホントに解ってますぅ?」

「で、ジロウさん本人は参加しないのか?」

「…うーん、これは私の私見なんですが…。」

サービス担当者会議の当事者は、利用者本人。そしてその家族だ。

一応、規定上は利用者本人や家族の参加が好ましいとされている。

しかし、高齢者本人とその家族が施設に入所するという選択肢をするという事は、入所する高齢者本人には心身ともに重度な疾病や障害を抱えている事が多く、家族にもやむを得ない理由により入所を願ったケースが多い。

施設入所を選択した時点で、将来を考える余裕はない場合がほとんどなのだ。

つまり、高齢者や家族にとって、住み慣れた環境から切り離され、慣れない施設に入居するということは、生活をゼロから始めるどころか、マイナスからのスタートと同じなのだ。

だからこそ、その過酷な状況に追い込まれた当事者に代わって、介護福祉の専門職がその道筋を示す必要がある。

「そのマイナスをプラスに出来るように、お年寄りやその家族の目的を叶える為の計画を立て、理想の生活への道筋を描くのが、私達介護福祉のプロ、そして老健の責任だと思うんですよね。」

「奏は、真面目だな。凄いよ。」

「いやいや、そんな事はないですよ…、私なんて、まだまだです…。」

「よし! 俺も張り切らなきゃな! なんたって、俺がジロウさんと1番接しているからな。ジロウさんの気持ちはよーく解ってる!」

「…え?」

笑顔の立志。その立志の笑顔を見て、奏の表情に不安が混じる。

立志と奏が、サービス担当者会議が開催される会議室に入室する。

会議室の中には、既に大半の各専門職の参加者が集合しており、席に腰掛けていた。

「あ、未来姐(みくねぇ)じゃん! 久しぶりだな!」

入室した立志が、席に座っている女性に声を掛けた。

「あら、立志君。 私も看護師の担当として参加するのよ。よろしくね。」

未来姐と呼ばれた女性は、穏やか笑顔を立志に向ける。

「おう! よろしくな、未来姐!」

と、そんな2人のやりとりに、

「こら、立志! 未来姐じゃないぞ。葦原未来音(あしはら みくね)さんだ! 先輩なんだから、ちゃんと葦原看護師さんって呼べよ!」

立志の無礼な態度に立腹したのは、先程の立志と奏の会話に出てきた、立志の同期である湯上晋也である。

「でもよぉ。」立志が口を尖らせる。

そんな2人の会話に、

「いいのよ、晋也君。そんなに怒らないであげて。」

と未来音がやんわりと声をかける。

「はぁ。葦原さんがそういうなら…。」と晋也。

「晋也君も、そんなに堅くなくていいのよ。気軽に名前で呼んでよね。」

「そ、そんな、恐れ多い…。」戸惑う晋也。

「私はみんなと仲良く仕事がしたいから。構わないわよ。」

「じゃ、じゃあ、未来音…先輩…。」

「うふふ、ありがと。晋也君。」

そんな晋也の姿を見て、奏はこっそりと立志に尋ねる。

「晋也先輩、らしくないですね…。」

「ああ。晋也は未来姐みたいなのがタイプなんだろうな。」

「ああ、なるほど。好みなんですか。…立志先輩は?」

「え、何が?」

「…なんでもないですぅ。」

そんな会議前の喧騒の中。相楽主任が会議室に入ってきた。

「皆さん、遅れて申し訳ありません。会議を始めますね。」相楽主任が頭を下げる。

介護主任である相楽は施設ケアマネも兼務しており、今日の初回サ担の開催責任者でもあった。

「あれ、相楽君。先生は?」

未来音が、会議を始めようとする相楽に、医師の不在を尋ねる。

「黒崎医師は本日欠席だそうだ。意見は伺っている。手元のケアプラン原案に記されているから、確認しておいてくれ。」

医師の欠席を伝えながら、相楽も席に着く。

「皆さん、ご多忙の中、ご参加頂き、ありがとうございます。ではこれより、サカイジロウさんの初回サービス担当者会議を開催します。」

相楽主任の声により、サ担が開催された。

「サカイさんは、三ヶ月前に自宅で転倒され、右大腿骨折にて入院。退院後、在宅復帰のために当施設へ入所されました。」

サカイジロウさんの状況を相楽主任が説明する。

そして…。

数分前。初回サ担は終わった。

参加者が会議室から去った後。

奏は、会議室の外で、立志が室内から出て来るのを待っていた。

今、会議室の中にいるのは、立志と相楽主任のみ。

立志はその会議室の中で相楽主任に説教を受けている。

外で待つ奏の耳にも、立腹する相楽主任が立志を叱咤叱責する声が聞こえた。

相楽主任が起こる原因。それは会議中の立志の言動である。

その言動を思い出し…、

あちゃー。立志先輩、やっちゃった…。

…奏も額に手を当てる。

会議室内から、相楽主任の怒声が聞こえる。

「だから、ジロウさんは一刻も早く家に帰りたいと思っているんですってば。だったら早く返してあげましょうよ! それがジロウさん本人の為です!

「それは解っている。それにうちの老健は在宅復帰型だ。出来る限り高齢者の在宅復帰に寄与する道理はある。しかしだ。お前はサカイさんの家庭事情を知っているのか?」

「え、えーと。」

「事前に情報収集しておけと言ったろが! もともとサカイさんは下肢筋力の低下があり、歩行が難しくなっていた。介助が望ましい状況だ。そして同時期、サカイさんの奥さんも病で倒れ、入院だ。今、自宅に戻ればサカイさんは自宅で1人になってしまう。それではサカイさんの暮らしはままならない。直ぐに自宅に戻る事は出来ないんだ」

「だ、だったらもっとリハビリ課が訓練を頑張って、1人でも歩けるようにすればいいいじゃないですか! それをリハビリ課は出来ないできないって…」

「リハビリ課も限界まで時間と人手を割いて老健入所者150人を担当しているんだ。各専門職のマンパワーにも限界はあるんだよ それに、高齢者介護においてはリハビリの回数には上限が設けられているんだ。無限に行えるわけではないんだ 」

「そ、それなら俺が訓練するって言ったじゃないですか! サカイさんの為なら、毎日だって俺はやりますよ」

「アホか! サカイさんは高齢なんだぞ。急性期と違って、リハビリをすれば簡単に回復するわけではない!」

「う…。」

「それに、もしお前が、時間外でも休日でも、サカイさんの訓練をする。それで計画を作り家族の同意を得たとしよう。」

「はい! やります!」

「で、お前が倒れたら、どうする? それを他のスタッフで代替えできるのか? 用意できるか?」

「あ…。」

「介護サービスは、利用者や税金から利用料を貰って行われる。つまり、仕事だ。仕事である以上、一度決めて家族の同意を得た計画を、『こちらの都合でできませんでした』ではすまされないんだ。継続性が必要なんだよ。お前はその視点が抜けている。

「…ぐぅ。」

「お前にとっての利用者は、お前が関わる時間だけの利用者だ。しかし、実際にその利用者にとっての時間は全て利用者の時間だ。その人の人生なんだ! 例え自分がいない時にも、同じだけの事が出来なければ介護サービスとは言えない。結果として、無責任になる。だから計画が必要なんだ!」

「…はい。」

「アセスメント(情報収集と課題分析)も、多職種協働も、状況把握もできないワンマンは、ケアマネジメントには不要だ!」

会議室を後にした相楽は、通路の壁に、もたれかかっていた。

憮然としたその表情。眉間には皺が刻まれている。

「どうしたの、相楽君。怖い顔しちゃって。」

そんな相楽に話し掛ける女性の声があった。

声の主は、葦原 未来音。

先程のサ担に参加した看護師である。

相楽と未来音は同期入社の間柄であり、個人的な親睦もある相手だった。

「わかった。立志君のことでしょ?」

勝手したる中であるが故に、未来音は屈託無く相楽に質問する。

「…ああ、そうだよ。」憮然とした表情のまま、相楽は答える。

「言い過ぎた。そう思っているのかな?」

「…あいつには必要な事だ。仕方ないさ。」

「立志君、昔の君のそっくりだよね。やんちゃなとことか。」

「やんちゃとか、もう死語だぞ。歳がバレるぞ。」

「大丈夫よ、気持ちは20代だからね。」

未来音の冗談に、相楽は笑みをこぼした。

「…さっき、未来音の言った通りだ。」

表情の和らいだ相楽は、未来音に本音を漏らす。

「あいつを見てるとな、馬鹿な頃の自分を思い出すよ。真っ直ぐに介護の仕事をしていた頃の自分を、な。」

「相楽君…。」相楽の言葉に、未来音も笑う。

そんな未来音に、相楽は言葉を続ける。

「だからこそ、教えてやらなきゃ行けない。俺みたいな、つまらない大人になる前に。」

「…教育ってやつだね。」

「ああ。教育ってのは、大変だ。教えるだけなら楽なんだがなぁ。」

「教え、そして育てなきゃいけないしね。解るよ、それ。」

「ま、怒られたくらいじゃ、あいつはへこまない。それがいいのか、悪いのか…。」

通常業務に戻った立志と奏は、今日もお年寄りの世話をする。

「爺ちゃん、聴こえるか? 夕飯だよ。今夜は肉じゃがだぜ!」

「前に肉じゃがが出た時は、まっずいじゃがいもを使っててな。栄養士に文句言っていいやつに変えてもらったんだぜ。」

「爺ちゃん、今日は風呂の日だ。温まってってくれな。ははは。」

「ちょっと爺ちゃん、しっかり掴まってねえと、溺れちゃうぜ。」

今日も立志は、一所懸命に老人のケアをした。

サ担の後、上司の相楽から注意を受けた立志だが、それで立志の仕事への信念は変わらない。

立志も、ケアマネジメントや計画性も大切と認識はしている。

しかし、それよりも、目の前のお年寄りの世話が重要なのだ。

立志にとって、老人の世話はそれは特別な事ではない。当たり前に行っている事だった。

奏は、以前に立志に訪ねたことがある。

どうして、立志先輩は介護職をしているのですか、と。

立志は何気無く返事を返す。

「目の前に困っている人がいれば、助けるのは当然だろ。理由なんていらないさ。」

それが立志の答えだった。

だから立志は介護士になったのだ。

奏は、そんな真っ直ぐな立志の事を、…世話の焼ける先輩だとも思いながら、尊敬していた。

そして、しばしの時が過ぎた日。

冬の始まりの頃。

例の身元不明の老人の退所が決まった。

高齢者老人専用の保護施設に移る事となったのだ。

身寄りのない老人の生活費用捻出の都合の為の仕方のない転移であったが、それは、要介護者とは言えど、行政の都合で慣れた施設での生活から強引に切り離されることを意味する。

「爺ちゃーん! 達者でなー!!」

老人を移送する寝台車に、立志は見送りの言葉を大声で放つ。

その声が、担架に乗せられて車に揺られる老人に届いたのかは、解らない。

だが、その時、老人は、一言つぶやいた。

「ありがとう」と。

それは、誰にも聞こえないような、か細い声だった。

しかしそれは、その老人が発見し保護されてから、初めて発する言葉だった。

「…世界は変わった。ここから、始めよう」

それが、老人の最後の言葉である。

以降、この老人は、これから生じる巨大な混乱の波に飲まれ、忽然とその足取りを消す事となる。

古林奏は、おばあちゃん子だった。

幼い頃から祖母に甘え、祖母から学び、祖母に怒られ、祖母に諭され過ごしてきた。

今の奏の人間性は、祖母の教えから得たものが大きい。

しかし、そんな祖母も、奏が小学生高学年の頃に病を患い身体の障害を抱え、そして中校生の頃には認知症に罹り、介護無しでは生活できなくなった。

共働きの両親では祖母の介護を担いきれず、在宅介護サービスを利用したが、それでも家での生活には限界が来た。

その頃には祖母は親戚の顔は誰一人判別がつかず、奏の両親ですら判断が曖昧となっていた。

親類や近所からも疎まれ、両親は介護に疲弊し、家庭内には常に暗い雰囲気が蔓延していた。

精神的にも、労力的にも、両親の負担は大きく、辛い介護の日々であっただろう。

だが、そんな中でも祖母は奏の顔だけは忘れる事はなかった。奏も、祖母を愛する気持ちは変わる事はなかった。ずっと一緒に暮らしていたかった。

しかし、現実は、子供の淡い期待など意に返さない。

在宅介護に限界を感じていたある日、ある日、介護支援事業所のケアマネージャーが、施設への入所を勧めてきた。

当然の成り行きで、祖母の介護施設への入所は決定された。

「おばあちゃんはね、施設に入所する事になったの。」

そう母に言われた時、奏が施設という存在に感じたモノは、言葉にするなら、畏怖、それだったのかもしれない。

施設。閉じ込められた環境、閉鎖空間。

真っ先に思い出したのは、テレビで観た、監獄。自由の無い環境。

そんな得体の知れない環境に祖母を閉じ込める。それは奏にとって恐怖であった。

幼い奏は両親に反対を訴える。しかし、両親も生活がかかっているのだ。幼い子供の駄々に付き合う余裕は無い。

奏が見送る中、祖母は施設の送迎車に載せられ、行ってしまった…。

そして。

祖母が施設に入所して、三ヶ月が経過した。

その三ヶ月間。奏は何度も施設に足を運び、祖母に会いに行った。

その期間の間で、奏の中で変わったものがあった。

それは、介護施設に対するイメージだった。

比較的最近に建てられた施設は明るく清潔で、勤めるスタッフも皆、一様に明るかった。

頻繁に面会に来る奏にも優しくしてくれた。

今思えば、その頃は介護保険制定、間も無い頃で、社会は介護事業に率先して取り組んでおり、人材にも恵まれていた。介護という事業に対してチャレンジと開拓の時代だったのだろう。

面会に来る奏だけでは無い。祖母もスタッフから愛されていた。温かいケアを受けていた。それがスタッフの態度と、そして祖母の穏やかな笑顔から、理解できた。

老いと病に罹り、心身共に思うようにならない祖母を、再び一人の人間としてとして人生を歩める事を支えてくれた。

奏の家庭にも、明るさが戻った。

祖母と両親が、再び笑顔で関われるようになった。

結果として、奏の家庭は、家族は、介護施設に助けられたのだ。

その日々の中で、奏の中の、施設と介護に対するイメージは180度変わっていったのだった。

それは、祖母が、大勢のスタッフと、面会に駆けつけてきてくれた多くの親類の中で見送られながら最後を迎えたその後も、変わる事はなかった。

私は、介護職になる!

奏の理想は、その時に決まったのだ。

それから数年後。

高校を卒業し、介護の専門学校に通い、施設実習を通して学び、ついに念願の介護施設に就職した。

就職先は、老人保健施設[縁寿]。

しかし、そこで奏は学生の頃の施設実習では学べなかった介護の仕事の現実にぶつかる。

介護サービスの報酬は、税金と高齢者家族からの利用料で支給される。そのサービス毎の金額設定も国が定めており、その金額から大きな逸脱はできない。特に施設サービスはその傾向が大きい。

つまり、働けば働くだけ企業としての収入が、個人の給料が増えるわけでは無いのが一般的である。

それが何をもたらすかというと、スタッフ個々が『どれだけ一所懸命働いても給料に差が出ない』という事である。

その結果、仕事に対する頑張りや意欲は、スタッフ個人の人間性で決まる状況となった。手を抜こうと思えば、どれだけでも抜けるのだ。

スタッフ個々の仕事に対するモチベーションは、完全に個人に委ねられるのだ。

加えて、時代は変わり、介護の仕事の人材不足が叫ばれる昨今。スタッフのモチベーションを保つのが難しくなってきている。

奏の祖母が施設に入所していた頃は、時代が良かったのだろう。

現実に介護施設で働いていれば、それが嫌でも奏には理解できた。

介護の仕事で手を抜くという行為は、つまり、お年寄りの願いではなく、働くスタッフの都合を優先して、お年寄りの生活を形作る行為に他ならない。

それが奏には許せなかった。

理想と現実のギャップに苦しみながら、悶々と仕事をする日々だった。

立志と出会ったのは、そんなある日だった。

別の棟から移動してきた八代立志とは、奏は初対面だった。

立志は、抜けてるし、空気読まないし、頭悪いし…、かっこいいところなんて、何も無かった。

言いたい事は遠慮なく言うし、それで損をする事も多々にある、お人好しだった。

しかし、お年寄りに優しかった。真っ直ぐに向き合い、理解に努め、努力を惜しまない人だった。

仕事に対するジレンマに悩まされていた奏はある日、立志に何気なく聞いてみた事がある。

「介護って、何する仕事なんですかね」と。

立志は答えた。

「介護っていう字、よく見てみろよ」と。

立志は言う。

「『介』って漢字さ、人の下に足が付いているんだ。そして『護(まも)る』の漢字。」

あ!

「介護って、人として歩む事を護るって意味だと思うんだ。で、俺達はその専門家。かっこいいじゃん!」

あぁ…。

奏は思った。

この人は、私の理想の人物なのだ、と。

私の理想は、立志先輩が叶えてくれるかもしれない。

そう思ったのだ。

雪舞い始める冬の頃。

老人保健施設[縁寿]。その特別個室で。

「親父ー!!」

「お義父さん…。」

「おじいちゃん…、なんで動かんの?」

齢95歳のトウゴロウ老人は、家族に囲まれながら、最後の時を迎えようとしていた。

清潔に整頓されたベッドに力無く身を預け、浅く深い下顎呼吸を繰り返すトウゴロウ老人。

老人は、医師と、息子と嫁と孫らの家族に看取られながら、今、その命を亡くそうとしている。

同室には、担当する看護師と普段ケアにあたっている介護士が付き添っている。

その中には八代立志と古林奏の姿もあり、立志は真っ赤な眼をしたまま涙を堪え、奏も口元をきりりと結びつつも哀しみの感情を押し殺していた。

奏は、家族に悟られぬように、

「立志先輩…、涙を流したらプロ失格ですよ…。」

と立志の背中を突く。

「解ってるけど、自然に出てくる涙は止まらなねぇよ…。お前だって…、」

「…解ってますよ…。」

奏も眉間のシワを深くして涙を堪える。

そして…、

トウゴロウ老人の口元の動きが停まった。

僅かながら続いていた呼吸が、停止したのだ。

医師が、トウゴロウ老人の死亡を確認する為に聴診器とペンライトを取り出す。

通常、医師は患者の死を把握する手段は、

①聴診での心音と呼吸音の確認

②睫毛反射・対光反射の消失の確認

③脛骨動脈・頚動脈の脈動の確認

である。

トウゴウロウ老人の最後を診断する医師は、この手法に則り、腕に首に手を沿え血液の流れに触れ、ペンライトで眼を照らしその反応を観察し、聴診器を老人の薄い胸板に当てて心肺の鼓動を把握し、その生命活動の停止を、認識した。

そして、その結果を、老人を囲むその家族に、周囲のスタッフに、伝えた。

「ご臨終です。」

死因は、老衰ー心不全であった。

死を告げられた家族は、長く家族を養い続け、幸せな家庭を築く礎となり、いつか再び一緒に暮らす事を夢見て老健に入所し、そして、その願い叶わず体調の悪化で亡くなったトウゴロウ老人の死を嘆き、涙を流した。

日頃からケアにあたっていた介護士・看護師も、トウゴロウ老人の日々の記憶を思い出し、そっと涙を流す。

一頻り悲しみに暮れた後、

担当する看護師が「これからエンゼルケア(※死後処置。同時に身を清める)を施させて頂きます。ご家族様は、あちらでお待ち下さい。」と、丁寧に声をかけた。

退室の準備をする家族達。

エンゼルケアの支度を始める看護師と介護士。

同時に医師も、死亡診断書の作成の為に退室しようとする。

と…。

その時である。

「…ぁ、ぁ…あ、ああぁ…。」

室内に、言葉にならない喃語のような、

それでいて年老いた老人の啜り泣きのような、

奇妙な音が室内に僅かに響いた。

何の音だろうか?

「…あ、ああぅ、あ〜、」

音は、いや、その声は、続いている。

家族と職員は、声の源を探して部屋の中を見回す。

簡素な造りの個室の中には、

家族と、職員だけである。

…いや、違う。もう一人、いる。

ベッドに横たわる、トウゴロウ老人。

老人の、遺体。で、あるはず。

そんな、馬鹿な…。

だが、耳を澄ませば解る。その声が、真っ白なシーツを被せられたトウゴロウ老人から…、

…遺体から、聞こえる事に。

「ば、ばかな…。」

真っ先に我に返ったのは、医師だった。

死亡は、確認した筈だ。

確かに、自分が自分の眼で、触れて、聴いて、生命活動の停止を判断したのだ。

そんな基本的な診断を自分が間違う筈が無い。医師はそう確信していた。

だが…、

その医師の確信は、裏切られる。

シーツが動く。ベッドが軋む。

そう、

死体が、

確かに死んでいた筈の死体が、

ゆっくりと、その身を、ベッドの上に起こしたのだ。

その異端の光景に誰もが息を飲み、言葉を失う。

「あ、あ、あ、あ」

死体が顔をこちらに向けた。

正気の宿らぬ青白い顔のまま。

枯れ木のように細く血管の浮き出た腕を動かして、

瞬きを忘れた瞳のままで。

意味の解らぬ言葉を発しながら、

だが、その視線は確かに、こちらを凝視していた。

そして、

その視線の先には、家族が、いた。

事態に唖然とする家族。

しかし、その僅かな沈黙の後、

「親父ー!!」

「お義父さん…。」

「おじいちゃん…、元気になったん?」

家族達は、死者が、…いや、トウゴロウ老人が起き上がった事に喜びの声を挙げ、その細い身体を抱き締めた。

その光景を見詰める医師は、呆然としながら、

「なんで?」

と嘆き呟く。

周囲の看護師も驚きを隠せず、

「せ、先生…、トウゴロウさん、お亡くなりになってました、よね?」

と、疑問を口にする。

トウゴロウ老人は、医療に携わる専門職なら間違えようが無く、確かに死亡していたのだ。

「あ、あぁ。死亡確認に間違いは無い! …筈だった…。」

言葉失う医師。

その時である。

部屋にいた介護士が声を挙げた。

「良かったなぁ! トウゴロウじいちゃん! 元気になったんだな!」

声の主は、立志だ。

「ちょ、ちょっと先輩! 空気読んで! す、すいません、先生!」

奏が立志を静止する。しかし、立志は、

「何言ってんだ、奏。お前だって、嬉しいだろ?」

と奏に言う。立志の言葉に奏は、医師の手前、少し躊躇った後、

「は、はい…。家族も喜んでるし…。はい! 私も、トウゴロウさんが元気になって良かったです…。」

奏も、トウゴロウ老人が息を吹き返した事に喜びの言葉を述べる。

涙を流し喜ぶ家族と、震える手で家族の手を握り返すトウゴロウ老人。

そして、その姿を見て素直に感激している施設のスタッフ達。

その光景を見ていた医師は、話す言葉を持たなかった。

今、医師の心中にある思いは、二つ。

まず一つ目。私は確かに死亡診断をした。間違いなく亡くなっていた。それなのに、何故、蘇ったのか。それは、純粋に医学的な疑問であった。

そして、二つ目。私は誤った診断をしたのか。よりにもよって、私は人の死に関わる診断で誤診をしたのか? それは、医師としてのプライドの問題だった。

それから一時間後。

施設内に設置された職員休憩室で、ベンチに腰掛けた医師は、足を組み天井を見上げていた。

その心中は、未だ混乱している。

「どうしたんですか、先生?」

表情の無い顔で天を仰ぐ医師に声をかける女性がいた。

看護師の葦原未来音だった。

「ああ、未来音くんか。トウゴロウさんはどうなった?」

「はい。先生の指示の通り、念の為、個室対応を継続しています。」

家族もまだ付き添っているようだった。

「なぁ、未来音くん。」

「はい、先生。」

「私は、誤診をしてしまったのかな…。」

その言葉は、医療に携わる者のプライドの問題でもあったが、同じく昨今に頻発しているような、誤診による医師と患者家族での訴訟問題に発展するのではないかという不安もあっての発言だった。

「先生…。」

そんな医師の弱音を聞いた未来音は、医師に言う。

「では、先生は、トウゴロウさんが亡くなっていた方が良かった、って言うんですか?」

「未来音くん?」

「トウゴロウさんの家族は喜んでいました。日頃からトウゴロウさんをお世話していた立志くんや奏さん…職員も喜んでいました。それでいいじゃないですか。」

未来音は真面目な顔で医師に言う。

「…。」その未来音の言葉に、医師の顔も変わる。

「トウゴロウさんは、亡くなっていなかった。それが現実です。受け入れましょうよ、先生。」そう言って、未来音はいつもの和かな表情に戻った。

「そうだな。これで、良かったんだ。」

家族と、職員の笑顔を思い出し、命を護る医師として、医師は現実を受け入れた。

「トウゴロウさんは、亡くなっていなかったんだ。そこから始めよう。」

「はい、先生。」

「よし! まずは…、家族との信頼関係の再構築だな。家族と今後についてムンテラが必要だ。未来音くん。面談室を確保してきてくれ!」

(ムンテラ:医師が患者や家族に対して、面談などを通じて病状や治療などに関する説明を行う事)

この時、医師は『初めての蘇り』を現実として受け入れた。

その医師の名は、黒崎一(はじめ)。

まさにこの時、この若い医師が選ぶ運命の選択肢が決定されたのだ。

…生命活動のいずれかが一時的に停止しても、適切かつ執念な心肺蘇生で蘇るケースは確かに存在する。

又、当然、医師も人間であり、不慮不足な誤診は有り得る。

死亡と判断された患者が息を吹き返す事例は幾つもあるのだ。

よって、今回の事態も、医師の単なる誤診として社会は判断した。

ニュースキャスター『先日、この老人施設に勤務する医師が、入所者の死亡を誤診し、その入所者家族に多大な迷惑を被らせた件に関するニュースです。医師会はこの医師に対して厳しい事情聴取を行った上で家族への謝罪を行いました』

『本日は、この誤診によって迷惑を被ったご家族様へのインタビューを行い、今のお気持ちをお聞きしました』

レポーター『安易な医師の診断でご家族の方には多大な心理的負担をお掛けしたと思われますが、今のお気持ちはいかがでしょうか?』

家族(息子)『いやまぁな、最初は驚いたけどさぁ、親父が生きてるんならそれに越したことはねえやな。孫も「爺ちゃん元気になった」って喜んでるしな。親父の世話は施設の職員さんが一所懸命やってくれてるしさ。黒崎先生も悪くねぇし。迷惑なんて思っちゃいねぇよ。』

レポーター『はぁ…、そうでしたか…。』

家族『ん? どしたね、暗い顔して。まぁ、気になっているといえばな…。』

レポーター『はい?』

家族『親父な、今も脈がないんだってさ。』

レポーター『…はい?』

そうなのだ。

蘇ったトウゴロウ老人を再び診断した時、医師や看護師は、更なる驚愕の事態に直面する事になった。

トウゴロウ老人は、確かに、動いている。

家族の顔も認識し、曖昧であるが言葉も喋っている。その行動だけ見れば、生きていると言っても全く遜色無い。

だが、トウゴロウ老人の心臓の鼓動は、今も完全に停止している。

肺機能・呼吸も停まったままであり、瞳孔反射も無く、脳活動も限りなく停止していると言っても差し支えない。

つまり、

トウゴロウ老人は、

依然として、

死者のままなのだ。

人はそれを、なんと形容するか?

『生ける屍』

つまり、

『リビングデッド』

又は、『ゾンビ』

である。

死を免れた(?)トウゴロウ老人は、そのまま老健入所を継続し、数日が経過した。

老人は、見た目やその行動は以前とほとんど変わらず、ベッドや車椅子の上でこっくりこっくりと居眠りをしている。

ただ、相変わらず顔色は真っ白で、生命活動停止の影響か食事の量は極端に落ち、排泄もほとんど無い。

だが、家族の顔が見えれば、穏やかな微笑みを見せたりと、安らかな老後を過ごしているようにも見えた。

そして、事態はさらに進行する。

冬場は、お年寄りが亡くなる事が多い。

特に、12月~2月頃。

要因はいろいろあるが、寒さによる血圧の上昇での脳梗塞や心疾患のリスクの向上、インフルエンザや感染性胃腸炎への罹患、乾燥による呼吸器官への負担・肺炎などが挙げられる。

その自然環境的な要因も一因となり、社会は新たな局面に突入した。

…死者の復活が、再び、発生したのだ。しかも、何度も。

2人目の、そして、3人目、4人目の、さらに5人目の、『生ける屍』現象が起きたのだ。

その発生はいずれも、1人目の『生ける屍』現象であったトウゴロウ老人が入所していた老人保健施設[縁寿]で起きた。

いずれの老人も同症状であり、肺炎の悪化や心疾患の進行により生命活動を停止し、医師が臨終の確認を行った数分後、その臨終の寝床から起き出したのだ。

最初はその現象に驚愕し、自身の観察眼を疑問視し、緊張感を改めて診断にあたっていた黒崎医師だったが、さすがに同様な症例がこれだけ続くと逆に開き直り、自らこの現象への新説・新たな見解を打ち出した。

その見解とは、即ち、

『これは、新たな疾病ではないのか?』

又、同施設で立て続けに発生していることから、

『未発見の感染症ではないのか?』

である。

その推論を持って、医師は施設に強い要望を出した。

この蘇った利用者を、即刻隔離すべきである、と。

それは、研究の為でもあり、何より感染を防ぐ為の防護手段であった。

当の老健[縁寿]は、医師のその要望を受諾し、隔離専用の棟を緊急に用意した。

老人保健施設はその性質上、様々な目的を持った入所者を受け入れている。

その為、生活や目的別・心身の能力別に幾つかの棟を併設するのが常である。

(例えば、リハビリ専門棟や重症者専門棟、認知症専門棟、など)

老健[縁寿]は、その一つの棟を『生ける屍』専門の隔離棟とした。

(この隔離体制は、後の世のメディアから『ゾンビ棟』と呼称される事となる)

黒崎医師は、この隔離棟で、老健に勤務する看護師や介護士の手を借りながら、この蘇り現象の究明に徹する事となる。

世界初のゾンビ棟(仮)の誕生は、嫌が応にも社会を、世界を震撼させた。

なにせ、ゾンビである。

映画の中だけの存在であった怪物が現実に発生したのだ。

連日、この現象の真偽も含め、ネットやテレビで推論が重ねられている。

その推論は今後、白熱の討論を呼び、さらに社会を激震させる議論を生み出す事となる。

黒崎医師の研究によれば…、

このゾンビ(仮)の大きな特徴は、『死んでいるのに死んでいない』事である。

呼吸や心拍・脈拍などの各種バイタル値は全て、死者である事を示している。

だが一定の体温は持ち続けており、それは死者の冷たさではなかった。

さらに、蘇って一ヶ月が経過する老人もいたが、何故か腐敗は進行しておらず、その身体機能の低下も見られない(もともとお年寄りなので身体機能は良くないが…)。

喃語しか発生できず、意思の疎通は困難であり、脳波も停止していた。だが、微かな記憶を有しているのか、意思や感情があるように行動し、その行動も生前?の様式に則っていた。

そしてその原因は、未だ不明であり、感染経路も解らないままだった。

なんで死んでいるのに生きているのか? なぜ蘇るのか? 未だ解らない。

そして、蘇る老人は[縁寿]内で更にその数を増していった。

レポーター『緊急生放送! 本日は、現在社会を恐怖に包んでいるゾンビ棟の現状を取材したいと思います』

レポーター『普段は報道陣の立ち入りを禁止されている老人保健施設ですが、本日は私達報道陣の真実を追求する熱意を県知事に認めて頂け、取材の許可が下りたのです』

レポーター『それではこれから、この恐怖のゾンビ棟に潜入します』

レポーター『ついに、ゾンビ棟の入り口に着きました。この先はいよいよ、恐怖の元凶、戦慄のゾンビ棟です。恐怖で私に足も震えています。皆さん、無事を祈っていて下さい』

レポーター『本邦初公開! これが、恐怖のゾンビ棟の真実です! どうぞご覧ください!』

隔離棟に踏み込むレポーターとカメラマン。

そのカメラが捉えた映像は…、

食堂の椅子に座る数人の老人達と、甲斐甲斐しく世話をするスタッフの姿だった。

戦慄のおぞましき恐怖の映像とやらは、そこには全く見られない。

『ちょ、ちょっと、立志先輩! 大変です! キクミさんが味噌汁こぼしちゃいました!』

『慌てるなよ、奏。あ、ほら、そこで歩いてるショウゾウさん、生きている頃から足が悪いから、味噌汁に滑って転んじゃったら大変だ。配膳は俺がやるから、早く拭けよ』

『す、すいません、立志先輩…』

『あいよ、ハル婆ちゃん。ご飯だよ。あ、そう言えばハル婆ちゃん、肉嫌いだったっけか。でも、水ばっか飲んでるだけじゃ元気無くなっちゃうぜ!』

『ハルさん、死んでるじゃないですか…。元気も何も…』

『むぅ。そんな事は解ってるよぉ。でもさ、介護は…』

『介護は愛情! でしょ? 知ってますよぉ、もう!』

予想の斜め上のゾンビ棟の長閑な光景を見て、レポーターとカメラマンは別の意味で愕然した。

レポーター『えーっと、私達は、違う棟に来てしまったみたいですね。ね、ねぇ? …え? ここで間違いない? いや、これって、普通の老人施設じゃないですか?』

レポーター『…は、はい。解りました。えー、カメラの調子が悪いので、本日はこれで、本日の取材は中止します。再取材は後日という事で、カメラを局に返しまーす』

見当外れな取材が入った、その日の夜。

「いやー、今日も一日忙しかったなぁ。帰ろうぜ、奏。」

「相変わらず慌ただしいですね。ちゃんと記録と日誌、書きました?」

などと会話をしながら、立志と奏はスタッフルームで退社の準備をしていた。

と、そこへ、

「こんばんは。立志と奏さんはいるかい?」

と、一人の男性がスタッフルームに顔を出した。

「あ、晋也先輩、どうしたんですか?」

「おう、晋也。お前も仕事終わったのか。」

声の主は、湯上晋也。以前に立志と共にサ担に参加していた男性だ。

まだ支援相談員見習いの晋也は、午前中は相談員業務を行い、午後は介護現場で仕事をしている。

「ああ。ちょっと心配事があってね。ま、同期の好(よし)みってやつだけどさ…。」

晋也は自前のタブレットを二人の前に持ってきた。そして、

「君達二人、さっきテレビに映ってたよ。」

と、先程の取材映像を二人に見せる。

「何だこりゃ?」立志が素っ頓狂な声を挙げる。

「取材なんかあったんですね。忙しくて気付かなかった…。」

立志と奏は映像に目を向ける。

『恐怖のゾンビ棟! 戦慄の潜入取材!』

そんなテロップとともに施設内に踏み込んだレポーターが目にしたのは、ありふれた介護老人施設の日常風景だった。

「ネットでもTwitterでも、騒がれっぱなしだよ。『恐怖のゾンビ棟の実態は、ただの老人ホームだったww(笑)』とか」

「ったくもう! ゾンビゾンビって。爺ちゃん婆ちゃんはゾンビじゃねえぞ! ちょっと死んでるだけじゃねぇか…。」

と言い放つ立志の言葉に、奏は、

「まぁ、それが問題なんですけどね。でも、一方的に怖さを煽るこの報道にも、問題は感じますね…。」

と、眉をひそめる。

「うん。世間の思っているものと、実際の現場には、大きな違いがあるのかもしれないな…。」

晋也はそう言って、タブレットをとじた。

「またまた〜。晋也は相変わらず難しいことばっか考えてるなぁ。」

「ほんと、頭のいい人は違いますねぇ。」

立志と奏が晋也をからかう。

「うるさいな! …しかし、嫌な予感はするよ。」

そんあ晋也の危惧は、近い将来、現実となる。

「あ、相楽君。今帰り? 残業してたのかな?」

「おお、未来音か。お前も残業か。大変だな。」

「物品請求が終わらなくて。看護も人手不足なの。」

「ははは、福祉業界はどこでも人が足りないなぁ。」

「それはそうと…。立志君と奏ちゃんを、例の新棟のメインスタッフに任命したって、本当なの?」

「ああ。しばらく試行期間を設けてたんだが、上手くいきそうだ。」

「…大丈夫なの?」

「黒崎先生がリーダーとして指示しているからな。心配はないだろ。」

「そう…。」

「不安なのか?」

「ちょっとね。あの二人、とても真面目だから。」

「ああ。あの二人は、特に立志は、本当に真っ直ぐな奴だ。」

「うん…。」

「これからおそらく、あの隔離棟は社会の不条理な目に晒される事となると思う。黒崎先生もそう予測している。先日もくだらないメディアが入り込んできたしな。」

「…あれは酷かったわね。」

「そんな中でも、俺達の仕事は変わらない。介護は、人に向き合う仕事だ。真っ直ぐに向き合って、理解して、共感して、希望の実践に向けて働きかける。それが俺達の仕事だ。」

「うん。」

「あの2人なら、こんな社会の中でも、偏見無く真っ直ぐにお年寄りに向き合えると思う。だからあの2人をメインスタッフに任命したんだ。」

「そう、なのね…。」

「ま、いざとなれば俺も黒崎先生もいる。大丈夫だよ。」

「わかったわ。ありがと。…相楽君もお疲れみたいだね。」

「まぁな。新棟の立ち上げで忙しかったからな。疲れた。」

「…ねぇ。ちょっと付き合って欲しいんだけど…。」

「なんだよ、俺は疲れているって言ったろ?」

「私ね、ちょっといい事、思いついちゃった。聞いてよ!」

老健[縁寿]。そのカルテ保管室。

湯上晋也は、その書類ばかりの部屋で1人パソコン画面と向き合っていた。

机の傍らには、入所者個々の分厚いカルテが積み上げられている。

隔離棟の併設によってベッド数の関係から新規利用者の受け入れが減り、結果、相談業務の負担が減少した。

それで生じた時間を、晋也はカルテの整理に費やしていた。

電子カルテ化も進む昨今、現在、老健[縁寿]も紙ベースから電子カルテ化への移行の真っ最中であり、まだまだ紙ベースの書類もたくさんある。

膨大に蓄積された利用者の情報整理やデータ化も、誰かがやらねばならない、大切な仕事である。

そう思って、晋也は業務にあたっている。

地味な仕事だ。だが、苦ではない。

僕には、立志のような情熱も、奏さんのような真摯さもない。

真面目で平凡な自分。地味で地道な仕事。

それで給料が貰えるなら、それでよかった。

人より多少は努力しているとは思う。勉強も嫌いではない。

それなりに知識を認められて、相談支援業務も任されつつあるが、組織を変えてやろうなんていう野心も全くない。

だが、これでいいのか。このままでいいのか。

ひと、そんな考えが頭を過ぎり、キーボードを操作する晋也の手が止まる。

先日観た、捏造に近いような報道番組。

それだけじゃない。今や、隔離棟は社会の目に晒されている。

嫌な予感がする。その予感は、日増しに増している。

おそらくこれから、あの隔離棟は更に注目を集める事になるだろう。

死者が蘇る。それは、未だ嘗て人類史に生じた事の無い異常な減少だ。

高齢者のゾンビ化なんて、世間がそう簡単に受け入れるはずはない。

もし、この現象が拡大する事になれば…、

この[縁寿]はどうなる?

それよりも、立志と奏さんは、どうなる?

立志は貴重な同期社員だ。僕なんかを友人などと言ってくれる。

奏さんも、先輩としての僕を慕ってくれている。

あの2人が傷付くのは、嫌だ。

じゃあ、どうすればいい?

僕なんかに、何ができる?

…。

ある。

「できる事は、ある。時間はかかるが、やれる事は、ある。」

晋也は、誰に言うでもなく、1人呟く。

「僕の立場は、支援相談員。社会との繋がりを創ることが仕事。」

晋也の独り言は、いや、迷いと思考は続く。

「そんな僕の出来る事は…、」

その時、突然、

「社会の認知を変える事、でしょ?」

その声は、晋也の真後ろでした。

「うわーーーーーーーーー!!」

突然の声に、晋也は椅子から飛び上がるほど驚く。

「み、未来音さん…。」

声の主は、葦原未来音だった。

「ど、ど、ど、どうしてここへ?」

意中の人の突然の闖入に、晋也は急ぎ起き上がり、佇まいを直す。

「うん、晋也君にお願いがあったの。でも、なんだか熱心にパソコンに向き合っているから声を掛けづらくてさ。」

悪びれる気もない未来音。

「よ、よ、用事、ですか?」

晋也は動揺を隠しながら、未来音に返事を返す。

「ええ。私と付き合って。」

「はあああああ?」

再び晋也は椅子から腰を浮かす。

「未来音さんは、どうして隔離棟へ?」

施設内の通路を、晋也と未来音は連れ添って歩く。

目的地は、隔離棟だ。

「ええ。ガーゼが足りないみたいで、頼まれたの。で、1人じゃ運ぶの大変だから、晋也君に付き合ってもらおうと思って。」

「あ、そうですか…。そうですよね。」

なんだろう、この遊ばれた感は…。

まぁいい。気を取り戻して、と。

「立志と奏さん、どうですか? 頑張ってます?」

晋也は話題を変える。

「うん。メインスタッフとして、張り切ってるよ。」

「そうですか…。」

少ない言葉のやりとりで、会話が終わった。

そして、数秒の沈黙の後。

「でもね。これからは大変だと思う。」

「え?」

未来音は、先程晋也が考えていたことと、同じ事を言う。

「あの2人だけじゃ、難しいと思う。」

「そう、ですか…。」

「立志君は、真っ直ぐ過ぎる。」

「ああ、あいつ、馬鹿ですから。」

「奏ちゃんは、傷付きやすい。」

「…そうですね。」

「あの2人だけだと、きっとこの先、大きな壁にぶつかると思うの。」

「…解る、気がします。」

未来音の歩みが止まる。

それを見て、晋也も足を止めた。

未来音が晋也を見つめる。

「だから、晋也君が必要なの。」

「は?」

「晋也君と一緒なら、壁を乗り越えられる。私はそう思うんだよね。」

未来音さんは、一体何を言っているんだ?

僕に何が出来るというのだ?

困惑する晋也。未来音は言葉を続ける。

「晋也君も、さっき、そう思ったんでしょ?」

「…。」

先程、保管室で。確かに僕はそれを思った。

そして、あの時、未来音が言った言葉は、正に僕が呟こうとしていた言葉だった。

「君なら、社会の認知を変えられる。施設の中から働き掛けられる。」

未来音は、晋也の手を取る。緊張する晋也。

急に手を握られた晋也だが、その緊張は意中の人に触れたからではない。

僕にも、出来ることがあるのか…。

その思いと同時に、

「僕にも、出来ることがあるんですね。」

言葉が発せられた。

その時である。

「お、晋也。ここにいたのか。ちょうど良かった。」

2人に掛かる声があった。

そこにいたのは、相楽主任だった。

晋也は急ぎ未来音の手を離す。

「しゅしゅしゅ、主任!」

「お前は汽車か。まぁいい。晋也に用事があったんだ。」

「ぼ、僕にですか?」

今度はなんだ?

「辞令だ。湯上晋也。お前は明日から、隔離棟の担当になる。もちろん、相談支援業務も担ってもらうけどな。」

「はあああああああああ?」

驚きながらも、未来音と相楽が、チラリとアイコンタクトをとっているのが見えた。

「あら、そうだったんだ、晋也君。」

「いやーー、いいタイミングだったなぁ。」

なんだか白々しい。

…。

でも、まぁいいか。

辞令も出たし、仕方ない。

僕も頑張ろうじゃないか。

大事な同期と後輩を、助けてやるか。

晋也は、辞令を受け入れた。

それから一ヶ月後。

事態は大きく動いた。

ゾンビの大量発生である。

今まで、この蘇り現象はN県の老健[縁寿]のみだった。

一地区限定の現象であったため、世間はその脅威を然程強く感じてはいなかった感があった。

だが、現象は拡大の兆候を見せ始め、ついに他県でも老人の蘇り現象…ゾンビが発生したのだ。

しかも、内陸のN県から遠く離れた四国方面や北陸での発生もみられている。

N県から始まった、死に至る寸前の老人が生命反応を停止したまま蘇る現象。

それが、遠く離れた土地でも発生したのだ。

つまりこれは、蘇り現象が全国で発生したことを意味する。

ゾンビ・パンデミックである。

ゾンビの大量発生に伴い、対応に追われた行政は、最初の発生地である老健[縁寿]での対応を参考に踏まえ、各県に所在する介護老人施設に隔離棟の併設を要請した。

結果、全国各地にある介護老人施設に隔離棟が設けられる事となったが、真に対応に追われたのは、当の施設を運営する法人管理者と、そこに勤める従業員である。

「「「ゾンビの世話なんて、どうやればいいんだよ!」」」

全国の働く介護職は困った。

老人の世話なら慣れている。だが、相手はゾンビだ。どうすればいいんだ?

その悩みや疑問は必然、最初に隔離棟を併設した[縁寿]に寄せられた。

その質問に対し、[縁寿]の隔離棟…言わば蘇生現象の最前線でゾンビの世話をしていた介護職は、こう答えたという。

「ゾンビったって、ついこの前まで施設で普通に暮らしてた人達っすよ。今までと何も変わらねぇっす。俺達はただ、困っている年寄りの手伝いをするだけっす!」

その言葉を受けた全国の介護職は、取り敢えず深く考えず、今までとほとんど変わる事なく、ゾンビ老人の介護にあたったという。

マスコミは社会に訴える。

レポーター『ついに発生したゾンビ・パンデミック! 全国各地で老人のゾンビ化が進んでおります!』

レポーター『ゾンビ棟に隔離されているとは言え、ゾンビ棟内で集団で蠢くゾンビの姿は、まさにこの世の地獄を連想させる恐ろしいものです!』

レポーター『精気の無い表情で隔離棟内を目的も無く彷徨い続けるその姿は、まさしくモンスターです!』

しかし、現実は違う。

「おーい、シゲ婆ちゃん、面会室はこっちだよ。そっちは倉庫だって。」

「私、誘導してきます。シゲさーん、こっちですよー。」

「お、そういえばジゲ婆ちゃん、孫が生まれたんだっけな。シゲ婆ちゃーん、孫が来たってさ~。」

「シゲさんも娘さんも、喜んでますね。笑ってるのが解ります。」

「そうさ。なんたって、家族だからな。」

「あ、立志先輩~、午後、トミさんにも面会だそうです〜。」

「お、晋也。時間になったらトミさんを面会室に連れて行ってくれよ。」

「任せとけ。今日トミさんに会いに来る家族は、遠方に住む妹さんなんだ。是非とも合わしてやらなきゃな。」

「へ〜。晋也、よく知っているな。」

「それはそうさ。入所しているお年寄りの家族の事や事情の把握が、支援相談員である俺の仕事の一つだからな。」

「偉そうにして…。まだ相談員見習いだろ?」

「うるさいぞ! 立志!」

「そうですよ、立志先輩。晋也先輩みたいな人がいるから、施設に入っていても家族や家庭との繋がりを持てているんですよ。」

「奏さんは解ってるなぁ…。それに比べて立志は…。」

「お、俺だって、ここにいる爺ちゃん婆ちゃんのことなら、誰よりも知っているぞ! トミさんの趣味は詩吟でさ、聴くと口を動かして歌うんだ。で、朝は誰よりも早く起きて、部屋にある旦那の写真を拝んでたんだよ。昔からの日課だったんだろうな。で、好物は干し柿で…、」

「わ、解った解った、立志。お前も凄いよ。」

「トミさん、今でも朝は1番に起きるし、旦那の写真を見つめてるんだ。」

「それって…。」

「ああ。トミさんだけじゃない。ここにいる爺ちゃん婆ちゃんは、生きている頃と何にも変わらないんだ。」

社会が感じるゾンビの認識と、現実のゾンビ棟には、未だ大きな差があった。

蘇り現象の全国化に伴い、その研究も公的機関に本格的に委ねられる事となった。

全国から集められた研究者、そして老健[縁寿]勤務の黒崎医師も加えて結成された研究機関によって、事態の究明が進められた結果、この現象についての幾つかの事実が発見された。

【蘇生高齢者究明報告書より】

まず、蘇り現象の発生する人間は、88歳以上のお年寄りに限定されている事である。

現段階では、若者の発生は一件もみられていない。

次に、(これが未知の『病』である事が前提だが)感染経路が未だ不明瞭なのである。

映画などのフィクションの場合、『感染者に噛まれる』『血液に触れる』といったケースが多い。

だが、今回の場合はそのような事例は無く、接触も無い老人達が挙(こぞ)って発症しているのだ。

ちなみに、老人施設ではお年寄りの歯磨きや義歯の取り扱いの介助もしており、歯に触れる機会は多い。

だが、職員への感染のケースは全く無く、この事からも、この蘇り現象が感染症によるものである可能性は少ない事が推測されている。

三つ目に、蘇り現象の発生条件である。

条件の一つ目は、先述の通り『88歳以上』である事。

何故その年齢なのかは不明なままだが、古来より、『8』という数字は吉不吉限らず多種な意味を持つ数字とも言われており、又、人間の成長は8の歳ごとに変化が現れるとも言われている。

しかし、その事が今回の事象に関連するかは、解らない。

条件の二つ目は、身体に大きな損傷がある場合は発生しない事である。

老人の死因に多い老衰や肺炎・心不全等の疾病による死亡での蘇りの発生は多いが、事故などによって身体の損傷が酷い場合は、そのまま死亡するのだ。

他、失血が死因の場合も蘇らない。

蘇った後に事故に巻き込まれ、失血により活動を停止(=死亡)したというケースもあった。

また、老人は亡くなった際の身体能力を維持したまま蘇る。

蘇った後もADLに変化は無い、という事である(※ADL:日常生活自立度)。

意識・記憶の残存については曖昧なままだが、以前の研究から、蘇り後も生前の行動パターンをなぞるように生活している事や、家族などの顔を覚えているような仕草をする事からも、微存ながらも意識や記憶はあるのでは無いかと言われている。

四つ目に、彼らの食事問題だが…、

フィクションに擬えての、一般(?)のゾンビに言われるような『血を吸う』『腐肉を好む』『脳を食べる』といった食事への嗜好は、全く見受けられ無い。

食欲そのものが無いのかもしれないが、水だけは好んで飲用する。

これは先述の失血による活動停止と関連するのかもしれない。

つまり、彼らの身体の維持には、水分が必須、という事なのだ。

そして最後に…、

この蘇り現象の発生が全国規模で増加を続けている、という事実である。

このままでは、失血や事故以外が死因の老人全てが蘇るかもしれないのである。

これは、一過性小規模な『病』ではないのだ。

封じ込めによる対策は意味を成さない。

そして、これからも『蘇る老人』は増えていくのだ。

余談ではあるが、同現象の増加にあたり、未だこの現象及び蘇った高齢者の正式な呼称が無い状況が続く場合、市民の偏見を導く可能性がある事も視野に入れねばならないであろう。

その場合、高齢者を中心に同現象が発生している事から、『衰えたものがよみがえる』の意味から、この現象を『甦生化現象』と呼称することが望ましい。

(以上、蘇生高齢者究明報告書より抜粋)

観察に基づく現状の理解と、医学的見地によりもたらされた、これらの研究結果は、[蘇生高齢者究明報告書]としてまとめられ、政府に提出された。

この報告書に基づく医師ら研究者の結論は、

『彼らは死んでいるだけで、ただの老人と変わらない、人畜無害な存在である』

であり、

『死者であるか、生者であるかに関わらず、尊厳を持って接するべきである』

であった。

この研究結果には、当初から蘇りの研究を進め、その生活様式を観察してきた老健[縁寿]の黒崎医師の存在が大きかった。

だが、政府はこの見解に難色を示す。

ゾンビをどう扱うか。

それを一研究機関の推論だけで決めるのは早計である、と。

では、国として、彼らをどう扱っていくべきなのか?

その答えを求めて、行政府は諮問機関として有識者会議を設ける運びとなった。

ニュースキャスター『本日は、昨今話題の、増えゆくゾンビ化老人問題についてです』

ニュースキャスター『ゾンビ研究を行っていた医師団の報告により、ゾンビの急増の可能性が高まっている事が発表されました』

ニュースキャスター『年寄りにしか発生しない事から、巷では超高齢化型ゾンビや要介護ゾンビ、はたまたシルバーゾンビなどと呼ばれております』

ニュースキャスター『事態を重く見た政府は、関連識者を集め数度の渡る有識者会議を開催し、その結果を踏まえて国会の場で、ゾンビの取り扱いを決定していく予定であります』

そんな世間の動きに左右される事なく、立志、奏、晋也の若手介護職三人は、何一つ変わる事なく、[縁寿]に入所する蘇ったお年寄り達の世話をする。

ふと、奏がケアの手を止め、立志と晋也に、

「あ、そうそう。立志先輩、私、やってみたい事があるんですが…。」

と声をかける。

「なんだ? 奏。」

立志の返事に、奏は少しモジモジとしながら、

「私、これでもケアマネージャー資格持っているんですよ。なので、蘇ったお年寄り皆さんのケアプランを作ろうと思って…。」

と、二人に提案してみた。

「ああ、そうか。死んじゃったから、ケアプランも終結しちゃったんだな。」

(※ケアプラン:施設サービス計画書。ケアマネージャーが中心となって作成する。利用者が望む生活を送れるように、その目的を達成できるよう、ケアの方法や多職種連携の手段、その目標が記された計画書。介護サービス提供の証明にもなる介護保険制度の中核的存在とも言える)

「はい。でも、死んじゃっても、今も普通に暮らしているし、家族もいるんだし、生きてた頃みたいに自分らしく生活できる為の計画があってもいいんじゃないかって。」

そんな奏の提案に、

「いいんじゃないか! やろうぜ!」と立志。

「うん。僕も手伝うよ。」

晋也も、奏の提案に賛同する。

「はい! ありがとうございます! 立志先輩と一緒にいると、私も頑張りたくなっちゃうんですよね。」

自分の提案が二人に受け入れられた事に安堵し、明るく礼を述べる奏。

そんな奏に立志は、

「さすが奏だな。俺も負けられないぜ! そう、俺の介護のモットーは、」

「『どんな事になっても、どこにいても、その人らしく暮らせる事を支えるのが介護だ!』でしたっけ?」

それは、立志と奏の、いつものやり取りだった、筈だった。

だが立志は、

「…いや、奏。それは俺のモットーじゃないな。」

と、首を振る。

「え?」

立志の返事にキョトンとする奏。

そんな奏に立志は告げる。

「それはきっと、奏。お前のモットーだ。」

政府の諮問機関として設立された有識者会議。

その会議内で議論される内容は、

『我が国はゾンビをどう扱うか?』

である。

この有識者会議での議論は、[リビングデッド・レポート]と呼称される報告書に纏められ、政府の指針を決める重要な報告書として扱われていく事となる。

【~リビングデッド・レポートより~】

議論①

【彼らは、死者か? 生者か?】

生物学的には、彼らは、間違いなく死んでいる。

心音と呼吸音の停止。睫毛反射・対光反射の消失・脳機能の停止。

これら医学的見地を持って、彼らは確実に死んでいると断言できる。

では、道徳論的にはどうだろうか?

意識も曖昧であり、脳死(又は不可逆的昏睡)に至る人間を生きていると認めて良いのだろうか? それら死者を際限無く無意味に生かしておく事になんの意義があるのだろうか?

又は、存在論的にはどうだろうか?

ゾンビ達が生前と同じ行動をしているという報告も確かにある。

脳死とは『自分を自分だと認識できていない状態』とも言われている。

だが、脳が生物学的に活動を停止しているという事実がある限り、彼らの脳は死んでいる。

つまり、脳が死んでいる以上、その自己認識もあり得ないと判断される。

よって、生物学的にも道徳的にも、存在論的にも、彼らは死者である。

議論②

【彼らは保護の対象になり得るか?】

日本国憲法第14条『全ての国民は法の下に平等であり人権信条社会的身分又は門地により政治的経済的又は社会関係において差別されない』

又、

日本国憲法第25条『全ての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は全ての生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない』

それらの憲法から生存権は定義され、社会福祉・社会保障の各種法律は制定されている。

高齢者の為の法律『介護保険制度』も、この25条から策定された。

これら法律の根幹を成す定義は、『人権』である。

では、死者に人権はあるのか?

人権はその性格上、法律上の規定は存在しないが、死者に享受できない事は明らかであ

り、人権とは生きている人について存在するものと前提される。

又、民法上においても『人』がその権利を持つものとされ、この『人』には死者は含まないと理解されている。

つまり、『死者を保護する』理由は存在しない。

議論③

『我が国は死者をどう扱うか?』

我が国には、死者の扱いに関する法律は存在しない。

だが、それに近しい法律として、『墓地埋葬等に関する法律(通称:埋葬法)』が規定されている。埋葬法によれば、死者は葬儀を経て24時間後以後に火葬等-埋葬(習俗上の埋葬)するとある。

又、死体の放置は、習俗上の埋葬とは認められない方法で遺棄する事と同義であり、つまりこれは刑法『死体遺棄』と同義となる。

よって、速やかなる埋葬が望まれる。

『蘇った老人は人間ではない』

以上が、政府の諮問機関として開催された有識者会議での結論である。

この[リビングデッド・レポート(LDレポート)]と呼称される報告書の内容は全て、現存する法律に基づいて議論されており、医師ら研究者の医学的見地は全く考慮されていない。

言わば、現実と現場から目を逸らし、過去から積み重ねられた法律と机上の討論のみ構築されたものであった。

そのLDレポートに基づき、国会の場にて、ゾンビの扱いが討論される事となる…。

【国会討論】

『昨今話題となっているゾンビ化問題ですが、行政府は、その問題をどう扱っていこうとお考えでしょうか?』

『え~議論を重ねた結果、ゾンビへの対処は国家的急務と認識して事態にあたる所存でございます』

『保護すべきだとの声もありますが』

『え~先日の有識者会議の場にてゾンビは【動く死体】でしかなく法的に保護する対象ではないと結論が出ております』

『動いているのなら、あれらは生きているのではないでしょうか?』

『え~その議論についても先日の有識者会議の結果から解るようにあれらは生物学的には当然に道徳的にも存在論的にも死者であると認識していく次第であります』

『では、政府としましては、あれらゾンビについては…』

『え~法的に死者を弔うのは至極当然の事でありまして、迅速に【処理】を検討する予定であります』

国会での長い議論の末。

国の結論は、

蘇った老人の存在を怪物として『処理』していく…

つまり、『ゾンビ駆逐』の方向性で収束して行く事となった。

しかしこの結論は、政府の予定調和であった。

政府は…国の為政者達は、ゾンビが出現した瞬間から、このシナリオを考えていたのだ。

国会での討論も、

事前の有識者会議での議論も、

『ゾンビ=モンスター』であり『駆逐する』という結論も、

全ては国の為政者によって導かれたストーリーだったのだ。

時は一晩戻り…

【国会討論前日、内閣府にて】

「本当に、この蘇り現象を『災害』として扱わなければならないのかね…。」

「総理! 理解していらっしゃいますか? 彼ら蘇った老人らは、ゾンビは、死なないのですよ!」

「つまり、無尽蔵に老人が増えるという事です。それでは社会福祉はパンクしてしまいます。ねぇ、厚労省事務次官?」

「はい。補佐官の言う通りです。今ですら、介護保険費用などの社会保障費は増加の一途を辿っています。」

「しかし、少子高齢化が進む中、老人の数はいずれ必ず減ります。結果、老人への社会保障費は削減できる。」

「その通りです。官房長官。だからこそ、私達は今まで抜本的解決を先延ばしにしながら、一般市民と民間企業、そして地方行政に介護を押し付け、老人共の人口が減るのを待っていたのですよ。」

「うーん。仮に、ゾンビを生きた人間だと国が受け入れるには、現在の社会福祉システムの抜魂的な見直しと金銭の工面が必要となると言う事だね。」

「はい、総理。国民の税金もさらに上がります。 増税…。しかも、何の役にも立たぬ死体の為に、です。」

「今の政府に、そんな世間の風評に晒される余裕はありますか? 野党も煩いこの昨今に…。」

「仮にゾンビを保護するにしても、その法改正や経済調整に膨大な手間がかかりますね。」

「今の政府に、それらの手間を担う余裕はありません。ましてや当面の資金を得る為の膨大な金銭を工面する余力もありません。」

「…私達の退職金を減額していけば、金銭的猶予は生まれるのでは?」

「総理! 今まで私達は身勝手な国民と野党連中に悩まされ、身心ともに多大なストレスを身に受けてきました! それなのに、更に私達に身銭を切れと!」

「それではあんまりです。党員を納得させられませんよ。」

「それにこれは、数世代前からの政府が想定していたシナリオと異なる、予想外の出来事なのです。計画を崩す事は、更なる混乱を生みます。」

「既定路線から外れない道…現状を維持し、ゾンビなどという想定外の因子を排除する方法こそが、国の為なのです!」

「…解った。災害対策基本法における防衛出動の方向で動こう。」

「ありがと うございます、総理。」

「で、…どれに判子を押せばいいのだね?」

…そして、その管理者の密談の通り、世論の反発を恐れ、より良い未来のための変革の手間を惜しみ、あぶく身銭を切る事を望まぬ国の管理者達の意思が反映された結果、

ゾンビを『怪物』として駆逐する未来が、決定づけられようとしていた。

老健[縁寿]。時刻は、入居者寝静まる夜間帯。

古林奏は一人、デスクに向かっていた。

机の上には、書類が散乱しており、普段の几帳面な奏からは考えられない散らかりようだった。

しかも、当の奏に動きは無く、机に向かって項垂れている。

奏は、疲れていた。

仕事にではない。

社会の動きに。そして、自身が根を詰めて今まで行なっていた仕事が、国の意思で水泡に帰そうとしている事に。

その時、スタッフルームに一人の男性が入ってきた。

「奏。」

部屋の中に声が響く。

奏の名を呼ぶ声の主は、立志である。

「…なんですか。先輩。」

奏が返事を返す。

しかし、その声には普段勝気な奏らしさは無く、声をかけた立志を振り返る事もない。

相変わらず机に向かって項垂れたままである。

奏の机の上から皺くちゃの書類が一枚、ヒラリと床に落ちた。

立志はその書類を拾い上げ内容に目を通す。

その書類は、奏が作ったケアプランだった。

奏の几帳面さを表すように、詳細な介護支援計画がびっしりと書き込まれている。

『歳をとって死んじゃった後でも、その人達が少しでも幸せに暮らせますように』

そんな奏の意思が込められたケアプラン。

それが数十人分。

これを作るのに、奏は徹夜までしていた。

「ケアプラン、やらないのか?」

立志が奏に声をかける。

「苦労して作ったんだろ? 残業して。徹夜までして。」

「…もう、やめます…。」

か細い声で、奏が返事をする。

「なんでだよ? 奏…。」

「もう、作りません。やりません…。」

「なんでだよ! 奏は、蘇った爺ちゃん婆ちゃんが幸せに暮らせるようにしたかったんじゃなかったのか? その為に、頑張ってきたんじゃないのか?」

「…だって、もう全部、無駄じゃないですか…。」

と呟いた。

「え?」

「…先輩だって、ニュースぐらい、見るでしょ?」

「あ、あぁ。」

「なら、知ってるでしょ? 私達の頑張りなんて、全部無駄だって事…。」

「…。」

奏の言葉に、今度は立志が黙る。

「政府は、蘇ったお年寄りを『処理』する事にした、って。」

「…。」

「処理って、どういう事か解りますか? 死者として、もう一度死なす…、つまり、殺すって事ですよ!」

「…。」

「私達がお世話をしてきたあの人達は、生きている時と何も変わらない。なのに、なのに…。」

奏の声は次第に興奮を帯び…、

「私は、嫌です! …嫌です…。」

次第に、涙声になる。

「嫌、です…。」

最後には小さな呟きとなり、再び奏は、机に力無く倒れ込む。

奏は、絶望していた。社会に。世界に。

「なんで、こんなことになっちゃたんですか…。」

その奏の呟くに、立志は、

立志は、

…、

……、

懐から拳銃を取り出した立志は、銃口を奏の頭に向ける。

引鉄を引けば、奏の頭は吹き飛ぶ。

「立志先輩。私、死にたくない。でも、生きたくもない。だって、この世界で生きている意味も希望も、何も見えないから…。」

自ら死を選ぶ事が、この希望無き世界での奏の唯一つの希望だった。

だから、立志は、引鉄を引いた。

銃口から放たれた弾丸は、死という形で奏の願いを叶えた。

しかし、弾丸が放たれる瞬間、奏の口が動き、何かを呟く。

死の間際、奏から放たれた最後の言葉は、

「嫌…。」

死にたくはない。でも、死ぬしかない。もう、解らない。

奏の最後の言葉の意味を理解した瞬間。

奏の頭は、吹き飛んでいた。

飛び散る脳漿の中で、佇む立志。

それは、立志の脳裏に浮かんだ、惨劇の記憶だった。

……、

…、

「うわーーーーー!!」

立志が突然叫び、頭を抱えて蹲る。

「せ、先輩! どうしたんですか! いきなり叫んで…。」

立志の声に驚いた奏は机から身を起こし、立志に駆け寄る。

「先輩! 大丈夫ですか! どうしちゃったんですか?」

「…う、うぅ…。」

「ちょっと、先輩…、起きてくださいよ!」

床に蹲りながら、身体を震わせる立志。

「先輩、嫌ですよ、起きて下さい!」

その時。立志の震えが止まった。

そして、

「…そうだ。嫌だよな。」

立ち上がった立志は、呟く。

「え? 先輩?」

「俺は、もう二度と、奏。お前を撃ち殺したくない。」

「せ、先輩? 何を言ってるんですか? え? うちころす? なんの話ですか?」

突然の立志の言葉に奏は戸惑う。

「止めなきゃ、いけないんだ。」

「え? 止める? 何をですか?」

困惑する奏。

「…惨劇の、未来を。」

「未来? 惨劇? 何を言ってるんですか…?」

戸惑う奏に構う事なく、立志は熱に浮かされたかのように言葉を続ける。

「そうだ。ここで止めなきゃ、いけないんだ。もし、今いる蘇ったじいちゃんばあちゃんがいなくなったって、これからも蘇るじいちゃんばあちゃんは増えていくんだ。その度に、…殺していくのか? じゃあ、次はなんだ? 次は蘇りそうなじいちゃんばあちゃんを殺すのか? それが終わったら、次はどうする? じいちゃんばあちゃんが全部いなくなったら、次はどうする? 人間は誰だって、じいちゃんばあちゃんになるんだぞ。それも全部、殺すのか? そんなクソッタレな未来は、俺は絶対に、嫌だ!」

それは、いつか見た立志の記憶。

今とは異なる未来の、惨劇の記憶。

「ど、どうしたんですか? 一体何を言ってるんですか?」

奏が、立志の肩を揺する。

「何よりも…奏。」

「はい?」

「俺は、お前を、助けたい。」

「は、はい?」

「俺は、あんなクソッタレな未来は認めない! 絶対にさせない。もう、奏を撃ち殺すのは、絶対に、絶対に! 嫌だ!」

それは、立志以外には意味の解らない言葉だった。

立志は、思い出したのだ。

未来の出来事を。次元を超えた前世の記憶を。

…それは、この世界に起きた、奇跡だった。

しかし、立志以外の人物が、この記憶の意味を理解する事は、今は難しい。

当然の如く、目の前の奏は当惑する。

「え、っと。私が、死んじゃう? 何を言ってるんですか、先輩?」

「えっと、うん、そうだな…。解説すると、うん、奏。お前、近々、死んじゃうんだ。」

「は?」

「お前だけじゃない。世界中の人が死んじゃうんだよ。」

「それって、人類の破滅じゃないですか!」

「で、俺は、それを止めたいんだ。」

「は、あぁ。そうなんですか。」

なるべく努めて冷静に解説しようと試みる立志だが、残念なのはその言語力である。

「先輩、きっと、私を励ます為に冗談を言ってるんですね。私はもう大丈夫ですよ。先輩見てたら、元気になりましたから。」

「あ、あぁ、そうか。良かったな…。」

これでは立志がまるで変人である。

しかし、奏が元気を取り戻したのだから、取り敢えず良しとしよう。

奏を見送った後。

施設の駐車場で、立志は一人、夜風に吹かれていた。

先程までは、甦った記憶の奔流に流され、熱に浮かされたようになっていた。

しかし今は冷たい風に充てられて、だいぶ冷静さを取り戻した。

冷静にあると同時に、立志は、『あの未来』の全ての記憶を思い出していた。

蘇り現象に端を発した一連の出来事は、政府を、国を、社会を追い詰め、『国民総自殺の推奨』を発令させ、人間の尊厳の維持を理由に、全ての国民に拳銃が配られ、親族を、隣人を、殺し合わせた。

社会全てが狂っていた。

しかし、あの時は、その選択しか選べなかった。

全ての状況が、あの惨劇の未来を導いていた。

そして今も、その時の出来事をなぞるように事態は刻一刻と進んでいる。

この流れの中で、俺に何ができる?

政治家でもなく、金持ちでもなく、権力もない、ただの一介の介護職である俺に、何ができる?

どうすれば、惨劇の未来を回避し、奏を…、

いや、奏だけじゃない、罪なきお年寄りを、救えるのか?

そもそも、俺のこんな滅茶苦茶な話を、誰が信じるというんだ?

「どうすりゃいいのか…。解らねえよ。」

記憶の深い部分までを思い出した立志は、途方に暮れて嘆く。

その時である。

「どうしたの、立志君?」

誰もいないと思っていた駐車場に突然、女性の声が響く。

「うわ、びっくりした!」

駐車場の暗がりから、一人の女性が姿を現した。

「こんな寒い中で、ぼんやり考え事かしら?」

葦原未来音だった。

「なんだ、未来姐か。驚かすなよ。」

「あはは、驚かしちゃったか。ごめんごめん。こんな時間に、どうしたのかと思ってさ。」

「未来姐こそ、こんな遅くまで何やってるんだよ。」

立志の言葉に、未来音の顔が一瞬強張る。そして、

「わ、私は、そう、残業。残業してたの。看護師は忙しの!」

何かを誤魔化すように未来音は返事を返す。

「残業かぁ。大変だな、看護師も…。」

誤魔化された立志。

「で、立志君。何か悩み事? 深刻そうにしてたけど…。」

「あ~、そうなんだよ、先輩。ちょっと、悩んでてさ。」

屈託のない立志。

「そうなの。なら、この先輩に相談してみない? 伊達に経験は重ねてないわよ?」

「けど、きっとこんな話、未来姐は信じないよ。もし未来姐が誰かに話せば、未来姐の頭が疑われるぜ?」

そうだ。俺の頭の中に、違う未来の記憶があるなんて、誰も信じるわけがない。

そう立志は不安を覚える。だが、

「大丈夫。私はきっと、信じるから。」

そう未来音は、立志の不安に対して、言い切った。

それは奇妙な言い切り方だった。

しかし立志は単純だった。いや、少し違う。

そう言ってくれる未来音を、立志は純粋に信じた。

未来音になら、気楽に語れる。そう思った。

立志は未来音に、これから先に起こる未来の記憶を語り始める。

「最近、亡くなった年寄りが蘇るだろ?」

「うん。」

「で、政府はそれを危険視して、ゾンビや化け物みたいに扱っててさ。」

「ええ。」

「近いうちに、蘇った年寄りは全員、殺されちゃうんだよ。」

「なるほど。」

「で、そのうちに、若い人も蘇るようになってさ、」

「うんうん。」

「だったら皆んなで自殺しようぜ、みたいな事態になるんだよ。」

「そうなのね。」

「で、俺はそれをなんとかしたいわけだ。」

「うん。」

「でも、俺なんかに何ができるかな…、って、悩んでたんだ。」

一頻り立志は語り終えた。

駐車場に吹く風は冷たい。

「大変な思いをしたんだね、立志君は…。」

しかし未来音の言葉は温かかった。

「お、解ってくれるのか、未来姐! 何か、いい案はあるかな?」

未来音は、しばらく口元に手を当てて、考える。何か思いを巡らすように。

そして、口を開いた。

「『社会を、変える』の。」

「は?」

その言葉とともに、未来音の持つ雰囲気が、変わった。

空気が、更に冷たく、張り詰める。

未来音は語る。おそらく未来音であるはずの目の前の人は、語る。

「過去、社会は幾度となく形を変えてきた。

獣から人となり、道具を手にして文明を築き、

幾多の幸福と、その何倍にもなる不幸の時代を乗り越え、

社会は、世界は、その都度、創造し直された。

そして今。世界は新たな岐路に立たされている。新たな変革の時代を迎える。新たな進化を受け入れねばならない。

社会は、変わる。かならず、変わる。それが幸福か不幸か、今はまだ解らない。

でもその時、あなたなら、どうする?

嫌でも社会は変わってく。

そんな時、何も為さずに惨劇の未来を選ぶのか、最善の未来に向けて自ら動くのか。

決めるのは、君自身なの。」

「…。」

「そして、すでに君は『変わった』。君が変わった結果、周囲の者達も君に惹かれ少しずつ、変わりつつある。社会は、変わりつつある。」

「…社会を、変える…。」

未来音の言葉を、今の立志は理解できすにいる。

でも、未来音が、立志に何かを託し委ねようとしているのは、理解できた。

だが…。

「出来るかな、俺に。」立志は不安を口にする。

「あなたは1人じゃない。出来るよ。」先程と同じく、未来音は言い切る。立志の不安を断ち切るように。

「立志君に、立志君だけに、聞いて欲しい事があるの。」

「…なんだい、未来姐。」

「ちょっと、昔話をさせて。」

昔の私の話。

私ね、昔は凄く酷い奴だったんだ。

私は、人に好かれた。それを自分の才能と勘違いして、浮かれていた。

自分は嫌な女だと自覚はしていた。それでも、私の周りに他人は寄ってくる。

人誑(ひとたら)しの才能。巧みな言葉で騙して、甘い言葉で誘惑する。

それが自然にできた。

私はその才能を利用して、他人を誑しこんだ。

その結果、人が傷ついても何も思わなくなった。むしろ、心地良かった。

思い通りに操って、その人間のモラルが壊れていくのを見てるのが、楽しかった。

でもね。

そんな時。

世界は壊れたの。

その生きているか死んでいるか自分では判断できない世界の中で、私は見た。

以前、私の言葉で信念を無くして、心を殺した男の子が、自分の大切な女性を殺すのを。

天罰だったら、私に下せばいいのに。

神様は、私の代わりに世界を壊した。

だから、神様に願ったの。

やり直したいって。

その結果、私はどうなってもいい。消え去っても構わない。

誰の思い出に残らなくても構わない。

そして、願いは叶った。

だから今、私はここにいるの。

未来音の話は終わった。

「これはきっと、時代の変化の中で起きた、たった一つの奇跡かもしれない。その中で、私は私に出来る事をする。」

未来音の言葉は、立志には理解できない。それは未来音だけに理解できる、未来音の物語だから。

そんな未来音に、立志は、

「なぁ、未来姐は何者なんだ?」

当然の質問を口にする。

「…そうよね、わけわかんないよね。」

未来音は俯き口元を歪めて微笑む。そう。解ってくれるはずがないのだ。

「奇跡に縋(すが)るだけの、誰からも忘れられる運命の、ただの愚か者だよ。」

そう。誰かが自分の言っている事を、今までしてきたことを、これから成したい事を、理解出来るはずがないのだ。

そんな未来音に、

「あぁ、解ったよ! 未来姐は、女神様だったんだな!」

と立志は納得する。

「…いや、違うけど。」

まさしく見当違いの立志に、未来音は呆れる。

深夜の駐車場に冷たい風が吹く。

そして暫しの沈黙の後、

「…ふふふ、女神様か。立志君がそう思うなら、まぁ、それでもいいかな。」

未来音は笑う。そんな未来音に、

「俺は頭悪いから、未来姐の言ってる事、全部はよく解らない。」

と立志は言う。

「でも、未来姐が強い責任感を持って何かを頑張っているのは解る。きっとそれは、誰かの為に、きっと俺たちの為にだって事も、俺、解るよ。」

立志は理解した。未来音の想いと、決意を。

自らに課せらた責任。

そして、誰が為に。

それは、かつての世界で未来音が否定したもの。

彼女は、かつてそれに悩む二人を惑わし、結果、世界は惨劇に塗り潰されたのだ。

…大丈夫。立志君は、立志君の仲間は、きっと解ってくれる。

私も、私の役割を全うしよう。

「さぁ、立志君。行きなさい。君の願いの為に。」

「未来姐…。」

その時、一際強い風が吹き、立志は目を瞑る。

そして再び目を開けた立志の視界の先で、

葦原未来音の姿は、消えていた。

立志は暫し、未来音の消えた虚空を見つめる。そして、

「ありがとう。未来姐。俺は、やるよ。」

誰もいない駐車場の真ん中で、

暗い空に向かって呟く立志。

…立志の決意は、固まった。

次の日。老健[縁寿]。その会議室にて。

時刻は18時。日勤者の業務終了後である。

「作戦会議を開こう! 人類滅亡を防ぐんだ! 晋也!奏! 協力してくれ!」

会議室に集まる晋也と奏の二人の前で、立志が宣言する。

「おいおい、いきなり何を言ってるんだ、立志は?」

突然の立志の宣言に呆れる晋也。そんな晋也に構うことなく、

「おう、晋也。このままだと、人類が滅んじまう。だから、何とかしようと思うんだ。」

と立志は話を続ける。

「あぁ、そうなんだ~。で、どうしたんだ、立志は。働きすぎておかしくなったか?」

晋也は、可哀想な人を見る視線を立志に送りながら、隣の奏に訊ねる。

「はい…。先輩、昨夜からちょっと変なんですよ。普段にも増して…。」

「おい、奏! 俺を変人扱いするなよ。誰の為にやってると思ってるんだ! …まぁいいや。話を続けるぞ。」

「あ、あぁ。で、なにがしたいんだ?」

晋也は、一応、立志の話の先を促す。

「もうすぐ蘇ったじいちゃんばあちゃんが、国に殺されちまう。」

「国に殺される、なんて言い方は穏便じゃないが…。もうすぐ特別法案が可決してしまうな。結果、お年寄りは『処理』されてしまう…。」

「処理…。」

その言葉に奏が反応する。

」それって蘇った人達を『もう一度死なす』ってことですよね…。晋也先輩…。」

奏の表情が曇る。

「うん。奏さん。そう言う内容の法案だって聞いてるよ。」

晋也も介護職だ。

老人を『処理』する。その方針に思うところはある。

「で、俺はその『処理』を、やめさせたい。」

立志が拳を握る。

「やめさせないと、人類が滅ぶ。」

「だからなんで、そこまで話が飛躍するんだ?」

当然の疑問を晋也が口にする。

「思い出したんだ。」

「は? 何を思い出したんだ?」

「俺の中に、人類が滅ぶ記憶がある。それを思い出したんだ。」

「は?」晋也の表情に困惑が浮かぶ。

「今の世界は、その滅んだ世界と同じ道を辿っている。だから、俺はそれを止めたい。」

困惑する晋也とは裏腹に、立志の目は真剣だった。

「冗談を言って…いるってわけじゃなさそうだな。めずらしく立志が真剣だ。」

「そうなんですよ、晋也先輩。昨夜も、言ってる事は変なんですが、凄く真面目なんです。」

晋也と奏は小さな声で言葉を交わす。

「…まぁ、立志が言う夢? 前世? の記憶とかでは、いったいどういう事態になって、人類が滅ぶんだ?」

取り敢えず、立志の話の先を晋也は促した。

「おお! 聞いてくれ。」

立志は二人に、今、社会に生じている事態から派生する、これから起こり得る変化を伝える。

「まず、俺達が勤める老人施設で、最初の蘇り現象が起きた。それが全ての始まりだった…」

全国各地で同様の蘇り現象が次々に発生した。

対処に困惑した行政は、混乱したまま、安易に蘇った人達を化け物…ゾンビとして扱い始めた。

そして、ゾンビを『国家に対する外敵』として捉えた政府は、災害対策基本法を基にした緊急特別法案を制定させ防衛出動を自衛隊に要請した。

新たに成立した法案は『ゾンビ駆逐特別法案』と呼ばれ、速やかな化け物の駆除を目的とした部隊…通称『再殺隊』は大きな権限を持った。

ゾンビの弱点は解明されていた。身体に大きな損傷を与える事。

再殺隊は、その方法を効率的に、迅速に遂行していった。

隔離施設の焼却。脱出したゾンビを撃ち殺す。容赦なく。

その殺戮行為に、多くの人間が巻き込まれた。

しかし、政府の政策を支持するマスコミは、化け物の駆除を目的とした再殺隊を英雄として盛り上げ、名実ともに巨大な権力と影響力を手にした再殺隊を止める術はなかった。

化け物を破壊する再殺隊の行いは、正義だった。

再殺隊は次に、街に匿われていたゾンビを殺して回った。ゾンビ狩りだ。

次に再殺隊は、これからゾンビ化すると推測される老人を始末して回った。

そして、社会から老人は消え去った。全ての年寄りは、滅んだ。

だが、事態はそれで終わらなかった。

かつては老人しか発症しなかった蘇り現象が、若者にも発生したのだ。

けれど蘇った年寄りを怪物と定め、「全てのゾンビは滅ぶべき」という方針は撤回されず、その流れを止める事は誰にもできなかった。

自分が化け物だと、化け物になるのだと、誰も認められなかった。

殺戮は、続く。老若問わず。

社会は既に幾人もの年寄りを犠牲にしたのだ。もう、後には引けない。間違いを受け入れられない。

そして、政府は、人は、社会は、化け物になる前に、人として尊厳を持ったまま、人類のまま、滅ぶ事を選んだ…。

立志の長い説明が、終わった。

「だいたい、こんな流れだ。俺はこれを止めたい。」

「…。」「…。」

立志らしくない整然とした説明。

そして、これから起こり得る展開に、晋也と奏は言葉を失う。

…。

暫しの沈黙の後、晋也が口を開いた。

「話は理解できた。よくできた話だよ。筋も通っている。 」

「おお、晋也! さすがは、俺の同期!」

「…例え全てお前の作り話だとしても、な。一体、お前の頭の中はどうなってるんだ…。」

「ちょ、晋也先輩! 言い方が…、」慌てる奏。晋也は続ける。

「けれど、立志が本気だってのはよく解った。俺はお前を信じるよ。」

「ありがとな、晋也。」立志は屈託無い。

「それだけの話、お前が考えられるわけが無い。だから、お前のその記憶は、本物なんだろうな。」

「いや、だから晋也先輩。言い方が…。」立志の頭が疑われているような言い回しに、奏は再度不安を覚える。

「いやー、晋也。信じてくれてありがとな!」奏の不安をよそに、立志は晋也の背中を叩く。

「大丈夫だよ、奏さん。こいつは気付いてないから。」

「そ、そうですか…。」

「それにね、奏さん。立志が今語った未来の姿…。空想や法螺話だとは限らないよ。」

「え…。」

「蘇った高齢者を死者として扱う…『処理』するって事は、政府は蘇った高齢者を『異物』…いや、『怪物』として扱う事にした。現状『災害』として認定した。そういう事だ。」

奏は晋也の言葉を聞く。唇を噛み締めながら。

「でも、僕らは知っている。蘇った高齢者は今までと何ら変わらない。一人一人個性ある、ただの人間と同じだって事を。」

「…私も思います。それは絶対、本当です!」奏の表情が輝く。それさえ奏にとっての真実だ。

「以前の間違った報道の頃から感じていたんだ。世間が語る状況と、僕らが知る現実には、大きな差異がある事に。そしてそれはいつか、真実を捻じ曲げていくのではないか。そう思っていた。」

「…確かに、晋也は最初からそんな事、言ってたな。」と立志。

「ああ。だから、今立志が語る未来の姿は、その捻じ曲がった社会の形。そんな予感がする。」

「つまり…。」と奏。

「立志の語る物語は、ありえなくもない未来だ。そういう事だ。立志。僕はお前を信じるよ。」

「おぉ!」

立志は晋也に飛び付く。

「ありがとう! 晋也! 信じてくれて…。」

「は、離せ、立志!」

そんな光景を見て、奏も微笑む。

「しかし、その話が本当だとして、その上で、どうやって世界を救うんだ?」

佇まいを改め、晋也は立志に問う。

「ああ。まずは、再殺隊の設立に繋がる特別法案を、止めたい。」

「で、どうやって? 何か良いアイデアはあるのか?」

晋也の詰問は厳しい。晋也は立志を信じた。だからこそ、晋也は、その手段を厳しく求める。

「…その方法を、一緒に考えてくれ。二人とも、頼む。」

立志は二人に頭を下げる。

独りでは無理。仲間がいる。その仲間は、共に働き苦楽を共有した奏と晋也。二人しかいない。

立志は最初からそう考えて、二人に相談したのだ。

「ま、そうだよな。こんな問題、立志じゃなくても一人じゃ無理だ。」晋也はニヤリと微笑む。

「わ、私はまだ状況についていくので一杯です…。でも、この前ではいけない事は解ってます。」奏も手を組み考える。

「晋也。何か無いかな?」

「うーん、そうだな…。決まろうとしている法案に対抗する方法…。つまり政府の政策に反対する手段があるとすれば…。」

晋也は腕を組んで考える。

「…例えば、テロ、とか…。」

「いやいや、晋也先輩! 何を言ってるんですか? 政府の政策に反対だからって、テロを起こす事はないでしょう!」

「解ってるよ、奏さん。今、奏さんが反対し通り暴力的手段に訴え行為は、社会が認めない。」

「じゃあ、どうする?」

「うーん、いわゆる社会活動…ロビー活動やデモ運動を組織するなんて手段もあるけど…。」

「先輩、ロビー活動って何ですか?」

ロビー活動。聞き慣れない用語であり、奏は晋也に意味を問う。

「簡単に言えば、権力のある政治家に直談判する手段だな。」

「なるほど。」

「しかし、当然、俺達には現状政治家にコネなんてないから、無理だ。」晋也は自ら案を没にする。

「じゃあ、デモを組織するというのは…、」

「SEALDsの例が解りやすいが…。」

SEALDs(※自由と民主主義のための学生緊急行動)。

2013年に組織された学生団体の後継団体として発足された政治団体で、かの安全保障関連法の改正にあたり危機を感じた学生が2015年に、抗議デモ活動を中心に政府への働きかけを行った事で知られている。

「これも、組織として数年の下地があったからこそ、実現できた事だ。現段階では、僕らに組織力は無いから、難しい…。」

再び晋也は自らの案を否定する。

立志がやろうとしている事は、簡単ではないのだ。

何か、良い案はないか…。

立志は必死で考える。

どんな手段を用いれば、政府の考え方を変えられるのか。

立志から見れば、政府は間違った政策を実施しようとしている。

その政府の間違った施作を止めれば、惨劇の社会を防げるのか。

…。

…いや。少し違うのかもしれない。

立志は思い出す。昨夜の事を。彼女の事を。

『社会を変える』

彼女は、そう言った。

それが唯一ただ一つの、目指すべき方向性なのかもしれない。

「なぁ、本当に政府の考え方を変えれば、惨劇は回避できるのかな?」

「え?」

「政府ってさ、この国の、行政機関ってやつだよな。」

「ああ。」

「でも、その政府も、この国の何人かが集まって作られた組織なんだよな。」

「その通りだ。」

「だったら、その組織を変えるだけで、社会は変わるのかな?」

「…社会が変わる?。…どういう事だ、立志?」

立志の疑問に訝しむ晋也。が、

「私、今立志先輩が言った事、理解できる…。」

と奏が立志の言葉の先を続ける。

「奏さんは解るのか。」

「はい。以前に晋也先輩も言ってたじゃないですか。おかしいのは、真実が歪曲されている事だって。」

「ああ。言ったな。」

「歪曲されたもの。それはつまり、この現象の真実の姿。それをこの国の人に理解して貰わなければ、根本的な解決にならない…。そういう事ですよね、立志先輩!」

「お、おぉ、そうだ。奏の言う通りだ。」立志の言語力の無さは奏にカバーされた。

「…政府という存在はあくまでも国を管理する組織であり、変えるべきは、そこに住む人間、ということ。そう言いたいんだな。」

「例え政府を止めても、それでこの国の人間の考え方が変わるのか、という事です。」

「まったく…。これまで世間は面白おかしく恐怖を演出してきた。そのツケがこれか。」

晋也も納得する。

「つまり、これから為すべき事は、この国に住む人の思い込みを変える事、か。」

「そうそう!」「その通りです!」立志と奏は口を揃える。

「けれど、政府がこの国最高の管理機関である事には現実だ。管理者は方針を作る。その方針と法律を基準にして国民の生活は成り立つ。だから、政府と国民。それを同時に変える必要がある。」

つまり、それが、

「『社会を変える』。そういう事だな。」

「国は人の集まり。政府はあくまでもその管理組織。つまり変えるべきは社会の常識そのもの。それがつまり、『社会を変える』という事なんですね。」

「言い換えれば、社会概念の変革だ。しかし、立志。よくそんな概念的な事が思い浮かぶな。」

「本能じゃないですか?」

「奏さん…。君もなかなかひどい事をさらっと言うね…。」

「そうですか?」

笑い合う奏と晋也。立志もつられて笑う。

「ははは。昨日の夜に、未来姐が教えてくれたんだ。」

立志のその言葉の直後。一瞬、沈黙が部屋を支配した。

「…みくねぇ…って、誰だっけ?」と晋也。

「立志先輩の知り合いですか?」と奏。

…あぁ、そういう事か。立志は独り、納得する。

それでも、俺は…。

立志は気を取り直して、考えを進める。

「社会を変える、か。なぁ、晋也。過去、人類社会は何度も変化してきたんだよな?」

と晋也に問う。

「あ? あぁ。」

「社会が変わる時って、どんなきっかけで変わってきたんだ?」

立志の問い掛けは続く。答えを探し求めて。

「そうだな…。例えば有名なのは、フランスのルネサンスだな。」

「ルネサンス?」

ルネサンス。再生や復活を意味するフランス語であり、14世紀から16世紀の時代の文化運動である。

「ルネサンスのきっかけは、ある二つの発明だった。」

「発明?」

「そう。火薬と、印刷技術だ。」

晋也の解説に、奏は、

「火薬はなんとなく解りますが、印刷技術ってのも凄い発明だったんですね…。」と続ける。

「うん。まず火薬の開発だが、火薬は文明が持つ技術に大きな進歩を齎した。発掘、建築、移動手段。そして、戦争…。」

「…戦争。」

「火薬の開発は人類に銃と大砲を齎し、それは、剣を持たず戦闘の訓練も受けてこなかった農民が、騎士や貴族を倒せる…つまり、身分制の常識を覆す事態を齎した。」

「常識を、覆す…。」

「そうだ。それまでの世界観は崩れ去り、世界規模での下克上現象を齎した。」

「戦争と発展か。…幾多の幸福と、その何倍にもなる不幸の歴史ってやつか…。」

立志が感慨深く言う。

「なかなか洒落た言い方をするなぁ。誰の受け売りだ?」と晋也。

「ああ。女神様、かな。」立志の表情がほんの少し曇る。

「何言ってるんだ? まあいいや。で、次に印刷技術だが…。」

晋也は立志のその僅かな変化に気付かず、解説を続ける。

「印刷技術。こちらの方は、社会に思想的な進化を齎した。」

「思想的な?」

「ああ。例えば、宗教。そして、聖書。」

「それが変わるのが、そんなに重大な事だったのか?」

「うん。それまでは、聖書の内容や解釈は、人を通じてしか行えなかった。布教者からの言葉としてしか、民間に伝わらなかった。だがそこに、文字を印刷する技術が誕生した。」

晋也の伝えようとしている事は、まさに、『思考的な変革』そのものだった。

「文字による聖書の内容の伝達は、自由な解釈や多様な読み方の推進を齎した。聖書の解釈の自由化とは、人間の思想の自由の幕開けと同義だったんだ。」

宗教的な思想が社会基盤であった時代。その変化の影響は凄まじいものであった。

「まぁ、その結果、キリスト教の分裂、宗教間の争いへ発展したんだがな。」

つまり、晋也が伝えたい事は…。

「新たな技術を手にした時、社会は変わる…。」

「その通り。 つまり、技術とは、それを使う発想と社会基盤によって、世界を革新しうるんだ。そして、いったん技術が回り始めると、技術を手にした者の発想を変え、文化と思想を改め、社会を変えていく。」

社会を変え得る技術革新…。

「じゃあ、現代の社会で、その…社会を変えうる発明があったとしたら?」

「それは勿論、これだろ?」

晋也は鞄に手を入れ、愛用のノートパソコンを取り出す。

「パソコン?」

「それも凄い発明だが、なによりも素晴らしいのは、インターネットだろうな。」

「インターネットかぁ。確かに便利だけど…。それほど凄い発明なのか?」

「ああ。印刷技術が『思想の自由化』を生み出したのなら、インターネット…高度情報通信は、『思想の共有化』を創造させたんだ。」

「共有化?」

「インターネットは、情報の送受信の道具として、昨今飛躍的に普及した。その結果、誰もが平等に自分の意思を自由に表現でき、誰もがその思想を閲覧し対話できる。つまり、他者間における思想の共有化ができる社会になった、ということだ。」

「なるほど。ということは…」

「ああ。『不特定多数の他者に思想を訴える』という手段において、インターネットに勝るものはない。」

「それだ! 」

晋也の説明に、立志がガッツポーズをする。

「うちの施設の様子をネットで伝えよう! 生き返った爺ちゃん婆ちゃんは、死ぬ前と全然変わんないって事をさ!」

立志の意見を聞いた奏も、

「いいですね! 施設での様子を伝えれば、蘇ったお年寄りが危険な存在じゃないって事をアピールできるかも…。」

と同意する。

「ああ。それで、爺ちゃん婆ちゃんたちをゾンビにしちゃうような新しい法案が間違っているって事を社会に解らせるんだ!」

立志は自身のアイデアに浮かれる。

しかし、晋也は浮かない顔だった。

「インターネットの活用については、僕は反対だ。」

「なんでだよ、晋也?」

立志の案を反対する晋也。

「ネットの世界では『責任』が軽視され過ぎる。」晋也はその理由を語る。

「責任?」

「ああ。まず第一に、施設の中の様子をネットで流すのは、お年寄り達のプライバシーの問題がある。」

「そうですね…。倫理的に良くないかもしれないですね。」

「うん。本来なら、映像化にあたり、当事者の許可が取れればいいのだが…。」

「隔離棟にいる方から許可を頂くのは、難しそうですね…。」

「…喋れないもんな。」

「当事者の理解も無いのに、安易に映像化するのは無責任だと僕は思う。僕は、自分が発信した情報には責任を持ちたい。あのマスコミの映像みたいな、自分勝手で下劣な行為はしたくない。」

「確かに、私もあの報道には腹が立ちました。でも、立志先輩がやろうとしている事は、正しい事ですよ?」

「それを決めるのは、社会だ。」

「え…。」

「俺達が正しいかを判断するのは、世間であり、社会だ。それが、社会を変えるって事だ。」

晋也は奏にはっきりと伝える。あ

「その映像が後にデメリットを残す可能性は捨てきれない…。」

「晋也先輩…。」

「なるほどな、晋也。インターネットの活用は、慎重に進めなきゃいけないって事か。」立志は晋也の説明に納得する。

「その通りだ、立志。その上で、もう一つの問題だが…」

「おう?」

「インターネットは、確かに万能なコミュニケーションツールだ。優れた拡散力と自由性に優れる。しかし反面、匿名性が強い。」

「匿名性?」

「うん。インターネットでは情報の発信者は特定されない。どこの誰がどんな発言をしようとも自由だ。しかし、その特性は、発言した言葉やメッセージに対する責任感の欠如を生んだ。責任感無く『誰々が間違っている!』などと叫ぶのは、社会に参加していない子供でも出来る。」

「でも、立志先輩はそんな無責任な人じゃないですよ! 」

「奏さん。さっきも言ったが、それを決めるのは、社会だ。」

「うぅ…。」晋也の言葉に奏は黙る。

立志はそんな奏を慮るように、

「大丈夫だよ、奏。俺も晋也の言っている事は理解できる。」

「立志先輩…。」

「解ったよ、晋也。ただ『間違っている』と叫ぶだけではダメなんだな。」

「ああ。僕達が行おうとしている『社会を変える』行為は、今の社会の流れを否定し、新たな社会を想像する事だ。それはすなわち、今の社会を『壊し創り直す』行為と同義なんだ。それはつまり、壊した時に生じるデメリットにも目を向け、デメリットから発生する事態にも対応しなければならない。」

「今を壊すなら、その責任をとるべきだ、って事か…。」

「その通りだ。今の社会…年寄りが処理される現実を破壊するなら、その先にあるべき、より良い未来を保障できなければ、社会は僕達の主張を決して認めない。」

「その為には、お年寄りが『処理』されない社会になった時の、デメリットを考えろ、って事ですか?」

「そうだな。例を挙げるなら…、今後、死なないお年寄りが増加した時、その保護には莫大な経費がかかるだろう。国の社会保障制度は崩壊する。その結果、迫害されるのは、蘇ったお年寄り達だ。それでは意味がない。」

「そんな…。」

社会保障費の増大。それは現在の超高齢社会が抱える問題に、更なる拍車をかける事となるのだ。

「それだけじゃない。倫理感の問題もある。」

晋也はそう言って、奏に向かって問う。

「例えばだが、奏さん。君が死んだとする。」

「え?」

「おいおい、晋也。」

「まぁ聞けって。立志。」

「…続けて下さい。」

「うん。で、その時、君なら、どう思う?」

「どう思う、ですか…?」

「ああ。今、俺たちは蘇った人を処理させないように活動しようとしている。そして、保護が推進されたとする。それは考え方を変えれば、蘇った人間を周囲の人間の意思で存命させ続けている状態だ。」

「はい…。」

「では、保護された君本人は、どう思っているのだろうか? 」

「え?」

「蘇った人間は喋れない。自身の意思を表現するのも現状困難だ。もしかしたら、そのまま死にたいと思っているのかもしれない。…人として尊厳を持ったまま、怪物にならないままで。」

「怪物として生きたいか、それとも人として死にたいか…ですか…。」

「…その問題に答えを出さなきゃ、未来は変わらない。俺が見た未来の姿と同じになっちまう。結局そうなるしかないのか…。」

社会を変える。その選択肢の先に待つ問題は、簡単には解決しない。晋也の洞察で、立志はその壁の厚さを感じた。

考え込む立志と晋也、奏の三人。

会議室に沈黙が流れる…。

その時、奏が一言、小さく呟いた。

「私が、生き返ったら、私は、どうするか…。」と。

その奏の言葉が、新たな活路を三人に与える。

会議室の中、無言の三人。

時間は22時を過ぎている。

その静寂を破るように、俯き考えんでいた奏が顔を挙げる。

「ねぇ、立志先輩。」

「どうした、奏?」

「先輩の見た未来では、私はどうやって死んだんですか?」

意を決したように、奏が立志に問う。

「先輩、言ってましたよね? 『俺が殺した』って。」

「…あの時は記憶が戻って興奮してたんだ。今は、あまり言いたくない。」

「もっと詳しく教えて下さい、先輩。」

「でも…。」立志の表情は険しい。

「先輩のとって、それは辛い記憶なのは、先輩の顔を見ていれば解ります。それでも…お願いします!」

奏の表情は真剣だった。

きっと、奏には考えがあるのだ。

「解った。話すよ。」

立志は、自らの手で奏を撃ち殺した時の記憶を語る…。

前にも言ったろ? 俺が、撃ち殺したんだ…。

俺は、銃口を奏の頭に向けて、引き金を引いた。

その時、奏は言っていたよ。

私は死にたくない。でも生きたくもない。

この世界で生きている意味も希望も何も見えないから…。

そう言っていた。

あの時は奏にとっては、自ら死を選ぶ事が、この希望無き世界での奏の唯一つの希望だったんだろう。

だから、俺は、引鉄を引いた。

でも最後に奏は言った。

「嫌…」と。

死にたくはない。でも、死ぬしかない。もう、解らない。

その言葉がきっと、俺が殺した奏が最後に思った事なんだと思う…。

「信じられないよな。でも、あれは俺にとっての真実なんだ…。」

「…。」奏は黙って立志の話に耳を傾けていた。

「奏…。」立志が奏の名を呼ぶ。奏を見詰める。

「先輩?」

「あの時は、すまなかった。ただ撃ち殺すことしかできなくて、命を奪う事でしか、奏を救う方法が思いつかなくて、でも、その方法も間違えていて、本当に、すまなかった…。」

立志は奏に向かって頭を下げる。

唇を噛み締め床を見つめる立志。

その瞳には涙が浮かんでいる。

その立志の姿を見た時。

奏の中の、何かが変わった。

「命…。」

奏の脳裏に奔るものがあった。

それは、奏の頭に銃口を向けながら、涙を浮かべ唇を噛みしめる、立志の姿。

今、奏に向かって頭を下げ続ける立志とは、異なる姿の記憶。

…思い出した。私は、立志先輩を、知っている。

「立志先輩。頭を上げてください。あれは、私が願った事なんです。先輩が悪いんじゃありません!」

「奏?」

「私、思い出しました。先輩が苦しんでいた姿を…。」

「奏…思い出したのか? あの未来の記憶を…。」

「はい。ほんの僅かですが、思い出したんです。見た事ないはずの光景が、記憶のずっと奥にあるんです。」

奏は立志を信じている。器用に嘘を付ける人間ではない事を知っている。

立志の話は確かに荒唐無稽だった。簡単に信じられるものではない。

けれど、自分を救おう、世界を救おうと語る立志の想いに嘘はない。

その感情は理解できた。だから立志の力になりたいと思った。

だが奏は立志にような強さも晋也のような知識も無い。

自分なんかに何ができるのか。そんな不安もあった。

せめて、せめて立志が観たという未来の姿を、奏も感じられれば、何か出来る事が見つかるかもしれない。

そして、立志の語る惨劇の未来を、その世界の奏自身の姿を知った時。

その奏の願いは、叶った。

これでやっと、立志の役に立てる。共に、戦える。

惨劇の未来を知った奏は、自分の考えを立志と晋也に話し始める。

「私は、晋也先輩みたいな知識もないし、立志先輩のように未来の記憶をはっきり覚えているわけじゃありません…。普通の人間です。

けど、自分自身の事なら分析できる。

立志先輩が話してくれた、未来の私が感じた事は分析できる。

それで、私、思ったんです。

未来の私が最後に言っていた事…、

『死にたくない。でも生きたくもない。

この世界で生きている意味も希望も何も見えない』

あの言葉は、感情は、あの世界で私だけが感じていた事じゃないと思うんです。

亡くなれば怪物となり、生きていても殺される。

確かにあの世界には絶望しかなかった。

なぜ、絶望しかないのか?

死ぬか怪物になるか。その二択しか示せない社会になっていたからです!

それじゃあ、命の扱い方が余りにも軽視され過ぎです。

それが、あの惨劇の未来の根幹にある問題なんです。」

自身の考えを述べた後、

「先輩。『命』って、なんなんでしょう? 」

そう奏は立志達に質問する。

「命?」

「はい。今、社会に発生しているこの蘇り現象を通じて、世界に求められるべき議論は、『ゾンビの発生をどうするか』ではなくて…。」

「…。」2人は奏の言葉に黙って耳を傾ける。

「人の命の扱い方を…『命の価値』を問われているのではないでしょうか?」

命の価値を問われる。

つまり、命のカタチが変わる時、人間はそれにどう向き合うか、という事。

「つまり、奏さんは、今起きている事態を、病や一時期の現象ではなく…、」

「…進化。人の進化だと言いたいんだな?」

進化。

あの時、彼女もその言葉を口にしていた。

「はい。私はそう思います。そして、立志先輩や私の記憶にある世界では…、」

「進化に、社会が対応出来なかった、と。」

「そうです。だから、今、社会に問われている事は…」

「命の価値を見直した社会の再構築、か。」

「はい!」

「社会の再構築。それも、『社会を変える』と同義だな。」晋也も頷く。

「私は、この先の未来で、私みたいな悲しみを抱いて死んだ人がたくさんいるのなら、それを止めたい。それが、私の決意です!」

…奏があの世界で感じた悲しみや苦しみを無くす。

その奏の決意の言葉を受けた立志は、思考を巡らす。

そして…、

「そうだ! 奏。それだよ!」

「どうした、立志?」

「俺、解ったよ。俺たちが目指す社会の姿が、やっと解った!」

「この現象が、全ての人間に遍く発生するなら、人は必ず自分に問うはずだ。

『死んだ後も、生きていたいか』と。

『自分だったら、どうすればいいのか?』と。

俺が見た未来には、選択肢が無かった。

一方的に殺されるか、絶望に打ちひしがれて死を選ぶしかなかった。

その未来には絶望しかない。

けれど、命の終わりを、人生の最後の姿を、自分自身が選べる社会だったら、どうだ?

命の終わらせ方を、自分で選べる社会。

一方的に殺されるのでは無く、

絶望に打ちひしがれて死を選ぶのでも無く、

命の最後の輝き方を、自分自身が選択できる社会。

それが、俺たちの目指す社会の姿だ!」

現実を受け入れ、新たな変化に適応した社会を目指す。

それが、立志達が目指す世界の形であった。

その時である。

「君達! 話は聞かせて貰ったよ!」

突然、深夜の会議室の扉が開き、一人の男性が部屋の中に入ってきた。

「うわ!」「なんだ!」

こんな深夜の時間に、まさかの闖入者に、三人は仰天する。

真夜中の闖入者の正体は…。

「く、黒崎先生!」

闖入者の姿に驚く奏。

それは、始まりの医師、黒崎一(はじめ)、その人であった。

「こ、こんな深夜に、ど、どうされたんですか!」

ケアマネジャーを兼務する奏は、他の二人よりも黒崎医師との面識があった。

「君達三人こそ、どうしたんだい?…と言いたいところだが、君達の話は廊下でずっと聞いていた。随分と不穏な話をしていたね。」

ギョッとする三人。

「い、いえ、先生。そんな事は…、」

黒崎医師は現在、政府の研究機関に協力をしている人物だ。

言わば、立志達が行おうとしてる事の、…敵になり得るかもしれない相手であり、三人が慌てるのは当然だった。

しかし、黒崎医師は緊張と警戒を見せる三人に言う。

「おいおい、そんなに警戒しないでくれ。僕は敵じゃない。」

「…どういう事ですか?」

訝しむ晋也。

「君達は、例の緊急特別法案に反対なのだろう?」

「…そうですが、僕らは…、」

「みなまで言わずとも、君達の話し合いはずっと聞いていたから解っている。君らは、あの蘇った老人達を救いたいのだね?」

「…はい。」

「そこでだ。…君達にお願いがある。」

「はい?」

「僕にも、その活動を手伝わせてくれないか?」

「…はい…って、えぇ?」

反対されると思っていた奏は驚きの声を挙げる。

時はほんの少し、遡る。

黒崎医師は施設での仕事を終え、駐車場に来ていた

仕事の傍ら、蘇生現象の研究も行なっているので、時間はいくらあっても足りない。

幸い、蘇った老人の観察は施設のスタッフが丁寧に行なってくれている。

しかし、その観察結果から成る研究の結果を、政府は拒絶した。

このままではいけない。それは解っている。

そう思いながら、黒崎医師は暗い空を見上げた。

ふと、視界の片隅に光が映る。

施設の会議室の電灯が灯っているのだ。

一体こんな時間に、何をしているのだろうか。

その時である。

「あそこで何がされているか、先生はご存知ですか?」

静かに黒崎医師に語り掛ける声があった。

だが、その声に黒崎医師は反応しない。

しかし、声は聞こえていた。心の中に、響いていた。

「あそこで行われているのは、社会を変える為の闘いです。」

「蘇った高齢者達を、そして未来を救う闘いです。」

「彼らには、先生の力が必要です。彼らの為に、未来の為に、先生にも出来る事があるはすです。力を貸してあげて下さい。」

言葉ではない。それは想いだった。

その心の声に促され、黒崎医師は、会議室に向かうのだった。

協力を申し出た黒崎医師は、三人に語る。

「少しだけ、私の話を聞いてくれ。」と。

「今でこそ、蘇り現象の第一人者として国に協力しているが、以前の僕はプライドの凝り固まった鼻持ちならない人間で、先輩にあたる医師団とも折り合いが悪く、君達には悪いが老人施設の専属医師などという閑職に追いやられ、腐っていた。

充足されないプライドが、自分の中に歪んだ自尊心を作っていった。

そんなある時、僕はあの…人類初の蘇り現象に遭遇した。

最初は、誤診だと思った。自分にミスがあったなど、認めたくなかった。

僕の歪んだ自尊心は、自分のプライドを優先して、医師として一人の人間の命が救われたことを素直に喜べなかった。

しかし、その時だ。

あの場にいた立志くんと奏くんが、救われた命を素直に喜ぶ姿を見た時。

僕は、自分の間違いに気付いた。

今思えば、あれが僕の医師人生の、分かれ道だったのかもしれない。

歪んだ自尊心ではなく、

医師としてのプライドを、価値観を取り戻せたんだ。

君達二人には感謝している。

「だから、僕は君達に協力したい。君達を信じたい。」

「ありがとうございます。黒崎先生。私達を信じてくれて…。」奏は掌を組んで黒崎医師に感謝を示す。

そんな奏に黒崎医師は、

「ははは。これでも蘇り現象研究の第一線にいるんだ。ありえない現象を幾度と無く目にしてきた。今なら神様の存在だって信じるさ。」と笑って答える。

「それにね…。」黒崎医師は言葉を続ける。

「それに?」

「君達も目にしたであろう、政府が発信した蘇り現象の研究結果は、僕達が提出したものではない。」

「えぇ! そうなんですか?」

「あぁ。政府は、僕達の提出文書を意図的に曲解している。ゾンビ…蘇った人間が危険な存在だと意図的に印象付けようとしている。」

「やはり、そうなんですね…。」と晋也。

「政府の公式見解である[LDレポート]と、先生の所属する研究機関が出した[甦生高齢者究明報告書]には大きな差異があると思っていたんです…。」

「おお、晋也君。よく勉強しているね。立志君もそうなのかな?」

「は、はははい。よーく読んでいます。」…嘘である。

「それに、政府懇意の医師団から、僕ら研究機関に蘇った老人を安全視する見解を言わせないでいようとする圧力も感じている、つまり今、僕自身も自由な発言を塞がれている状況なんだ…。」

「…汚いな…。」

「そう。思想は自由であるべきであり、それが真実であるなら尚の事だ。誰かの都合の良いように真実を捻じ曲げてでも管理しようする姿勢を、僕は許せない。これは僕の戦いでもあるんだ。」

介護福祉士、八代立志。

介護職兼ケアマネジャー、古林奏。

介護職兼支援相談員、湯上晋也。

そして、黒崎一医師。

役者は揃った。

…いや。もう1人、役者はいる。

会議室の外。誰もいない通路。

そこには、彼女がいた。

会議室の中からは、立志ら若者三人と、新たに加わった黒崎医師の声がする。

その会議室の扉を背にして、彼女は天を仰いでいる。

「私に出来るのは、絆を紡ぐだけ。」

彼女は語る。誰に言うでも無く。自分に向けて。

「私の願いは、きっと、叶う。」

そして彼女は、虚空に消える。彼女が紡いだ絆を背中で感じながら…。

彼女の物語は、終わった。

しかし、彼女が紡いだ物語は、まだ終わらない。

ここからが、始まりである。

「よし! 心強い味方が加わった所で、作戦会議を再開しよう!」と立志。

「立志先輩はマイペースですねぇ。まぁ、それでこそ先輩ですが。」奏も言う。

「で、どうする?」

「やっぱり、どうにかして施設内の蘇った人達の姿を世間に見せる事が有効ですかね。」

「うん、共通認識を作る為の基盤としては有効な手段だろうな。でも…。」晋也の声に不安が混じる。

「施設に入所しているお年寄りの姿を勝手に映像化するのは倫理的にまずいよな。」

立志もそこは解っている。

「それと、施設の入所者を映像にするにあたり倫理的な課題、プライバシーの問題についても、良い案があるのだが…。聞いてくれ。」

一般に、一個人の映像を世間に放映するという行為は、関係者への説明と同意が必要になる。

そうでなければ、その映像は『無責任』なものとなる。

本来であれば、当事者である蘇った老人達の意思を確認することが望ましい。 たが、現在は蘇った老人の意思の存在は確立されておらず、同意は難しいだろう。 それが課題であった。

「でも、その解説手段は、既に君達は持っているよね。」

「え、そうなんすか?」

「そう。当事者の理解が無ければ映像化できない。それは道理だ。」

「はい。」

「しかし、この蘇り現象の『当事者』は、蘇った老人本人だけではない。晋也君になら、この意味、解るよね?」

「あ、そうか! 蘇った高齢者の家族ですね!」

「そう。その通り。家族もこの現象の当事者なんだ。」

このままでは、家族が再び政府に殺される。それでいいのか?

それを、家族に説いていく。

そして、その反対のための行動への協力(映像化)を申し出る。

それが、黒崎医師の案だった。

それはまさに正攻法であり、社会活動への理解者を増やす活動にもなる。非常に有効な手段であろう。

「ですが…。」奏の表情に不安がよぎる。

「どうした、奏?」

「蘇ったお年寄りの家族の皆さん、私達の話を聞いてくれるでしょうか…。世間と同じく、マスコミや政府の作る姿を信じちゃってるんじゃないんでしょうか…。」

「それは大丈夫。先程、言ったろ。解決手段は既に君達の中にある、と。」

「私達の中に?」

「そう。それは、信頼だ。君達が隔離棟で老人の為に努力してきた姿を、家族との関わりを、私は観察の傍でずっと見てきた。そして、君達の頑張りは、家族にも充分に伝わっている筈だ。そう、信頼が生まれたんだ。」

「先生、良い事言いますねぇ!」

「ははは。君達が構築してきたその信頼関係がある限り、蘇った老人の家族は、私達の言葉に耳を傾けてくれるはずだ。」

「信頼関係…。」

「そう。君らの日頃の努力が、可能性を創り出したんだ。胸を張って良いと思うよ。」

医師の賞賛に、三人は、特に晋也は笑顔をこぼす。

「よし!早速活動開始だ!」と、張り切る立志。

そこへ、黒崎医師が、

「待ちたまえ。活動を始めるにあたり、問題がある。」

と立志を諌める。

「他の問題? なんですか、先生。」

「それは、君達三人の処遇だ。」

その言葉に、三人は息を飲む。

そう、小さな始まりとはいえ、これは反社会的な行動なのだ。

立志、奏、晋也の三人の社会的な立場は危うくなる。

「会社はクビになるかもしれない、ですよね…。」さすがに奏にも不安がよぎる。

「そこでだ。」黒崎医師が続ける。

「そこで、君達三人を僕に守らせてくれないか?」

「え?」

黒崎医師は説明する。

幸い、立志達三人は、社会で最初の隔離棟に配属された介護職員だ。

黒崎医師は、三人の立場を、施設の介護職員としてだけで無く、医師直属の研究機関の一員として登録する事で、三人の立場を守りたいと提言した。

それは三人にとっても願ってもいない申し出だった。

「大人は頑張る若者を支えるのが努めだからね。力にならせてくれ。」

こうして、立志ら三人の若者と未来を信じる医師の、社会を変える活動は開始された。

しかし。

「上手くいきますかね…。」

作戦会議の後、晋也は黒崎医師に尋ねた。

「どうだろうな…。今はこの手段が最良だと思うが…。問題は…、」

「”時間”、ですかね…。」

「その通りだ…。」

黒崎医師の言葉に、晋也は暗い顔で頷く。

施設の生活の様子を映像化する為の関係者への説得は、黒崎医師が行ってくれた。

中には、訝しむ家族もいたという。

それは蘇り現象に対する社会の認識が一枚岩ではない事を痛いほど感じさせたが、大半の家族は映像化に同意してくれた。

医師と介護士職員の、日頃の熱心なケアが、家族の信用に結びついたのだ。

映像を社会に放送するにあたり、マスコミは信用できない。

過去の映像を省みるに、大半のマスコミは、蘇った老人を『ゾンビ=怪物』として報道する。

利益を背景とした政府との密約があるのかもしれない。

マスコミの影響力は巨大だが、頼るわけにはいかない。どう曲解されるか知れないからだ。

ネット上にある動画共有サイトを利用するしかなかった。

インターネット上の動画共有サイトで、老健[縁寿]の隔離棟の映像が流された。

蘇ったお年寄りの日常の様子が映像の中に映る。

のんびりと日向ぼっこをするお年寄り。

面会に来た家族と穏やかに過ごすお年寄り。

介護職員と一緒に静かに散歩に興ずるお年寄り。

その映像は、普通の高齢者施設の様子と何ら変わりはなかった。

隔離棟だと説明がなければ、蘇ったお年寄りが生活を営む施設とはわからない程、危険な様子などまるで感じさせなかった。

映像と共に、蘇ったお年寄りに危険はなく、政府の新法案は間違っている事を示すテロップが流される。

しかし、肝心の社会の反応はと言うと…、

動画共有サイトへのコメントや、掲載したメールへの反応はいくつかあった。

そのほとんどは介護職や看護師などの同業者からの友好的な内容であった。

しかし、その数は少なく、社会全体が反応を示しているかと言うと、決してそうではない。

社会の大半は、立志達の活動に無関心なままである。

「どうしてだよ! なんで皆んな、そんなに関心が無いんだよ!」

興奮した立志が晋也に問う。

「懸念はあったんだ。」晋也が立志に返事を返す。

社会運動の最大の問題…。それは、

大半の人達が”あれは自分たちに関係ない一部の特別な人だけがやっている”

”自分達には関係ない””当事者ではない”

というように考えてしまう傾向があると言う事だ。

つまり、当事者意識な不足、である。

加えて言うなら、

社会活動のテーマは、”これが問題だから”では広がらない。

そのテーマが日頃から”それはいけないのではないか”という認識が日常に結びつかねばテーマになり得ない。

「つまり、日常に浸透する”時間”が必要と言う事だ。」

「それじゃあ、新法案設立までには全然間に合ない…。」

晋也の説明に立志は肩を落とす。

「いや、そんな事はないよ、立志君。」

「黒崎先生…。」

落ち込む立志に黒崎医師が声をかける。

「君達は、この社会に、”蘇った老人は危険な存在ではない”と言うメッセージをはっきりと残したんだ。自身の意見を、発言を、自分の中だけに留めるか、世の中に発信するか、その違いは大きい。」

「そう言うものですか?…。」

「ああ。君達のメッセージは必ず世に中に届く。時間はかかるかも知れないが、ね。」

「その時間が問題なんですよ、先生!」

「解っている。だから私も、一つ行動を起こしてみようと思う。遠からず、君らのメッセージの後押しになると思うよ。」

それから数日後。

黒崎医師の所属する蘇り現象の研究機関は、政府公式発言の形で、ある発表を行った。

その発表とは、

『蘇った老人の名称の統一』である。

テレビ放映を通じて黒崎医師がマスコミの前で発表する。

「昨今多数見受けられる、高齢者の蘇り現象において、当事者である蘇った老人に対しての呼称を、この度、統一する事をお知らせいたします。」

「我々研究機関の見解としまして、蘇った老人の呼称が統一されていない事への社会の混乱を危惧いたしまして、この度、蘇った老人の呼称を『甦生者」とする事を正式発表したします」

「この『甦生者』という名称につきまして、所謂一般的な『蘇生』とは意が異なる現象だと認識する次第であり、甦生の意味するところの『生として更(あらたまる)の表現を尊重し、『甦生者』と呼称する次第でありまして…」

テレビ放映を通じて黒崎医師の発表を見る立志達三人。

「なあ、晋也。名前を統一する事に意味があるのか?」

「なんだ、解らないのか? 大いに意味はあるぞ。」

「どんな意味があるんですか?」

「…名所の統一。その理由は簡単に言えば、イメージ戦略だな。」

「イメージ?」

「ああ。名称が変わればイメージも変わる。」

晋也は立志に説明する。

例えば、[認知症]は以前、[痴呆症]という名称だった。しかし、その用語が侮蔑的な意味合いを含んでいることや、症状を正確に表していないことなどから、[痴呆]に替わる呼称として[認知症]が最適とする検討会が開かれ、現在は[認知症]という名称が正式な病名となった。

同じく、以前は[精神分裂病]と呼ばれてた精神疾患が[統合失調症]と名を改めたのも同じ経緯だ。精神分裂病という名前が患者に大きな不利益を与えてしまう恐れがある事、また、その人の人格やこころといった根本に問題があるわけでないにも拘らず、精神分裂病という名称が、その人の精神(こころ)が分裂してしまう怖い疾患のようなイメージを与えてしまう事を懸念し、名称の変更を行った。

「それらの疾病と同様に捉えるわけにはいかないが、イメージを変える…『蘇ったお年寄り=ゾンビ=怪物』の思い込みを無くすには、名称の変更・統一は良い手段だと思う。」

「なるほどなぁ。」

頷く立志。

「ゾンビではなく甦生者。黒崎先生は、蘇ったお年寄りをそう呼ばせる事で、社会が抱くイメージを変えようとしているんだな…。」

後に黒崎先生医師は語る。

「僕も若い者達には負けられない。

[甦生者]…。蘇ったお年寄りの呼称統一は、政府直属の公式研究機関からの発表だ。自治体や民間のレベルでも名称の統一が成る。」

「本来なら、国民アンケートや理事会の検討・承認を通して行うことがベストだが、今回は時間が無かった。」

「少々強引に事を進めたので、今後の僕への風当たりは強くなるだろうな。今後、僕自身が直接メディアに露出できる事は無いだろう。」

「だが、後悔はしていないよ。」

黒崎医師が行った[甦生者]への名称統一は、社会に少なからず変化を齎らした。

関係する職能団体に動きがあったのだ。

全国の看護師が所属する看護師会や、

多くの介護福祉士が入会している介護福祉士会、

他、社会福祉士会や介護支援専門員協会などで[甦生者]の扱いに関する検討会が開催された。

その際には、立志達がネットで公開した映像が、貴重な情報として参考資料に取り上げられることもあった。

甦生者に関係する職種の者達は、解っていたのだ。

甦生者を、怪物と見做し、駆逐する考え方への不安を。

ただ、その表現の仕方が解らなかったのだ。

検討の結果を省庁へ提出する団体もあった。

立志や黒崎医師の活動を後押しする流れが出来始めた。

しかし、まだ問題はある。

声を挙げ始めたのは、実際に甦生者に関わることの多い職種の者達だけであり、未だ、当事者とは程遠い大半の国民にとって、甦生者の問題は対岸の火事であり、特に若者を中心に無関心な人間がほとんどであった。

未だ日常への浸透は遠く、日常に結び付かねば、社会の変革は成就しない…。

何度目かの作戦会議。

その場に、立志、奏、晋也、黒崎医師の四人は集まった。

「今の状況…どうなんでしょうか?」

「うん。活動への後押しは増えた。確実に声は高まっている。」

「けれど…。」

「はい。時間が、足りません。」

「しかし、確かに風向きは変わっている。しかし、政治を、社会を変えるには、あと一歩が必要だ。」

「はい。そして、その方法は…険しい。」

「あと一歩、ですか?」

晋也はその”あと一歩”の内容を語る。

…例えば、過去、いや、現在進行形の話でもあるが

”原発”の問題を例に出そう。嫌な気分になったら申し訳ないのだが…。

日本の原発は”国策民営”で発展していった。

しかし、国策民営は、”無責任が発生しやすい”という構造上の問題がある。

無責任の理由として、”企業は政府の援助を期待している。しかし、政府に援助をする義務はない”…。

つまり、…誰も責任を負わない体制になってしまっている”んだ。

責任感の欠如は、リスク管理の不備を産み、深刻な事故が起きる可能性を考えられなかった。

つまり、社会の変革を成すには、マクロな視点でもミクロな観点でも、責任が…、為政者の”責任”が必要なんだ。

それが、社会の変革の最後の一押しとなる。

しかも、現在、社会を政府に任せておけば安心だという国民は、僅か3%しかいないと言われている。

しかし、社会に政府は必要だ。

だからこそ、政治家は強い責任感を持って為政に携わらねばならならない。

「…と、僕は考えている。」

「政治家の、責任、かぁ…。」唸る立志。

「それって、私達になんとか出来る問題なんですか?」

奏の不安に、暫しの沈黙が流れた。

と、その沈黙を破るように立志が、

「そうだ!」と案を出す。

「例えば内閣総理大臣に直接会ってみんなの前で約束させる、とか!」

自らの案に満足気な立志。

「立志先輩、それは幾ら何でも無茶でしょう?」立志の案に奏は手を振り否定する。

「相変わらず立志は無理を簡単に口にするなぁ。」晋也も呆れる。

「そうか?」二人の反応に意に返さない立志。

しかし、

「…いや、案外、有効な手段かもしれないな。」と黒崎医師が神妙な表情で発言する。

「え? 黒崎先生、本気ですか?」まさかの黒崎医師の反応に驚く晋也。

黒崎医師は続ける。

「ああ。君達の立場は言わば、国家の運営する研究機関で、僕と共に甦生者の生態究明に直結する仕事をする者達…。甦生者のスペシャリストだ。

そんな君達と政府の対談。実現すれば面白い事になりそうじゃないか。」

「いや、私達、そんな大層な立場じゃないですよ?」

「それは言い様と、君達の自覚の問題だよ。」

「…先生。面白そうじゃないですか、それ!」

「本気か、立志?」

「対談成立の可能性は高くはないが…、僕の立場を利用して、政府に掛け合ってみるよ。」

「総理。例の対談の件なのですが…。ご助言、良いでしょうか?」

「うむ。官房長官。どうしたのかね?」

「はい。私は対談には反対ですね。ねぇ。補佐官。」

「ええ。私も賛同し兼ねます。」

「しかし、補佐官。例の甦生者に関わる新法案に対して、反対する動きが世間と研究機関の中にあるのだろう?」

「はい、総理。どうやら研究機関も一枚岩ではなかったらしく…。特に、黒崎という医師が目立った行動をしているらしく…。」

「その人達と対話する事は、意味があるのではないかね?」

「いえ、総理、所詮は少数の意見です。」

「はい、その程度の意見は無視で良いかと思います。」

「ええ。既定路線を変えるには必要性はありません。」

「新たな法案を作る際、少数の反対意見など、いつもの事ですから。」

「…あの新法案に、何か問題があるという事はないのかね?」

「何をおっしゃっているのですか、総理!」

「そうです、総理! 我々が間違いなど犯す事はあり得ません。」

「はい! 我々為政者は、絶対に間違いがあってはならないのです!」

「そうだな…。私達為政者には、大きな責任があるのだからな…。」

「その通りです。総理。」

「解った。対談の件は、断ってくれたまえ。」

「はい。では、私達はこれで。」

厚労省事務次官、官房長官、補佐官の三人は、総理の部屋を出て行った。

その直後。

TELLLLLLLLLLLLL…

部屋の電話がなった。

総理への直通回線だ。

受話器を取り上げる総理。

「はい、私だ。ああ。そうか。もう、余裕はないのだな。解った。そのままで、大丈夫だ。付き添いの者にも、宜しく言っておいてくれたまえ。」

…受話器を置いた総理は、暫く考え込む。

そして、再び受話器を取り上げると、事務次官へ内線を入れた。

「私だ。先程の件についてだが…。対談の機会を設けてくれ。なるべく、早く。それと、その会談の席には君ら三人も同席できるよう、手配を頼む。」

そう告げ、総理は受話器を戻した。

結果、内閣総理大臣と立志達の対談が、成立したのだった。

対談実現の知らせを聞いた黒崎医師は、立志らに会談の成立を告げる。

驚きながらも晋也は、

「黒崎先生も一緒に対談に参加できるのですか?」

「うん。何故か僕も参加を許された。しかも、総理のご指名らしい…。」

「何を考えているんでしょうか…。」

「解らない…。しかし、この対談が、社会を変える最後のチャンスになるかもしれない。」

「はい。社会に、真実を伝えましょう!」

「ときに、立志。」

「なんだ、晋也?」

「対談の時は、僕と奏、それと黒崎先生が喋るから、お前はなるべく黙っていてくれ。」

「なんでだよ?」

「…先輩が喋ると、なんだがこじれそうですよね…。」

「なんだそりゃ?」

「まぁ、取り敢えず、僕達に任せてくれ。お前の熱意は、俺達が叶えるよ。」

そして4人は赴く。

社会を変えるための、最後の戦いの場へ。

対談は、総理大臣官邸で行われた。

この対談に興味を持ったマスコミ一同に注目される中、設けられた対談の席には、内閣総理大臣・事務次官・官房長官、補佐官の政治家サイドと、立志・奏・晋也の三人と黒崎医師が別れて座る。

対談の最初の口火を切ったのは、事務次官だった。

事務次官は、備え付けのモニターに先日の立志達が配信した施設の映像を流すと、

「君達だね、この映像をネットで流しているのは? このような正確性に欠ける映像を流されては、社会にいらぬ混乱が生じてしまう。即刻、配信を中止してもらいたいのだがね。」

「それは違います。」

事務次官の言葉に反論を返したのは、晋也だ。

「僕達は真実を伝えたいだけです。」

「真実、だと?」

「はい。これを見てください。」

晋也は、持参した書類の束を事務次官に見せる。

それは、介護記録紙の束だった。

介護施設では、ケアの証明として入居者の様子や変化を記録に残すことが義務付けられている。

事務次官らは、その記録紙の束に目を通す。

記録紙には、晋也や奏が毎日遅くまで残って記した、施設の甦生者の生活の様子が事細かに書かれていた。

その記録の内容は詳細に渡り、甦生したお年寄りの姿が克明に記されていた。

のんびりと日向ぼっこをするお年寄り。

面会に来た家族と穏やかに過ごすお年寄り。

介護職員と一緒に静かに散歩に興ずるお年寄り。

それらの記録は、配信された動画の内容とも整合性がとれている。

また、普段の食事風景やスタッフと関わる時の様子も書かれており、甦生したお年寄りが水しか飲まず、また他人を襲うような姿は全く見られていない事も記されていた。

「ご覧の記録と映像を合わせて見れば、ご理解頂けると思いますが、甦生したお年寄りに危険は全くなく、世間で噂されるような『ゾンビ』とは全く異なるものである事が解ると思います。」

晋也は、そう事務次官らに説明を行う。

事務次官の傍らに座る官房長官が言葉を挟んだ。

「しかし、君らだってニュースは見るだろう? 今、社会はゾンビ…いや、甦生者か。甦生者を死者として扱う事を願っているのだぞ? 社会がそれを望んでいるのだ。我々為政者は、国民の意思を無下にはできないのだよ。」

「本当に、そうでしょうか?」

官房長官の発言に、奏が意を唱えた。

「私達は、先の画像や記録の開示にあたり、ご家族の協力を得ています。」

「それがどうしたのだね?」

「その大半のご家族は、この甦生化現象に対しての、政府の新法案に反対でした。そうでなければ、映像や記録の開示に賛成してくれることはなかったでしょう。」

「ぬ…。」

官房長官が一瞬黙り込む。

「映像や記録を見て頂ければご理解頂けると思いますが、甦生したお年寄りと、そのご家族が共に過ごす姿は、その関係に未だ家族としての絆があるという事です。つまり、家族も、この甦生化現象の当事者と言えます。」

「…。」

「その当事者が、映像化に協力して頂けたという事は、新法案に反対している事と同義だと言えます!」

「ちょっといいかね?」

その時、黙り込む官房長官の隣に座る補佐官が発言する。

「…はい。」

訝しむ奏に、補佐官が告げる。

「君らは、映像や記録を通して私達を説得しようとしているようだが…、その映像や記録は、本当に正しいのかね?」

「は?」

「映像は、編集できる。記録は、改竄できる。共に都合のいい部分だけを継ぎ接ぎして作り出す事が可能だ。更に言うなら、君らは新法案に反対の人間だ。その主観にまみれた者達が作った記録物にどれ程の信憑性が有ろうか?」

「私達が嘘を言っているとおっしゃるんですか?」

奏の反論に補佐官は余裕の笑みを浮かべ、

「いや、そこまで言ってるんじゃないよ。ただ、それら客観性の欠ける記録を土台に自論を語るのはナンセンスだ、と言う事だ。もしそれらの記録を土台に展開していくのなら、入念な精査の上で進めて行かねばね。…じっくり、時間をかけて、ね。」

奏の顔が曇る。

「時間稼ぎのつもり、か…。」

黒崎医師が、ボソリと呟いた。

立志らに時間はない。精査など受けているうちに、新法案は制定されてしまうのだ。

「奏くん。僕が変わろう」

黙り込む奏の傍らに控えていた黒崎医師が立ち上がる。

「こちらのデータをご覧ください。」

黒崎医師は補佐官らに新たに書類を渡す。

「これはなんだね、黒崎先生?」

「今、お渡ししたデータは、僕達の研究機関が日々観察し収集していたデータの一部です。これらのデータは国の研究機関のものです。当然、入念な精査を受けたデータであり、あなたが言う、客観的なデータです。今から話す内容は、これら客観的な資料を用いてご説明します。よろしいですか?」

「…ふん。早く話したまえ。」

補佐官は、黒崎医師の言葉に若干の苛つきの表情を浮かべながら、話しの先を促す。

「はい。以前に僕達研究機関は、この甦生化現象は88歳以上の高齢者のみに発生していると報告を行いました。」

「そうだったな。それがどうした?」

「しかし、ここ最近、88歳未満の人間でも甦生化現象が発生している事例が見受けられました。」

「何?」

補佐官の顔に戸惑いが浮かぶ。

「それらの事例はわずか数件。全体から見れば数%にも及びません。」

「…何が言いたい?」

「しかし、この数%の事例が、何をもたらすか。想像できますか?」

「どう言う事だね?」

今まで沈黙を貫いていた総理大臣が発言する。

「この事例が表す意味は、”甦生化現象の発生年齢が下がっている”。つまり、”高齢者以外でも甦生者になるかもしれない”と言う事。」

「な!」補佐官の顔色が変わる。

黒崎医師は説明を続ける。

「言わば、もしかしたら『あなた自身』が『今この瞬間』に『甦生者になる』可能性がある、と言う事です。」

「な、なんだと! 何を言っているんだ、君は!」

黒崎医師の言葉に、補佐官が驚愕する。

「しょ、所詮、想像だ! 僅か数件の事例を大袈裟に語っているだけではないのかね!」

「そう! 想像です。しかし…研究者としてはまことに遺憾ですが、この甦生化現象はすでに科学的見地を超越しています。言わばこれは、『奇跡』。』

「奇跡、だと? それが研究者の発言かね!」

「そうです。奇跡です。奇跡がもたらすものなど、常識で究明できるわけがない。想像を超える事態に発展するかもしれない。だからこそ、我らは一層意欲的に『未来を予想』』しなければ、変化に対応できなくなる。」

黒崎医師の説明に、

「つまり、君の言おうとしている事は…。」

今まで沈黙を保っていた総理大臣が、その先を促す。

「奇跡に起因する現象を予測するには、手元にある数少ないデータと、人間の思考や予感を持ってして、未来を想像しなければ、僕らは変化に対応できない。僕達はこれまで、想像力を活用してここまで来ました。そしてこれからも、その想像力を全力で活用して検討を進めていきたい。そういう事です。宜しいでしょうか、補佐官?」

「…。」

黒崎医師の言葉に補佐官が黙り込む。そして、

「…皆さん。」

暫くの沈黙の後、最初に口を開いたのは総理大臣だった。

「対談を、続けましょう。」総理の声は穏やだった。

「ありがとうございます。総理。」黒崎医師は総理に頭を下げる。

対談は、続く。

「ふん! 何が想像力だ。君達は、そのご大層な想像力を持って何を語ろうというのだね!」

すでに事務次官も苛つきを隠さない。

そこへ、

「発言、宜しいでしょうか?」と、奏。

「どうぞ、奏さん。」黒崎医師が発言を促す。

「先程、黒崎先生が発表した新たなデータである『甦生現象の若年化』。そしてと、甦生者を死者として扱う法律…いえ、『甦生者を再び葬る新法案』。この二つを掛け合わせた未来がどのようなものか。想像をできますか?」

「未来の姿、だと?」

「はい。今、この対談をご覧になっている方々も、一緒に想像してみて下さい。」

その言葉の後、奏は一息、深呼吸する。惨劇の記憶を、自身の死の記憶を思い出し、語る為に。

「これは、私の想像かもしれません。しかし、来たる未来の一つの姿だと確信して、皆さんにお伝えします…。」

そして、奏は語る。あくまで想像だと言われれば返す事なもないのだが、ここで語らねば、もう機会はないかもしれない、人類に降りかかる災禍の記憶を。

立志が語り、奏の記憶の奥底に眠る、惨劇の未来の光景を。

全国各地で発生する甦生化現象について、甦生者を人類に仇なすゾンビとして扱い、制定された『ゾンビ駆逐法案』と呼ばれる法律のもとで、甦生者の駆除を始めた。

しかし、甦生者の駆逐は、さらにその規模を拡大し、これから甦生しかねない高齢者を虐殺。

結果、世の中から高齢者は消え失せた。

しかし、若年層の甦生化現象が始まり、しかし、社会が選んだゾンビ撲滅の流れは消える事なく、

そして、政府は、人は、社会は、化け物になる前に、人として尊厳を持ったまま、人類のまま、滅ぶ事を選んだ…。

「そんな社会が訪れた時としたら、皆さんなら、どう思いますか? 何を感じますか?」

改めて奏は深呼吸をし、口を開いた。

「私なら、きっと、こう思うでしょう。『死にたくない。でも生きたくもない…』と。それこそが、希望の欠片も見えない、真に絶望の社会でしょう…。」

奏の長い語りが終わった。

会談の場に沈黙が舞い降りる。

沈黙を破ったのは、事務次官の叫びだった。

「荒唐無稽だ! 戯言だ!」

為政者は否定する。受け入れられない。受け入れられるはずがなかった。

「そうでしょうか?」

晋也が発言する。

「甦生化現象の若年化は、データとして確かに存在します。そして、政府の新法案が『ゾンビの滅殺』を示す事は明白です。という事は、今、彼女が語った未来が訪れる可能性は、ゼロじゃない。俺たちは、その未来を止める為に、ここにいます。」

「なるほど。それが、君達の目的なんだね。」

晋也の言葉に、総理は穏やかな声で応える。

「ええ。そうです。今からでも間に合います。この蘇生化現象を、『ゾンビの発生』つまり『災害』を念頭にした災害対策基本法を基のするのではなく、社会保障制度の観点から成る介護保険法や障害者基本法のように、緊急的な措置や保護も含めた弱い立場の人々を守護する為の制度に変更できないでしょうか?」

「何を言っているのだね!」

「法改正など! この場で語ることではないだろう!」

「もう既に遅いのだ!」

為政者達は口々に否定の言葉を口にする。

しかし、晋也は冷静であった。

奏は、一つ間違えれば妄想とも言われ兼ねない社会の行く末を語った。それは勇気のある行動だ。

晋也も、奏の勇気に負けるわけにはいかないのだ。

晋也も言葉を紡ぐ。

「憲法が定めるところの生存権。その生存権を体現する各種社会保障制度。

過去、高齢者はその社会保障制度の一つ、老人福祉法に支えられてきた。

その後、高度成長期がもたらす繁栄と共に高齢者人口や医療費の増大、財政の逼迫や国民が求めるニーズに合わせながら、度重なる再考・見直しを経て老人保険法(後期高齢者医療制度)と介護保険法に分化していった。

…そもそも、何故、生存権があるのか? 社会保障制度が存在し、国民は制度を尊重するのか?

生存権は、社会保障制度は、過去の戦禍で疲弊した人々を護る為に生まれた。

そして社会が発展した後でも形を変えながらも制度は人々に支持されてきた。

それはつまり、弱き人々を護る事が、この国に住む人々の国民性、人間性だと考えます。

国家は制度に支えられ、ルールで成り立っている。そして制度は変えられる。制度を変えれば社会が変わる。そして今、蘇生化現象という過去最大とも言える変化が訪れている。

弱き人々を護るのが社会保障制度です。

今、甦生者の存在は社会の視線や荒波の晒され、その立場は弱い。

だからこそ、蘇生者を護る新たな社会保障制度が必要になると思うのです。」

「…それは理想論だ。実際の政治とは、そのような青臭い思想で成り立ってはいない! この若造が!」事務次官は口から唾を飛ばしながら反論、いや、暴言を言い放つ。

その暴言に、

「それが国を支える責任を負っている為政者の言葉ですか!」

と、奏が激昂する。

「今、社会の形を変えないまま、蘇生した人達を保護しなければ、今度は自分達が災禍に晒されるのかもしれないんですよ!」

「そうなったらそうなった時に、柔軟に対応をしてだね…、」

「政治は柔軟でなければならない。それは理解できます。しかし今までこの国の政治は柔軟であり得ましたか? 柔軟になるには、政治は複雑になり過ぎました。だからこそ、今、この変化の最初の時期に、この先多くの甦生者が生まれる事を想像して法整備を進めていかねばならないと思います。」

奏と晋也は新たな社会制度の設立を主張する。

しかし、当の為政者は、

「しかし、もう新法案の制定を想定して関連企業との協力体制や部隊の整備を進めているのだ! どれ程に君らが新法案に反対しようとも、既に社会はゾンビ撲滅に動き始めている。今更止められるものではない!」

と、頑なに自身の考えを改める事はない。

奏と晋也の言葉は、為政者には届かない。

「そもそも、ゾンビが増えて国が滅びるなど、君らの妄想ではないのか! いい加減にこの茶番をお終いにして、ゾンビを葬る為の方策をだな…、」

為政者は変わらない。

奏らの言葉を妄想と決めつけ、話を聞こうともしない。

晋也も奏で、無念だが理解し始めていた。

本来、政治は理屈理論で構築される。

しかし、今目の前の為政者達は、論理や倫理ではなく、感情、そして恐らく利益で動いている。

理屈理論で動かぬ人達に、大人達に、自分達は成すすべないのだろうか。

そんな想いが2人を支配し始めた。

対談は暗礁に乗り上げかけている。

…社会は変わらないのか。

その時である。

「…黙って聞いていれば…。」

奏と晋也の後ろに控えていた立志が呟く。

「おい、立志、」

立志の苛立ちを察した晋也が立志を制止しようとする。が、

「うるせえ!!」

立志が叫ぶ。

「な、なんだね君は!」

突然の立志の叫びに驚く為政者達。

「妄想だぁ? 茶番だぁ? ふざけるんじゃねぇ!」

ずいと前に出た立志は、そんな為政者達を怒鳴りつける。

「どうやら、あんた達政治家さんには、奏や晋也の言っている意味がよくご理解されておられないようだなぁ!。だったら、今二人が言った事、もう一度言ってやる!」

立志が激昂する。奏も晋也も、止める暇が無かった。

「いいか、よく聞けよ!

あんたら政治家が言う、ゾンビってのは、ただのじいちゃん、ばあちゃんだ。ずっと一緒に世話してきた俺たちが言うんだから、間違いない。生きてた頃と、何にも変わらないんだぞ。

もし、じいちゃんばあちゃんを葬ったとしても…。これからもどんどん、死なないじいちゃんばあちゃんは増えていくんだ。誰だって、歳をとる。そして、命を亡くす。そう、誰だって、だ! あんたも、あんたも、これを見ている誰もが、歳をとる。そして、死ぬ。解っているか? これは、他人事じゃないんだ。生きている限り、誰だってゾンビになるって事なんだぞ!」

立志が一気に言葉を捲し立てる。

その発言の内容は、奏と晋也が述べた事と変わらない。

しかしそれは、今まで奏や晋也が発していた様な理性的な言葉では無く、もっと感情的な、例えるなら、怒りの咆哮だった。

怒りと熱意に身を委ねる立志を止めようとする2人ではあった。

だが、嬉しかった。心強かった。

普段聞き慣れない突然の立志の怒声に、為政者は身を下げて慄く。

「そ、そうです!」

傍らに立つ奏も、立志の言葉に続く。

「私達は、どんなお年寄りだとしても、幸せを願って、お手伝いをしてきました。死んでたって、生きていたって、幸せに暮らす権利は、誰にだってあるはずなんです。そう思って、私はお年寄りの生活を手伝ってきました。」

晋也も奏に続く。

「そしてこの先、誰でも歳をとれば蘇る社会が来るかもしれないんです。でも、もし、この現象が社会に受け入れられた時…。もしかしたら、例え死んじゃったったとしても、幸せに暮らせる社会が出来るのかもしれません!」

「しかし、彼らゾンビは、死んでいるんだ。命の無い者に人権はない。これは先日の有識者会議でも決定した事で、生物学的、道徳論的、存在論的にもあれらは死者であってだね、」

為政者が反論を試みる。しかし、立志の言葉は止まらない。

「生物学的だ? 道徳論的だ? 存在論的だ? そんな事はどうだっていいんだよ!

その命ってのが、仮に爺ちゃん婆ちゃんの中に無かったとしてもだ! じゃあ、『心』は、どこにあるんだよ!」

「こ、こころ?」

「そうだ。心だ。あの爺ちゃん婆ちゃんには、心が無いって言うのか? 家族と一緒にいる時、爺ちゃん婆ちゃんは、笑っているんだ。孫を見て、喜んでるんだ。何気無い日々を、楽しんでいるんだ。辛い時だって、前向きになろうと頑張っているんだ。生きているお前らと、何が違うってんだよ!」

「心など言うそんな曖昧なもの、どこにあると言うのだね!」

為政者の反論に、立志は立ち上がり、

「それはな、」

と言って奏の立志を引き寄せ、その手を握る。

「ちょ、ちょっと先輩?」

突然、立志に手を握られ、奏は驚きながらも顔を紅くする。

「ここだ。ここにあるんだよ!

俺がいて、奏がいて、他人がいて、手をとって、関わり合って、繋がりあって、絆が生まれて…、そこに、心があるんだよ。生きてたって、死んでたって、関係ない。人と人が関わりあう限り、心は『ここ』にあるんだよ! その心まで失くしちまったっていうのか? だったら、その絆を否定する、あんたらの心は、どこにあるんだ!」

心の在り処を語る立志に怯む為政者は、

「そ、君らの言動は所詮、感情論だ! 我々政治家は、こ、心などという感情論には流される訳には…、」

為政者達は立志の発言を感情論だと卑下する。

その時。

「もう、やめなさい。」

傍らに控えていた総理大臣が、すいと立ち上がり一歩前に進んだ。

「心か。」

総理が静かに、そう呟く。

「心の在処(ありか)。今の私には、君の言葉が理解できるよ。」

落ち着いた口調で総理が語る。

「そ、総理?」突然の総理に言葉に、補佐官が眼を開く。

そんな補佐官に構わず、

「八代立志君。古林奏さん。湯上晋也君。」

総理は三人の名を呼ぶ。

「…はい、なんでしょうか?」

訝しむ顔の立志。

「少し、私の話を聞いてくれないかね?」

総理は、立志の顔を見詰める。

「…どうぞ。」

立志は総理に場を譲る。

総理の表情に、なんとも言えない、そう、憂いのような表情を立志は感じた

「ありがとう。皆さんの聞いてください。」

昨晩。

私の父が亡くなった。先日から体調が慮しくなかったのだがね。

死の瞬間。私は父の手を握り締めていた。父の手は力無く、私の手を握り返す力もなかった。

そして、最後を看取った。

その直後、父は甦生した。父は甦生者となったのだ。

甦った父は、私の手を握り返した。

その時。私の中に二つの感情が生まれた。

一つは、”父をこのまま法に則り再び殺さねばならないのか?”

それが為政者として、正しい選択なのだろう。

しかし、私に中に生まれたもう一つの感情は、

”嬉しかった”

”父が生き返って良かった”

”このまま生きていて欲しい”

そういう気持ちだった。

それがきっと、君達の言う、心、なのだろうな。

私もそろそろ、自分の気持ちに、心に、素直になろうと思う。

「私の父は蘇生した。その瞬間、私も甦生化現象の当事者になったのだ。そしてそう遠くない将来。おそらく私も蘇生するのだろう。少なくとも、その可能性はある。」

この場にいる誰もが、総理の言葉に耳を傾けていた。

総理は続ける。

「そして私が死ぬ時。そして蘇生する時。私の心は、どう感じるのだろうか。君達政治家も、老いた時、そして死んだ時、どう感じるのだろうか。」

「総理…何を…。」為政者らは動揺する。

「今、誰もが命の価値を問われているのかもしれない。」

総理の言葉は、その発言で締められた。

そして、その意味を察した為政者の一人が、唖然とした顔で総理に向かって意を唱える。

「そ、総理! それが現内閣総理大臣の発言ですか!」

「黙りなさい! 君達こそ、我ら為政者の仕事を何だと心得る!」

為政者に向かって総理が吼えた。

突然の叱責に、為政者達は首を竦める。

総理は立志らに向かって話を続ける。

「我ら政治家も人間だ。万能でも無く間違いも犯す。

しかし、国民は常に我々に完璧を求める。常に国民の眼に晒される。

だから、我々にミスは許されない。どんな事態にも必ず答えを出し、指針を示し、指示を出す。それが我々の仕事だ。

しかし、ミスが許されないからこそ、愚かにも我々はミスを誤魔化し、隠蔽しようとする汚れた俗習も持ってしまった。

その結果、社会は政治への関心を失い、同時に政治家自身も民意を尊重しなくなっていった。

…そう、政治と民意に壁が生まれたのだ。今や政治に期待をする国民は百人に数人だと言われている。

しかし、君達は違った。

壁を乗り越え、この場所に立ち、社会をより良い方向に変えるために、我々政治家に、もう一度期待をしてくれた。

…人を救う事を、求めてくれた。

だからこそ、私は君達の気持ちに、仕事で応えようと思う。」

それは、社会を変える事を時の内閣総理大臣が、その直接の言葉で約束したことに他ならない。

立志ら三人の顔に驚きが浮かぶ。

そして次に、安堵と喜びが浮かんだ。

しかし、場に佇んでいた為政者達は、ハッとしたように、

「し、しかし総理! 今更政策の転換など!」「費用も手間も掛かります!」「関係企業の理解も得なければならず、その時間も…、」

と口々に反論を述べる。が、

「黙りなさい!」

と、再び総理に一喝される。

「言ったでしょう。我々だって、完璧ではないのだ。間違いも犯す。

しかし、一度作ったものを見直せることは出来る。

制度が、国民の為により良いものにあるように見直しを続ける事も、我ら政治家の役割でしょう!

国民の真の幸福の為に社会保障はある。

その根幹は、国民を護る為に在るのではないのですか!

それが、我らの国のプライドではないのですか!」

総理の言葉に、その場の為政者達は黙り込む。

そして、総理は再び三人に顔を向けると、

「管理側は、得てして人を数値で見る。それは損得勘定や掛かる時間、そして、統計などでだ。

それらは間違いではないが、それだけでは真実を掴めない。

共に歩み、同じものを見て感じて、言葉を交わし、理解を求め合った先に、真実はある。

君達介護職の皆さんの仕事は、お年寄りや弱き立場の人々に真摯に向き合い、支え続けるのが仕事なのでしょう。

そしてまた、今も蘇生者が人として歩む事を護り続けている。

その仕事を、私は本当に、尊敬している。感謝している。

私は、君達と言葉を交わせて、本当に良かった。」

そう言って、総理は頭を下げた。

そして、対談は終わる。

…新たな社会が、動き出す。

【エピローグ】

…ミッシングリンク。失われた繋がり。

主に生物学(古生物学)において『猿から二足歩行し始めた直後の人類の形跡』に代表される、あるふたつの種の間の欠けている変化を指す言葉。

通常ではあり得ない程の急激な変化。それは言わば進化の特異点。

その現象は奇跡と呼んでも差し支えはないだろう。

原初の生物から哺乳類への進化。

猿から人へ進化。

そして人は進化の先で文明を持ち、科学を理解した。

奇跡を司る存在は次に人にどんな進化を齎すのだろうか?

蘇生化現象とは、ゾンビを生み出す悪魔の呪いではない。

命の価値を変革する神の奇跡なのだ。

奇跡を司る存在は、次に、人類に命の形の進化を促したのだ。

蘇生化現象という奇跡を、進化を人類が受け入れるには、様々な課題があった。

先の対談で蘇生者保護を約束した内閣総理大臣は、新たな法整備に尽力した。

しかし、政治も一枚岩ではなく、個人的な感情を優先したと批判を受け、内閣不信任案も決議されかけるなど、法整備には多大な努力が必要だった。

その尽力と努力の先に、内閣総理大臣は自分の在職中に新制度設立を成した。

関係者への根気のいる説得と根回し。時に汚い手段を用いる事もあったかもしれない。

しかし、総理はやり遂げたのだ。約束を守ったのだ。

制定に至るまでには、甦生現象の若年化の兆候とそれを裏付ける研究機関の発表の後押しもあった。

社会が、蘇生者の保護を選択したのだ。

新たな制度の名は『蘇生者の保護に関する法律』。後の『蘇生者支援基本法』の雛形となる制度である。

その基本的な考えは、”命の価値を自らに問う”ことであり”自分の命の最後をどう扱うか”である。

亡くなった後に甦生者となって甦るか?

それとも、そのまま甦らずに亡くなるか?

それを自分で選択する。

命の最後を、己の存在を、どう終わらせたいか。それを自分の意思で選べる社会の仕組みを構築する為の基本となる制度である。

中には甦生を忌避する者達もいた。死んでまで生きたくない、甦生者になりたくない者もいた。

結果、安楽死の選択や生前のリビングウイルが重要な意味を持つようになった。

それも一つの命の価値を問う行為だ。

人類は、嫌が応にも自身の命の価値と向き合わねばならなくなったのだ。

死も、老いと同じく誰もに平等に舞い降りる。

決して他人事ではないのだ。

もう、蘇生化をゾンビ化と公に言う者はいなくなった。甦生者が迫害される事もない。

徐々に増える甦生者の受け入れと世話は介護施設と介護士が行った。

甦生者は、社会の日常になったのだ。

しかし、蘇生化という今までにない現象を取り扱うにあたり、諸問題もあった。

保険問題や遺産問題もあった。

金銭に関わるトラブルが相次いだが、これらのトラブルを未然に防止する法律も整備されていった。

問題が多くなる反面、法整備も整い始め、結果として死を迎える事への意識と姿勢は向上したと言える

だが課題はまだ幾らでもある。

今まで扱ったことの無い奇跡という名の変化は、想像を超えた事態に発展する可能性もあり、変化の予想は困難であろう。

しかし、新法制定時、時の総理はこう述べいる。

「戦後、失い、社会そのものが弱まった。

しかし、人は諦めなかった。

それでも生きて、命を紡ごう。そう決意した。

例え敗戦国として勝利国の思惑の基に創られた絶対平和主義国や憲法だとしても、国民はそれを遵守し、弱い人達を支え、守り続け、そして発展した今がある。

それを我ら政治家に思い出させてくれたのが、人が人として歩む事を支え続ける事を生業としてきた介護職の若者達だ。

そして新たに奇跡という現象に向き合い制度で応えるのが、私達、多くの者の人生の営みを支える責任ある立場の者の役割である。責任である。

そして現在。社会保障は、新たな局面を迎えた。

我々は、変化に屈しない。変化を諦めない。

今、社会は、新たに命の価値を問われている。

よってここに、新たな社会保障制度の創立を宣言する!」

【ラスト・インタビュー】

<インタビュー:湯上晋也>

晋也「結果として、僕らがいたから社会が変わったわけじゃありません。ただ、変わるべき時期に、僕らが社会に疑問を投げかける機会があっただけです。

ですがもし、僕らが社会を変えれたのなら、それは立志の力だと思います。

立志を見ていて、僕は思いました。

嫌でも社会は変わる。

その変革の時に、黙ってゆっくり変化に埋没するか、

どこかで大破綻するか、

良い方向に変わる様に努力するか。

考えるべきは、避けられない転換の時に、広く視野を持ち、社会が支払う犠牲を最小に抑えながら、自分で考え、声を挙げ、積極的に社会を変える動きを活性化させられるか、

それが、『社会を変える』事に繋がるのだと思います。」

<インタビュー:古林奏>

奏「なんで社会を変えようと思ったか、ですか?

やっぱり、立志先輩が頑張っていたからだと思います。

立志先輩は、ちょっと抜けてるし、空気読まないし、頭悪いし…、

でも、優しいんです。真面目なんです。お人好しなんです。頑張り屋さんなんです。

…世の中の人は、真面目なお人好しは馬鹿を見る、と言います。

でも、世の中の為に、社会の為に、人の為に、真面目に頑張っている人が損をする社会は、絶対に間違っていると思います。

善人が報われない、

努力する者が報われない、

そんな世界は残酷過ぎます。

優しさで変わるものも有るんだと、信じたいんです。

だから私は、立志先輩の力になりたかったんだと思います。

少なくとも、私は先輩に救われて変わりました。」

<インタビュー:八代立志>

「あ、八代立志くんですね。ちょっとお話をお聞きしたいのですが…、」

立志「あ、今ちょっと忙しいんで無理っす! 新人の叶瀬(かなせ)を連れて、ジロウさんのサ担に参加しなきゃいけないんで! また今度!」

叶瀬「立志さ~ん! 待って下さ〜い!」

立志達の成した事に拘らず、社会は回る。世界は動く。

甦生化現象そのものは増加傾向ではあるが、まだ一部の高齢者に発生するのみであり、介護を必要とする普通の高齢者は、今日も介護士にケアを受けながら生活している。

そんな中、今日も八代立志は、介護の現場で、今までと変わる事なく業務にあたる。

「遅くなりました!すんません、相楽主任!」

立志と叶瀬が会議室に飛び込む。

「おう。立志、叶瀬。来たか。じゃあ、サ担を始めるぞ。」

「はい!」

介護主任兼担当ケアマネジャーである相楽の司会でサ担が始まった。

参加者は、相楽の他、介護職の立志と新人の叶瀬、看護師やリハスタッフ、管理栄養士と普段の顔ぶれの他、

今回の会議では特別に、業務視察の為に事務課長も参加している。

「では、ノムラツヨシさんの初回サ担を開催致します。資料を配布するので、各自目を通して下さい。」

参加者に資料を配りながら、相楽が会議を始める。

「入所に至る経緯ですが、ノムラツヨシさんは三ヶ月前に自宅で転倒され骨折により入院。その後機能回復の為に当施設へ入所となりました。」

淡々と進行される会議。

「現在のノムラさんの状態ですが、骨折の予後による下肢筋力の低下による歩行の困難と、長引いた入院による認知症の進行による周辺症状が見られており、このままでは在宅への復帰は難しいと考えられ、当老健でリハビリを受けることとなりました。手元の事前情報資料にある通り…、」

相楽主任の司会でサ担は進む。

そして、一時間弱程の話し合いの後、

「では、ノムラさんのリハビリは週三回の実施としま…」

相楽主任が会議のまとめに入る。

と、そこへ、

「ちょっと待ちたまえ。」事務課長が口を挟んだ。

「…なんでしょうか、事務課長?」

「それでは悠長すぎる。もっとリハビリの回数を増やせないのか?」

「は?」

「 リハビリを多く実施して、さっさと歩けるようにして自宅に帰したほうが、そのノムラという利用者の為ではないかね? 」

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

新人介護職の叶瀬が思わず声を挙げた。

「あ、あの、今、ノムラさんに積極的なリハビリを行うのは、難しいと思います…。」

叶瀬の意見に、事務課長は、

「何を言っているんだね。リハビリの回数を増やせば、利用料も増えて金になる。やって悪い事はあるまい。その後の事はまた考えればいいだろう。」

「で、ですが、それでは無責任に…、」

「自宅に戻っての暮らしは家族の責任だ、我々老健の役割は入所期間中の支援のみ。その後の事は家族に任せとけばいいんだよ。」

「えぇ…、それは…。」

「 そもそも、うちの老健は在宅復帰型なんだ。さっさと家に返さなければ、在宅復帰加算が取れないではないか!

会議室に事務課長の唾が飛ぶ。

「いや、でも…、」事務課長の言葉に叶瀬が反論する。

「なんだと! 新人介護職の分際で! 施設経営はどうでもいいと言うのかね? 介護サービスだって商売なんだぞ! 経営を軽んじるな!」

叶瀬の言葉に、事務課長は声を荒たげる。

「いえ、そんな事は…、」

首をすくめる叶瀬。そこへ、

「…事務長のおっしゃる事はごもっともな部分もあります。しかし、急性期の患者と違い、老健に入所する高齢者に過剰なリハビリを行う事は逆効果になる事もあります。」

と、リハビリスタッフが意見を述べる。

「しかしだね、老健は在宅復帰施設としての役割を望まれている。それが国の方針だ。ガンガンとリハビリをやって、さっさと家に戻さねば、施設経営は成り立たないのだ!」

事務課長は意見を曲げない。

「事務課長、それは…、」相楽も事務課長の意見を止めにかかる。

その時。

「あの! 」

立志が相楽主任に発言を求めた。

「一つ宜しいでしょうか!」

発言を求める立志に、

「なんだい、立志? 意見か?」

相楽主任は立志の発言を受け入れる。

「はい! 俺達介護職は、さんの一番身近な立場でケアにあたっています。」

「ああ。」相楽主任は立志の言葉の先を促す。

「で、ジロウさんも、早く家に帰りたいと言っています。」

「…それは解っている。」事務課長は立志の言葉に頷く。。

「そうだ。だからこそさっさとリハビリをやってちゃっちゃと元気になってもらってだな…、」

先程と同様に事務課長はニヤリとしながら積極的なリハビリを促す。

「けれど、ノムラさんの持つ課題は身体面の問題だけなんでしょうか?」

「は?」立志の言葉に、事務課長の笑顔が消える。

「今、叶瀬が言った通り、ノムラさんはリハビリへの意欲が低下しています。資料の介護記録にある通り、入所後の野村さんは気力の低下により投げやりな発言が多く聞かれています。認知症も患っていますし、無理すればノムラさんの気持ちを追い詰め、リハビリに支障が出る可能性があるんじゃないっすかね。」

「ぬぅ…。」

「それに、管理栄養士さんの持ってきた資料に目を通すと、BMIの低下もみられています。ねぇ、栄養士さん?」

立志が管理栄養士に質問を投げ掛ける。

「はい、そうですねぇ、数値の推移を見る限り、入院中の頃からBMIの低下がみられています。このままなら、適正値を下回る恐れがありますねぇ。」

立志の疑問に答える管理栄養士。

「気にはなっていたんですがねぇ。介護記録を読んでみてはっきり解りましたが、原因は気力の低下による食欲不振だったんですねぇ。」

栄養士がうんうんと頷く。

「それと、リハビリ課の居宅訪問指導時の資料を見ましたが、ノムラさんの家の環境も、このままで大丈夫なんでしょうか?」

「うん、奥さんが同居はしているが、その奥さんも高齢だし、住宅改修で手すりとかスロープとか設置しないと大変かもね。」

支援相談員が返事を返す。

「そうだな。立志の言う通りだ。まず食欲不振の改善は必須課題だな。それと住宅改修への取り組みも必要だ。」相楽主任も頷く。

「そうっすよね。ただ自宅に帰せばいいというんじゃ、無責任すっよね。」

「ぐぅ…。」事務課長は顔を顰める。

会話を聞いていた管理栄養士も「栄養課でも、少しでも食べやすい形態での食事を検討しますねぇ。」と意見を述べる。

「あとは、身体機能回復への取り組みですが…。」

立志の言葉は続く。

「さっきも言いましたが、ノムラさんは今、認知症に伴う混乱や、入院による筋力低下で、投げやりな気持ちになってしまっています。そうだよな、叶瀬?」

「は、はい! 食欲不振もそこから生じているように思います。」

「体力が低下している今、だからこそ、リハビリの無理強いはできない。」

「では、どうすればいいと思う? 立志。」

「はい。まず、その気持ちを理解して寄り添う必要があると思います。そして、ジロウさんの想いに寄り添いながら、日常生活の中で少しずつ、無理のない範囲で機能訓練を行い、自信を付けさせていく。」

「なるほど。」

「気持ちへの配慮と日常生活の中での機能訓練は介護職が行います。で、自信がついて訓練に慣れた所で、専門的なリハビリをリハビリスタッフが実施する。どうでしょうか? 主任。」

立志の提案に相楽主任が頷く。

「いい手段だ。その間に、在宅サービスや住宅改修をしていく余裕もできる。

時間は掛かるが、結果として、ジロウさん本人や家族の為になるだろう。」

相楽は立志の意見を肯定する。その顔には笑みが浮かんでいた。

「宜しいですね、事務課長?」

相楽主任が事務課長に確認する。

「しかしだね…、」事務課長は唇を歪める。

「国の政策や施設経営ももちろん大切ですが、私達の相手は人間です。金勘定だけでは測れません。その事を、老健施設の管理者なら、どうかご理解下さい。」

以降、事務課長は渋い顔のまま、その口を開く事はなかった。

「なぁ、立志。」

サ担の後、相楽主任が立志を呼び止めた。

「なんすか? 相楽主任。」

「変わったな、お前。」

「そおっすかね?」

「何がお前を変えたんだ?」

「…俺は頭悪いけど、仲間がいますから。」

「仲間か…。」

「お年寄りの為に働く奴らは、俺にとってみんな仲間です。みんな、自分の気持ちと役割を持って頑張っている。仲間がいるから、できる事もある。俺もそれぐらいは学びました。」

「そうだな。その通りだ。だからこそ、お前達は社会を変えれたんだな。」

「それは、俺達だけの成果じゃないですけど。…それともう一つ。」

「ん?」

「社会が俺達の声に応えてくれたなら、今度は俺達が社会に報いなければならない。そうでなければ、真に社会を変えた事にはならないんじゃないかって。それが俺達の責任なんだって。そう思ったんです。」

現場に戻る最中、叶瀬が立志に礼を述べる。

「ありがとうございます、立志さん。でも、大丈夫でしょうか…。うちのチームも今忙しいのに、日常での訓練なんて…。」

「ジロウさんの気持ちと日常生活を支えるのは、俺達介護職チームの役割だ。それは俺達介護職しかできない事だぞ。」

「それは解ってますが…。」

「それにな、叶瀬。介護職をやってる奴らに悪い奴なんていない! 話せば絶対に解ってくれる!」

「はぁ…。立志さんは気楽だなぁ。でも、古林さんの言った通りですね。」

「なんだよ。奏が何を言ってたんだ?」

「立志先輩はいつでも、みんなの幸せを信じて真っ直ぐに進む人だって。」

「あいつめ…。」

「俺も精一杯やってみます!」

「そうだな…。なーに、俺達だって社会を変えれるんだ。組織やチームを変えるぐらい、何てことはない!」

(そうっすよね、未来姐!)

立志だけは知っている。

社会を変えたのは、彼女であると。

彼女が紡いだ、絆であると。

彼女が繋いだ、仲間であると。

彼女こそが、真に未来を創造した者であると。

介護と福祉の現場。

喧騒と慌ただしさと、命の価値と理想が交差する場所。

これは、そこで働く者達が描いた、未来への道を紡ぎ出す物語…。

~終~

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