「かれこれ30年生きてきましたけど、あんなに恐ろしい体験をしたのは、あれが初めてですよ。人間って、死んでも恨み辛みを忘れないイキモノだってことがよく分かりました」
あれは5年前になる。小さな会社に勤めていたOLの香奈さんは、いつものように家を出た。
アパートから会社までは徒歩で20分程。寝坊しない限り、余裕で間に合う距離である。
行く途中には横断歩道があり、信号は黄色の点滅を繰り返していた。ここは交通量も多く、事故多発地帯としても有名である。香奈さんは焦って渡ろうとはせず、立ち止まって信号が青に変わるのを待った。
「私の隣に女性が立っていたんですね。スーツ姿だったから、私と同じようにOLさんだったと思うんですけど」
その女性は、何やら時間を気にしているようであった。何度も腕時計をチラチラ見ては、パンプスの爪先で苛立たしげに地面を蹴っていた。
朝イチで会議でもあるのかな。香奈さんはそんな風に思った。
やがて信号は青に変わる。スーツ姿の女性は駆け足気味に横断歩道へと身を踊らせる。
ーーーと。
「…ほんの一瞬のことでしたので、何が起きたのかすぐには分かりませんでした。ただ、その女性がふわりと宙に浮いて、それから地面に叩きつけられて……頭と膝から大量の血を流していたんです」
事故だ。
香奈さんはようやく事の事態を把握するに至った。
女性は数メートル跳ね飛ばされたらしく、仰向けに倒れたままピクリとも動かない。香奈さんはあまりのことに、救急車も警察も呼べないまま呆然と立ち尽くしていた。
一方、事故を起こした車は、女性を轢いた後すぐ停まったが、また車を発進させ、どこかへ走り去ってしまった。俗に言う轢き逃げというものである。
香奈さんはハッと我に返り、車のナンバーや車種を見た。ナンバーは忘れてしまわないよう、携帯のメモ機能に書き込んでおいた。
幸い、事故を目撃していた人は他にもおり、その人達が救急車と警察を呼んでくれた。
「警察の方が事故の目撃情報を聞いて回っていたようでしたね。私もナンバーは携帯に打ち込んであったし、車種も覚えていたから、報告しようと思ったんですけど……」
その時、香奈さんは強烈な眩暈と吐き気に襲われていた。テレビや新聞で毎日のように報道されている「交通事故」。
どこか人事のように考えていたけれど、まさか目の当たりにしてしまう日がくるなんて考えてもいなかった。
目の前がチカチカする。胃液が込み上げ、口の中が酸っぱい。暑くもないのに、背中に流れる冷たい汗が不快で仕方ない。
もう駄目だ…。立っていることすら困難な状態だった。それほどにインパクトのある光景だったのである。
結局、香奈さんは警察に轢き逃げ車両の報告も出来ず、そのまま自宅に戻ることにした。会社には突然の体調不良ということで電話を入れた。
家に帰ると、母親は香奈さんの顔色の悪さに驚いたようだった。酷い土気色をしていたそうだ。
心配する母親に「気分が悪いから部屋で寝る」とだけ言い残し、香奈さんは自室にこもった。
ベットに転がり、天井を見上げる。ふいにさっきの事故の様子がフラッシュバックのように鮮明に蘇り、香奈さんはギュッと目を瞑った。そのまま寝てしまったらしい。
次に目を覚ましたのは夜も大分更けてのことだった。寝過ぎて今度は頭が痛い…。とりあえずシャワーでも浴びようと上体をゆっくり起こした。
ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…
部屋の中を誰かが摺り足で歩いている音がする。心配した母親が様子を見に来たのかと思ったが、それにしては何も話し掛けてこない。
ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…
足音は部屋の端から端を何度も往復しているようだな。香奈さんは急に怖くなり、声も出せずに固まっていた。
「とにかく気味が悪くて…。母を呼ぼうかと思ったんですけど、相手に自分の存在を気付かれるのも嫌で、黙って縮こまってました」
それから一体どれくらいの時間が経っただろう。1時間くらい経ったような気もするが、それすら定かではない。部屋を歩き回る音がピタリと止んだ。
ほっと息をついたのも束の間。顔を上げた瞬間、香奈さんは息をヒュウッと呑んだ。
ベットの脇に女が立っていたのである。暗がりであるにも関わらず、顔立ちはハッキリ見えた。
今日、轢き逃げ事故に遭ったあの女性である。見間違うはずもない。
何で、この人ここにいるの?
恐怖より何より、まずそれが不思議だった。
あんなに酷い大怪我をしていたのに。救急車で運ばれたはずの彼女が、何故自分の目の前にいるのだろう。
香奈さんが呆けていると、女が口を開いた。その瞬間、口からゴボリと血の塊を吐き出した。女はそれに構わず、引きつったような聞き取りにくい声で喋り出した。
「しょ…げ、しょ、しょ…、しょうげ……ん。しょうげ……げ…ん…しょうげん……」
「え?」
思わず聞き返すと、女は香奈さんにグイと顔を近付けた。異様に黒目が小さく、白濁した白目が汚らしい。口の周りを血で真っ赤に染め、彼女は苛立ったように続けた。
「何で……何で証言じでぐれながっだのぉぉぉォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!!!!」
フーッと生臭い血の臭いが鼻孔を刺す。香奈さんはそれきり意識を失った。
翌朝。香奈さんは目が覚めると、朝食もそこそこ家を飛び出した。行き先は勿論警察である。
「目撃した轢き逃げ車両の車種やナンバーを、洗いざらい証言してきました。そうしなきゃ、あの女が毎晩枕元に立つような気がしましたから」
香奈さんが証言したおかげで、その後すぐに轢き逃げ車両は見つかり、犯人は逮捕されたのだが。
「被害者であるあの女の人、もう亡くなられてたみたいで…。だから証言して欲しかったんでしょうね。自分を轢いた車の目撃情報を」
「事故に遭うのも嫌ですけど、事故を目撃するのも嫌。もうこりごり」
香奈さんはそう言って、何度も頭を振った。
作者まめのすけ。