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中編4
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【怪談】耳鳴りと蟻

ある知人の話だ。知人の名は、ここではサカイとしておく。

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昨年の夏の話だ。

書店のアルバイトのサカイは28歳になって、なお大学時代の友人とバンドを続けていた。サカイの担当はドラムだ。

元々は洋楽のコピーバンドだったが、しばらくしてオリジナルも作るようになった。

バイト代はバンドの運営費に消えていった。いまでは技巧派のインディーズ・バンドとして、ライブを観た人から上々の評価を得られるようになっていた。

ある日の練習中のことだ。

サカイはいつものように曲に合わせ、ドラムを叩いていた。

「お前、テンポずれてるぞ」

他のメンバーから、サカイの演奏に指摘があった。

「え、そうか?」

サカイは(嘘だろ)と思ったという。ショックだった。そんな指摘を受けるのは初めてだったからだ。サカイのドラムは元々、正確さが売りだったのだ。

「ああ。つんのめったような演奏になってる。ちょっと合わせづらい」

「悪い。自分では普通に叩いてるつもりだったんだけど」

サカイは謝った。

言われてみれば、確かにその頃はバイトが忙しくて、あまりドラムを叩いてなかった。勘が鈍っていたかもしれない。

後々、サカイはおれにそう述べた。

「どうした?やり慣れた曲じゃん」

「頼むよ。技巧派バンドの癖にあまりライブでミスが多いと、赤っ恥だろ?」

他のメンバーがサカイを囃し立てると、軽い笑いがスタジオ内に起きた。

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翌日。サカイはいつも通り、バイト先に出向いた。

サカイのバイト先の書店は、書籍以外にも雑貨やCD、香水、柔軟剤などを扱っている。

店内には若い客が多かった。

サカイは若干、昨日のショックを引きずっていた。

正確なドラミングが出来ないようでは、ドラマー失格だ。昔は完璧に出来ていたのに......。

落ち込んだ気持ちで仕事をするサカイに、一人の女性客が「この試聴機のヘッドフォン、右側が聴こえないみたいです」と声を掛けた。

うーん、故障ですかね。

サカイは女性の後を追い、ヘッドフォンの状態を確かめた。試しにヒップホップのCDを掛けたが、ヘッドフォンの右側からは音は聞こえなかった。念のため他のCDで試しても当然、結果は同じだった。

「すみません。故障ですね」

「ああ、やっぱそうですよね。分かってました。直せますか?」

「すぐに、となると難しいですね......」

サカイはヘッドフォンのコードを纏め、試聴機に掛けながら答えた。返事が無い。振り向くと、もう女は居なかった。

不意に耳鳴りがした。

サカイは耳の後ろを指で搔き、腕を擦った。風邪でも引いたかな、とサカイは考えた。

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アパートに戻ると、サカイの彼女のミキが先に帰っていた。

ミキはOLだ。

バイト代だけで賄いきれない生活費は、ミキが会社の給料からサカイに工面しているのだという。

「バンド、調子良い?」とミキは尋ねた。

サカイが「あんまり良くない」と答えるとミキは「じゃあ、頑張らないと」と言い、サカイの右耳にキスをした。ミキは恋人に甘える時、相手の耳に口を付ける癖があるそうだ。

「ご飯、食べた?」

「マック、食べた」

「ふうん」

サカイはミキの肩を抱いた。窓には、雨の雫が撥ねている。

ちゅうう、と音を立て、ミキがサカイの耳を吸った。手を払ったが、ミキは身体を乗り出してより強く耳を吸った。

ぱあん!

耳の奥で、音がした。

すぐにぴいいいいと耳鳴りが始まった。

耳が痒くなり、耳の穴の中を強い風がごおおと通る感じがした。耳を塞いで蹲ると、ミキはサカイに「大丈夫?どうしたの?」と心配そうに話し掛けた。

鼓膜が破れたのだと、サカイにはすぐ分かったという。

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翌朝。洗面台の前に立ち、耳に水が掛からないように注意して顔を洗った。一晩が立ち、耳鳴りは多少ましになっていた。

足元が揺れた。

(地震か?)

サカイは洗面台に手を掛けて、その場に座った。一分ぐらい、そうしていた。

(ミキの様子を見に行こう)

揺れが収まり、立ち上がるとサカイは背筋がぴきっと張るのを感じた。身体が硬直して動かない。腕に力を込めても、意味が無かった。鏡の前から離れようとしても、足が動かなかった。

金縛りにあったような状態で、サカイは鏡の前で立ち尽くした。何故か口がぽっかりと開き、首がぐいっと斜めに傾いた。

がさがさがさ!

サカイの耳の穴の中から無数の蟻が外へと這い出して来た。

(うわあああ!)

大声で叫んだつもりが、声は出なかったという。

無数の蟻は耳から頬、顎を伝い、サカイの口の中へと侵入していった。サカイは口を閉じようとしたが、やはり身体は動かず、閉じられなかった。

蟻が前歯から奥歯、喉に向かい薄気味悪く動く、鋭敏な感覚が身体を支配した。

耳の穴から這い出して来た蟻は、喉から再びサカイの体内に戻っていった。

サカイの口の中には不思議と甘い蜂蜜のような味がふわあと広がったという。

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「あの日以来、仕事が絶好調なんだ」

サカイはそう言って、笑った。

昨年の夏以来、サカイが店頭POPを書いた本は飛ぶように売れ、サカイが商品をセレクトしたブースには人が集い、WEBメディアが取材に訪れた。

サカイはバイトから正社員登用を受け、いまでは店の管理職に収まっている。

「仕事は大変だけど、やり甲斐があるよ。それと……。ミキとは結婚も考えてる」

そのように語るサカイの目の下は、隈で真っ黒だった。

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死んさん、コメントありがとうございます。主人公の男は明らかにワーキングプアまっしぐら(というよりも既に……)ですよね。
でも、あくまで本人は喜んで働いているのです。

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