大学時代の友人のアサコの話だ。
アサコはインテリア・ショップのアルバイトで生計を立てている。接客と商品の品出しを延々と続ける日々を送っていた。
「ある日、ものすごく格好良い男の人が店に入って来たの」
と、アサコは語った。
その男は180cmを超える程に背が高く上下黒のスーツに身を纏い、胸元のポケットにはハンカチーフを飾っていた。
(企業の営業の人かな)
とも思ったが、それにしては格好が綺麗すぎる。
男はゆらっと店の中を歩いた。特に気になる商品がある素振りも無く、ただただ歩いていた。
とりあえずアサコは商品の整理など自分の仕事を続けた。
店の奥で電話が鳴ったので、応対もした。
応対を終え、ふと店の中を見渡すと男の姿はもう無かった。
店の中にはもう一人も客が居なかった。
レジに戻り、釣り受けを見ると一枚の名刺が置かれていた。男の名前と電話番号、メールアドレス、そして勤務先が書かれていた。
「それがものすごく有名な企業だったの。学生時代に履歴書を送って、落とされたこともある。その企業のマーケティング・マネジャーだって......」
翌日もその翌日も、男は店にやって来た。
「その頃には、男の人のことが気になってたまらなかった」
とアサコは言った。
何かお探しですか?先日もお店にいらしていましたよね。
男は「何をお贈りすれば、貴方の心を奪うことが出来ますか?」と言った。
その時、アサコには付き合っている男性が二人居た。
アサコはそのどちらとも別れ、男と付き合うことに決めた。
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翌月。
花火大会の帰り道。
アサコは来た時と同じように、男の車に乗り込んだ。アサコの浴衣には屋台で買って、食べたフランクフルトの匂いが微かに残っていた。
ひどい渋滞だった。
男は車のハンドルを右に切り渋滞を離れ、脇道に逸れた。
数分走ると、男は道端に車を停めた。
アサコは胸の高鳴りを感じたという。
男の唇がアサコの口に触れた。肌を重ねる。アサコの額を一筋の汗が伝う。窓が曇る。
車の後部座席から、携帯電話の着信音が聞こえた。
アサコは「着信ーー」と呟き、首を回し、後部座席の男の鞄に手を伸ばした。男の携帯電話が鳴っているのだろう、と思ったのだ。
鞄から男のSoftbankの白い携帯電話を取り出し、アサコは男に手渡そうとした。
振り向くとそこに男の姿は無かった。
五週後、アサコはバイト先のトイレで多少の出血と共に流産した。
見慣れない白っぽい塊ーー胎嚢ーーが水に浮かぶ。
アサコは備え付きのラバーカップで胎嚢を便器の奥へと押しやったという。
「そうすることしか、出来なかった」
アサコはそのように語った。
翌週。
アサコは店の裏の倉庫で商品の整理をしていた。
(何だろう)
アサコは何日も雨に濡れた後であるかのように、ぐにょぐにょになった段ボール箱に触れた。
表面はふやけ、べとべととしている。指を動かすと、液体が糸を引く。
段ボール箱を手に持ち、蓋を開けた。
箱の底にあったのは、黒ずんだ胎嚢だった。
不思議と悪臭はしなかった。重くも無かった。それは腐った鶏肉のようにも見えたという。
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「私、いま振り返るとどうしても分からないことがあって......」
とアサコは言った。
「うちの店はお客さんが出入りする時には、必ずカランコロンとチャイムが鳴るんだ。でも、あの男の人が店に入って来る時にはチャイムは鳴らなかった。店を出る時も......」
アサコは男について、何も知りはしなかったのだ。アサコはいまでも、インテリア・ショップでアルバイトを続けている。
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作者退会会員