俺には4つ年上の姉がいる。彼女の名はーーーと、いっても仮の名前なのだけれどーーーその仮の名を玖埜霧御影(クノギリミカゲ)という。
玖埜霧家に養子として貰われてきた時、実は姉さんには違う名前が付いていた。それこそが、姉さんの本来の実名なのだが……俺はその名前を知らない。一度として聞いたことがない。
何故ならーーー玖埜霧家夫妻ーーーつまり、俺のパパとママが、姉さんの名前を新たに「御影」として付け替えたからだ。
御影とは、「神霊」の意味がある。他には「霊魂」という意味もあるらしいけれど……何故、パパとママが、姉さんに「御影」という仮の名前を与えたのかは分からない。
そう。俺は姉さんのことについて、何も知らないのだ。長いこと姉と呼び、姉として慕い、誰よりも身近な存在であったはずなのに。分かることといえば、精々がスリーサイズくらいだ。
太宰治の著名な作品に「人間失格」という小説があるけれど……俺の場合は「弟失格」なのかもしれない。落第レベル。姉さんのことを何一つ知らない俺は、弟として「失格」だ。
知らないでいることはーーー無知でいることは。決して赦されることではなく、罪なのである。
ある日のこと。退屈な授業を受け、給食を食べ、睡魔と戦いながら午後の授業をこなし、掃除をして。部活動に所属していない俺は、さっさと家に帰った。
寄り道などしない。友達と遊ぶこともない。何というか、そこはそれ。学校が終わったのなら、付き合いもそこまでというか。ダラダラと馴れ合うことが嫌なのだ。
「ただいまー」
玄関先で靴を脱いだ。仕事で帰りの遅い両親は勿論、俺と同じくして帰宅部の姉さんも、まだ帰ってきてはないようだ。
トゥルル……トゥルルル…トゥルルル…トゥルルル…
「電話だ」
リビングの固定電話が鳴り出した。俺は慌てて駆け出し、受話器を取って耳に当てる。
「はい、玖埜霧です」
「……………………」
相手は何も言わない。気配を感じるので、相手も耳に受話器を当てているのだろうが……まるで、こちらの様子を窺うように。
「…悪戯電話ですか?切りますよ」
「…ヒィ、ヒィーッ、ヒッ、ヒッヒッ……、ヒッ、ヒィッーーーッ、ヒッヒィ、ヒッヒィーーー」
喉を鳴らすような、不気味な声が受話器から聞こえた。発作を起こした人間が、あまりの苦しみに悶えているような……そんな声。これは流石に心配せざるを得ない。
「もしもし!ちょっと大丈夫ですか!?」
「ヒィーッ……ヒィーッ……ヒッ……ダ、大丈夫……。私……体が弱ってて。キき取り辛くて…、ゴめ…、ご……めナ…ッさ……ヒィーッ、ヒィーッ、ヒィーッ………」
苦しそうな息継ぎの合間に聞こえてきたのは、掠れた女の人の声だった。声だけ聞いていると、まるで老人のようだ。実際には若い人なのか、それともまま老人なのかは、声を聞いただけでは分からないが。
「あ、あのっ。本当に大丈夫ですか?」
「ヒィ…ヒィ…ヒィ……。ダ、イ、大…丈夫。今、わたシ、歯をヌかレてるカラ、上手くシャべ…ない。ゴメ…んな……さイ…」
歯を抜かれてる?そういえば、やたらと聞き取り辛い喋り方をしているとは思っていたが……歯がないから、空気が漏れてしまい、滑舌がしっかりしないからだ。
「あの……あなた、一体……」
「ア……、アなた……マエ……」
「はい?今、何て言いました?」
どうにもこの人の声は聞き取り辛い。歯が抜かれてるという、一種異様な状況だから仕方ないのだろうが……俺は受話器を耳にグイと押し付けた。
掠れた独特の声音が、苦しそうに繰り返す。
「ア、…アなタの……なマ、エ……教、えテ……」
”あなたの名前教えて”か?
「玖埜霧鴎介ですけど……いや、そんなことより」
「……お、オ…スケ…?違う、違う、違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うチガう…あの仔ジャ……なィ…あの仔ハ………、”ウタゲ”は……?」
「うたげ…?」
何だそれ。うたげって……宴?いや、電話の相手は「あの仔」と言った。つまり、人の名前か?
だが、「うたげ」と名のつく人間はこの家にいない。俺や姉さんは勿論、両親も「うたげ」なんていう名前じゃない。
ただの間違い電話だろうか。その可能性もないとは言い切れないが、それともーーー
「あなた、誰なんですか……?」
そう聞いた瞬間。体中の毛穴が開いたかのようにブワッと冷や汗が吹き出した。聞いてはいけないことを聞いてしまったかのような。誰にも漏らしてはいけない秘密裏を知ってしまったような。事件に首を突っ込んだ部外者のような。パンドラの箱を開けてしまったような。
そんなーーー居心地の悪さ。
いたたまれなさ。底知れぬ不安。危うげな感じ。
胃の中に直接手を捻じ込まれて、グチャグチャと胃液を掻き回されているかのようなーーー心臓を片手でやわやわと握られているようなーーー気持ち悪さ。
嗚呼ーーー気持ち悪い。気持ち 悪い きもちわる い き もち 悪 い
キ モ チ ワ ル イ。
俺は今、誰と話してるんだ?
ニチャニチャと唾液の擦れる音がする。歯がないから唾液の処理も難しいのだろうか。唾液を飲み込めず、口の中で持て余しているようだ。
「…ッ、」
くらり。軽く眩暈がした。傍の壁にドンと背中を預ける。貧血だろうか……視点が定まらない。胃の辺りがムカムカする。足元が覚束ない。怠い……。
「ヒィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ」
一際高い声が鼓膜を揺さぶる。ぼおっとなっていた時だったので、びくりとしてしまった。
「何なんだよ……止めてくれよ……嫌だよ……」
何なんだよ。何なんだよ、この人。
何がしたいんだよ。何が言いたいんだよ。
体調が悪いなら救急車呼べよ。事件に巻き込まれてんなら警察呼べよ。電話を掛ける相手を間違えてるよ。
一介の男子中学生に、何を求めてんだよ。
「ワタし、カミサマ。わたシ、カミサマだヨ。カミサマダよ。カミサマダヨ。ワタし、カミサマ。カミサマ。カミサマ。カミサマ。カミサマ。カミサマ。カミサマ。カミサマ。カミサマ。カミサマ。カミサマ。カミサマになルの。カミサマにナれルノ。カミサマならカミサマにカミサマならぬカミサマでカミサマをカミサマにカミサマをカミサマはカミサマだからカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマ
カミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマ」
「止めてくれーッ!!!!!!!」
だんだんと早口になる相手に、俺は本気で怒鳴りつけた。喉が張り裂けるんじゃないかってくらいの大声を上げた。その甲斐あってか相手は黙ったが……代わりに舌打ちのようなことを始めた。
チッ……チッ……チッチッ…チッ……チッ……チッ……チッ…チッ…チッチッチッ……チッ……チッ…
「うう……」
限界だ。情けないことこの上ないが、俺は半泣き状態だった。電話を切ってしまえば、恐らくこの呪縛から簡単に解放されるのだろうが……受話器を耳から離すことが出来ないのだ。
まるでセメント塗り固められたかのように、受話器はピタリと俺の耳にくっついて外れない。いっそのこと気絶してしまえたら良かったのだが、それも叶わなかった。
すると、相手は舌打ちを突如として止め、またニチャニチャと唾液を舌の上で転がすような不快な音を出した。そして呻くように呟く。
「ウ…、ウタゲの声ガ聞きタかっ…た……あの仔ノ…、声……最期に聞きたカった……。お、オ、オ前ラが……お前らガ奪っタ……うたげヲ……、ウタゲを…奪っ、……奪ったんダ……あの仔…ハ、アの仔ハ………は、ワタしの…、たい…セつな、」
「…だから!うたげなんて人、うちにはいないんだって、さっきから言っーーー」
「ヒィーーーッ!!ヒィーーーーーーッ!!ヒッグ、ヒグゥーーーーーーーーーーーッ!!ヒッ……ヒッヒッヒッヒッヒッ、ヒーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッ!!!!!!ヒギィーッヒギーーーヒィッ!!ヒィッーーーーーーーーーーーーーーヒッヒィッーーーヒィーヒィーヒィッ……ヒギィーッ!ヒィッ!ヒィッーーーヒィヒィヒィッ」
相手はまた発作的な叫び声を上げた。数分間、甲高い雄叫びみたいな声を上げたかと思うと、今度は酷く咳き込んだ。「ガホッ!ガホッ!」という咳に続いて、何かを嘔吐したような「ベシャッ」という音もした。咳のし過ぎで吐血でもしたのかもしれない。
「…………うううう、」
もう駄目だーーー駄目だ。この人に何を言っても通じない。俺は受話器を持ったまま、ズルズルとその場にへたり込んだ。
精神疾患を患っているんだろうか。病人を悪く言いたくはないが、この人が一方的に喋っていることを聞いていたら、俺の方がどうにかなりそうだ。
神経がーーー尋常ではないくらいのスピードで磨り減っていく。磨耗していく。摺り下ろされていく林檎みたいに。
相手は再び、喉の奥から唸るような声を上げた。電断末魔の悲鳴のような鋭い声で。
「ギイーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
瞬間、右耳に激痛が走った。それをキッカケに、俺は受話器を手から離すことが出来た。
うっすらと景色が霞んでいく。意識が遠くなっていく。
今になって、ようやく気絶することが出来るようだ。
「ん…、」
目が覚めた時、俺は見知らぬ部屋に寝かされていた。心配そうに俺を覗き込んでいる三人の顔……両親と、それから姉さんだった。姉さんに至っては、口を真一文字に結び、怒りの表情を浮かべている。
「良かった。気が付きましたか」
白衣姿の医師とおぼしき男性が近付いてきて、俺の顔を見た。彼が言うには、俺は自宅のリビングで倒れ、気絶していたらしい。帰宅した姉さんがそれを見つけて通報し、救急車で搬送されたらしいのだが……全く覚えていない。
「鴎介君。右耳はどう?痛むかい?」
医師に言われ、そういえばズキンズキンと、ダイレクトな右耳の痛みに気付く。先生の話だと、右耳の鼓膜がかなり傷んでおり、しばらくは音や声が聞き取り辛くなるとのことだった。
「事件性の可能性もありますので、息子さんには後日、警察の方から事情聴取が行われると思います。まあ、右耳の負傷だけで、他には何も被害がなかったようですからね。大規模な事件には発展しないとは思いますが……。では、入院の説明がありますので、ご両親はこちらへ」
医師と、それに続いて両親も部屋から出て行く。後にはベットに寝かされた俺と、黙ったまま何も言わない姉さんが残された。
「………」
「………」
気まずい。何か喋ってくれればいいのに、と思う。むっすりと押し黙っているその表情から、姉さんはめちゃくちゃ怒っているのだろうということは察しがつくのだけれど。
……何で怒ってるんだ?心配掛けたからか?
「や、やあ。どうも。今朝ぶりですね」
話し掛けてみる。やはり何の反応もないーーーかと思いきや。姉さんは眸を閉じると、左手をの人差し指と中指を立て、その指を唇に押し当て、何やら呪文のような言葉を紡いだ。
「オンコロコロ センダリ マトウギ ソワカ オンコロコロ センダリ マトウギ ソワカ」
「……ほぇ?」
「病気や怪我の回復を高める真言だ。これで数日すれば傷んだ鼓膜は再生するが……。右耳だけで済んで良かった。ヘタしたら、ショック死してたところだったんだぞ」
姉さんは真剣な面持ちでボソリと呟いた。
「……”形代”なんかになるもんか。私はもう、玖埜霧家の人間だ。あそこには戻らない。あの家系とは何の関係もなくなった。繋がりは断ち切ったんだ。”血”なんか腐ってしまえ」
「え……?」
「いや……何でもない。何でもないんだ」
姉さんは困ったように微笑すると、俺の頭を何度も撫でた。その表情からは怒りが失せ、ようやく安堵したような、ほっとしたような顔になる。
「鴎介。ごめんな……」
「何が?」
「いや……。何でもない。何でもないんだ」
作者まめのすけ。