俺には四つ年上の姉がいる。姉の名は玖埜霧御影(クノギリミカゲ)という。名を文字に起こすと、たったの五文字なのだが、彼女の人生を一から順次に語れば、それこそ原稿用紙一万枚があっても足りないのではないかと思ってしまう。
生まれた時から玖埜霧家の長男として、平々凡々と、人並みの幸せや人並みの苦労、人並みの生活を送ってきた俺とは違い、姉さんは生まれた時から奇異な処遇を受けていたらしい。
詳しくは聞いたことがないし、聞こうとも思わないけれど。姉さんも口を割らないというか話したくないようだから、敢えて突っ込まないが。
今、言えることは。姉さんは玖埜霧家の正式な長女というわけではないうそれだけだ。端的に表せば養子である。今から六年前ーーー姉さんは十ニ歳の時に玖埜霧家に引き取られた。
元の苗字を捨て、玖埜霧の性を受けた。その元の苗字が何だったのかさえーーー知らないけれど。運命の悪戯か、はたまた星の巡りなのか……かくして俺達姉弟となった。
姉さんはとにかく目立つことが嫌いな人なので、こうして彼女のことを物語っているなんて知られたら、半殺しの目に遭いそうなのだけど。
それでも。俺は玖埜霧御影について物語りたいのだ。
彼女のことを。彼女の話を。俺が知る限りのことを包み隠さず全て。
何故かと言われても上手く答えられない。姉の自慢をしたいとか、そんな上っ面なことではなくて……ただ知って貰いたいのだ。玖埜霧御影という一人の人間の人生を。
嗚呼、そうか。こんな人間もいるのだなぁと理解して頂けたら幸いだ。理解し難いなぁと思われる部分もあるとは思うが……それについてはご容赦頂きたい。
人間の人生はドラマではない。それこそ二時間もののサスペンスドラマのように、綺麗に区切りよく起承転結で終わるとは限らないのだから。
姉さんはかなりの読書家であり、愛読する小説はそれこそ山のようにあり、ジャンルも様々だったりするのだけれど。その中でも特なる愛読書ーーー西尾維新氏が手掛けた「アナザーホリック ランドルド環エアロゾル」という小説がある。
その中のフレーズの中に、姉さんが一番好きだというフレーズをまま抜粋してみた。それが以下の通りである。
「あやかしなんていなくとも、人間一人いるだけで、それだけの現象は起こりうる。四月一日のような健全な精神の持ち主から見れば、気持ちの悪い人間が、この世界には、存在する。人間の部品として、人間の中にある。四月一日はあやかしを、まるで怖いものみたいにまるで悪いものみたいに言うけれど、どんなものでも人ほど怖くも悪くもないのよ。ねえ、四月一日、暇があったら一度、一人になれる場所で、じっくりと戯れに考えてみなさいよ。四月一日があたしに、それだけの対価を支払い終えてーーーその眼が無事に、あやかしを映さなくなったときーーー」
「果たして、人間が視えるのかどうか」
あなたの目の前にいるのは、本当に「生きている人間」ですか?
◎◎◎
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!ショコラちゃんです☆」
「………」
とある日の放課後。帰り支度をしていた俺の元にやってきたクラスメートの日野祥子ーーー通称ショコラは痛々しい横ピースにウインクしながら現れた。
呼んでもないし、飛び出てきてもねえよ。お前、フツーに自分の席から歩いてきてたじゃん。ハッキリ見てたぞ。
俺はにっこり笑うと「じゃあな~」と手を振り、ダッシュで教室から逃げ出そうと目論んだのだが。
扉に先回りしたショコラがとおせんぼするかのように両手を広げて立っていた。ショコラは糸のように細い目を更に細めてにーっこりと笑った。
…怖っ!
「何をそんなに慌ててるのよぅ。私、欧ちゃんに用があるんだけどなー」
「俺のほうはお前に用はないよ……」
「そんなこと言わないで。大丈夫、変なことじゃないから。安心して」
ショコラはぐいむ!と細腕の割に強い力でグイグイと俺の腕を引っ張り、教室の隅に連れて行った。
「何だ何だ。告白でもするつもりか?」
「戯言ほざかないで。私が欧ちゃんのことを好きになる可能性が一%だってあると思う?思い上がりもいいところだよ」
「ショコラって意外に毒舌なんだな……」
軽く傷付いた。玖埜霧欧介は繊細なハートの持ち主なのたから、もっと優しくしてくれたっていいじゃないか。つれない奴め。
「用って何なんだよ」
俺は仕方なく呟いた。実はこのショコラという女、見掛けは人畜無害な猫みてーな顔をしてる癖に、なかなかの曲者だったりする。
以前、トビオリさんというゲームをやろうとショコラに持ち掛けられ、勢いでそれに乗ってしまった俺はドエライ目に遭った。姉さんが途中で助けに来てくれたから良かったようなものの……一歩間違えば大怪我をしていた。
いやーーー怪我では済まなかったかもしれない。
それ以来、俺はショコラを警戒している。挨拶をしないとか、あからさまに避けるようなことはしないけれど、彼女の動向には気をつけていたんだが。
ここにきて捕まってしまうとは……。
「欧ちゃんてやっぱり扱いやすいよね」
ショコラはさらりと失言を交えつつ、今回の要件について次のように語った。
ショコラには二つ年上の兄がいて、その兄貴が最近になって一風変わったアルバイトを始めたらしい。何でもネットで見つけたアルバイトらしいのだが、好条件の上、収入もいいらしい。
気になるバイト内容というのがーーーとあるマンションに短期間の間だけ住むというだけ。その間、家賃は自分で払わなくていいし、日当でバイト料が出る。
実においしいバイトといえばそうなのだが……うまい話には必ず裏に理由がある。
住むべきマンションが所謂「事故物件」、または「曰わく付き物件」なのだ。過去に住人が自殺しているとか、幽霊が出るとか、そういったケースがある一室に短期間といえど入居するからこそ、高収入を得られるのである。
では、何故そんなアルバイトが存在するのか。
近年、不動産屋では借り手となる人間に「事故物件」または「曰わく付き物件」であることを明らかにしなくてはならない決まりが出来た。
今までは以前に何らかの問題が発生しても、のらりくらりとかわすことが出来たが、現在ではそうもいかない。
もし借り手がこれから住もうとしている部屋に、以前、何らかの不祥事があった場合は、不動産屋はそのことを伝えなくてはならないのだ。
しかし、そこにアルバイトで雇った人間を短期間住まわせ、不都合がないと分かれば、そこは「事故物件」または「曰わく付き物件」ではなくなる。新たな借り手が現れても、胸を張って堂々と言えるわけだ。
「前の住人からは何の苦情もありませんでしたよ」と。
アルバイトをする側の人間も、不動産屋から言われるまでもなく、本当に不都合を感じないらしいのだ。最初は薄気味悪く思ったりもするのだが、慣れてしまえばどうということはない。
アルバイトの人間からは、ほとんど何の不都合も報告されないこともあるのだという。まあ、金欲しさに黙っていただけかもしれないが。
実はこういったアルバイトは、実際に各地で存在しているらしい。
「うちのお兄ちゃん、コンビニでバイトしてたんだけど。仕事がキツイとかそんな理由で辞めちゃったの。で、ネットで新しいアルバイトを探してたら、あったってわけ」
「ふうん」
結局、ショコラに付き合わされ、彼女の兄貴が短期間入居をしているマンションへと向かっていた。
ショコラは兄貴からそのマンションのことを聞きつけ、えらく興味を持ったらしい。どうしても部屋に遊びに行きたいと駄々をこねたところ、今日だけならいいと言ってくれたそうだ。
そして本日。兄貴の住むマンションへと行こうと思い立ったのだが、一人で行くのは何となく怖かったので、俺を誘ったのだそうだ。
「そのマンションはね、曰わく付きらしいんだ。お兄ちゃんも色々体験したんだって」
目をキラキラさせ、楽しそうな様子でショコラは語った。こいつもまた、結構なオカルト好きなんだっけか。
「兄貴はどんな体験をしたんだ?」
「えっとね、まずはひっきりなしにピンポンダッシュされたんだって。初めはマンションに住む子どもの悪戯だと思ったらしいの。でも、あまりにもピンポンダッシュを繰り返すから、とうとう頭に来てね。扉の前でずっと見張ってたんだって」
「……ほほう」
「またピンポンダッシュされたから、すぐにドアを開けて叫んだの。”誰だ!”って。そしたら誰もいなかったんだって。走って逃げた形跡もないの。だってお兄ちゃんはドアの向こうに身を潜めてたんだよ。そしてチャイムが鳴ったのとほぼ同時にドアを開けた」
「一瞬ともいえる短時間で逃げおおせるのは無理ってわけか」
「ご明察。マンションの扉には感知灯があるんだけどね。誰もいないのに点灯してたんだって」
「虫とかに反応したんじゃないのか?」
「今のセキュリティーを莫迦にしちゃいけないよ。小さな虫くらいで点灯するわけないじゃない。人間の気配だけに感知するんだよ」
そんな話をしながら、俺達は目的地であるアパートへと辿り着いた。
外観上でいえば、なかなか小洒落たマンション。造りも新しい感じがするし、とても曰わく付きの建物には見えない。
近くには駅や商店街などもあるし、立地条件も良さそうだ。不動産屋側としては、是非ともお勧めしたい物件なのだろう。
「お兄ちゃんの部屋は706号室だよ」
ショコラに連れられ、エレベーターに乗り込む。七階のボタンを押した。扉はゆっくりと閉まり、起動音を立てて上へとあがっていく。
「そういえば……。お前、兄貴に俺のこと伝えてあるの?」
「ううん、言ってないけど」
「何で!?」
おいおい。それじゃショコラの兄貴はショコラが一人で来るものだと思っているのではないだろうか。普通はそう考えるだろう。
それなのに、見知らぬ存在である俺が同行していたと分かれば、兄貴はどう思うだろう……。
「……なあ、ショコラ。お前の兄貴、まさか極度のシスコンだったりしないよな。俺にイチャモンつけてこられるのは勘弁だぜ」
「あはは。そんなことないよ。お兄ちゃんは至ってノーマルよ。今時、シスコンもブラコンも流行らないって」
「………」
そんなことは絶っっっっっっっ対にない。現に俺はブラコンの被害者だ。
エレベーターは七階に到着した。俺達は揃ってエレベーターを降り、706号室の前に立った。
ショコラがチャイムを押す。しばらく待ってみたが、応答はない。再びチャイムを押してみたが、やはり結果は同じだった。
「留守なんじゃね?」
「あれえ?おかしいなあ……」
ショコラは首を傾げながらドアノブに手を伸ばす。すると、キィという音を立て、ドアが少しだけ開いた。
「鍵……開いてたのかな」
不思議そうに呟きながらショコラがドアを開ける。しかし、人影らしいものは見当たらない。というか玄関先には靴が一足も置かれていなかった。
「兄貴、留守にしてるんじゃないか?」
「だったら鍵くらい締めていくでしょ」
「そりゃそうだ」
「とりあえず上がろうか」
言うが早いか、ショコラは靴をポイポイと脱ぎ捨てて上がった。行儀悪いな、こいつ。女の子のやることとは思えん。
俺はショコラが脱ぎ散らかした靴を揃え、自分も靴を脱いで上がった。
「わあっ!欧ちゃん、ちょっと来て!」
「どうした!?」
声がするほうへ駆けつけると、そこはバスルームだった。ショコラは排水溝を指差して「あそこ……」と呟いた。
排水溝は詰まっているらしく、ボコボコと水が溢れ出てきている。めちゃくちゃ嫌だったけど、ショコラに「お前が見てきて」とも言えない。
俺は渋々靴下を脱ぐと、バスルームに入った。排水溝の蓋をパカッと持ち上げ、何が詰まっているのかを確かめた。
「髪の毛だ……」
大量の長い髪の毛が詰まっていた。素手で触るのは更に嫌だったが、仕方ない。指先で数本摘まんで引き上げた。
ーーー長い。かなり長い髪の毛だ。しかも真っ黒。
ロングヘアーなんてもんじゃない。百人一首の世界だ。紫式部さんや清少納言さんの髪の毛を想像して貰いたい。あれくらい長いのだ。
「兄貴の髪の毛……なわけないよな」
「当たり前でしょ」
「兄貴の彼女の髪の毛だとは考えられないか?ほら、泊まりに来た時とかバスルーム使うだろうし」
「お兄ちゃんはどちらかといえば外人が好みなの。紫式部みたいな人よりジャンヌダルクみたいな人を選ぶと思う」
「そうか。いやよく分かんないけど、まあいいや」
排水溝に詰まった髪の毛は十分かけて全て取り除き、ゴミ箱に捨てた。因みにショコラは何も手伝わなかった。
バスルームの清掃が済んだ頃、玄関先からチャイムが鳴った。誰か来たようだ。
「お兄ちゃんかな」
「そうかもな。でも、自分の家に帰ってきただけなのにチャイム鳴らすかな……」
「欧ちゃん、見て来て」
「いや、お前も来いよ」
ピンポーン。
またチャイムが鳴った。俺とショコラは顔を見合わせる。
「また悪戯かな。例のピンポンダッシュ……」
「分からない。宅配便かもしれないし、鍵を掛け忘れたまま外出した兄貴が帰ってきた可能性もないとは言い切れないぞ」
ピンポーン。
ピンポーン。
ピンポーン。
ピンポーン
ピンポーン。
連続して五回もチャイムは鳴らされた。この分だと、こちらが対応するまで連打されかねない。俺は靴をつっかけると、ドアを開けた。
「……いない」
ドアの外には誰もいなかった。ふと見れば、感知灯が点灯している。
ふわっ……。
俺の左側を、まるで誰かとすれ違った時みたいに生暖かい風が吹いた。誰もいないというのに。
ぞぞぞぞっと全身が泡立った。
ヤ バ イ。入 っ て き た か も。
乱暴にドアを締め、内側からロックとチェーンを掛ける。そんなことしたって既に無駄だとは分かっていたけれど、そうせずにはいられなかった。
せめて、これ以上の侵入者は防がないと。
「欧ちゃん、どうかした?」
心配そうにショコラが聞いてくる。不安がらせるのも良くないとは思ったが、これ以上は危険かもしれない。
「なあ、ショコラ。やっぱりこの部屋、変だよ。さっきの排水溝といい、今のピンポンダッシュといい、何か得体の知れないものを感じるんだ。被害が出ないうちに出たほうがいいかもしれない」
「そうかもね。でも大丈夫。私だって何の準備もしないまま、ここへ来たわけじゃないんだから」
「どういう意味だ?」
「んふふー」
ショコラは得意気に笑うと、鞄の中から恭しく何かを取り出した。ーーー黄色い御札だ。梵字がつらつらと書いてあり、赤い印が押されてある。合計で十枚。
「近所のお寺で貰ってきてあったんだ。これをあらゆる場所に貼っておくの。かなり強力な御札らしいから、期待出来そうだよ」
「へえ。準備いいんだな」
「でしょでしょー」
それから俺達は手分けして御札を貼った。玄関先、リビング、バスルーム、トイレ、キッチン、寝室、窓、食器棚やテーブル、ソファーにもそれぞれ一枚ずつ。
べたべたと無遠慮に貼られた御札がやけに目立つ。あとでショコラの兄貴に「何だこれは」と怒られそうな気がするが……まあ、ショコラが言い出したことだしな。
「あー働いた働いた。働いたら喉渇いたー。ジュースジュースー」
ショコラは鼻歌交じりでキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。そして開けたままの姿勢で固まった。
「ジュースがない!てか飲み物全然ない!うわーん、お兄ちゃんの莫迦ー!」
「蛇口を捻れば幾らでも水が出るぞ」
「やだよ水なんて!疲れた時は甘い飲み物がいいに決まってるでしょ!仕方ないなー、外で買ってくるか」
ショコラは鞄を持つと、「じゃ、留守は任せた」と言い玄関に向かった……っておい!
「待て待て待て!留守は任せたじゃないよこら!こんな場所で一人で待ってろって言うのかお前は!」
「だって二人で行くわけにもいかないっしょ。お兄ちゃんが帰ってくるかもしれないのに」
「じゃあ、尚更お前がここに残ってなきゃダメじゃん。お前ならまだしも、俺は何て言い訳すればいいんだよ。ヘタしたら住居不法侵入で訴えられちゃうじゃん」
「あはは。大丈夫だって。欧ちゃんの分のジュースも買ってくるって」
「それが何の解決になるんだよ!」
「ジュースの他にポッキー買ってきてあげる。目の前でエロく食べてあげる。んじゃ、ばいばいきーん」
ショコラは片手を振ると、さっさと出て行ってしまった。あとにはぽかんとした俺だけが一人取り残された。
全く……。つくづく勝手な奴だな。
俺は嘆息交じりに息を吐くと、リビングに舞い戻った。ソファーに腰を下ろし、暇潰しにiPhoneを弄っていた時だ。
カサッ……
「ん?」
物音がした。辺りを見回してみると、御札が床に落ちてしまっていた。
「あちゃー。ちゃんと貼られてなかったのかな」
立ち上がり、御札を拾い上げる。が、指先で軽く摘まんだだけだというのに、御札は一瞬で炭化し、ポロポロと灰のみが落ちた。
「……え?」
何で?
慌ててバスルームを覗いた。やはり御札は剥がれており、びしょびしょに濡れて排水溝に吸い込まれ掛けていた。さっき片付けたはずなのに、御札には長い髪の毛が絡みついていた。
「っ、」
思わず後ずさると、いきなりシャワーから大量の熱湯が出た。
シャアアアアアアアッ!!
「ぎゃっ!」
驚いた末にひっくり返り、尻餅をつく。そのまま這い蹲るようにしてバスルームを出た。
ひぃひぃと呻きながらリビングまで這った。この分だと他の場所に貼られた御札も、ことごとく剥がれているに違いない。
自然に剥がれたんじゃない。あれはどちらとも、不自然な力が働いてーーー
「……わ、わあああっ」
リビングの入り口まで辿り着いた俺は、またも悲鳴を上げた。ちょうど中央辺りにブワーッと血のシミなようなものが広がっていたからだ。ついさっきまでは何もなかったのに。
ごくり、と唾を呑む。怖かったが、そろりと立ち上がり、近付いた。本当に血かどうか確認したかったのだ。
だがーーー近付くにつれ、それが血のシミではないことがハッキリした。
何と表現したらいいだろう……一番分かりやすく言えば「穴」だろうか。巨大な円のようでいて、形はよく見ると凸凹していて歪だ。
穴といっても、物理的法則を全く無視した穴だった。穴を覗き込んでも、真下の部屋が見えるわけではない。どこまでも深い闇が広がっているだけだった。
まるでブラックホールのように。
「………」
嗚呼、これはダメだ。俺がどうにか出来る事態じゃない。
iPhoneを取り出し、まず最初にショコラにメールを出した。「もうこのマンションには帰ってくるな。詳細は後日」と。そして次に電話を掛ける。
言わずと知れたあの人に。
「もしもし、姉さん?実は今、ちょっと大変なことが起きてて……」
◎◎◎
マンションに駆け付けてきた姉さんは、ドアを開けた時から既に不快そうだった。綺麗な形の眉を寄せ、目を細めている。
明らかに不機嫌そうだった。
「い、いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「…………」
場の空気を和ませようとして、軽くジョークを言いながら出迎えてみたものの。姉さんは無言で俺を押しのけるようにして入ってきた。
ラフなトレーナーにジーンズ。その格好からして、家でのんびりくつろいでいたのだろう。そんな時に呼び出されたりすれば、誰だって機嫌の一つも悪くなる。
いつものことながら、姉さんには頭が上がらない。
ことの経緯は電話で全て話してあった。勿論、リビングで見た穴のことも話してある。
姉さんはそっとリビングを覗いた。俺も姉さんの後ろに隠れるようにして、こそっと覗く。
穴はーーー先程より少し大きくなってきているようだ。
「あの穴……姉さん、あれ何か分かる?」
「霊道って知ってるか」
「霊道?」
知らない、と答えると。姉さんは押し殺したような口調で語り始めた。
「曰わく付きだとされる建物の多くは、霊道の途中に位置していることが多い。霊道とは霊の道ーー霊が通る道のことを言うんだよ。無縁仏って言えばお前でも知ってるよな。誰からも供養されない霊のことだ。誰からも供養されないから、成仏することが出来ない。だから自分で自分を供養してやるために、神社や寺に通いつめるんだよ。その途中に建物があると、霊はその建物を通り抜けて神社に向かわなくてはならない。だから曰わく付き物件では怪奇現象が耐えないんだよ」
「じゃあ、このマンションも霊道ってこと?」
「霊道ならまだマシだったんだけどな……」
見てみ、と。姉さんは穴を指差した。
穴の縁にか細い指が掴まっているのが見えた。骨が剥き出しになっているような細い指だ。爪をギチリと立て、必死に落ちないようにとしがみついているようにも見える。
「な、何あれ……」
「この場所はね、”地獄”に繋がってるんだよ」
「じ、じごく……?」
「そう。あの穴はパイプみたいになっていて、地獄と繋がってるんだよ。引きずり込まれたら地獄に真っ逆様。二度と帰ってはこられない。穴の縁にしがみついてるあの手ーーーあれはこの部屋の元住人だよ。今までの住人も、原因不明の失踪をしてるんだと思う。みんな、あの穴に引きずり込まれたんだよ」
「この部屋の元住人って……まさか!」
ショコラの兄貴か!?
俺は何も考えずに駆け出した。穴の縁にしゃがみ込み、「おい、掴まれ!」と手を差し出す。
だがーーー俺からの呼び掛けに顔を上げたのは男ではなく女だった。髪の毛の長い女。頬はげっそりと痩けていて、肌がガサガサに乾いていた。
土気色の顔には生気がなく、眼球は片方がとろけてしまっており、ぽっかりと穴が開いてるだけだ。その穴からはジクジクと白い小さなうじみたいな虫が蠢いていた。口はだらしなく開かれ、始終よだれが流されっぱなしだった。
女は残った片方の眼球をギョロリと動かし、俺を見た。俺は手を差し出した状態のまま、ピクリとも動けずに固まってしまった。
女は言葉は発さず、唇だけ動かした。
「む」「だ」「だ」「よ」
次の瞬間、女は物凄い勢いで下へと引きずり込まれた。必死で穴の縁にしがみついていたのだろう、床にはあの女の生爪が刺さっていた。
穴の中に引きずり込まれた女は、一瞬で闇に溶けて消えた。
「あ、あ……あ、ああ………あ、ああああ、」
「ダメだね。もう助からないよ。お前も早くどきな。引きずり込まれるよ」
姉さんは俺の首根っこを掴むと、グイと引っ張った。俺は半泣き状態で姉さんにすがりついた。
「ひっ、ひとが…!おんっ、おっ、おんなのひとが……!いまっ、おち、お、おちた……、」
「哀れだとしか言えないね。この土地自体が悪いモノなんだよ。この場所には何も建てないほうがいいんだけどな。立ち入り禁止地区にして、人の出入りを完全に阻むべきなんだろうけど」
人間は人間の都合だけで動くからね。
姉さんは最後にそれだけ言うと、俺の手を引いて部屋を出た。
部屋を出てすぐ、背後から強烈な視線を感じて振り返った。見れば七階の各部屋の扉が薄く開いており、住人とおぼしき人達がジッとこちらを見つめていた。ゾッとしたことは言うまでもない。
そうそう、これだけは付け足しておこう。
後から分かった事実だがーーーショコラに兄はいない。
作者まめのすけ。
今回の話はVEILEDGOTHさんの体験談を元に書かせて頂きました。貴重な体験談を元に、私なりのアレンジや脚色を付け加えさせて頂きました。
VEILEDGOTHさん、本当にありがとうございました!