玖埜霧欧介(クノギリオウスケ)は国語が大の苦手である。勉強は全般的に苦手だし、好きではないけれどーーーその中でもダントツに苦手なのが国語だ。
とはいえ。国語といっても幅広いジャンルに分かれている。教科書の朗読からはじまり、漢字の読み書き、作文などなど。俺はこの作文というやつが苦手だった。
教科書の朗読や漢字の読み書きならまだいい。しかし作文だけは嫌なのだ。何故かと問われれば、作文を書くために必要な文章力、表現力がからきしだからなのだった。
テーマを与えられ、「あなたの考えを述べよ」と言われても困ってしまうのが現状だ。一行目の書き出しから躓いてしまう。
さて、何と書いたらいいのだろうかーーーと。
文章力、そして表現力がある人間が羨ましい。作文なら原稿用紙何枚でも書けてしまうよと言える人間を心底尊敬する。
きっとそういう人間は、今突如としてテーマなら何でも構わないから作文を書いてみろと言われれば、きっとスラスラ書けるのだろう。
それは俺にはないスキルである。
だが。こんな文章力も表現力も乏しい俺だが、あるテーマについてなら、それこそ迷いなくスラスラと書けるのではないかと、そう思っている。
そのテーマとは何か。
「玖埜霧御影(クノギリミカゲ)について」である。
これに対し、長々と長文で書き表す必要はどこにもない。答はとても明白であり、単純であり、一行書いてそれでお仕舞いだ。
【問】玖埜霧御影についてあなたの考えを述べよ。
【答】玖埜霧欧介にとって、玖埜霧御影とは■■以上■■未満である。
◎◎◎
それはある月曜日の午後。俺と姉さんは市内にある、あまり繁盛してるとは言い難いカラオケボックスに来ていた。勿論、誘ってきたのは姉さんである。
「たまには歌でも歌ってストレス発散しようぜ」
学校帰りに姉さんからメールで呼び出され、俺はノコノコと指定されたカラオケボックスにやってきた。先に来ていた姉さんがテキパキと受け付けを済ませ、案内された個室に入る。
ふうむ。カラオケなんてすげー久々だ。姉さんと来るのは初めてだった。
「先に歌ったら?」
にっこり笑ってマイクを差し出す。姉さんはにっこり笑ってマイクを受け取り、コトンとマイクをテーブルに置いた。
あれ?何でマイク置いちゃうの?
「欧介。両手をグーにして前に出して」
「ほえ?何で?」
「いいからいいから」
よく分からなかったが、言われた通りに両手をグーにして前に出す。姉さんはそれを確認すると、にっこり笑ったまま、制服のネクタイをシュルリと外した。
「るん♪るん♪るん♪るん♪るるるんるん♪」
鼻歌など歌いつつ。姉さんは俺の両手首にぐるぐるとネクタイを巻き付けていく。隙間が出来ない よう、きつーく結ばれた。両手は拘束された形になる。
拘束……?
おやおや?何だかとてつもなく嫌な予感がするのはどうしてだろう。誰か気のせいだよって言って。
「えーっと……。もしもし?」
「大丈夫大丈夫。お前は何も心配しなくていいよ。全然痛くないから。優しくしてあげるから」
「その台詞が何より心配!何する気?どうする気?止めて離して!ソファーに押し倒さないで!」
「カラオケに来てすることなんて決まってんだろ。大丈夫だって、私がちゃんとリードするからさ」
「止めて止めて止めて!ボタン外さないで!ワイシャツ脱がさないで!」
「ふふふ。私、そろそろ排卵日なんだよね」
「前回の問題発言を持ち出さないでーっ!!!」
と。姉さんのブレザーのポケットに入っているiPhoneが鳴った。電話である。
「ちっ。今、いいところだったのに……」
姉さんは忌々しそうに舌打ちすると、iPhoneを取り出した。表示された名前を見、姉さんは「もしもし。御影です」と電話に出た。
多分、ママからだ。姉さんのiPhoneに登録されてある電話番号並びにメールアドレスは、ママ、パパ、そして俺の三人だけだ。パパは滅多なことがないと電話は掛けてこないし、俺は姉さんに襲われて身動きが取れないでいるから論外。
となるとーーー残る電話の相手はママからだということになる。知らない番号から掛かってきたという可能性もなくはないが、そういった場合、姉さんは電話に出ないし。
「はい……。はい……。嗚呼、はい。分かりました。そうしておきます。では……」
一言二言会話をし、姉さんは電話を切った。基本的に姉さんは両親の前では敬語で話している。それに、俺を相手にしている時と違い、えらく真面目で慎ましやかである。同一人物とは思えないほどに。
俺の前でも、少しは慎ましやかであってほしい。
姉さんはiPhoneを元通りポケットに仕舞うと、やれやれとばかりに溜め息をついた。
「父さんと母さん、今日も仕事で遅くなるんだって。冷蔵庫の中に何もないから、夕飯の材料を買ってきて作れってさ」
「そ、そうですか……」
嗚呼、良かった。ママからの電話があって本当に助かった。でなきゃ今頃、本番真っ最中だ。
「じゃ、そういうわけだから。適当に買い物してくるけど、お前はここでお利口にしてろよ」
「ちょっ、ちょっと待って。俺をこのままにして行くの?」
「そうだよ。勝手に帰ったりしたらどうなるか分かるよな……つーか、そのままじゃ出るに出られないか。両手首の自由、利かないしね」
姉さんは俺の手首を見てクスリと笑った。この様子では、ネクタイを解いてくれる気はさらさらなさそうだ。
全くもう。最近の姉さんは一体どうなっちゃってるんだろう。発情期か何かなのかな。排卵日がどうとか言ってたし……。
「今日の夕食は鰻にしようか。精がつくように」
「だからそうやって露骨に誘わないでー」
姉さんは「んじゃなー」と片手を上げ、個室を出て行った。あとにはネクタイで両手首をキツく縛られ、ワイシャツは第二回ボタンまで外された俺が残された。
「…………」
言葉が出ない。どうして俺はこんな場所で一人、実の姉に貞操を奪われそうになってんだろ。
何とか解けないものかと足掻いてみたが。手首が鬱血するくらいギチリと固く縛ってあるので、幾ら足掻こうが無駄だった。
このまま、鬱血が進んだらどうしよう……。
はあ、と。深い溜め息を吐いたその時だ。
『よおよおよお。いっちょ盛り上がってるかい!?何してんだてめぇ。手首なんて縛られちゃてまあ。ワイシャツの第二ボタンまで外されてんじゃん。何だよ、強姦でもされそうになってんの?』
軽い口調で個室に入ってきたのは、背の高い人物だった。
うなじの辺りまで伸ばした髪は白髪。切れ長の赤い瞳。体にピタリとフィットするような黒いスーツ。首には赤い紐が蝶々結びに結わえられている。
一見すれば、ホストみたいな男だった。客引きしている時のように愛想良く笑ってはいるが……その笑い方がやたらと凶暴的だ。
目を背けたくなるほどに、凄惨で惨たらしい笑い方だった。
そして奇異なことに、男の頭からにょっきりと尖った三角の耳が生えていた。おまけに尻尾らしいものも生えており、後ろでぶんぶんと揺れている。
何だ、こいつ……。コスプレでもしてるのか?姉さんもたまにおふざけで猫耳や兎耳付けたりするけどさ。
女の子の猫耳姿は萌えるけれど、男が猫耳付けて全く萌えない。だって可愛くないもん。
まあ、猫耳はこの際脇に置いといて。
「…、あんた誰?」
カラオケボックスの店員……には見えない。ていうか、こんな怖い笑い方をしてる奴が店員であってほしくない。知り合いでもない。まごうことなき初対面だ。
男はニヤリと笑みを深くした。顔の半分が口になってしまったのではないかと思うほど、グワッと大口を開けて笑った。二本の鋭い八重歯が覗いている。
『人にもの尋ねる時はまず自分から名乗るっつーのが礼儀なんじゃねえの?まあ、俺は人じゃないんだけどさ。人じゃあねえよ。人に化けてはいるけどな』
「人に化けて……?」
『おーっと。質問ならあとで幾らでも答えてやろうじゃないの。その前にだよ、お前の名前を教えろや。苗字も名前もだぜぇ。そしたら俺様の本名も特別に教えてやるかもしれねーぞ』
教えてやるかも、なんだ。仮定の話なのね。
疲れる奴が来ちゃったなあ……。姉さん、早く帰ってきてー。
「玖埜霧欧介だけど」
『く、くの……。言いづれー名前だなー。俺様莫迦だから、三文字以上の名前は覚えられねーや。んんんー、もういーわ。お前はクノでいいや。はい決まり、よし決まり、待ったなし!』
「三文字以上覚えられないなら、人様に名前を聞くんじゃないよ……。クノでも何でもいい。お前が呼びやすいように呼んでいいから」
『かっかっか。クノはいーい奴だなあ。優しいなあ。優しいなあ。惚れちまうじゃねえか。俺のタイプだ莫迦野郎。親愛のしるしに、いっちょ握手でもしとく?』
「無駄口は聞くな。茶々を入れるな。俺が自己紹介したんだから、次はお前の番だろう」
『あー、そっかそっか。それもそーだなあ。かっかっか。でもよー、クノ。俺の正体なんざコレとコレ見たら一目瞭然じゃねーかな』
男は自分の頭に生えている尖った耳と、それから尻尾らしいものをそれぞれ指差した。
俺はそれを見たままに答える。
「……、猫?」
『だいせーかいだぜ。やるじゃねえか、クノ。その通りだよ。補足するとすりゃあ、ただのニャンコじゃねえってことかな。猫は猫でも、ニャアゴロンと猫撫で声で鳴くような猫じゃあない。ーーー化け猫だよ』
「…、化け猫ぉ?嘘だろ?」
『かっかっか。嘘なんざついてどうするよ。俺様は化け猫だ。正真正銘、純正品の化け猫だよ。これでも二百年は生きてんだぜえ。定義に忠実な化け猫だぜえ。化け猫代表格といやぁ、この俺様のこった』
「……どういう意味だ?」
『怪異ってーのはさ。人間に名を付けられ、形を与えられることによって縛られてるんだっつーの。分かる?例えば俺の場合で考えてみようぜ。俺は人間から化け猫という”名”を付けられ、人間が描いた化け猫の絵画に則り”形”を与えられた。それによって俺達は縛られている。怪異は人間に縛られることで、定義を定められている。定義を定められたということはーーー存在を定められたということさ』
名を付け形を与え、縛る。その存在を定める。
つまり。怪異とは人間が定めた通りにしか存在出来ないのだ。化け猫ならば化け猫の、人間が定めた「定義」に倣って初めて存在出来る。逆を言えば、定義に逆らって存在することは不可能なのだ。怪異としての概念や思想は、全て人間が決めたものだから。
名は化け猫であり、姿形は巨大な猫であり、時々人に化け出ることがある。そして時たま人を食らう。これこそが、人間が定めた化け猫の「定義」。
『俺もまた人間が勝手に定めた定義によって縛られちまってる。ガッチガチに縛られてんだぜ?名や姿形を定められちまってるから、行動パターンも制限されちまってるんだもんな。ったく、忌々しい。俺は猫だからさ、自由気ままに行動出来ないのは辛いんだぜぇー』
ヘラヘラとした調子で猫耳男は続けた。しかも、ちゃっかりと俺の隣に腰掛けてるし。
『化け猫が初めて世に知れ渡るようになったのは鎌倉時代なんじゃねえかなぁ。さっきも話したけど、徒然草っつう随筆の中に化け猫が出てくんだよな。山奥に猫のバケモンが住んでるっつう話。一説には猫のバケモンじゃなくて、狂犬病にかかった動物だったんじゃねえかっつう話もあるみたいさね』
「……お前の話はどうも回りくどいな。理解し難いよ。結局、何しにここへ来たかくらいは教えてほしいんだけど」
『はん。そりゃクノが俺と同じように莫迦ってこったろ。莫迦と莫迦がかます水掛け論ほど虚しいものはねーや。へいへい、分かりましたよ。さっさと本題に入りゃあいいんだろ。つまりだな、最終的に何が言いたいかっつうと……』
猫耳男は後ろ手に持っていた物を出してきた。小型サイズのビデオカメラである。
『近くの公園にあったんだよ、コレが』
「……ビデオカメラがか?」
『そ。あの公園は俺の縄張りでね。時たまお散歩するんだけどさぁ……。女子トイレの天井に仕掛けてあったんだな』
「じょっ、」
女子トイレの天井にビデオカメラ!?
それって、まさか……。
「盗撮ビデオってこと……?」
うわあ、マジで嫌だ……。物的証拠じゃんコレ……。
俺が心底引いているにも関わらず、猫耳男は相変わらずヘラヘラと笑っていた。そしてふいに右手を構えると、ひゅんっと風を裂いて俺の手首を拘束していたネクタイを切った。
ーーーハラリ。ネクタイはそのまま、床に舞い落ちる。
「どわわわっ!お前、何してくれてるんだよ莫迦!ネクタイ切っちゃってどうすんだよ!どうしてくれるんだよ!」
『ああん?何だよ何だよ、そんなに慌てちゃってまあ。両手が使えないままだと不便かなーって思ったから、親切に切ってやったんじゃんかよ。莫迦なんて言われる筋合いはねーぞぉ』
「この莫迦猫!これは俺のネクタイじゃないんだよ!これは姉さんのーーー」
『御影のだろ。知ってるってーの、それくらい。犬ほどじゃねーが、猫だって鼻は利くんだぜぇ?俺様が御影の匂いを忘れるわけねーだろうが、呆け』
「……へ?」
こいつーーー姉さんを知ってるのか?
しかも呼び捨てだし。姉さんのことを呼び捨てで呼ぶのはパパとママくらいだと思っていたけれど……どうしてこいつまで馴れ馴れしく名前で呼んでるんだよ。猫の分際で。
鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていると。猫耳男はニヤニヤしながら舌めずりをした。
『まあまあ、落ち着けや。俺と御影の馴れ初め話はあとでだって出来るだろ。今は置いといてさ、とりあえずコレ、見てくんない?』
「み、見ろったって……。やだよ。だってコレ、女子トイレに仕掛けてあったんだろ。ほぼ間違いなく盗撮ビデオじゃん……」
『んー、まあそうなんだけど。でも何か面白いモンが映ってんだよ』
「お前、見たの!?」
見ましたよ、と。悪びれることなく、猫耳男は頷いた。
『猫は好奇心旺盛な生き物だからな。自分の縄張りに珍しい物ががあったら見るし弄くるに決まってんじゃん。いろいろ弄ってたら操作も覚えたしな』
「嗚呼、そうかい……。で、面白いモンって何だよ」
『うーん……。それがよく分かんねーから、御影に相談しようと思ってここに来たんだよ。匂いを辿って来たんだけど、クノしかいねーし。御影はどうしたんだよ』
「姉さんは今ちょっと買い物に行ってて……」
『はあん。そうかいそうかい。御影は買い物かい。んじゃすぐに帰ってくるだろ』
「そ、そうだけど……」
何だかモヤモヤする。姉さんのことを名前で呼ぶ奴が両親以外にもいたなんて。こいつ、姉さんとは一体どんな関係なんだよ。
すげー気になる。でも何でこんなに気になるんだろ。
悶々としていると。猫耳男はビデオカメラをひょいと手に取り、再生ボタンを押した。そしてそれをグイと俺の顔の前に突き出した。
『御影に見て貰う前にクノに見せといてやるよ。何かすげー変なモンが映ってるからさあ。見てみろよ』
「で、でも……」
『四の五の抜かすと、首筋に噛みつくぞ。動脈を引きずり出されたくねえなら見ろや』
「………」
生意気な猫め。あとで木天蓼を大量購入してきて酔わせてやる。
俺はささやかな復讐を胸に、渋々ビデオカメラを覗いた。性能的にいえば、あまりいい材質ではないらしい。画像は荒れているし、ところどころ音が飛んでいた。
パッと映し出されたのは、女子トイレの個室。まだ誰も来てはいないらしく、しばらく無人のトイレの映像をぼんやり見ていた。
と。若い女性がトイレに入ってきた。薄いグレーのパンツスーツに白いショルダーバック。踵の低いパンプス。会社員のおねーさんって感じ。
おねーさんはショルダーバックをフックに引っ掛けると、ファスナーに手を伸ばしーーー
『おい、クノ。何でお前、目ェ瞑ってんだよ。こっからが面白くなるっつーのにさぁ』
「猫には分からないかもしれないけど、人間には羞恥心というものがあるんだよ……」
『シューチシン?シーチキンの仲間か?』
「違うよ。……おねーさんが用を足し終わったら教えてくれ」
『終わったみてーだぞ』
俺はそろりと目を開ける。確かにおねーさんは用を足し終わった後らしく、立ち上がってショルダーバックを取っていた。そのまま鍵を開けて出て行くかと思いきやーーードアは開かない。
「あれ……?」
俺は首を傾げた。入る時は普通に開いたのに、どうして出る時は開かないのだろう。映像の中のおねーさんも、これは想定外だったらしい。しばらくガチャガチャとノブを回していたが、やがてドンドンと扉を叩き出した。
声も出しているようだが、残念ながら何と言ってるのかまでは聞き取れない。恐らく「出して!」とか「誰か!」と叫んでいるのだろう。
「おい……。おねーさん、閉じ込められてるぞ」
『うん。でも、もう少し待てや。こっからがいよいよ再骨頂なんだぜ』
猫耳男はニヤリと笑うと、便座を指差した。よくよく見れば、便器の中からゴボッゴボッと水が溢れ出してきていた。やがて溢れ出た水は、凄い勢いで個室を満たしていく。
おねーさんもこの異常事態に気が付いたようだ。水は着実に増えていき、いつしかおねーさんのパンツスーツは濡れてびしょびしょになった。ドアの隙間から水は漏れていくも、あとからあとから溢れてくるので、水嵩は増していくばかりである。
おねーさんは何やら喚きながら、ドアをドンドンと乱暴に叩いている。水嵩はこの時点で、おねーさんの腰くらいまできていた。
「ん!?便器の中に何かいる……」
便器の奥。ゆらゆらと蠢く黒っぽいモノーーーそれは少しずつ浮上し、ヌウッ……と便器から這い出てきた。
「……腕だ」
人間の手。肘から先の部分である。
だがーーーその腕は真っ黒だった。真っ黒だし、異様に細い。干からびたミイラみたいな腕。
おねーさんは腕には気付いていない。必死な素振りでドアを乱暴に叩きまくっている。水嵩は更に勢いを増し、背伸びしたおねーさんの肩先くらいまで溜まっていた。
腕はーーーまるで蜘蛛みたいに、ワキワキと関節を鳴らしながらにじり寄り、後ろからおねーさんの首を掴んだ。おねーさんは驚いて、その手にむしゃぶりつく。だが、腕の力は相当強いらしく、みるみるうちにおねーさんの細い首を締め上げていきーーー
「……ッ、ううっ、」
おねーさんは両手をバタバタさせていたが、ブルルッと痙攣した後、ぴくりとも動かなくなった。首がおかしな方角へとひしゃげてしまい、口からはダラリと舌が垂れてしまっていた。
「ううう……ッ、あああああ、」
俺は半泣き状態で口を押さえた。胃液が喉元まで込み上げ、今にも吐いてしまいそうになる。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
き も ち わ る い。
それはーーー非常にリアルな人間の死に様だった。
糸の切れた操り人形みたいになったおねーさんの首には、未だにあの黒い手が絡まっていた。すると、嘘のように水は引いていき、数分後にはすっかりなくなっていた。
「……ッ、」
『ワリィけど、吐くんならそれこそトイレに行って吐けよ。間違っても俺の隣で吐くんじゃねーぞ。猫は綺麗好きなんだから』
嫌だ……。こんな映像を見せられたら、トイレなんてしばらく行けるわけがない。
どうにか吐き気を堪え、再びビデオカメラに向き直る。黒い腕はおねーさんのから手を離す。今度は倒れ伏すおねーさんの髪の毛を掴むと、便器の中に引きずっていく。
……おねーさんは頭から便器の中に突っ込むような形で、これ以上ないくらいに無様に倒れていた。そこで映像はブツンと途切れ、ザーザーと砂嵐が続いた。
「……………………」
『な?だから言ったろ、面白いモンが映ってるって。コレを御影に見て貰いたかったんだっつうの。解明して貰おうと思ってさあ』
猫耳男はごろごろと喉を鳴らした。俺はそいつの尻尾を思い切り引っ張ってやった。
『フギャーッ!?』
「莫迦野郎!お前なんて化け猫じゃない、莫迦猫だ!人が一人死んでんじゃねーか!何が面白いモンだ!」
『ああん!?人間が死のうが生きようが、俺様には関係ねーだろうが!人間の観念を怪異に押し付けようとすんな莫迦!』
「てめぇ……ッ、」
『やんのかコラァッ!』
至近距離で睨み合い、バチバチと火花を散らす。化け猫だか何だか知らないが……人の命を何だと思ってやがるんだ。
今にも取っ組み合いの喧嘩が勃発しそうになった丁度その時。
「おい。何してんだ、お前達」
買い物袋を下げた姉さんが部屋に入ってきた。不思議そうな顔付きで、俺と猫耳男の両方をしげしげと見つめている。
『みぃーかぁーげぇーーーーー♡♡♡』
猫耳男は目をキラキラさせ、ぴょんこらと飛び跳ねるようにして姉さんの前で四つん這いになり、ごろごろと擦り寄った。
『うにゃ~んごろごろ♡会いたかったにゃ~♡愛してるにゃ~♡交尾しようぜ交尾♡』
「よしよし。久しぶりだね、ソルト」
「ソ、ソルト……?」
そうだよ、と。姉さんは事も無げに頷いた。
「私がこいつに付けた名前だよ。真っ白いから雪にしようかソルトにしようか迷ったんだけど、最終的にはソルトにした」
「へえ……」
ずっとこいつのこと「猫耳男」って呼んでたけど。何だ、名前あるんじゃん。そういえば、まだ名前を聞いていなかったことを今更ながらに思い出した。
「ていうか……姉さん、こいつのこと知ってたの?」
『うん。一カ月くらい前だったかな。こいつがお腹空かせてたから、キャットフードを恵んでやったんだ』
「………」
怪異が人間に食べ物を恵んで貰うなよ。幾ら化け猫っていってもさ、キャットフードはどうよ。
ソルトは狂ったように喉を鳴らし、姉さんに抱きついた。おまけにほっぺをペロペロと舐めるので、俺は何だか無性に苛ついてきた。
こいつ……すげえムカつくんですけど。猫だけに猫被りやがって。姉さんにベタベタ触るんじゃないよ。
『ごろごろ♡ごろごろ♡ごろごろ♡』
「そういや、何でここにいるの?」
姉さんからの質問に、ソルトはとろんと陶酔しきったように姉さんを見上げた。瞳は潤み、口元は緩みっぱなしである。
『決まってるじゃねえか~♡御影に会いたくて会いに来たんだよ~♡』
「嘘つけ!ビデオカメラを見てほしいんじゃねえのかよ!」
この色情魔。いい加減で姉さんから離れろ。馴れ馴れしく触るな。
「ビデオカメラ?」
『ちぇっ。いいとこだったのに……』
どこかで聞いたような台詞を呟き。ソルトはギロリと俺を睨むと、ようやく姉さんから離れた。そしてテーブルの上に置かれたビデオカメラを手に取り、姉さんに差し出した。
『御影に見て貰いたいモンがあってさぁ。ちょっくら見てくんね?』
◎◎◎
「ふうん……。また厄介なモノを持ち込んでくれたね」
ビデオカメラの映像を一部始終見終えた姉さんは、渋い表情をした。姉さんがこういった表情を浮かべるということは、この映像が本当に危険性を帯びているということだ。
『厄介っつーと……御影でも太刀打ち出来ないっつうことか?そんなにヤベーのかよ?』
ソファーに腰掛ける姉さんの右隣にちゃっかり座り、ソルトは呑気な口調で言った。因みに俺は姉さんの左隣に座っている。
「厄介だよ。だってこいつには定義がないから。怪異としての名もなければ形もない。一応、人間の腕みたいな形はしているけれど……これだけじゃあ形とは言えないな。形は全身像でないと掴みにくいしな。定義がないから、怪異としての属性がない。人間を殺すための意志のない殺戮マシーンみたいなものだ」
『人間を殺すための意志のない殺戮マシーン、ねぇ……。はあん、へえん。そりゃ初耳だけど、確かに厄介だな。怪異としての属性がないっつーんなら、こいつァ怪異ですらねえってことか』
「怪異以上に厄介だ。これは相当悪いモノだよ。一応、知り合いの寺に御祓いを頼んでみるけど、最低でも半年は掛かるね。半年掛かっても、完全に祓えるとは思えないけどね」
『ふうん。御影にも出来ねぇことがあるんだねぇ。そこらにいる半端な専門家よりも、御影のほうがずっと専門家らしいけどな』
「人間側が出来ることなんて、ほんの一握りでしかない。私だって万能じゃないんだ。出来ることと出来ないことはあるしーーーそれに、」
それに。怪異は祓えばそれで解決したってことにはならないんだよ。
言い終わると、唐突に姉さんは立ち上がった。テーブルの上に戻したビデオカメラを手に取ると、何を思ったのかコトリと床に置いた。
そして右足を高く上げーーー振り落とす。
グシャッ。カラカラカラン……
踵落としの要領だった。ビデオカメラは姉さんの踵落としで粉々に粉砕され、ただの「ゴミ」と化した。
「どっかの変態が盗撮のために仕込んだビデオカメラに、こんなモノが映ってたとはな。とりあえず壊しとくぞ。手元に置いときたくもねーし」
『流石は御影だなぁ。御影がすることに俺様は何の異存も文句もねーよ。お前が壊したほうがいいってんなら、壊しちまったほうがいいんだろうな。かっかっか。愉快痛快!』
ソルトは唇を歪ませ、凄惨に笑った。本当に愉快そうに。楽しそうに。笑うだけ笑った。
……笑う要素など、どこにもないというのに。
『はーあ、笑った笑った。百年分くらい笑った。んじゃ、俺様はそろそろ行くぜぇ。お散歩の途中なんでな。じゃあなー、御影。愛してるよー♡』
ソルトはちゅっと姉さんの頬にキスすると、来た時と同じようにヘラリと笑ってーーースタスタと部屋から出て行った。
最後の最後までムカつく奴だ。姉さんにキスまでしやがって……。
「姉さん、何なのあいつ!あいつこそ御祓いしてよ!姉さんにベタベタするし、マジでムカつくんだけど!」
「猫は三年飼っても三日飼えば恩を忘れるとはよく言ったもんさ。どうせ今に私から餌を恵まれたことなんて忘れるよ。でもまあ、害がある奴ではないから安心しな」
「でも、あいつ……。あの映像見て、面白いモンが見えるとか言ったんだよ。人が一人死んでるっていうのに……」
「お、う、す、け」
姉さんは俺をぎゅうと抱き締めた。ぎゅっと抱き締めてくれた。それだけのことなんだけれど……何だか救われた気になる。
「怪異に人間側の理屈は通じない。怪異からしたら、私達人間は本当にどうでもいい存在なんだよ。一人一人の区別さえついてるかどうかも怪しいもんだ。だからこそーーーお前は怪異に何も求めるな。怪異を頼りにするな。怪異を利用して利益を得ようとするな。馴れ合ったつもりでいても、所詮は怪異と人間は相容れない者同士だから」
お前は私だけ頼っていればいいんだよ。
「うん……。分かった」
そうするよ。怪異に何も求めない。怪異を頼りにしない。怪異を利用して利益を得ようとなんてーーー絶対するもんか。
窮地に立たされたその時は、姉さんを頼りにするから。
「……ところでさあ、欧介。一つ聞いてもいいか?」
姉さんは俺をぎゅっと抱き締めたまま呟く。心なしか声のトーンが低くなり、後頭部に回された手が爪を立ててる気がするんだけど……気のせいかな。
姉さんは優しげにーーーだけど物凄く冷えた声で続けた。
「私の学校指定用のネクタイなんだけど。どうして真っ二つになってんのか教えてくれる?」
作者まめのすけ。