猛暑が続いていた頃。
朝、廊下に出ると花と果物の強烈な芳香が漂っている。
南国を思わせる匂いだった。
見ると、玄関が開いている。暑いからか。
だが、内側の網戸まで開いている。
(虫が入るじゃない…)
網戸だけでも閉めておこう。
そう考えて戸口に近づく。
カラッ。タン。
小気味よい音を立てて、引き戸が勝手に閉まった。
もちろん風の仕業などでは無い。
口を開けたまま立ち尽くしていると、居間から泣き声が聞こえた。
入ると、父が母の肩を抱いている。
泣いていたのは母だった。
「どうしたの?」
「いや、何でもないんだ」
父親が視線も合わさずに答えた。
今し方起こったことを話すきっかけを失ってしまった。
その日から、仏壇に飾られた祖父母の写真が無くなった。
母に理由を訪ねたが、曖昧な返事しか返ってこなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
子のない夫婦がいた。
いつも二人、仲が良かった。
結婚して長いが、いつも手を繋いで歩く程だった。
十回目の結婚記念日の朝だった。
「あ。待って」
妻が夫の手を握った。
愛おしそうに指を絡めてくる。
「おいおい。もう行かなくちゃ」
笑いながら夫が手を離した。
妻は名残惜しそうな…いや悲しそうな笑顔を浮かべ、 手を振った。
その日、妻が自宅で倒れているのを、彼女の母が見つけた。
昏睡状態が続き、そのまま眠るように息を引き取った。
結婚記念日から、ちょうど一週間だった。
十一回目の記念日を共に祝うことは、永遠になくなった。
だが、記念日の朝には必ず、見えない手で右手を握られるのだという。
広いベットの中、その手の感触で目が覚める。
握り返すと僅かに弾力を感じることができる。
暖かく、滑らかで小さな手だと分かるのだ。
妻の手だ、と思う。
涙が流れそうになったとき、手の感触が消えた。
妻が居なくなって五年経つ。
今も夫は後妻を貰わない。
毎年の記念日だけを楽しみに生きている。
作者きよ-2