俺には四つ年上の姉がいる。
こうして最初の書き出しがあり、それからだらだらと姉のことや物語の語り手ーーーつまり俺のことだが、自分のことに関しても長く語い、退屈に思われてはいないだろうか。
いっそのこと、こんなに長い前置きは排除するべきかもしれない。語り手側は、こうした長い前置きも必要性があるから語るのであって、別に苦でもなければ楽もない。本編に行き着くまでの通過点であるからこそ、どれだけ長くとも語る義務があるのだが。
語り手がいるということは聞き手がいるということだ。聞き手がいて初めて、語り手は自身の物語を語ることが出来るのだから。
長過ぎる話は退屈を呼ぶ。前置きはいいから、早いところ本編に入ったらどうだと言われてしまえばそれまでだが、それについては申し訳ないが受け入れて貰うしかない。
何故ならーーー物語を語る上で、核となるのは前置きだからである。
前置き。つまり、物語の冒頭に位置し、物語に踏み込む前のプロローグ。これから先の展開を窺わせる、ちょっとした小話のようなもの。
プロローグがあってこそ、主軸となりうる本編がより引き立つのではないだろうか。逆にプロローグが簡素かつ雑だと、本編の醍醐味が磨り減ってしまう。本編を引き立てたいのなら、プロローグをまずきちんと語るべきだと俺は思っている。
プロローグとはほんの序章に過ぎない。だが、ショートケーキに乗る苺のような存在を果たしているのだ。土台はスポンジケーキ、デコレーションは生クリームで飾ればほぼ完成だが、苺が上にあるのとないのでは、まるで印象が違う。
苺があるからこそ、土台のスポンジケーキもデコレーションの生クリームもより引き立つのだ。苺の乗っていないショートケーキほど、哀しいものはない。
……何だか本当に前置きが長くなってしまった。申し訳ない。
俺と姉さんのめくるめく濃密な日常生活を語りたいところではあるが。そうしているうちに本編までをブッ潰して語ってしまいそうなので、次回に繰り越そう。
いよいよここからが本編の幕引きである。
◎◎◎
寒い冬の朝というのは起きるのが非常に辛い。俺は昨晩からの夜更かしが祟り、なかなかベットから出られずにいた。
今日は冬休み二日目。学生の身からしたら、この上なくありがたい制度といえる。春休みや夏休み、冬休みなど。学校に行かなくて澄むというのは肉体的にも精神的にも楽である。
……まあ、昨日は行かなくてもいいはずなのに学校に呼び出され、面倒事を押し付けられ、散々な目に遭ったのだけれど。
昨日の疲れもあり、午前10時を過ぎても俺はベットでウトウトてしていた。このまま二度寝タイムに突入かと思われた時ーーーパジャマを捲られ、お腹の辺りを撫でるような感触があった。
スルスルと素肌を撫でる手は上っていく。かなり際どい位置に触れられ、俺は目を瞑りながらも抗議の声を上げた。
「んん……、姉さん、くすぐったい……」
『私は御影様ではありませんわ♡』
意識が覚醒した。
この甘ったるい声に♡マークを付けた口調……俺が知る限りでは一人しかいない。
俺は恐る恐る布団を捲りーーー予想を裏切らない光景に息を呑んだ。
「ゆずっ、……、」
『シー♡お、し、ず、か、に♡』
彼女は俺を一瞬で黙らせた。左手の人差し指を可愛らしく自分の唇に当て、右手に構えた銃を俺の口の中に突っ込んだのである。
『イタリアで開発された銃ーーーベレッタ♡総弾数十五発、秒速三百六十五/s♡形状の美しさから、映画や小説などでよく使用されています♡イタリアが誇る名銃ですわ♡』
にこにこと。メイド服を着た金髪ツインテールの美少女、柚希は僅かに小首を傾げながらそう言った。
柚希はその格好から、秋葉原辺りにいそうなコスプレイヤーだと思われていそうだが、実は違う。そもそも人間ですらない。人間に使役される怪異ーーー式神である。
萌え萌えな外見とは裏腹に、かなり喧嘩っ早く、かつ狂暴的。そもそも昨日の面倒事にも柚希が関わっており、俺や姉さんは散々な目に遭ったのだ。
柚希の武器は二つ。一つはその萌え萌えな容姿。これは相手を油断させるためらしい。メイド服に金髪ツイン、顔立ちは至って可愛らしく、あどけない。人間は哀しいかな、可愛らしい少女にはどうしたって油断するし、隙も生んでしまうのだ。
二つ目の武器は銃や手榴弾という荒っぽい物。前回は太ももにマシンガン、胸の谷間に手榴弾を隠し持っていたのだからやばすぎる。他にもどこかに武器を隠しているのかもしれないが、定かではない。
柚希は銃口でゴリゴリと俺の舌を突つく。口の中には唾液が溜まり、一筋ツゥー‥‥‥と流れたが、今はそんなことを気にする余裕もない。
「…、うっ、ぐっ……」
『そんなに警戒なさらずとも大丈夫ですよ♡ちょっとしたお願い事をしに伺ったまでですから♡』
「……、?」
お願い事?まさか俺とデートしたいとか、そんな浮ついたお願い事をしたいのじゃあるまいな。
『私とデートして下さいませんか♡』
浮ついたお願い事だった。
『こぉんな可愛らしい女の子を引き連れて外界を闊歩出来るのですよ♡お望みならば手を繋いであげてもいいですし、犬用のリードに繋がれて四つん這いになってあげてもいいですわ♡何ならタイツから白いソックスに履き代えましょうか♡』
「…………」
どんなデートだよ。メイド服の美少女を犬用のリードで繋ぐなんて何プレイだよ。そんな姿を晒してみろ、警察に通報されちゃうよ。
『私からの申し出を断るというのならば、喉に風穴を開けますよ♡うふふ、これは申し出ではなく脅迫とも言えますわね♡』
間違いなく脅迫だった。断る選択肢もあるにはあるが、断った瞬間にあの世行き確定である。
『イエスなら一回瞬きを♡ノーなら十字を切って下さい♡』
俺は一回瞬きをしてみせた。柚希は満足そうに頷くと、ようやく俺の口の中から銃口を引き抜いてくれた。もうガクブルである。
柚希は銃を仕舞うと、俺の胸倉を掴んで上半身を起こした。そしてボタンを順に外していくと、上着を引っ剥がした。
「えっち!何すんだよ!」
『さっさとお着替え下さい♡デートに行くんですから、早くお出掛け用の外出着にお着替えになって♡』
「デートったって……。お洒落な服はないから普段通りの格好だけど」
『別に構いませんわ♡要は寝間着姿でなければ良いのです♡出来るだけ動きやすい格好をして頂けるとありがたいですわ♡靴は摩擦に耐えられるバッシュが望ましくてよ♡』
「アスレチックにでも行くのかよ……。はいはい、ちょっと待っててね」
クローゼットから適当にトレーナーとジーンズを取り出す。運動系の部活動に所属していないため、バッシュはない。まあ、靴は普段使っているスニーカーでいいだろう。
デート、ねぇ。その言葉をほいほいと鵜呑みにするほど、俺も単純ではないが……逆らったところで何をされるか分からないので、とりあえず言うことを聞いたほうが良さそうだ。
俺は気付かれないよう、こっそりと溜め息をつき、トレーナーに着替えた。次はジーンズを履こうとパジャマのズボンに手を掛けた……のだが。
「あのう……もしもし、柚希さん」
『はい♡何でしょうか♡』
「その……。悪いんだけど、後ろを向いてて貰えないかな」
◎◎◎
『デートですわデートですわー♡ルンルンランランですわー♡ええっと、まずはどうしましょう♡手始めに映画を観て、軽く食事をして、そのあとはショッピングを楽しみましょうか♡』
「………」
ノリノリな柚希さんだった。
現在、俺達は家を出てアテもなく歩き回っていたりしている。
姉さんは今朝方からどこかに出掛けているらしく、玄関には靴がなかった。お陰で俺はかなりビクビクしながら歩いている。もし町中で姉さんとバッタリ遭遇しようものなら殺されそうだ。
姉さん以外の女の子と、白昼堂々とデートしていたなんて知られたら、確実に死刑である。
何だろう、この心境は……。まるで交際相手に内緒で、浮気相手とデートしている男のような気分だ。後ろめたい気持ちを感じつつ、キョロキョロしながら歩いていると。
『もうっ、欧介様ったら♡』
「ぐえっ!」
脛に激痛が走る。柚希が渾身の力を込め、いきなり脛に蹴りを入れたのだ。これは痛い!
「何すんだよ!痛いじゃんか!」
『せっかくのデートですのに♡何をそんなにビクビクしてらっしゃるの♡もっと楽しそうにして下さらないと♡』
「……隣に暴力的な式神がいると思うと、素直に楽しめねぇよ」
『欧介様は女性から暴力的な扱いを受けるのがお好きなのでしょう♡』
「そんな性癖は俺にはないよ!変なアプローチをするな!」
『私、昨晩からずっと欧介様を見張ってましたのよ♡欧介様ったら、このお年になっても御影様と一緒に入浴なさってますのね♡』
「わーわーわー!止めて柚希さん!俺が悪かった!だから言わないでー!」
『二人で背中を流しっこしてましたわね♡欧介様ったら御影様に背中を爪で』
「ぎゃああああああああああああああああああっ!!!!!」
顔を赤くして耳を塞ぎ、大声を上げた。見られてた!?見られてたのか!?昨日の!入浴中に!背中流しっこ!背中!爪!
際どいキーワードがわんさか飛び出してきたので、動揺を隠しきれない。穴があったら入りたい。両親さえ知らない禁断の事実を、昨日知り合った式神が熟知しているというのも妙な話だが。
そんな俺の心境を知ってか知らずか。柚希はにこにこと愛嬌良く笑いながら、腕を組んできた。
『柚希、何か食べたいですわ♡ジェラードが食べたいです♡』
「ジェラード?この寒いのに?」
ていうか、式神って食べたり飲んだり出来るの?
『御安心下さい♡私は式神ですから胃腸などの臓器はありません♡従って、幾ら食べても太りませんの♡何なら触ってみても構いませんわ♡このキュッとくびれた腰を撫で回してみますか♡』
「結構ですよ。慎んで御遠慮します」
『欧介様♡ほら、あれあれ♡』
柚希が指差したのは、公園に来ていたクレープ屋の販売車だった。
そういえば、前にもこの公園で姉さんとクレープを食べたことを思い出す。あの時はあの時で色々あったんだよな……。クレープを食べてる途中に、おじいさんに声を掛けられてーーー
『柚希はジェラードが食べたいです♡ジェラード付きのクレープを買って下さい♡』
「はいはい」
有耶無耶のうちにクレープを買わされる羽目になった。ブルーベリーソースが掛かったジェラードを挟んだクレープを柚希に渡してやると、彼女は今までにないくらい喜んだ。
『わーいわーい♡ジェラードですわー♡クレープですわー♡スイーツですわー♡』
「良かったな。そんなに喜んで貰えるとは思わなかったから嬉しいよ」
『疲れた時は甘い物が一番ですもの♡昨日から散々暴れまくりましたから、脳細胞が糖分を求めているんです♡』
式神に脳細胞なんてありませんけどね♡
柚希はそんなことを言いつつクレープを食べ始めた。はむはむ、と。まるで小動物が木の実をかじっているかのような可愛らしい食べ方だった。
かと思えば、ジェラードを舐める様子がなかなかにエロい……。赤い舌先で下からなぞるように舐めていく様子がなかなかにエロいのだ。萌え萌えな外観も手伝って、ビジュアル的にかなりヤバイ。
『欧介様も召し上がりますか♡』
「いや……。いらない。それより、君の目的が何なのか教えてくれないか」
単刀直入に切り出した。柚希が本気で俺とのデートを所望するわけがない。何か裏があるに違いないのだ。
肩を並べてクレープを食べる様子を見守っている場合ではない。こうしている間にも、いつ寝首を掻かれるか分からないのである。それくらい危険な相手だということは、昨日の一件で骨身に沁みている。
柚希ははむはむとクレープを食べ進め、全部平らげた。唇の端についたブルーベリーソースをぺろんと舐めると、「流石は欧介様♡」と言った。
『確かに♡私の目的は欧介様とイチャついてデートすることではありません♡そんな非生産的な行為をを望むほど、私も落ちぶれてはいませんわ♡』
「非生産的とは何だ。人にクレープまで奢らせといて」
『御主人からの新たな命令が下されましたの♡』
あっさりと。こちらがやや拍子抜けしてしまうほどに淡泊かつ率直に柚希は言った。思わず顔を強ばらせる俺とは対照的に、柚希はお得意のスマイルを浮かべていた。
『大丈夫ですよ♡今回は欧介様や御影様に危害を加えるつもりはありませんわ♡その代わり、少し協力して頂きたいんです♡』
「協力……?」
『ええ♡有り体に言ってしまえば、欧介様に囮になってほしいのです♡』
囮って。
「おいこら。随分あっさり言ってくれたはいいが、囮って何だよ。すげえ嫌な響きだな」
『大丈夫ですわ♡囮とはいえ大切な餌ですから♡そこは責任持って欧介様をお守りするよう言いつかっております♡』
「大切な餌って……。何だか全然安心出来ないな。囮って何だ。御主人様とやらは、お前に何て命令をしたんだよ」
『お莫迦さんですわね、欧介様は♡』
柚希は俺の顎をクイッと指先で押し上げた。その表情には、愚か者を哀れむような微笑を浮かべている。
互いの吐息を感じるくらいに顔を寄せ、囁くように柚希は言う。
『式神は主人となる人間に絶対の忠誠を誓うものなのですよ♡御主人様から受けた命令は命に代えても遂行されるべきなのであり、下った命令には守秘義務も課せられるのですわ♡命令の内容をやすやすと話すわけないでしょう♡』
「そ、それはそうかもしれないけど……。でも囮になるってことは、それなりに命の危険を負うリスクがあるんだろ?」
それを聞かずして黙って囮になれっていうのはーーー幾ら何でも話が一方的過ぎる。俺に分が悪いことだらけじゃないか。
「せめて何に対しての囮になるのかくらいは、教えてくれたっていいんじゃないか?」
『これは取引でもあるんですよ♡欧介様にしてみても悪い話ではありませんわ♡』
取引とな。おやおや、またしても物騒な展開になってやしないか?
「取引って?相互の利益になるために、交換条件をするってことか?」
『そうですわ♡私は御主人様の命令だからこそ動くわけですが♡任務を遂行させることは、欧介様の利益にも繋がるわのです♡詳しくは話せませんがーーーここは一つ、私を信じて下さいませんか♡』
『うーん……。でもなあ……』
姉さんに言われてるんだよなあ。怪異を使って利益を得ようとするなって。
何より柚希の話を丸呑みにしてしまうのも怖かった。こいつ、何やかんやで殊勝な女だからな。無駄なことは決してしないし、任務の遂行のためなら、荒っぽい手段にも平気で出るし。
要は油断のならない相手なのだ。昨日の敵は今日の味方だとは言うが……ふうむ。
俺が渋い表情を浮かべていると。唐突に柚希は俺の腕を掴んだ。
『来て貰いたい場所があるんです♡』
◎◎◎
柚希に連れて来られた先は、何と忍冬神社であった。
ここは一応、神社としての名目で社が建てられているのだが。何の神様が祀られているのかは不明であり、一般客の参拝はおろか立ち入りは禁じられている。
昔々。金に困った母親が我が子を人買いに手渡すために、待ち合わせた場所がこの忍冬神社であるらしい。
別れの際、母親は我が子に護符を持たせたという。建前の理由としては、売られていく我が子のせめてもの幸せを祈って渡したのだとされているがーーー実際は違う。
本来の理由とは。売られた我が子が例え死んでも、迷い出てこないようにと渡したのがその護符なのである。自分を売り飛ばした母親のことを怨んでくれるなと、そんな手前勝手な考えによって護符を持たせたらしい。
忍冬神社には、今でもその時の護符が祀られているという。
そんな曰わく付きの神社だが。この神社には色々と因縁があり、俺や姉さんは立ち入り禁止区域にも関わらず、何度か立ち入っていたりする。その時はその時で事件が起き、姉さんの助力を借りながらも何とか丸く収まったんだけれど。
それはさておき。俺と柚希は寂れて色の剥げた鳥居をくぐり、本殿の前に立っていた。
「神社に着いたはいいが……次はどうするんだ?」
初詣でもあるまいし。姉さんの大学受験が上手くいきますようにと願掛けでもしようと思ったが、こんな廃れた神社で合格祈願を願うのも気が引ける。
ふと柚希を見れば。彼女は何を思ったか、賽銭箱の上にちょこんと腰掛けた。幾ら廃れた神社とはいえ、お前それは罰当たりじゃないかと言いたかったが、柚希により遮られた。
『欧介様♡賽銭箱の前に立って、私に背中を向ける形で立って頂けますか♡』
「え……。背中向けなきゃダメ?」
『心配なさらずとも、背後から襲ったりしませんわ♡私は御主人様から受けた命令以外では動きません♡今回に至っては、欧介様を囮にするよう言われましたが、決して傷つけるなと仰せつかっておりますの♡』
「ふうん」
御主人様……か。柚希みたいな凶暴な式神を使役してるんだから、相当な手練れなのかもしれない。式神を使役しているという時点でもそれは明らかだ。
姉さんのような専門家並みの知識を持つ人物かもしれないし、安倍晴明みたいな陰陽師である可能性だってある。少なくとも、俺のような素人ではない。
こうして柚希と関わりを持つことで、だんだんと深みに嵌まってしまいそうな我が身を嘆きつつ。俺は言われた通りに彼女に背を向けて立った。
「これでいいのか?」
「はい♡その状態のまま、両腕を広げて貰えますか♡」
「……こう?」
言われるがまま両腕を広げる。何だか幼稚園児がお遊戯会の練習をしているようにも見えるんだが……一体、何をする気なんだろう。さっぱり分からない。
『欧介様♡では一言、こう仰って下さい♡』
お い で
「おいで?おいでって言えばいいのか?」
『そうです♡それさえ済めば、欧介様の役割は終了です♡デートは終了、欧介様を解放して差し上げますわ♡』
「なるほど……」
いや、よく分からないけど。でも、これで悪夢みたいなデートから解放されると思えば安いものだ。
俺は両腕を広げたまま、何の気兼ねもなく、どんな感情も込めず、台本を棒読みするかの口調でーーー言った。
「おいで」
ざわりと。生暖かい風が吹き、神社をぐるりと囲んでいる木立が揺れる。
ーーーキャハハハハッ。
あどけない子どもの声が、した。
「きたよ」
小さな片手がが俺の首をグッと掴んだ。巫女装束に身を包んだ、十歳くらいの女の子の手だった。
白目の部分が黒く、黒目の部分が白い。黒目は異様に小さく、ギョロギョロと忙しなく上下左右に動き回っている。長い髪は地面につくほど長い。
「うっ…、ぐっ……」
間違いない。こいつはーーー
『鬼の子♡』
柚希のやけに嬉しそうな声を背中で聞いた。次の瞬間、柚希は鬼の子と俺の間に体を滑り込ませた。
鮮やかな手付きで、俺の首を掴む鬼の子の手を振り払い、柚希は小さな体躯を押し倒し、今度は鬼の子の細い首を締め上げる。
「がはっ……、ゴホゴホッ、かはっ!げほっ……ごほっ、ごほっ、」
鬼の子から解放された俺は、激しく咳き込んだ。喉を捻り潰されるんじゃないかってくらい、もの凄い力で気管を締め上げられたのだ。
柚希が間に入ってくれたから良かったものの。でなければ、今頃泡を吹いて死んでいたかもしれない。
「キャハハハハッ!キャハハハハッ!キャーハハハッ!キャッハッ!キャッハハハハハハ!キャハハハハッ!キャッハハハハハハ!」
『ようやく捕まえましてよ♡さあ、覚悟なさい♡もう逃がしませんわ♡』
「お…、おい……、ゆず、柚希……」
痛む首を押さえ、どうにか声を出す。柚希はそんな俺を横目でちらりと見た。
『まだいらっしゃったの♡もう帰っていいですわよ♡欧介様の役割はこれで終了しましたから♡』
「そのつもりだったんだけどな……。帰るに帰れない理由が出来たんだよ……」
『どういう意味ですの♡』
俺は仰向けに倒れ、柚希に跨がれている鬼の子を指差した。鬼の子は両手をバタバタさせ、「キャハハハハッ」と甲高い声で笑い続けている。
「柚希の目的は……鬼の子だったのか?」
『そうですわ♡この子を捕まえ、そして退治することが御主人様から受けた命令でしたの♡』
「俺を囮に使ったのは、鬼の子を捕まえるためだったのか?」
『鬼の子は欧介様のことをしょっちゅうつけ回しているみたいでしたし♡だからこそ、欧介様を囮に使いましたの♡欧介様が”おいで”と呼ぶことにより、鬼の子を誘い出しました♡そこを私が捕獲したというわけです♡』
「何で……」
『当たり前のことですわ♡』
柚希はにこやかにーーーそれでいて、少し機嫌を損ねたように声を低くした。
『鬼の子は、退治されるべき存在だからに決まっているでしょう♡』
こんな怪異譚がある。
村の子ども達が鬼ごっこやかくれんぼをしていると、いつの間にか一人増えていることがある。
いつも鬼役を買って出るその子は、明らかに村の子どもとは違う外見だった。顔立ちも普通の人間とはかけ離れているし、着ているものも違う。でも何故かすんなりと遊びに入り込み、必ず鬼の役をやりたがるのだ。
子ども達も特に気にすることなく、その子に鬼役をさせる。そうして黄昏時まで鬼ごっこやかくれんぼをして遊ぶ。やがて一人、また一人と家路につき、誰もいなくなると、鬼役の子もどこへともなく帰っていくのだ。
だが。何年かに一度、村の子ども達が神隠しに遭ったかのように忽然と姿を消してしまうという事件が起こるようになったのだ。
それも他の子ども達と遊んでいる最中に、急にいなくなってしまうのだ。一緒に遊んでいた他の子どもらの証言によると、いなくなったのは鬼役の子に捕まってすぐとのことだった。
鬼ごっこをしていて、鬼役の子に捕まった直後から姿が見えなくなったり。かくれんぼをしていて、最後まで見つからなかった子がそのまま行方不明となったりしたのだ。
大人達はこれを恐れ、「いなくなった子は鬼の子に攫われたのだ」と噂するようになった。鬼というのは、人の形をした怪異や妖怪、邪神、または死者の霊魂という意味がある。
普段は山に隠れ、滅多に人前に姿を現さないのだが。時折人里に下りてきては村の子ども達と一緒になって遊ぶ無害な怪異である。
しかし……たまに気紛れを起こして村の子どもを攫ってしまうと言われていた。攫われた子どもは、その後何年経っても帰って来ないのだという。
『鬼の子については幾つもの俗説がありますが♡幼くして亡くなった子が成仏出来ずに妖怪化した存在ーーーというのが一般的な解釈ですわ♡恨み辛みを一切持たず、人を傷つけようとか困らせようとは思っていません♡だけれども、』
だけれども。
『被害が出ているのは、事実ですから♡』
柚希は既に俺のほうを見てはいなかった。両手をバタつかせ、甲高い声で狂ったように笑い続けている鬼の子のみを見つめている。
冷ややかな目つきだった。まるで虫螻でも見るかのようなーーー差別的な目つき。
「キャハハハハッ!キャハハハハッ!キャハッ、キャハッ、キャハキャハ、キャーハハハハハハッ、キッ、キャッハッ、キャハハハハ!」
『耳障りですわ……その声♡』
柚希は大きく開いた胸元に手を突っ込むと、梵字が書かれた御札を三枚取り出した。そしてあろうことか御札をクシャリと丸めると、鬼の子の口の中に突っ込んだ。
「…、ぎっ、ふぅ、ふっ……んぐっ、」
『子どもの姿をしていれば看過されると思ったら大間違いですわ♡あなたは今この場でぶっ殺します♡』
ギチリ。柚希は鬼の子の首を締め上げた。首が鬱血し、鬼の子は苦しそうにもがくが、彼女は容赦しなかった。鬼の子が既に抵抗する気がないと分かったのか、柚希は一瞬手を離した。
しかし。次の瞬間にはまたしても鬼の子の首を力一杯締め上げていた。声にならない悲鳴を上げ、鬼の子は手足を痙攣させている。
「っ、ーーー止めろよ!」
見ていられなかった。居ても立ってもいられなくなり、俺は柚希の手を払いのけた。鬼の子はむせかえったように咳を繰り返し、口からボトリと丸められた御札を吐き出した。
そして鬼の子を柚希の下から引っ張り出す。鬼の子も、そして柚希も、得体の知れない生物でも見るかのような、薄気味悪そうな視線を送った。
『どういうつもりですか♡』
「どういうつもりも何も……少しやり過ぎだろ」
鬼の子を庇うように肩を抱きながら、俺は真正面から柚希の視線を受け止めた。何だかもう、破れかぶれだ。
『その子を庇い立てなさるおつもりですか♡欧介様だって、何度かその子に襲われた経験があるのでしょう♡怪異相手に情が移ったとそう仰るの♡』
「情が移ったとか、そういうつもりじゃーーーない。同情でもないよ。でも、」
でもさあーーーこの子に悪気はないんだろ?
「もう少し穏やかに解決出来ないのか?退治するとかじゃなくて、成仏させるとか。人に対して悪意や敵意がないなら、何も殺さなくてもーーー」
『それは欧介様のエゴですわ♡』
窘めるように柚希は言う。その表情からは、いつの間にか笑顔が消えていた。全くの無表情である。
『悪意や敵意がないなら、野放しにしておけるとでも仰るの♡それによって被害が大きくなったらどうするおつもりですか♡』
「それは……」
『その子はもう成仏なんて出来ませんよ♡業の罪が重過ぎるんですわ♡悪意や敵意がなくとも、結果論として人間を苦しめているんですから♡人間だけではありません、この子は成仏しようとしている子どもの霊にも被害を及ぼします♡』
御存知でしょう、と。柚希は全てを見透かしたように言う。
『だから殺します♡殺すしかないんです♡情状酌量の余地などありません♡怪異相手に罪の減俸も何もあったものではないでしょう♡』
「殺すとか……そのビジュアルで物騒なことを言うなよ」
軽口にすらならない軽口を叩く。確かに柚希の言う通りなのかもしれない。
悪意や敵意がなくとも、人間に害を及ぼしているのは分かりきっているじゃないか。現に俺だって二回ほど襲われたのだ。姉さんだって三回目には俺を守れる自信がないと、そう言われたくらいなのだ。
殺すべきなのかもしれない。退治するべきなのかもしれない。それこそが正論なのだということは理解しているけれど。
それでも。思うことはーーーあるんだよ。
「成仏させてやろうよ。殺すとか、それは幾ら何でも可哀想だ。柚希の言う通り、野放しには出来ないけど……でも、殺すのは止めてほしい」
鬼の子だって、元は人間の子どもなんだから。だからこそ無邪気で気紛れでーーー間違ったことはするだろうさ。
誰だって間違うよ。子どもでも大人でも。
「人間」だからな。
そりゃ、こいつのしてきたことを思えば免罪ってわけにはいかないけどさ。減刑くらいはされてもいいんじゃないか?
『アホ臭いですわ♡』
柚希はまたしても胸元に手を突っ込み、梵字が書かれた御札を五枚取り出した。そして眉を思い切りしかめた。
『……この偽善者が』
言うが早いか。柚希は体をやや前に倒して疾走した。一瞬で鬼の子との距離を詰め、御札を翳そうと手を伸ばしーーー
「止めなよ。いたいけなガキを苛めるのはどうかと思うね」
『…っ、』
柚希の伸ばした手を、姉さんが右手で掴んでいた。
「やっぱり骨折は自己治療するもんじゃないね。あ流石に痛くて眠れなかったから、朝一番で病院行ってきたんだよ。ほらな」
姉さんは見せびらかすように固定され、首から吊るされた左腕を柚希に示した。柚希が顔を背けると、姉さんは彼女の手をパッと離した。
「事情は大体分かってる。物陰からこっそり見てたからね。それにしてもーーー欧介を囮にしたのは人選ミスだったんじゃねーか?」
『…………』
柚希は何も言わない。押し黙ったままである。
「お前も莫迦だよね。欧介の性格を事前にリサーチしておけば、囮に使おうなんて考えは浮かばなかったと思うよ」
そして姉さんは、ぎゅうっと俺を後ろから抱き締めた。姉さんの匂いと体温を間近に感じ、俺はようやく安堵することが出来た。
「こいつはこの通り優しいんだよ。人間はおろか怪異相手にもな」
柚希は俺と姉さんを一瞥し、小さく舌打ち。戦意をことごとく喪失したらしく、今のところは暴れる様子もない。
と。
「…っ、くっ、ひっ…、うっ、……、うう、」
鬼の子が泣いていた。
いつだって甲高い声で「キャハハハハッ」と笑っていたあの子がーーー泣いていた。
ぼろぼろと大粒の涙を流して。顔なんかくしゃくしゃにして。次から次へと零れ落ちる涙を拭おうともせず、泣いていた。手放しで泣いていた。
小さな子どもが、泣くように。
しばらくそうして泣いていたが、やがて鬼の子は背を向けてとぼとぼと歩き出し……神社の鳥居をくぐったところで、溶けるようにいなくなった。
◎◎◎
「鬼の子は……成仏出来たのかな」
忍冬神社からの帰り道。夕陽に照らされながら家路につく。いつの間にやら結構な時間を要してしまったようだ。
俺はふと、隣を歩く姉さんに尋ねてみた。姉さんは肩を竦め、「さあな」と返した。
「柚希も言ったと思うけど、鬼の子は簡単に成仏出来ないよ。あの子の犯した罪は重いからね」
「そっか……」
「でもね、お前はちゃんと正しいことをしたんだ。鬼の子にもお前の想いはきっと伝わったよ」
だといいんだけど。
思えばあの時、鬼の子がどうして泣いたのかは分からない。どんな感情で、どういった理由によって泣いたのかは見当もつかない。
ただ、ずっと笑い続けていた鬼の子が、今回初めて涙を見せたということはーーー大きな変化であることは間違いない。その変化が、あの子にどういった影響を及ぼすかは定かではないけれど。
いつの日か、あの子が成仏出来ますようにと願わずにはいられなかった。
そういえば。柚希は別れ際、俺にこんなことを言い残していた。
『あなたの優しさが、いつかあなた自身を滅ぼしますよ♡』
『優しさを盾にしても、結局のところ救えるものなんてありませんわ♡』
うん……。そうかもな。
自分自身が優しいだなんて、そうは思わないけれど。結局のところ、俺は鬼の子を救ったことにはならなかった。その事実は揺るがない。揺るぎようがないのだ。
偽善者もいいところだ。見せ掛けの善事なんてーーー悪事よりよほどタチが悪いよ。
俯いて考え事に耽っていると、姉さんがぎゅっと俺の手を握った。顔を上げると、いつも通りの強気な笑みを浮かべた姉さんがそこにいる。
「欧介、今日は朝から何も食べてないんだろ?」
そういやそうだ。朝食はおろか昼食も取っていない。それどころではなかったといえばそうなのだが、流石にお腹が空いた……。
姉さんは明るく快活に言った。
「私自身の肉体を召し上がれ♡」
……俺は姉さんと手を繋いだまま、道端でずっこけた。
作者まめのすけ。