もう日も沈みかけた夕方、
薄暗い路地を、俺は足早に歩いていた。
だんだんと歩く速度を速めながら、ちらりと後ろを振り返る。
俺が歩いている20メートルほど後ろを、一人の女が歩いていた。
これだけ聞くと、別に何も問題のない、いたって普通のことに思えるだろう。
はじめは俺もそうだった。
ただ歩く道が少しかぶっているだけなのだろうと。
でも、一つ、また一つと角を曲がっても、後ろの女はいなくならなかった。
ついてきている・・・。
とうとう曲がった角が10を超えた時、そう思った。
俺は目があまり良くない。
しかし、良くないとはいっても、別に生活に支障をきたすほどでもないので、仕事の時など以外ではメガネを外している。
俺はまた後ろを振り返った。
まだいる・・・。
いくら目があまり良くなくても、あんなに真っ赤なドレスを着ていれば、嫌でも同じ人物だと察しがつく。
こんなに足早に歩いているのに、女との距離はいつの間にか10メートルほどに縮まっていた。
とうとう俺は走りだした。
女をどうにか撒いてしまおうと考えたのだ。
一つ、二つと角を次々と曲がる。
六つ目の角を曲がり終えると、さすがに苦しくなって足を止めた。
角からゆっくりと来た道を覗く。
・・・女はいなかった。
「さすがに撒けたか・・・」
ふぅ、と胸をなでおろす。
ずいぶん帰り道から外れてしまったが、帰れないことはない。
ここから回り道をして帰ろうと、前を向いた瞬間、俺の動きが止まった。
前来た道とは逆の方向から、あの女が歩いてきていた。
距離は30メートルほどあるが、夕方のひんやりとした風に揺れる真っ赤なドレスが、一目で俺にあの女だということを教えてくれた。
どこから先回りされたんだ・・・どうやって俺がここにくると・・・もしかしてあの女・・・
ー
ー
ー
「幽霊・・・」
女の動きがぴたりと止まった。
20メートルほど離れた先で、石のように固まっている。
「え・・」
何がなんだかわからなかった。
あの距離で俺の声が聞こえたのか・・。
俺はすぐにこの場を離れなければ、と思った。
脳が俺にそう警告している。
その時ーーー
「うぉあああああぁぁああああぁあぁぁあああああああああぁあ!!!!!!」
突然奇声を上げながら女が物凄い速さでこちらに向かって走り始めた。
「!?」
俺もとたんに反対方向へ走り出す。
女の叫び声は止まらなかった。
「ぁああああぁぁあああぁああぁぁぁ・・」
声がだんだんと大きくなっていく。
俺に近づいてきているのだとわかった。
「はぁっはぁっ、っっ・・はぁ・・!」
俺は懸命に腕を振りながら後ろを振り返った。
ぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺち・・・
女は裸足だった。
物凄いスピードで俺を追い上げてきている。
女の髪の毛は振り乱れ、顔はよく見えないが、奇声をあげているその口は、これでもかといくらいに大きくカッ開かれていた。
「ひっ・・」
俺は必死で走った。
「ああああぁぁああぁぁぁああああ!」
背中で、女が俺を掴もうと手を伸ばしてくるのを感じた。
「う・・・うわぁぁぁぁ!!!」
俺は大きな声で叫ぶと、手に持っていたカバンを力いっぱい女の方へと振り上げた。
ガンッッ!!
鈍い感触が俺の手へと伝わった。
振り上げたカバンは見事に女の側頭部に命中し、女はそのままよろけて壁へとぶつかった。
俺もカバンを振り上げた勢いで足がもつれ、地面に転げた。
ズシャッ
「うぅ・・ぅ・・」
よろよろと立ち上がると、大きく擦れた膝から血が流れていた。
女の方を振り返ると、頭から血を流し、壁際に倒れているのが見えた。
「死んでないよな・・」
俺がゆっくりと近付こうとしたその時、
女の首が物凄い勢いでこちらを向いた。
俺は初めて女の顔を見た。
目が、なかった。
女の顔には、眼球もなければ、眼球が収まるためのくぼみもなかった。
女は地面を握るように手をつき、その場に立ち上がろうとしている。
あまりの衝撃で硬直していた俺は、その音でハッと我にかえり、落ちているカバンも気にせずにまた走り出した。
女が立ち上がる前に離れなければ、逃げ切れる自信がなかった。
100メートルほど走った時、遠く後ろの方で女の奇声が聞こえた。
また女も俺を追いかけ始めたのだと直感した。
このままでは追いつかれてしまう。
焦りを感じていると、すぐ目の前に小さな公園があるのが見えた。
とっさに公園に転げ込み、辺りを見回す。
俺は目に入った大きな茂みの中に飛び込んだ。
茂みに飛び込んで一時も経たないうち、
「ぁぁぁぁぁあああああ」
女の奇声と足音が近付いてきた。
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「・・・はっ!」
俺はベッドの上で飛び起きた。
はぁはぁと肩で息をしながら、辺りを見回す。
「夢・・・かよ。」
俺はハァァと大きなため息をついた。
額も首も背中も、冷や汗でびっしょりと濡れていた。
カーテンの隙間から朝の光がさしこんでいる。
外でスズメの鳴いている声も聞こえる。
隣の時計を見ると、時計は既に八時をまわっていた。
「完全に会社遅刻じゃん・・・。」
その日はどうしても会社になんて行く気になれず、一日家の中で過ごした。
ーーーーーーーー
深夜の2時を過ぎた頃、俺は不安でまだ眠れないでいた。
眠ってしまったら、またあの夢を見てしまうのではないか・・・。
あまりにリアルな夢だった。
あんな恐ろしい夢、もう二度と見たくない。
まぶたがだんだんと重くなる・・嫌だ、怖い・・寝たくない、寝たくない、寝たく・・・・・
ー
ー
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俺は茂みの中で目を覚ました。
辺りはすっかり暗くなっている。
空を見ると、曇っているらしく星も月も出ていなかった。
ゆっくりと立ち上がろうとしたその時、
ぺち・・・
俺はビクッとその場に固まった。
ぺち、ぺち・・・
すぐ近くで裸足の足音が聞こえる。
足音と一緒に、スーハーと微かな呼吸音も聞こえた。
すぐそこにあの女がいる、俺のことを探している・・・そう思った。
音を立てないように、ゆっくりとその場にしゃがみこむ。
俺は、女に自分の息をする音が聞こえないように両手で口をふさいだ。
ぺちぺちぺち・・・
しばらくすると、女の足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
俺は足音がしていった方向をじっと見つめた。
(どこかに行ったか・・・)
そんな淡い期待が頭をよぎった瞬間、
ガササッ
近くの茂みが大きな音をたてた。
俺は恐怖で凍りついた。
ガサガサガサッ
茂みの間から覗くと、あの女が髪を振り乱して茂みをかきわけているのが見えた。
眼球もくぼみもない顔で、俺のことを探している。見つかったらなにをされるか分からない。
でも無事では済まないであろうことは容易に想像がついた。
ガサガサッ
音がだんだんと近付いてくる。
「ぁあああぁぁぁぁあああああああぁぁああ!」
女が大きな奇声を上げた。
きっと俺が見つからずに苛立っているのだろう。
俺の目にじわりと涙が浮かんだ。
このままではいずれここまで女が来て見つかってしまう。
ガサガサガサガサッッ
すぐ横まで音が迫ったとき、俺は覚悟を決めて茂みから飛び出した。
それと同時に自分が出せる最大のスピードで公園から走り出す。
後ろを振り返ると、
女は公園の中から逃げていく俺の方を向いたまま、じっと立っていた。
しばらく走って息が切れてくると、俺は走る速度を落とした。
また後ろを確認する。
「追いかけてこない・・?」
どこにも女の姿はなかった。
俺は手を膝についてはぁはぁと息をした。
女が追いかけてこないと分かっても、不安はまったく拭えなかった。
頭上で点滅している街灯が、その不安を更に掻き立てた。
辺りは怖いくらいに、しんと静まり返り、虫の鳴き声一つしない。
俺が膝から手を離した時、
その静寂が破られた。
ぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺち・・・
あの足音が物凄い速さでこちらに向かってくる。
とたんに冷や汗が滝のように流れ出す。
早く逃げないと・・・!
狭い路地の先は二つに分かれていた。
どちらか迷っている暇なんてない。俺はすぐ右に向かって走り出そうと足に力を入れた。
「ああああぁぁあぁあああぁぁぁぁあああああぁああぁ!!!」
体中が総毛立った。
女の奇声が・・足音が・・全方向から向かってくる。
右の道からも、
左の道からも、
後ろからも。
俺はその場に硬直し動けなくなった。
どっちに逃げたらいいのかまったく分からない。
考えている間にも女の声はもうすぐそこまで近付いてきていた。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・
突然女の声が止んだ。
足音も聞こえない。
またもとの静寂がもどる。
俺は目だけを動かして辺りを見回した。
女の姿はみえない。
勇気を振り絞って一気に後ろを振り返った。
「ミツケタ。」
この世の物とは思えない低い声が俺のすぐ真上から聞こえた。
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「うわぁ!」
体になにかがぶつかった様な衝撃で俺は目を覚ました。
床だった。
俺の体はベッドから転げ落ちていた。
「痛ぇ・・・」
俺は背中をさすりながらゆっくりと起き上がる。
どうやら昨夜あのまま眠ってしまったらしい。
時計を見るとまた朝の八時をまわった頃だった。
捕まる直前だった。
昨夜の夢が脳内にフラッシュバックする。
・・・・・・「ミツケタ。」・・・・・・
あんな恐ろしい声を聞いたのは生まれて初めてだった。
あのまま捕まっていたらどうなっていたのだろうか。
夢の中の俺だけではなく、現実の俺は・・・大丈夫なんだろうか。
夢の中で殺されると、現実の自分も死んでしまう・・・そんな話を聞いたことがある。
猿・・・なんだっけ・・
それと同じようなことが今自分に起きているのではないか・・・。
考えれば考えるほど不安になった。
その日も会社はとっくに始まっている時間だったが、このまま家にいても、いつの間にか寝ていた、ということになりかねないと思い、この日はいつも通り出社した。
ーーーーーーーーーーーーーーー
仕事の帰り、俺は今晩の夕飯を買うためにコンビニへと立ち寄った。
「いらっしゃいませー」
店員の声を背中で聞きながら、カゴを取り、コンビニ後方のドリンクの場所へと向かう。
ブラックの缶コーヒーをカゴに入れ、おにぎりを数個とカップ麺、スナック菓子とカゴに放り込み、レジに向かった。
ピッ、ピッ
店員が商品のバーコードをスキャナーで読み取っていく姿をぼーっと見つめていたとき、
ある違和感に気づいた。
(この人どっかで見たような・・・・)
俺はハッと後ろを振り返った。
雑誌コーナーで立ち読みしている男の人・・・。
前に向き直る。
(やっぱり・・・!)
似ていた。
あまりにも似すぎていた。
目の位置も、鼻も、髪型も、すべて一緒だった。
俺が混乱していると、
ピンポンピンポーン
隣で自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませー」
え・・・・・
俺は眉間にしわを寄せた。
今入ってきた女性、またしても顔が同じだった。
ボトボトッ
後ろで商品が落ちる音が聞こえた。
反射的に振り返る。
慌てて商品を拾う男の子----
その顔もみんなと同じ顔だった。
「!?」
俺は辺りを見回して絶句した。
店内の客が全員同じ顔だった。
(なにが起こってんだ・・・)
俺がその場に固まっていると、店員がレジを打ち終わり、、
「はい、合計7点で17億3千6百万円です。」
「はぁ!?」
あまりの大きな額に俺は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「そんな大金もってねーよ!」
気味が悪くなった俺はコンビニから飛び出した。
「ありがとうございましたー」
後ろで店員の声が遠ざかっていくのを聞きながら、俺は町の中を走った。
途中で何人もの人にぶつかった・・・
みんな同じ顔だった。
町中の人みんな同じ顔。
俺を指差してみんな笑っていた。その顔がどろどろと溶け始める。
頭がおかしくなりそうだった。
「嫌だ、嫌だぁぁぁぁぁ!」
俺は叫びながら家までひたすら走った。
ガチャガチャと玄関の鍵を乱暴に開けると、真っ直ぐ台所へと向かう。
シンクの下にある戸棚を開くと、
俺はゆっくりと包丁を取り出した。
「うぅ・・・ぅ・・」目から涙がこみ上げる。
俺は震える手で包丁を頭上まで高く振り上げると・・・
勢いよく自分の腕に振り下ろした。
ドスッ!!!
・・・・・・・・・
痛くない。
腕からは血がだらだらと流れている。
なのにちくりとも痛みは感じなかった。
(やっぱり、やっぱり・・・・)
俺は血にまみれた手を顔に手をやると、思いっきりつねった。
「痛くない・・・痛くないよぉ・・・」
これで分かった。
あのコンビニでみんなの顔が同じだったのも、店員が口にした値段が桁外れだったことも、包丁を自分に突き刺しても痛みを感じないのも・・・・・・
ー
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目を開くと、頭上で壊れた街灯が点滅していた。
俺は道に上を向いて倒れていた。
まだ頭が少し混乱している・・・。
ゆっくりと手を顔にやり、つねってみる。
「痛い・・・。」
その場に立ち上がろうと地面に手をついたとき、すぐ耳元であの声が聞こえた。
「オキタ?」
作者籠月
お久しぶりです。
前回の標識女といい、今回の目無し女?といい、自分は一風変わった女性が好きなようです。(笑)
んーなるべく怖く書いたつもりなんですけど、読む人によっては今回は怖さ控えめかもしれないです。
「17億3千6百万円です。」もうここまでくるとギャグですねw
また純粋に怖い話も書いていきたいと思いますので、良かったらまたお付き合いください。
誤字、脱字等ありましたら、ご指摘よろしくお願いします。