夜の9時過ぎー
暗く、シンと静まり返った住宅街ー
LEDの街灯に照らされながら、俺は固まっていた。
真冬だというのに、冷たい汗が首筋を伝って落ちる。
背後からはただならぬ気配が俺を包み込んでいた。
ーーー「止まれよおおおおおおおおぉぉぁぁああああ!!!」ーーー
ついさっき、俺のすぐ背後から聞こえた声…
そう、今俺のすぐ後ろに立っているモノから発せられた絶叫…
女ではなく、男の低い声…俺の耳が確かなら、それはKの声だった。
でも、でもなんで…
Kは家から出てこないんじゃなかったのか…
なんでこんな夜遅くに、標識なんか掲げて、あの時と同じ場所に立ってるんだ…
Kだよな、ほんとにKだよな…
頭の中で様々な疑問が波のようにせめぎ合っている。
そして何より感じるのは、異常なまでの恐怖…。
つい最近まで、バイト仲間だったKが今俺の後ろに立っている。
なのにそのKであるはずのモノに感じるのは、おぞましい恐怖以外の何物でもなかった。
後ろを振り向く勇気がでない。
振り向きたくない。
それよりもここから逃げる方が単純かつ最善の策ではないのか。
俺は意を決して、走り出そうと足にグッと力を入れた。
(よし……!)
ダンっと一歩前に踏み出したとたん、
「おい、待てよ。」
俺の動きがピタリと止まる。
普段通りのKの声だった。
「なぁに、そんなにビビってんだよお前w」
俺はよく状況が理解できないまま、おそるおそる後ろを振り返った。
「じゃじゃーーん、どう?ビックリした?」
振り向いたと同時に問いかけてくるKの声。
もちろん俺の視界に映ったのもK……………………なのか?
確信が掴めなかった。
Kは俺が振り返ってもなお、標識を顔の前に掲げたままだった。
「ほんとにKなのか…?」
「は?まだお前そんなこといってんの?この声を忘れたんですかぁ?w」
標識の後ろから聞こえてくるKの明るい声。
いくら明るく話されても、目の前にあの標識を掲げられたままでは、実に不気味である。
「ほんとにKなんだな?」
「だからそう言ってんじゃんw」
俺はゴクリと唾をのんだ。
「…なら標識下ろしてく…」
「やだよ」
俺がいい終わらない内にKが答えた。
冷たい風が二人の間を吹き抜けた。
「え、なんで…もういいじゃんか。あんまいい気分しねぇよ、そんな標識目の前に出されたまんまじゃよ。」
「あははっw」
Kはただ笑っただけで、標識を下ろそうとはしなかった。
俺は妙な緊張を覚えながらも、Kを足元から頭まで見上げた。
長いジーンズに茶色いダウンのジャケット。
Kがよく着ている服装だった。
あとは標識を下ろして、顔さえ見せてくれれば、俺は安心できる、なのにKは頑なにそれを拒む。
俺は尋ねた。
「K…元気?しばらく見なかったけど…」
「おーう!この通りピンピンしてるぜ!あははw」
Kはその場で何度か足踏みをして見せた。
標識を顔の前に掲げたまま。
俺は更に尋ねた。
「お前いままで何してたんだよ。」
「んーーテキトーに色々とw」
「色々ってなんだよ。」
「……ねー。」
Kはしばらく沈黙した後、逆に俺に尋ねた。
「お前ん家行っていい?もうこの先の角曲がったとこじゃん?ちょっとお邪魔させてくんない?w」
………………俺は沈黙した。
どうして俺の家知ってんだよ。
Kとはバイト仲間としては仲がよかったが、一度も家に上げたことはないし、もちろん家の場所なんて知っているはずがなかった。
先日行ったKの家も、バイト先の店長から聞いて知ったものだった。
俺の脳の片隅に小さく残っていた不安が、急速に全身を包んでいった。
やっぱり、Kじゃない。
冷や汗がこめかみから零れた。
「ねーぇってばw」
標識の向こうからソイツはせかすように再度尋ねた。
「えっ、あぁ、んー今日はもう遅ぇしなーあはは、また今度来いよ。」
俺はなるべく相手に不安を勘付かれないように明るく言った。
「なんでだよー、お願い、ちょっとだけ!ちょっとだけでいいからさ!」
相手はしつこく食い下がった。
俺の拳にぐっと力が入る。
相手の明るく気さくな声が、今ではむしろ不気味だった。
絶対にこいつを家に入れたらいけない。
早くこいつから離れなければ…
早鐘の様に鳴る心臓の音が、相手に聞こえないか不安に思いながらも、俺はカラカラに乾いた喉で答えた。
「いやぁー、俺今日バイト帰りでさ。けっこー疲れてんだよね。だからな!また今度!」
それだけ言うと俺は相手に背を向けて小走りで駆け出した。
「おい、待てよぉ」
後ろで相手が俺を呼び止めている。
俺は更に足を早めた。瞬間、
「止まれよおおおおおおぉぉぉああああああああああああ!!!!」
物凄い絶叫が後ろからこだましたかと思うと、
ガアァァァン!!
標識が俺の頭の側面をかすめて、目の前に叩きつけられた。
体が硬直して動けなかった。
後ろでギリギリと歯ぎしりの音が聞こえる。
(逃げなきゃ、動け、動けよ俺の体…!)
あまりの恐怖に体が言うことを聞かない。
俺は必死で体を動かそうと、脳から指令を送った。
すると、後ろからまた声が聞こえた。
Kの声だった。
「あはははは!おいおいwお前が逃げようとするからだぞーwあんまり俺をさぁ、怒らせナイデクレヤ。」
背中にゾッと鳥肌が走った。
語尾はもうKの声でもなかった。
人間には出せないような、脳に直接響いてくるような声。
「うぁああああ!!」
俺は大声で叫ぶと、全身に全力を込めて、その場から走りだした。
全速力で角を曲がり、家の前まで逃げ帰ると、一度後ろを振り返った。
誰も追って来てはいなかった。
俺は震える手で鍵を開けて家に入ると、扉を閉め、鍵をかけた。
一気に力が抜け、その場に座り込む。
なんだったんだあれは…
さっきの声が脳の中にまだ残っている。
明らかにKの物ではなかった。
俺は玄関の電気をつけようと、その場に立ち上がった。
ふいに、何ともいえない不安にかられる。
チェーンも閉めておこう。
すぐさま振り向き、チェーンをガチャリと扉にかける。
違和感を覚えた。
ん?鍵の向きが……………………………
…
…
…
…
…
…
…
…縦?
その瞬間、
バンッッッ!!!!
物凄い勢いで目の前の扉が開き、かけていたチェーンがビンッと張った。
ドアの隙間からはガムテープでぐるぐる巻きの顔が、めり込んでいた。
「あとちょっとダッタノニ」
ガムテープの間から覗く口が動いた。
「ひぃっ」
俺は腰を抜かしてその場に尻餅をついた。
相手は、チェーンを引きちぎる勢いでガチャガチャと引っ張る。
ガチャガチャガチャガチャガチャ!!!
「もうやめてくれ!!!」
耐えきれずに俺は叫んだ。
バタンッ
扉が閉じた。
足音がゆっくりと玄関から遠ざかるのが聞こえた。
俺は静かに立ち上がると、そっと扉の覗き穴から外の様子をうかがった。
外にはもうあいつの姿はなかった。
電気をつけようとした時に感じた、あの不安…
俺が扉に背を向けている間に、扉の鍵は静かに開けられていたのだ。
あの時、なにも感じず、チェーンをかけていなかったら…
…
「あとちょっとダッタノニ」
俺はゾッとしてその場に立ち尽くした。
作者籠月
この話は、前作の「標識女」の続編になりますので、まず先にそちらをお読みになってからこちらをご覧ください。
当初、続編の予定は無かったのですが、家族に続きが気になるという意見をもらったため、後ろでKの声がしたところからのスタートとなりました。
また、他の怖い話の合間に、この続きも挟んでいきたいと思うので、よければお付き合いください。